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第10話 女学生①

 ゴーン、ゴーン、と年季の入った鈍い音を立てて終業の鐘が鳴った。

 そこで僕はようやくホッと一息ついて、持ち慣れない教鞭(きょうべん)を教卓に置く。


「――では、今回の講義はここまでとします。わからないことがあれば各自図書館で調べるか、私の所まで聞きに来るように」


 広く、金のかかっている扇形の教室からまばらな生徒達の声がざわめく。

 100人以上は座れるであろう席から立ち上がったのは、わずかに20名程度。

 だいたいエルフ語学の講義にこんな広い教室など必要ないのだ。


「ふぅ……」


 朝、リカに締めてもらったクラバットを軽く緩める。

 何回着ても、燕尾服(えんびふく)というものには慣れない。


 僕に母校から臨時講師の口が舞い込んだのは、少し前のこと。

 僕の恩師でもあるハイマン教授が調査の名目でしばらく大学を休むことは昔からよくあった。

 そのたびに臨時で講義を受け持つ講師が来ていたことは覚えているが、まさか自分がその立場になるなんて学生の頃には思いもしなかった。

 ハイマン教授の不在が長くなり、どうにも他の講師の調整がつかず困った大学当局からの、

「翻訳家をやっているのなら語学の講義ぐらい出来よう」

というお達しには驚いたものだ。

 いくらなんでもそれは無茶じゃないかと。

 確かに僕はエルフ語の翻訳を生業(なりわい)としているが、だからといってそれを人に教えるのはまた話が別だ。

 だいいち、僕は研究者として大学に籍を置いているわけではない。気ままな在野としてエルフ語で飯を食っているに過ぎない。

 しかしそれでも話を受けたのは、情けない理由だけれど、報酬が良かったからだ。


「たった1コマの講義であれだけ貰えるんだもんなぁ。大学ってとこは金持ちだよなぁ……」


 ポリポリと頭をかきながら、いくぶん自虐的な気持ちも込めて小さくぼやいた。

 売れない翻訳家である僕にとって定期収入と呼べるものは、亜人文学専門の隔月誌であるデミノ・マガジンの原稿料と、下級貴族としての官位報酬のみ。

 そのどちらも決して大金と言えるような額じゃない。

 たまに出す訳詩集の売り上げが懐に入る事もあるが、これだってほとんど期待出来ない。

 そんな自分にとっては、大学からの報酬はあまりに美味しすぎた。


「さて、と。食堂で何か食べて帰るかな」


 あくびをかみ殺して、教室を出ようとしたその時だった。


「――教官、少し構いませんか?」


 凛とした声に呼び止められ、油断していた身体が強ばる。


「っと。君か……」

 

 振り返ると、そこにはさっきまで最前列で授業を聞いていた女学生が立っていた。


「セリエ・フェアウェル、二回生です。教官。たびたび申し訳ありません」


 大学と言うのは、とても閉鎖的な場所だ。

 近年、下院の方針によって市民の教育機会が増えたとは言え、まだまだ大学に通うことの出来る者は非常に限られている。

 学費を免除されるようなごく一部の神童以外は、ほとんどが貴族の子女か、資本家の子女か。

 フェアウェル家と言えば後者に当たる。

 確か人魚との貿易で財を成した富豪の家だったはずだ。


「何かな?」


「先週講義していただいたトリエンの詩についてなんですが」


 ラミア族のような鮮やかな赤毛を真っ直ぐに背中まで伸ばした彼女は、嫌味のない洒落たグリフォン革のバッグからレジュメを取り出した。

 赤毛の女性というのはどちらかと言えば情熱的で活発なイメージを抱きがちだが、落ち着いた雰囲気の彼女からはむしろ知的な気品のようなものがうかがえる。

 大学に来るにもいちいち着飾る傾向のある貴族の子達と違って、機能的で真新しい衣服に身を包んだその姿は、流石に時代の先を行く資本家の息女と言ったところだろう。


「ここの動詞なのですが、先週、教官は『聞く』と訳されました。ですが、これは本来『叩く』という意味のはずです。図書館でも調べてみましたが、『叩く』という意味しか載っていませんでした。これは教官の意訳と考えてよろしいのでしょうか?」


