課題:試練の契約をせよ
適正者候補生と呼ばれる訓練兵の中には、特異点候補者というのも存在する。最もそれは公には知らされず、その事実を知っているのは教官役の適正者と、上層部の人間のみだった。
適正者はただ道具に適正があるか、適応出来るかを調べてやれば良い。方法は副産物を与えているなり、なんなりと割合に多くある。それは、適正者は思っているよりも案外簡単に見つかるからであり、そして現在の在席数から見ても、今すぐに必要になるというものでもない。
だが特異点は違うのだ。
特異点は言わば適正者の上位互換。副産物を使用せずして、副産物という超常的な特殊能力を個体が持つ特異点は日本のリリスでの公式発表では存在していない。それだけの情報で、特異点と呼ばれるその個体が非常に希少なのだという事が伺えた。
ならばその候補となる人間をどう探すのか。そもそも殆どは副産物を肉体の一部にして、初めてその特異点に覚醒するのだ。元々持つ才能だけで能力に目覚めたという人間も過去に存在していたとの話もあるが、その能力の効果は副産物よりも酷く弱体化しており、些細なモノだったという。
だからそれ故に、候補者を模索するのは困難に見えた。
そして実際に難しいのだ。
特異点として目覚めた人間に共通し、そして探すための唯一の特徴となるのは――第一感と言うべきか、第六感と言うべきか。『直感』と言うべきソレが、異常な程に鋭いというのが特異点候補者として選ぶための特性と呼ぶべきものだった。
だが最も、直感が鋭いから即座に選び、あるいは微妙だからと切り捨てるわけではない。選択者が表の世界でその候補者の”担当者”になって、計るのだ。その後に及第点を得れば地下空間へと誘い、一定期間の訓練を経て結果を見る。
その結果が芳しいものであれば、訓練過程を終了した適正者候補生とは別の特殊訓練を受けることになる。だが仮に目覚しいものが見られなかった場合、適正者へと落とされる。
適正者としての才能がなければ警備兵として、さらにその適正さえも無ければ、記憶操作の後に表の世界に帰される。最も――警備兵としてすら動けなかった人間などは、ただの一人として居なかった。
――イリスは演習が終わってから数時間後、そろそろ寝ようかとシャワーを浴びたその帰りに、ふと腹の奥底に渦巻く鋭い痛みのような嫌な予感を覚えていた。
そして何が気になるのだろうかと眉に皺を寄せながら自室へ戻ろうと通路を歩いていると、本来ならば通る必要の無い場所を歩いていたことに気付く。そして自分は何をしているのだろうかと足を止めると、その直ぐ近くには時衛士の部屋の扉が存在していた。
閉塞感のある白を基調とした、窓も何も無い通路。扉にはドアノブがなく、ただそれをかたどる様にほんの僅かな隙間があって、それ故に扉の存在が理解できる。ドアノブがあるべき場所には親指大の液晶タッチパネルが付けられ、指紋認証によって扉が開く仕組みになっていた。
張り付いているネームプレートには普通、部屋の主である使用者の名がマーカーで記されているのだが、この部屋には無い。そうしてないのはこの部屋だけであるために、ここが衛士の部屋であるのは間違いが無かった。
「……怒ってるのかな」
今回の演習で彼はステッキ・サラウンドとイリスを放置して敵に挑んだ。結果的には勝利を掴むことが出来たが、戦力外として判断されたことにステッキは怒り、彼に掴みかかったのだ。
衛士はそれを軽くあしらってシャワー室へ向かって、彼女はそれを見て、その帰りにでも声を掛けてくれるだろうと思っていた。
彼はイリスに対しては特別優しく接してくれる。不器用そのものだったが、かつて殉職した仲間が担当していた少女だからという理由のみではないものの、それがきっかけで良く話すようになっていたのだ。
そして訓練終わりなどには、イリスが疲れきってどれほど愛想の無い返事をしても毎日のように励ましの言葉を掛けてくれて、だからこそ、今日もそうだと考えていたのだが――衛士は、偶然を装って通路から出てきたイリスに一目もくれずに通り過ぎていったのだ。
それ故に、彼女は衛士が何かしらの感情で頭を一杯にしているのだろうと考える。だから時間を空けて、もう大丈夫だろうと思ったが為に、無意識がこの場所へと導いたのだろう。
彼女は恐る恐る手を伸ばして、拳を作ると、軽く扉を二度叩いた。とんとん、と軽い音が鳴り、彼女はしばし待機する。
――返事は無い。
眠っているのだろうかと思ってまた二度のノックを試みるが、やはり一切の反応は無かった。
もしかして部屋に居ないのだろうか。
彼女は最初に与えられる支給品で選んだ腕時計をポケットから取り出して時刻を確認すると、既に午後一○時を回っていた。だが夏休み中である現在では全てが自由時間だし、外に夜は来ない。だから外出は禁止されては無い。
