第17話 バーバ・ヤガー薬局霧の巣通り店
店内に入った途端、とても懐かしい匂いに包まれました。
でも、記憶のない私が、「懐かしい」と感じるなんて、不思議です。
何故なんでしょう。
扉を開けてそんなことを考えていると、奥のほうから低いしゃがれた声が飛んできました。
「何やってんだいっ!早く戸を閉めな!雪の精が入ったら売り物がダメになっちまうじゃないか!」
「あっ、ごめんなさい」
私は慌てて扉を閉めます。
窓の無いこのお店は途端に薄暗くなって、一段と匂いが濃くなった気がしました。
夜目は効くほうだと思っていますが、久しぶりの好天で残った雪が眩しかった目が慣れるまで、少し時間がかかってしまいます。
ようやく店内の様子が見渡せるようになった私は、それでも、目に映るその光景が何なのかすぐには理解出来ませんでした。
棚、棚、棚。
小さな引き出しが無数についた棚が、まるで何かの模様のように部屋中の壁を覆っています。
いったいいくつ引き出しがあるのか、検討もつきません。
薬屋さんというのは、どこでもこんなに引き出しがあるものなのか、それともこのお店がとくべつなのか、あまり知識のない私には判断が付きかねます。
「……ん?見ない顔だね。どこから来た?」
奥には太いロウソクと、その灯りに照らされたお婆さんの顔が見えます。
このお店の店主でしょうか。
小さなお身体で、随分と腰が曲がっています。縮れた灰色の髪は長く、同じような灰色のローブにかかっていて、この薄暗がりの中ではどこまでが髪でどこからがローブなのかわからないくらいでした。
その灰色に包まれた顔は無数のシワが刻まれていて、シワと見間違いそうになるぐらい細く鋭い目は、じっとこちらを見つめていました。
でも、何より目を引くのは、その長い鼻です。
皿の上でジリジリと燃えているロウソクよりも長いのではないかと思える鼻は、先にいくほど細く、老木の根のように曲がっていました。
「あ、私、赤レンガ通りのお屋敷の者なのですが……」
「はて。赤レンガ通りに屋敷なんぞあったかねぇ?」
お婆さんは、その特徴的な長い鷲鼻をさすりながら首をかしげました。
その仕草はドワーフの方がおヒゲをさわる様を思い出させます。
「ああ、あの端っこにある冬眠明けの蛙みたいな屋敷のことかい」
私はお屋敷を遠くから見た姿を思い出します。そう言われれば形も色合いも冬眠明けの蛙のように見えなくもありません。なんだか笑いそうになってしまいます。
「確かあそこは何年か前に夫婦揃って流行病いに罹ったんだっけねぇ。今は冴えない小僧が後を継いだはずだが」
「え、ええ。そのお屋敷です」
〝冴えない〟という言葉にちょっぴりムッとしてしまいますが、私は気を取り直してここに来た目的を告げました。
「その、当主の方が体調を崩してしまいまして……」
――気付いたのは、少し前のことでした。
いつもより顔が赤いな、とか、何だか歩き方がおかしいな、とか、思っていたら、スッと寝込んでしまわれたので、とても慌てました。
もっと早く気付いてあげられたかも知れないのに。
あの方は優しいので、「昔から身体が弱いんだよ、母様に似たのかな」と、笑ってくれましたが、どう考えても私の責任です。
厳しい寒さの中、大学やセリエ様のお屋敷に通いながら、さらに夜遅くまで翻訳のお仕事をなさっているのだから、もっと気を使わねばなりませんでした。
それなのに、私は少し前に下らない嫉妬から彼に冷たくあたってしまいました。私のせいでこんなことになってしまったのに違いありません。
でも、そう言うと、ベッドから身体を起こして私の頭を撫でて、いつもの困ったような苦笑いをされたので何も言えなくなってしまいました。
あの方は、ご自身では気付いていないのかも知れませんが、よく苦笑いをされます。
私はあの、「しょうがないなぁ」と言わんばかりの笑い方が大好きです。
あの顔を見ると、なんだか身体の芯がじんわり暖かくなってくるのを感じて、ぼうっとしてしまいます。
「ふん。症状はどんな感じだい?」
「ええと……、熱が高くて、寒がっていました。あと、喉の奥がひどく腫れています。食欲がまるでないようで、ほとんど食事に手をつけません。一日中ベッドで横になっています」