 細く白い手が僕の作ったレジュメの一節を指さす。

 このセリエという女学生はここ最近、毎回のように質問に来ていた。

 熱心な学生が居るというのは、嬉しい反面、緊張もする。

 僕のような片手間の教育者が、学生の真っ直ぐな学問への情熱を受け止めてしまって構わないのだろうかという、うしろめたさを感じてしまうのだ。


「……なるほど、良い質問だね。調べ物は辞書を使ったの?」


「はい」


「それはクラフト版の辞書じゃなかったかい?」


「え?ええ、そうです」


 やっぱりそうか。


「クラフト版は分かりやすくて良い辞書だけれど、編纂者のクラフト博士はとても事務的な人だったみたいでね。日常でよく使われる言葉に関しては丁寧に書かれているけれど、あまり使われない単語や詩的な表現に関してはいささか情熱に欠けるところがある。いくつかの言葉については一般的な意味しか載っていない場合も多いんだ」


 セリエは琥珀(こはく)色の瞳を大きく見開き、驚いた顔をする。


「辞書によって載っていない言葉があるのですか……!?」


「辞書だって完璧じゃない。編纂者(へんさんしゃ)達は人間だから当然ミスもあるし、性格も出る。それに、言葉のほうだって時代によって変化するものだ。だからこそ古い辞書は更新され、改訂版が出続けるんだよ」


 説明をしながらふと昔の事が思い出された。

 学生の時分、ハイマン教授とよくこんなやりとりを交わしたものだ。

 クラフト版のエルフ語辞書についてのくだりも、ほぼ教授の受け売りなのだが、そこはもちろん秘密である。


「確かに……、そうですね。そこまで考えが回りませんでした」


 彼女は細い指を顎に当て考え込むような仕草をする。

 決して悲観するようなことではない。エルフ語について学ぼうとする者なら誰もが通る道なのだ。むしろ早い段階で辞書の選び方について気付くことが出来るのは喜ばしいとさえ言える。


「で、さっきの質問についてだけど、あまり使われない表現だからつい飛ばしてしまったんだよね。申し訳ない。――これは実は、樹木に対して使う時のみ『聞く』という意味を持つんだ」


 僕は小さく頭を下げてセリエに謝った。彼女に指摘されなければこのまま流してしまうところだった。


「木に対して使う時のみ、ですか?」


「エルフにとって木というのはとても大事なものでね、木に関わる言葉の使い分けはとても多い。彼らは木を『叩く』ことによって木の言葉を『聞く』んだ」


 これも恩師の受け売りだ。僕は実際にリカが木を叩いているところを見たことがない。


「木を叩いて……、木の言葉を聞く……」


 セリエは、エルフ達がドアをノックするように木を叩いている姿を想像しているようだった。


「とても興味深いです!」


 彼女の白い頬が軽く上気しているのが見て取れた。琥珀色の瞳は新しいことを知った喜びで濁りなく輝いている。


「そっか……、エルフ語を本当に理解するには彼らの文化を知ることも重要なんですね」


 僕が学生の頃、これほど純粋にエルフ語に向き合っていただろうか。

 今ここにハイマン教授が、いや、せめてちゃんとしたエルフ語の教官が居ないことが悔やまれる。

 専門の指導者なら、彼女の素養をもっと高めてあげられただろうに。

 僕に出来ることはせめて、彼女の興味を満たしてやることぐらいだろう。


「わからないことがあればまた聞きに来なさい。あと、辞書はヴルリット版の、それもなるべく新しいやつがいい。あれは少し病的なぐらい細かく用例が載っているし、改訂を重ねるごとにその傾向が強くなっているから。……まあ女の子には少し重たいかもしれないけれどね」


