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第1話 馴れ初め

 

 大学時代の恩師であるハイマン教授から、「嫁を世話してやる」という便りが届いた時、僕はキッパリと断ったはずだった。


 元々強引なところのある人だったが、流石にこの「命令」には驚いたし、軽く怒りさえした。

 だいたい昔から、あの教授の言うことは「指導」でも「指示」でも「提案」でもなく、「命令」と呼んで差し支えないものばかりだったのだ。

 彼の突拍子もない言動の数々に振り回されっぱなしの学生生活だったように思う。

 しかし、彼の出す「命令」は、それが奇抜で無茶なものであればあるほどちゃんと意味があった。

 エルフ語の翻訳なんていう食えない仕事で今でもなんとかやっていけているのは、どう控えめに言っても恩師ハイマンのおかげだ。


 「面倒だからお前がやれ」の一言で出版社を紹介され、いくつかの翻訳を請け負った。

 「部屋を片付けろ」と呼び出され、貴重な蔵書の数々を譲り受けた。

 「使いにくいからいらん」と言われて、とんでもなく値の張るタイプライタを押しつけられた。


 早くに両親を亡くし、残されたものと言えば名ばかりの下級官位と小さな屋敷だけといった没落貴族のお坊ちゃんにとっては、感謝してもしきれないほどの恩がある。


 けれど、今回の「命令」だけは素直に(うなず)くわけにはいかない。

 人の人生をなんだと思っているんだ。

 僕は今、自分が食っていくだけで精一杯なのだ。

 嫁なんかもらっても苦労をかけるだけだ。


 しかし、そう言った主旨の文章をもう少し丁寧に書いて送ると、

「腐っても貴族の端くれが嫁の一人や二人囲えないでどうする」

 と、逆に憤慨(ふんがい)してきたのだから始末に負えない。

 しかも。


「――あの、あなた様、お茶が入りました、けれど」


 あの偏屈爺(へんくつじじい)の返事を持って来たのが、その「世話してやる」予定の嫁だと知った時、僕はもう呆れて物も言えなかった。


「あ、……ああ、ありがとう、リカ。入っていいよ」 


 自分だって世間知らずでお人好しのお坊ちゃんという訳ではない。

 そりゃあ町人から見れば鼻で笑われる程度のものかもしれないが、それなりに苦学して大学を出た。

 まともな資産を持たない名ばかりの貴族が学問に傾倒(けいとう)しようと思ったら、それはただの道楽という訳にはいかない。市井(しせい)の、目を反らしたくなる側面だっていくつも見てきた。

 甘いところを見せればつけ込まれるだけの世の中だということぐらいは分かっているつもりだ。

 けれど、雨よけのフードを深く被ってうつむきがちに「他に行く当てがない」とたどたどしく訴える若い女性を、にべもなく寒空の下へ追い返すことが出来るほど、僕もすれきってはいなかった。

 そんな性格をわかっているからこそ、恩師は直接彼女をよこしたのだろう。


 それに。


「あの、あなた様……」


「ん?なんだいリカ?」

 

