ささやかな日常
「だ、大丈夫ですかっ!?」
寮に着いて初めて降りかかる言葉は存外に優しい、心配をしてくれる声だった。
幼さの残る声音は、同時に肩を担いで身体を支える肉体と一緒にやってくる。衛士は――とても、帰宅中にも気分が晴れるかと、試しにこれまでの経歴があまりよろしくなさそうな見た目の人間に喧嘩を売って来た事などは彼女に告げる事が出来ず、ただ一言。
「見ての通りだ」
「ど、どうしよう……保健の先生、居ないのに……!」
イリスはいつもの落ち着いた様子とは大きく異なって声を荒げた。
玄関の前で、まだ中にすら入っていないが故に声は届かず、出迎えは無い。既に二三時を過ぎていることだから、どちらにせよ多くの人間が寝入ってしまっているだろう。
衛士はやがて、小柄な少女の優しさが身に染みたのか、幾ばくかの元気が出たような気がした。先ほどの、どうしようもない鬱々とした考えが馬鹿馬鹿しくなるような陽気さを取り戻せたような気がしたが、それと同時に、恐らくまた独りになれば気分は逆戻りになることを理解していた。
その為か、無意識が身体を動かして彼女の肩を強く抱いていることに気がついた。
傍らのそんな少女は動揺の為にそれに気付いていないのか、表情には焦りしか見えない。腰までの長い透き通るような金髪が翻り衛士の身体に掛かって、石鹸の良い香りが鼻に届いた。
――立体映像の男が指定したのは五日という日だけである。だから何時に衛士を誘うのか、どこで待っていれば良いのかわからない。
現在は八月四日の二三時五二分だ。十日分の資金とやらを準備しろと言われたが、その暇は無いだろうし、彼自身、必要ないと考えていた。
食欲などは無いし、最低限、水でも摂取していれば問題は無い。住処とて適当に雨風を防げるところか、最悪、公園か駅前で過ごせば大丈夫だ。服はそもそも着替え分が無いし、夏だからそう気にする必要はないように思われた。
「いや、心配するな。体中は痛いが、どうしようも無いくらいじゃない。ここにサラウンドが居た方がよっぽどキツイさ」
「……そう、ですよね。”任務”でも死なない人が、地下空間で死ぬなんて、冗談にもなりませんからね」
彼女はそう言ってから、ほっと胸を撫で下ろすように息を吐く。心なしか、その表情にはいつものような鋭い冷静さが取り戻されているかに見えた。
そして、衛士は眼を見開いて彼女の言葉に驚くが――恐らく、訓練兵が知りえない衛士の”任務”の事を言っているのではなく、彼女の担当だった人間と共に衛士が行った任務を示しているのだと理解した。
そのお陰で接点があり、彼は唯一好意的なコミュニケーションを築こうとしていたのだ。
彼が提案し要望した耐時スーツも、今では彼女が所持している。リリスからの許可を得て、衛士の望む通りに”形見”として与えることが出来たのだ。
勿論、耐時スーツ本来としての機能は残っているので、彼としてはしっかりと使いこなして貰いたいところであるのだが、流石にそこまでは高望みと言うものだろう。耐時スーツは汎用的なモノを含めなければ十人十色といえるほど、様々な種類がある。スーツと言えるか定かではないモノも多いが、ともかく――その強化装備には、個人特有の癖や長所を助長させるための性能があり、それ故に、他者のソレが見事に使いこなせるという例は殆ど無い。
最も困難と言うわけではなく、耐時スーツ自体が使いやすいものであれば、それほど難しい事ではない。
だから、衛士は期待はするものの、強要はしないし、それを口にすることも、態度に表すことも無い。飽くまで担当者の遺留物として渡したに過ぎないのだ。
少女にはにかむ彼はそれから肩を抱く腕を放し、自立する。彼女は心配そうに衛士を見てから、しかしそれを制することも無く、血に塗れた顔を、長袖の所々が引きちぎれた傷だらけの肉体を眺めてから、一歩はなれて隣についた。
衛士は仕方無しに、心許ない力の入らぬ足に無理矢理元気を持たせて、力強く前へ進む。壁のような両開き扉を押し開けて、中へと入り込もうとすると、それよりも早く行動を起こすイリスが、扉を率先して開けてくれた。
「悪いな」
苦笑して、頬を掻く。彼女は無言で首を振って中へと誘った。
――寮の中に入るとまず眼に飛び込むのは、白を基調とする小奇麗で開けた空間。
天井の蛍光灯からは絶えることなく光が降り注ぎ、周囲を照らす。真っ直ぐ進めば屋外訓練場に続く扉があり、左に曲がれば未だ使用した事の無い屋内訓練場。学校の体育館のような場所がある。そして右に向かえば、衛士ら等の衣食住を支える寮へと繋がる。
衛士は迷う事無く右方向へ歩みを進めるその中で、ふとイリスが口を開いた。
「……話したくなければ良いんですけど、何か、最近あったんですか?」