だから出かけていたとしてもなんらおかしい事ではなかった。
イリスとしても、衛士には奇妙な親近感を抱いていたから今日一日、演習以外で一度も声を掛けてもらえなかったのは少し寂しい気もしたが、仕方が無いだろう。こんな日もあるさ、と彼女は頷いて自室へ足を向けた。
それから彼女は、ステッキと衛士はこれから仲良くできるだろうかと考えながら――また、今度は自分でも驚くほどの孤独感が胸中を通り過ぎていったのを感じて、胸を押さえて立ち止まった。
それとほぼ同時に目の前からやってくるステッキの姿を捉えて、心配掛けまいと居直って、笑顔で手をあげる彼女に手を振り返した。
時衛士は、好意を抱く少女が部屋を訪れた頃――両手を後ろで組み、肩幅に開いた足で身体を支えて胸を反らし、正面を見据えていた。
両脇には小銃を構える男がそれぞれ斜め後ろに待機し、銃口は後頭部に狙いを定めているのを神経の緊張によって理解しながら、それでも恐怖したという表情を表に出すことも無く、目の前の人の姿を創る幻影の言葉を聴いていた。
『――理由と言っても……君は夏休みのアサガオの成長日記に理由を求めるのかい?』
「なら、付焼刃を観察するのはそれほどに当たり前だ、と」
『いいや……トキ・エイジ、少し語気が荒くなるが――生きている内に頭を使いたまえ。こんなまどろっこしい言い分に説明をするために、わたしは君を呼んだのではないのだよ』
「いずれ研究に必要になるだろうからと付焼刃を適正者候補生に忍び込ませた? バカ言ってんじゃねーよ。矯正器具も使わねぇ付焼刃なんぞ、今まで見たことも無い! 確かに内部の戦力じゃあのバカが制圧できる筈もねぇけどよ、訓練兵はどうなんだ? 一番危険だって――」
『上層部が何らかの形で付焼刃連中、あるいはその深き部分に繋がっている? 君こそあまりふざけたことを言わないで欲しいな。頭を使えと言ったんだ。君は、君をここに呼んだわたしの面子をそれほどまでして潰したいのかね?』
怒気を孕む静かな憤慨が言葉となって衛士の台詞を遮った。途端に音も無く肉薄した銃口は後頭部に触れ、冷たい感触を覚えさせる。
衛士はそれから深い溜息をついて、短く思考した。
――本当にわからないから聞いたのに、これほどまで傍若無人な過大評価を受けてはどうしようもない。
付焼刃の存在が露になったのは三月の、衛士の初任務が初めてだったはずだ。
そしてそれ以降、この八月までで、衛士が受けた任務の中には無数の付焼刃と呼ばれる特殊能力者が居たが、その全ては矯正器具を用いないと能力が使えない、また使用できても大した危険を持たない輩ばかりであった。
だからこそ、ただの生身で『肉体の一部を一定の範囲内ならば任意の場所に瞬間移動させる』能力を使用するハンズの存在は、その実力に関わらず余りにも衝撃的過ぎたのだ。
それに加えて、彼はこのリリスに居る。招いたのは、目の前の恰幅の良いずんぐりとした中年男性を含める上層部で、それが衛士には、到底理解する事が出来なかった。
そもそもその存在自体、世界各地に飛んでも発見することが出来なかった以上、希少だと言っても過言ではない。ならばなぜそんな彼がここに居るのか――やはり疑問は解くことが出来ず、それを見て目の前の立体映像は肩をすくめた。
『まさかわたしの目が狂っていたとは……やはり老い、かな』
男のふてぶてしい視線は衛士を嬲る。彼はそれに気分を悪くしたように、後ろで組んだ手を解いて拳を握ると、後頭部に突きつけられる銃口はそのまま力強く押し付けられた。
構わず衛士は口を開き、喚き散らす。
「どっちがまどろっこしいっ! 一を聞いて十を知るならまだしも、これじゃ百を知ろうとしてるようなモンじゃねぇか! ふざけんなよジジィ!」
青年の鋭い視線に男は、情けないと言わんばかりに片手で目元を覆い、それから衛士に向けて手を払う。すると、すぐさまそれに応じる背後の二人が銃口を引き剥がして距離を開け、待機の体勢をとった。
衛士は怒りに震えながら、それでも喚くのをやめると、男はややしかめた表情を緩めて衛士を睨んだ。
『ならヒントだ。ハンズの頭の出来を思い出してみたまえ』
――ハンズは久しぶりに自身の実力を確かめられると思っていた演習で、思い通りに行かなかっただけで鬱積し、我慢ならず能力を解放した男だ。しかもそれを隠蔽するわけでもなく、教官が居るその場で行うような彼である。
ただそれだけで、残念なその脳を窺い知ることは不可能では無いはずだった。
しかし、彼のヒントから導き出される答えは妙にハンズに似合っていて、だがそれ故にどうしようもなく情けなく、そして何故だか衛士が頬を紅潮させてしまう程恥ずかしく思えてしまう。腹の底から湧いてくる、先ほどまで自身が激情していた事も忘れて、くつくつと肩を震わせるように笑いを押し殺した。