 その女性は、かのエルフ語学の大家(たいか)ハイマンに紹介されるだけの理由があった。


 彼女の名前は正確に文字を追えば「リィルケ」と読める。

 しかし、我々人間の持つ丸い耳では、何度聞いても「リカ」としか聞こえなかった。

 我々の持つ凡庸な舌と唇では、正しく発音することは叶わなかった。


 「リカ」と呼ばれた女性はティーポットとカップの乗った盆を手に、おずおずと僕の仕事場である書斎に入ってくる。


 彼女が現れただけで、薄暗い書斎がいくらか明るくなったような気がした。

 輝くような、と形容されることの多い白い肌。

 その肌に負けることなく文字通り輝いて見える白金色の長い髪。

 彼女の種族の髪色はどちらかと言えば黄金とされることが多いが、リカのそれは上品な落ち着いた白が強く出ていた。

 そして何より特徴的な、美しく尖った長い耳。

 彼女の種族の耳の形に「葉のような」という直喩を使ったのは、高名な小説家だと言う。

 確かにそれは、樹葉の瑞々しい若芽を思わせる。

 明らかに、人間とは違う、耳。


 ――――彼女は、エルフだった。


 今でも彼女がフードを脱いだ時の驚きは忘れられない。

 エルフ語を学ぶ者にとって、その光景はしばらく思考を停止させるに充分なものだった。

 本物のエルフを見る機会など、まず訪れないだろうと思っていた。

 目の前に所帯染みたエプロン姿のエルフが居る、という状況に未だ現実感が湧かない。


「もし、よろしければ、ご一緒してもよろしいでしょうか?」


 不安の色を(にじ)ませた碧眼(へきがん)の、上目づかい。

 官位持ちのくせに夜会に行ったこともなく、まるで女性慣れしていない学生上がりの独り身にとっては刺激が強すぎるぐらいの表情だ。


「あ、ああもちろん、遠慮することはないよ」


 僕は思わず目を逸らし、それを()()()すかのように本置きと化していたスツールから分厚い本をどかせ、ホコリを払う。


「ささ、座って」

「あ……、そんな、そこまでしていただかなくとも」


 リカはそんな僕の行動にさえ、申し訳なさそうにオロオロとする。

 押しかけ女房の割には随分と押しが弱いのだからこっちだって困る。

 しかし流石の彼女も遠慮していては話が進まないと悟ったのか、しばらく逡巡した後に、困り顔でゆっくりと腰を下ろした。

 ……盆を両手にしたままで。


「あ、これでは、お茶をお渡しできません」


 どうしましょう?と言った表情で僕のほうを見る。


「……え、えと、じゃあ机の上に置いたらどうかな、お茶」


 僕はやっぱりすぐに目を逸らして、いつも仕事に使っている書斎机をわざとらしく指さした。

 これまた本が積んである古ぼけた机には、しかしなんとか盆を置くぐらいの隙間はある。


「ああ、そうですね。そうしましょう」


 ……なんとも間の抜けた会話だ。

 

 エルフは誇り高く聡明な種族だと伝えられている。

 そんな伝説も、目の前の女性を見ているとどこまで本当なのか疑わしく思えてしまう。

 だがそれも仕方のないことだろう。


 今のリカはエルフであるという自分を失ってしまっているのだから。


 腰掛けたばかりのスツールから立ち上がり、せまい机の上でティーポットから茶を淹れる彼女は、一体これまでどのような半生を送ってきたのだろうか。

 人間で言えば15,6にしか見えない彼女の本当の年齢を知る術は、今のところ無い。


 蔵書と言えば亡父の趣味だった戯曲のコレクションと恩師から譲り受けたエルフ関連の書物ぐらいしかない殺風景でかび臭い書斎に、爽やかな香草の香りが漂う。


「いい香りのするお茶だね」


「ええ、庭にお茶に出来るものが生えていましたので」


 庭師やメイドを雇うことも出来ない僕の屋敷は、その庭も含めて荒れ放題だった。

 親が生きていた頃に植えられていたハーブの類がそのまま残っていたのだろう。


「本当なら干したほうがとも思ったのですが、生でも美味しく頂けるものがあって、つい嬉しくなってしまいまして」


 そう言ってニッコリと微笑んで、カップを手渡してくるリカ。

 そんな他愛の無い仕草にすら、どぎまぎしてしまう自分が情けない。


「へ、へえ。その手の知識は問題ないんだね」


 僕はなんとか平静を装いながら、彼女の細く白い手から手渡されたカップを口に持って行く。

 確かに美味い。

 口に含んだ瞬間は香りが強く、それでいてどこかしらほっとする味だ。


「……ええ、自分でも不思議なのですが、『これはお茶に』と。自然に思いついたのです」


 彼女の顔にまた、不安の色が戻ってきた。

 そんな彼女を励ますように、僕は言葉を返す。


「そうか、それはよかった。少しでも覚えていることがあるなら、きっと大丈夫だよ」


 彼女は、エルフだった。

 そして。


「ありがとう、ございます。……そうですね」


 ――その記憶の大半を、失ってしまっていた。


「何か小さなことでも、それが他の記憶に結びついているかも知れないよ。……そうだな、確かにエルフなら薬草や香草の類に明るいというのは頷ける。例えば、昔、このお茶を誰かと飲んだ。もしくは誰かからお茶の淹れ方を教わった。そんな気はしないかい?」


 僕が(うと)いだけかもしれないが、一般的にお茶は干したものを使うのが普通だ。だが、エルフの社会においては違うかも知れない。

 自分の思いつきに少しだけ興奮しながら言葉を重ねるが、リカの顔は明るくならない。


「いえ……」


 記憶喪失。

 その言葉は聞いたことがある。物理的か精神的なショック等により、一時的に記憶を失う奇病。

 処方箋(しょほうせん)もなく、ただ自然に治癒することを祈るしかないと聞く。

 

 さらに言えば、彼女の場合はもう一つ不可解な点がある。

 彼女は、エルフ語を読むことが出来ない。僕達はずっと人間の言葉で会話をしていた。

 エルフの言語を忘れ、人間の言葉を憶えている。

 唯一、憶えていたエルフ文字は、自分の名前だけ。

 そんな特殊な記憶喪失があるものなのか。

 