衛士の一歩分後ろを歩き、それ故に表情はわからない。衛士は足を止める事無くその言葉を受けて、やがて広く、何も無い空間に出たところで、振り向いた。
そこは左右にそれぞれ食堂と入浴施設があり、真っ直ぐ進めばやがて訓練兵それぞれの個室がある居住区へと到達する場所である。イリスは驚くことも無く、薄いブルーの瞳が衛士を見上げていた。
「オレは明日から十日間ここを留守にする。出来ればバスターとか坂詰あたりに”任せたかった”んだが……気をつけろ、とだけ伝えてくれ」
「七文太さんとは随分親しかったみたいですけど……?」
「あぁ、あいつは良い奴だが、頼りにはならない。残念ながらな。だけど、その気になりゃそこそこ行けると思うんだが――言っても仕方が無いか」
「トキさんが何に気付いているのか、何を心配しているのか、私には良くわかりませんが……大丈夫だと、私は思います。漠然としたものですけど、理由は無いんですけど、少なくともトキさんが心配するような事は、多分、絶対に」
強い意志を持った視線は、彼女の成長を垣間見せる。
――初めてこのイリスという年端も行かぬ少女が、これほど過酷な場所に寄越されてこれから大丈夫なモノかと心配をしたものだ。親心と言うわけではないが、その気持ちが湧くのは至極当然に思えた。
しかしそんなものは結局、杞憂に過ぎなかったというわけだ。
衛士は今ここに来て、ようやくそれを理解した。
この四ヶ月は、衛士にとっては大したものではなかったかもしれない。だが、彼女等にとっては途轍もなく大きなものとなっていた。無駄などでは決してなかった。一日一日の積み重ねが、確かな力となって身についていったのだ。
だからそれがなんだか微笑ましく、誇らしくなって、頬が綻びた。
彼女がこうなら、他の連中も既に心配に値しないと言う事だ。坂詰とて不安が残る少年の一人だが、演習の際に動けていたのを見れば、後は必要なのが慣れだけというのが良くわかるし、他者も同様。
衛士は腰に手を当てて、頷いた。
「イリス、お前は前線に出るような人間じゃない。オレくらい……っていうと自惚れみたいで恥ずかしいけどよ、頭が利くんだ。万が一の状況で戦闘を強いられたら、お前が背後で支えてやるんだ」
今はその万が一が無い事を願うしかない。しかしどちらにせよこの訓練校を卒業すれば、実戦レベルでそれを強いられるのだ。覚悟程度はしていなければならないだろう。
そして彼女もそれを理解しているのか、静かに首を縦に振り、それから口元に仄かな笑みを浮かばせた。
「スミスさんの名に恥じぬよう、頑張ります」
「はは、まだアイツがお前の中に居るんじゃ頼もしい……っと、もう到着か」
スミス――彼女のかつての担当者であり、衛士と一時戦友となり、今では命の恩人となった彼の事を彼女の言葉と共に記憶を蘇らせると、自室前にたどり着いたことに気が付いた。
衛士が足を止めると、彼女も傍らで停止する。彼は生体認識の液晶モニターを指で触れ、開錠する。そうすると扉はいつものように、緩慢な動作で開き始めた。
衛士は部屋に一歩入り込んだところで足を止め、振り返る。彼女は両手を前で組んで、衛士の背を見つめていた。
「またな」
「はい。また……」
――五日になってもう二時間ほどが経過したというのに、迎えも、連絡も、その一切が訪れなかった。
衛士はやるべき事と称して、渡されていたCD―ROMをノートパソコンに挿入し、中に入っていたゲームを片付けて、その後に文書作成ソフトで適当な考えを簡単な論文として纏め上げたところで、大きく息を付いた。
ゲームはまたお馴染みの戦略シミュレーションゲームで、難易度は割合に低めだった。なにせ敵のある幹部を篭絡させて味方に引きこんでしまえば、容易に敵国を蹴散らすことが出来るのだ。勿論、その成功率は低く難しいものだが、使用キャラクターのレベルが一定値を超えていれば然程問題になるものでは無かった。
論文は自分の考えで、どちらかといえば日記、これまでの感想文に近かった。それに加えてふと思いついた耐時スーツに対する意見や要望、加えて特異点の存在や付焼刃についての考えなど。見直せば稚拙な文章に、書くまでも無い周知の知識などしか綴られておらず、こんなものならば遺書でも書いて置けばマシに思えるようなものだったが、自分にしては随分な長文だったために、消すに消せず、放置した。
大きく伸びをして、パソコンの電源を落とす。寝台の前に寄越した床頭台を部屋の端に追いやってから、横になる。硬いマットレスは身体に優しくなかったが、それでも疲弊した肉体には癒しの効果があるようだった。
シャワーも浴びていない、汗に血に塗れたままの格好で眼を瞑ると、眼球がまるで頭の中に沈んでいくような感覚を覚えた。身体は泥に緩慢な速度で、同様に沈む。意識は曖昧になって――間も無く、眠りに落ちた。