「はいっ!」


 何かにひたむきな者が見せる笑顔は、微笑ましくもあり、まぶしくもある。

 弟子を取る師の喜びとはこういうものなのだろうか。


「……それと、ですね」


「ん?何だい?」


 また別の質問かと思ったが、彼女はレジュメをしまってバッグの中身をごそごそとやっている。

 屈託の無い笑顔で彼女が発した問いは、全く予想も出来ないものだった。


「教官は、収穫祭の日は、空いてますか?」


「…………え?」


 まだ少し頬が上気したままの彼女が僕に渡したのは、小さな手紙。


「………………え?」



 ◆◇◆◇◆



「――――ふむ。それで、中身は恋文か何かだったのかね?」


 書斎の窓際で前足を大きく前に出し軽くのびをするクロキ氏は、先日から我が家に逗留しているケット・シーだ。


「怖いことを言わないで下さいよ」


「これは異な事を言う。何が怖いのかね。教え子が師に憧れを抱くことは、どの種族においても普遍的にあることだろう」


 窓際でひなたぼっこをするその姿はどう見ても猫にしか見えないのに、皮肉屋で弁が立つこの亜人にはやりこめられてばかりだ。


「僕は師と呼べるほど大したことはしていませんよ。ただの臨時講師なんだから」


「君は臨時のつもりでも、学生達からしてみれば立派な教師に見えるものだよ。……で、中身はなんだったのかね?」


「招待状ですよ。収穫祭の日にパーティを開くらしいんです」


 ある意味ではそれは、恋文よりも厄介なものかもしれない。


「ほう。収穫祭と言うとあれか。人間の国で見られる、秋の実りを祝う祭りのことだね」


「ええ。本来はそういう意味ですね。――ただ、最近では親しい人を集めてパーティを開いたり、贈り物をしたりする程度のささやかな行事になっていますけれど」


「随分と寒くなってからやるものなのだねえ。作物の収穫などとっくに終わっているだろうに」


「この地域では、冬の足音が早いんです。収穫を終えたらすぐにでも冬支度を始めないと間に合わなくなるので。だから、先に冬支度を済ませて落ち着いたところで収穫を祝おうとするからこの時期になった、なんて言われていますね」


 まあ、古い風習なので本当のところはわからないのだが。


「なるほどね。しかし人間のパーティか。なかなか興味深くはあるな。当然ご馳走も出るのだろう?……私が君の立場なら喜んで受けるところだが、どうにも浮かない顔をしているね」


 ご馳走を思い浮かべているのか、舌なめずりをしながらこちらを見るクロキ氏。


「……ええ、まあ」


「奥方のことかい?」


 僕とリカは正式な夫婦というわけではない。そのあたりはクロキ氏にも説明済みだが、そんなことはおかまないなしに、彼はリカのことを『奥方』と呼ぶ。


「出来れば一緒に祝いたい、というのが本音です。恐らくは彼女にとって初めての事ですし」


「それならば迷うことはないだろう。断ればいい。家族を大事にするというのは立派な美徳だ」


 黒猫の姿をした亜人の正論に、僕はわざとらしくため息をついてみせた。


「人間というのはなかなか厄介なしがらみを持つ種族でしてね。貴族にとって社交というのは大事なことなんです。フェアウェル家は力のある富豪の家で、他の貴族もたくさん招待されているに違いない。しがない下流貴族とは言え、未婚の僕が出席しないとなると(いぶか)しむ人も出てくるでしょう」


「ふむ。なるほどね。奥方のことを外に隠している君としては、余計な詮索はされたくないと」


 頭のいい人だ。話が早い。


「この手の招待状は、セリエが勝手に出していいものじゃありません。彼女の父親である、現フェアウェル家当主の許可を取って招待しているはずです。招待状が発行された時点で出席者名簿にはすでに僕の名前があるんですよ。資本家という人種は、貴族をもてなすことを一種のステイタスとする風潮がありましてね」


 自分達のほうが力があるぞ、ということを貴族達に知らしめる一種の|示威しい》行為。

 それは盛大であればあるほど、多くの人を集めれば集めるほど良い。

 僕のような没落しきった貴族ごとき、彼らからすれば取るに足らない存在だろうけれど、それでも理由無くフェアウェル家の招待を断った貴族として名を売るのは、僕としては避けたいところだ。