「なるほどねぇ。医者には診せたのかい?何故こんな魔女の店に来た?」
「あの、その……あまりお医者様は……」
「金が無いのかい?」
「いえ、そういうわけでは……。――嘘、なのかも知れませんが、私が聞いた話では、お医者様の治療法は、その……、ちょっと……」
私が言葉を濁していると、お婆さんは少し誇らしげに鼻をならしました。
「ふん。よくわかってるじゃないか。そうさね。この国の医者は信用ならん。解熱ひとつとっても、血を抜くだの氷で身体を冷やすだの、無茶苦茶をするからねぇ。あれじゃあ余計に身体を悪くする」
私は少しほっとします。
幸いなことに、私が今のお屋敷に来てからお医者様が必要な事態になったことはありません。
けれど、話に聞く限りではとてもまともな治療法とは思えませんでした。
私には昔の記憶がありませんが、日常生活を送る上での知識と言いますか、常識のようなものは忘れずにいられたようです。その常識が、人間の国の医療というものに対して「それはおかしい」と抗議の声を上げていました。
どうやらこのお婆さんは信頼出来る方のようです。
「少しはモノを知ってるようだね。ふん。実際に診たわけじゃあないが、安心しな。おそらくあんたのご主人は普通の風邪だよ。様子見に軽い薬を処方してやるから、効きが悪かったらもう一度――」
「あ、いえ。そこまでしていただかなくとも、材料だけ買わせて貰えれば後は私でやりますので」
わざわざお手を煩わせることもないと思いそう言うと、突然お婆さんはその細い目を大きく見開き、私をねめつけました。
「……ほほう。面白い。――ちなみに聞くが、何が必要かね?」
「崖人参とイブラキノコの干したものと……、あと、もしあれば森王鹿の角を粉にしたものを頂ければ」
それだけあれば、後は保存してある香草を煎じてなんとかなるはずです。
ですが、お婆さんは何も答えず、じっと私のことを見つめていました。
ロウソクの灯りがゆらゆらとお婆さんの顔を照らしています。その顔は何故か怒ったようにも見えます。
いったいどうしたのでしょうか。
「――お前さん、一体何者だい?」
「え……?」
しゃがれた声が、一段と低く聞こえました。
「あんなうらぶれた屋敷の小間使いが、自分で薬を作るだって?しかも随分と上品なレシピを知っているじゃないかい。森王鹿の角とはね。……お前さんが今、口にしたそれは魔女の間でもあまり知られちゃいない。ましてやこの国の医者なんかにゃ絶対作れやしない」
なんだか嫌な予感がします。
私の知識が私の過去を暴いていくような。
「そのレシピを知っているのは、一部の魔女か、……森の民ぐらいのもんだ」
森の民、という言葉にドキリとします。
頭巾の下で髪をまとめている、珊瑚の髪留めを触りたくなりました。
あの方がくださった三日月型のバレッタに触れていると、とても安心します。
少なからず私を大切に思っていてくれている、その証が、私を心強く支えてくれるのです。
「森の民は、人間どもとは比べものにならないぐらい高い医療技術を持つ。あの詩ばかり書いてる連中が強国であり続けたのもその発達した医学のおかげさね。連中の嘘みたいな寿命の長さの秘訣はそこにあるんじゃないかという者もいるぐらいだ」
じわりと。
灰色に包まれたお婆さんがこちらににじり寄って来ます。
まるで足音はありませんでした。
「…………お前さん、森から逃げて来たのかい?」
「――ッ!」
自分が今まで見ないようにしてきた場所を突かれた気がしました。
そう。
私はあの森から出なくてはならない何かがあったのです。
それが何かはわかりません。ですが、それまで住んでいたはずの土地を追い出されるというのは、それなりの理由があるはずです。
肩から背中にかけての傷が熱を持ったような気がしました。
考えたくはないけれど。
私は、エルフの国で大罪を犯した可能性だって、あるかも知れない。
にもかかわらず、そんな事は全て忘れて、幸せな生活を送っている不届き者なのかも知れない。
そのことについて考え始めると、怖くて一人で眠るのが辛い夜もあります。
あの方が隣にいてくれたら、と。ベッドの中で願うことも。
でもそんな事は許されません。