眠っていた彼にとって――認識的には、殆ど次の瞬間と言っても差支えが無いだろう。
「起きて下さい、朝ですよー!」
身体を揺さぶる動作に加えて、甲高い声が耳元で叫ばれる。衛士は沈んだ意識を、髪を鷲掴んで持ち上げられるように雑に引き上げられ、強く瞼を閉じてから、徐々に眼を薄く開けた。
その視界に飛び込んでくるのは、忙しなく大きく揺れる二つの球体。強い気配が眼前にあり、声は頭よりやや高い位置から聞こえてきた。
身体を拘束するような重量が圧し掛かって、人肌が服越しに感じられる。
衛士は其処で漸く、誰かが衛士の上に四つんばいになって重なっているのだと理解した。
「トキ君、おはようございます!」
目の前で揺れる胸に眼を奪われること無く、仰け反るように顔を上に向ける。するとその先にある女性の微笑む顔が、そういった挨拶と共に現れた。
白い肌に長いブロンドが良く似合う彼女は、琥珀色の眼をかっ開いてから、ずりずりと全身を擦り付けるようにして下がり、顔の位置を衛士の顔と合わせて、見つめた。
黒い全身タイツのような服装は、旧・耐時スーツと呼ばれる――リリスが行う強制的な時間回帰から自立し、影響を受けつけなくなる、例外を作るソレであった。また防弾性能もあり、9mm弾程度ならばそのスーツを打ち抜くことが出来ない。
それによって、そのメリハリの激しい肢体がより際立ってしまうものの、衛士の本能は一切反応せず、逆に頭は冷え切って、大きく息を吐いた。
「演技が下手糞だな、どさんぴんが」
衛士は静かに、ごく自然に伸ばした腕で、彼女の髪を掴み、力一杯引きちぎる。すると手には大量の毛髪――などではなく、音も無く引き剥がされた、ブロンドのロングヘアーのカツラが与えられていた。
彼女の頭は禿頭に変貌し、整った顔立ちはそれ故に哀れに見えたが間も無く響く、男とも女とも付かない笑い声が耳に届いた。
「ひひ、へへへっ……驚いたなぁ、トキ君。びっくりしたよ、早いね。なんで判った?」
その顔もマスクかメイクなのだろう。口元目元は動くものの、表情自体は変わらない。それが不気味で、衛士は思わず眼をそらして、それから未だに握っていたカツラを放り投げてから、返事をしてやった。
「ミシェルの真似だろうが……彼女はこんな大胆じゃないし、現時点では好意なんてものは一ミリもない。敬称だって『君』じゃなくて『さん』だし――何よりも、口が臭ぇんだよ。テメェ」
「ひへへ、ミシェルだってくせぇかも知れないだろう?」
「仮に臭くてもオレにとっては良い匂いだ」
「へへ、きめぇ」
ソレはそう口にしてから、衛士を跨いで寝台の横に立つ。それから顎の下に指を差し込んでから顔の表皮を引き剥がして――シリコンで作られたミシェルの顔をそこいらに投げ捨てると、その下には黒いフェイスマスクが現れた。目元だけが横に線を入れたように空くソレである。
ついで背中に手を回すと、すぐさまカチャリと金属が擦れるような音がして、たわわに実る豊満なバスとが零れて落ちて、床に叩き付けられる。ゴムでも入っているのか、女性用の下着の形であるそれは二度三度低く弾んでから、壁に当たって静止した。
それから男なのかと判断してみるが、それは早計過ぎるかもしれないと考え直す。彼なのか、彼女なのかわからぬソレへと身体を起こして向けると、扉の手前に置いた荷物を、ソレは投げるように渡してきた。
「これから十日間、お前の相棒となるけど――まぁ、体の良い監視役だね。死にそうにならない限り手助けはしない。それは発展型の耐時スーツと、砂時計。武装は拳銃に短刀。予備弾倉は五つ。以上だ」
「あんたの名前は?」
「機密だけど……そうだね。好きに呼んでくれて構わないよ」
「なら偽者だ。偽者とでも呼ぶか」
「へへ、好きにしろ」
引き締めた気が緩んだのか、そいつはまた下品な笑いを浮かべて目を細めた。
やはりこいつは男だろう。衛士は決め付けてから、疲れた顔で、疲れた身体を起き上がらせる。重い腰は果たして持ち上がり、大きく伸びをしてから深い溜息を付いた。
「オレは何処に行かされるんだ?」
「それは付いてのお楽しみ。だろ?」
「はっ、そりゃそうだ」
もうどうでもよくなって、肩をすくめて笑ってやる。すると彼も同調するように軽く笑ってから背を向けた。
どうやら着替える姿は見ないでくれているらしい。
あの立体映像の男の使いであろう彼は、存外にそう悪い奴ではないのかもしれないと思いながら、衛士は汗が染み付く服を脱いだ。
後は顔を洗って、シャワーでも浴びられればいいのに――そう考える頭は、彼が思っていた以上に腑抜けていた。
衛士はこれから数時間後に、それを嫌と言うほど自覚させられる出来事と直面する。
それがまず初めの、『第一の試練』であった。