「やれやれ。たかがパーティひとつで大層なことだな」


 クロキ氏は小さく肩をすくめてみせる。普通の猫がこんな仕草をしたらきっとみんな驚くだろう。


「で?奥方はこのことを知っているのかい?」


「……。いえ、まだ伝えてはいません」


 それどころか。

 間の悪いことに、僕は先日リカに収穫祭のことを教えたばかりなのだ。

 彼女は「腕によりをかけてご馳走を用意してみせます!」と、大変楽しみにしている様子だった。

 もし僕がその日にパーティに出かけるなんて言えば、さぞがっかりすることだろう。


「ふむ。とっとと事情を話してしまうのが一番だろうね。その上で二人でどうするべきか考えるといい。世の中のあるべき夫婦の姿とはそういうものだ」


 全くもって正論だ。けれど。


「彼女の答えはわかりきっていますよ。本心はどうであれ、笑顔で僕を送り出すでしょうね」


 あのエルフの女性はそういう性格だ。

 だからこそ、告げるのはためらわれる。


「…………ふむ。どうやらそうでもないようだが」


「え?」


 僕が聞き返すと同時に、トントン、と書斎のドアをノックする音が響いた。


「――貴方様、お茶が入りました」


 僕はさっとクロキ氏のほうを見る。

 彼は素知らぬ顔で、


「どうした?丁度いいじゃないか。早く入って貰えばいい」


 と、ぬけぬけと告げた。

 気付いていたのなら、一言言ってくれれば良いものを。


「……いいよ、リカ。入っておいで」


 ドアが開くと同時に、かぐわしいお茶の香りが書斎に広がる。

 いつも通りのエプロン姿で盆を手にした彼女は、足音を立てずにそっと書斎に入ってきた。

 その庶民的な出で立ちに似合わない白く輝く金色の髪は、どこにでもあるような麻紐で後ろで束ねられていて、もう少し着飾ってもいいのにな、と少々もったいなくさえ思わせるものがある。


「おや。この香りは、お茶を変えたのかね?」


 クロキ氏に問われたリカはにこやかに返事をした。


「ええ、干してあった分が良い具合になりましたので。クロキ様もたまにはいかがです?」


「いや、どうにも猫舌なものでね。香りを楽しむだけにしておくよ」


 穏やかな笑みをたたえたまま、リカは上品な仕草でお茶の仕度を進める。


「冷まして飲んで頂いてもいいのですけれど……、それだと折角の香りが飛んでしまいますしね。難しいものです」


 さて、どう切り出したものか。

 さっきのクロキ氏の思わせぶりな発言を考えるに、恐らくリカは僕達の会話を聞いていたのだろう。

 その長い耳は見せかけだけのものではなく、質も良いことを僕は知っている。

 今となっては笑い話だけれど、以前、編集者との会話を聞かれていたことがあって胆を冷やしたものだ。


「どうぞ」


 手慣れた仕草で書斎机にカップを置くリカ。

 はじめの頃は、お茶一つ淹れるのにもおどおどしていたのに、今となっては落ち着いたものだ。

 その様子におかしなところは見られない。

 本当に聞こえていたのだろうか?

 僕は恐る恐る切り出した。


「あのさ……、リカ」


「――他の女性に会いに行くのに、私が笑顔で送り出すとでも?」


「えっ」


 思わず彼女の顔を見る。

 その顔は変わらず笑顔のままだ。だが、逆にそれが怖い。


「や、やっぱり聞いていたんだねっ」


「たまたま聞こえてきたもので」


「い、いや他の女性に会いにいくと言ってもだね、これはあくまで貴族としての社交の一環で、言うなれば仕事のようなもので……」


「私が嫌と言えば、貴方様は一緒に居てくれるのですか?」


 彼女の澄んだ碧眼がこちらを見る。

 顔は穏やかだが、その眼差しには真剣なものが含まれていた。


「………………」


 ダメだ。

 素直に認めてしまおう。

 結局のところ、僕がどうしたいかなのだ。

 貴族のしがらみを取るのか、彼女を取るのか。

 小さくため息をついて覚悟を決めた。


「……リカが望むのなら、僕は君と一緒に居るよ」


 ヒュー、と小さな口笛が聞こえた気がした。

 猫の見た目をしている癖に、随分と器用な真似をするじゃないか。

 けれども今の僕に彼を見る余裕などない。

 覚悟を決めたけれども、恥ずかしいものは恥ずかしい。 

 小さく唾を飲み込んで、彼女の返事を待つ。


「その言葉が聞けただけで、私は果報者です」


「えっ?」


「安心していってらっしゃいませ。貴方様」


 リカは、満足したと言わんばかりの笑みでこちらを見ていた。

 思わず呆けてしまうぐらいだ。


「はっはっは。これは愉快。奥方のほうが一枚上手だったということか」


 確かに。

 こう言われては、行かないと言えるわけもない。

 彼女は僕の本音を確かめたかっただけなのだ。

 どうやらリカは思った以上に僕の扱いが上手くなっているらしい。


「……やれやれ」


 そうして僕は、フェアウェル家の招待にあずかることにしたのだった。



次回に続きます。

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