もし私がとんでもない罪を背負った者であったとしたら。
あの方のそばにいる資格なんてないのかも知れない。
「この国じゃあとんと見なくなったが、まさかこんな近所に森の民が居るとはねぇ……」
胸の鼓動が早くなります。
もし私がエルフであることが周囲にバレると面倒なことになるかも知れない、とずっと言われてきました。
あの、銃剣を持った憲兵さんに連れていかれるだろうと。
そうしたらもうあのお屋敷に帰れない可能性もあると。
あの方に迷惑がかかる可能性だってあるかも知れません。
それだけはなんとかして避けないといけない。そう強く思います。
「あ、あのっ!」
震えを押さえながら声を絞り出しましたが、お婆さんはそれを手で制しました。
「言いたいことはわかる。この国じゃあ今、森の民がどんな扱いを受けてるのかもねぇ」
にたり、とお婆さんは口角を上げました。
このような事はあまり言いたくありませんが、正直、あまり気持ちの良い笑い方ではありません。
「ひとつ、取引をしないかい?」
「取引……、ですか?」
灰色のお婆さんはますますその笑みを濃くします。
目と口とシワが一体となって、ぞくりとするような表情を作りあげていました。
「なあに、簡単なことさね。お前さんが知っていることを教えてくれれば、悪いようにはしない。どうだい?」
どうしたらよいのでしょう。
私にはエルフの国に居た頃の記憶はありません。〝知っていること〟と言っても、日常生活に関わる常識程度でしかないのです。
ロウソクのジリジリと言う音が大きくなったような気がしました。
その灯りの周りには、冬だというのに小さな蛾が舞っています。
お婆さんはゆっくりとためを作って、その言葉を口にしました。
「お前さんは、〝マナの水〟を知っているかね?」
私はお婆さんの言葉を口の中で繰り返します。
「マナの水……」
とは、一体何なのでしょう。
風邪薬の作り方ならすらすらと出てきますが、〝マナの水〟と言われても、何かの水なのだろうかという疑問しか浮かんできませんでした。
お婆さんはそんな私の顔を見て、さも残念そうにため息をつきました。
「やはり知らぬか……。無理もない。森の民の間でも王族にしか伝わらぬ秘宝にして秘法じゃもんな」
急に場の空気が弛緩したと感じるのは、私の勘違いでしょうか。
ですが、かといって安心してはいられません。
私はお婆さんの要求に応えられませんでした。このままさようならと帰ることは出来ないでしょう。
「あ、あの、その、私に出来ることなら何でも……!」
私が食い下がると、お婆さんは興味を失ったように言葉を放ちました。
「安心しな。お前さんをあの忌々しい憲兵どもに突き出したところでアタシにゃ何の得もありゃしないよ」
「……へ?」
お婆さんは、同じ人物とは思えないぐらい先ほどまでと雰囲気が違っています。
不気味にすら見えた笑みは消え、なんだかいきなり歳をとったかのようにさえ見えました。
まるで、私には全く興味がないけれど、仕方なく聞いてやる、と言った具合にお婆さんは喋り始めました。
「その代わりといっちゃあなんだが、お前さん、森の民の医学について少々心得があるんだろう?いくつか聞きたいことがあるんだが――」
「は、はははい!私に答えられることでしたら!」
――その後、私はお婆さんに聞かれるがままにいくつかの薬の作り方をお教えしました。
もちろん、それらの知識は何故かすらすらと出てきました。私は一体何者なのだろうとも思いますが、それよりも気になることがあります。
無事、薬の材料も手にいれた、帰り道。
「マナの水……」
その言葉を思い出すと、少し頭が痛むような気がします。
一体、何なのでしょう。
そしてもう一つ。
お婆さんはずっと〝森の民〟という言葉を使っていました。
単純にエルフの別の呼び方が森の民であると考えれば特におかしな事はないはずです。
けれど、何故かそれに違和感を感じます。
私の中で、「本当にそうなのか?」とささやく声がするような。
私は、不思議な胸のざわめきを憶えながら、あの方の待つ、屋敷への帰路についたのでした。
敬語の一人称で地の文を書いていると、「私、気になります」とか書きたくなる。