「まるで魔法か何かのようだな……」


 そう独り言ちて、小さくため息をつく。

 自分の言葉が誰かに聞かれたら笑われるだろうな、と思う。


 ――蒸気機関が走るような時代に、魔法なんて。


 確かにその昔、魔法なる存在はあった。

 伝説と幻想に彩られた、遙かな昔。

 人やエルフやドワーフが力を合わせて魔を討ち滅ぼした歴史は、ちゃんと教科書にも載っている。

 そこには魔法と呼ばれるものが大きな意味を持っていたらしい。

 しかし、長い平和な時代を経て、人は魔法を捨てた。

 文明の発達により、わざわざ魔法に頼る理由が無くなったのだ。

 高い素養を持つ者だけが長く苦しい修行の果てに得ることの出来る魔法は、誰にでも扱える技術や道具の発明により、いつしか前時代的なものとして見られるようになった。

 もし今、魔法使いを名乗るような者に出会ったら、まずはペテン師の(たぐい)ではないかと疑ってかかる必要がある。


「あの……」

 

 だが、エルフはどうなのだろう?

 エルフは未だに謎の多い種族だ。

 深い森に棲み、ドワーフや他の亜人のように積極的に人間と関わろうとしない。

 お互いにとって決して好ましいとは言えない歴史も過去にあった。

 エルフ語の翻訳という仕事にあまり需要がないのも、そのあたりに起因している。

 彼らならもしかすると、人間がとうに忘れてしまった魔法文化をまだ色濃く残しているのかも知れない。

 

 だとすると。


「あの……」


 事はそう簡単ではない。

 彼女の奇病は、自然に治癒するようなものではない可能性もある。

 何らかのまじないで持って解くより他ないものだとしたら。

 それどころか決して解くことの出来ないものであるとしたら。


 もしかしたら僕は、かなり厄介なものを背負い込んでしまったのかもしれない。

 恩師ハイマンの「命令」には必ず意味がある。

 彼は、リカを「しばらく居させてやれ」でも「(かくま)ってやれ」でもなく、「嫁にしろ」と言ってきた。

 それはつまり、彼女には帰る場所がないと言うことなのだろう。

 それを考えると、どうしても眉間にしわが寄ってしまう。

 

「あ、あの……」


 彼女がここに来て、一週間が経つ。

 少しの間ならなんとかしてやれないことはない。

 不幸な境遇を持つ者に手を差し伸べることは、神の教えにも奨励されている。

 それに多少なりとも同情の念だってある。

 だが、嫁にするとなると話は別だ。なにしろ一生がかかっているのだから。

 当然ながら婚姻というのは、同情ですることではない。

 ましてや相手はエルフと来ている。それも出自不明の。

 記憶喪失のエルフを娶るというのは、相手がどれだけ見目麗しい女性であっても、それなりの覚悟がいることだ。

 僕だって人間社会に生きている。いくつかのしがらみがないわけではない。


 ――彼女の面倒を見る覚悟が、僕にあるのか?


 そもそもこのエルフの娘はどこまで本気なのだろう。

 どういうわけか記憶喪失になり、どういう縁か知らないが人間の爺さんと出会い、言われるがままに見ず知らずの人間の男に嫁いで来る。

 とてもまともな選択とは思えない。他にすがる道がなかったとしても。

 それとも何か目的があってここに来たのだろうか。


「――あの!」


 珍しく強い口調に、僕は驚いて彼女を見る。

 どうやら考え事にふけってしまっていたようだ。

 僕に正面から見られて、リカはおどおどとした態度に戻る。


「あの、えと、ですね。……差し出がましいようですが、あのお庭はなかなか素敵、です。あのままではもったいないと思います。もしよかったら、私にお世話を任せて下さいませんか?」


 そう言って耳を赤くしている記憶喪失のエルフに、僕は思わず苦笑するしかなかった。

 

 何を呑気なことを。

 自分の置かれている立場をわかっているのか。


 …………。


 ――まあ、いいか。


 エルフ語を解さないエルフと、エルフ語の翻訳を生業としている変わり者の人間。

 はっきり言ってお似合いとは言えない二人だ。

 けれど。

 まあ、今は成り行きに任せてみようじゃないか。

 嫁にする決心なんて、とてもつかないけれど。

 面倒なことになったら、その時に考えよう。


「ああ、いいよ。リカの好きなようにすればいい。僕としても庭が綺麗になるのなら、とても楽しみだ」


 僕の言葉に、嬉しそうにその尖った耳をピンと立てる彼女を見て、犬か何かを想像してしまったことは、黙っておくことにした。

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