「エサを撒いたらついて来たのか? 本人の自覚も無しに?」
『君は知らないかもしれないが、世界は広いのだよ』
――副産物か、付焼刃と深い関わりがあると考えられている”ホロウ・ナガレ”の情報を撒いたら、偶然やってきたのが彼だというのが目の前の男の言い分だった。
あまりに出来すぎた話で、信じるに値しない。だがそれを裏付けるには十分なハンズと言う生きた照明が存在する以上、一概に嘘だと切り捨てることも出来なくなってしまった。
だが、多分彼は言っている話は全て嘘だ。この情報は衛士に公開できないことで、それでも衛士にある程度の納得を抱いて欲しいとの願いが、わざわざ面倒な虚言をもたらしていた。
衛士は彼の思惑をなんとなく察して、なんだかもう、どうでも良くなってしまった。
目的はハンズなどではない。彼が自身を強くしてくれるといったから、わざわざここにまで来てやったのだ。
『それでは本題に?』
「構わねぇよ」
男は機嫌を直したように軽く笑い、それから腰に手を添えポケットに突っ込む。そこから一本の紙巻タバコを取り出したかと思うと、既にもう片方の手に電子ライターを持っていて――慣れた手つきでタバコに火をつけ、胸いっぱいに紫煙を吸い込んでから、声を発した。
『この”課題”というものに何か覚えは無いか?』
「試練だろ? それがどうした」
『試練をもう一度やり直したいと思ったことは?』
無い。
そう即答した気になったのに、口は強く一文字に閉じていることに気がついた。
無い――果たして本当にそう言い切れるだろうか。
あの十日間の悪夢を。
二度と繰り返したくないと強く思ったあの二四○時間を。
本当に――せめて後一度だけ、とすら思っていないのだろうか。
答えは無論、否だった。
今の彼ならば死者は出さない。だから家族は死なない。その為に、あの苦しみは全てが無駄になってしまうが、衛士にとってはそれが良かった。
だがやり直すならばあの日あの時の試練だ。今更、ただそれを模した試練などはやる意味もなく、価値も無い。それが、あの時以上に彼の魂を揺さぶることなどは、決してありえないのだ。
それ故に、答えは彼の頭を振る動作で示された。
「あの時の試練なら考える――程度だ」
『ふふ、過去に縋る男ほど目も当てられない存在もないな』
紫煙をくゆらせ、それから少しして近くにタバコを投げ捨てる。それは瞬く間に煙と共に姿を消して、最早慣れた挑発に嘆息する衛士を見下ろした。
『どうした、今日はもう怒らないのかい?』
「怒ればあの時に戻してくれんのか?」
『物理的に無理だ……が、近いことなら可能だ』
「あ……? どういう意味だ」
『一人前に興味は湧くか。ま、わたしとしてもその方が都合がいい――明後日の五日の明朝に、十日分の資金や準備をして待っていろ。君とて話を聞くより実際に感じたほうが判り易いだろう?』
男はそう告げると、最後に不敵な笑みを浮かべて消える。
残された衛士は――振り向き様に左斜め後ろに待機する覆面男の顔面を裏拳で殴り抜けた。
打撃が男の顔面を歪め、短い悲鳴の直後に、大きく崩れそうになる態勢から握る小銃を突き出すように放つ。銃口が鋭く衛士の喉下を突き刺して、次ぐ衝撃は、背後からやってきた。
銃床が後頭部を容赦無く叩き落とし、くの字にへし折れる身体には、追い討ちを掛けるように振り上げられた膝が鳩尾を貫いた。
息苦しくなり、だが強制的に吐き出された息が咳き込むことすら許さない。顔面を殴られた男はその間に立ち直り、やり返すように勢い良く投げ打ったつま先で彼の鼻筋を砕き――弱々しい力のみを残して脱力、跪く衛士の頭部に銃口を突きつけて、冷たく言い放った。
「俺はてめぇが気に喰わない」
まるでバルブを緩めたように、鼻からは血がとめどなく溢れて垂れる。衛士は短い呼吸を繰り返し、酷い吐き気に襲われながらも、鋭く男を睨みあげた。
「だったら徹底的にやろうぜ。オレだって、無性に気が立って仕方がないんだよ……!」
強い意志が衛士の瞳に宿る。そして気がつくと銃口は掴まれて、突きつけていた衛士の頭部からは引き剥がされていた。
男は強い怒りや恐怖によって思わず指先に力がこもって――安全装置の掛かっていない小銃は、いとも簡単に火を吹いた。
階段を上り、一本道を延々と歩き、はしごを上って蓋のようになる扉を開け、また階段を上って下り坂を歩き、平坦な一本道を進んで――ようやく出口が見つかった。
衛士は全身に蒼あざを、そして節々に強い痛みを覚えながら自力でそこから抜け出してようやく一つ息を吐いた。
――あのプラネタリウムのような部屋からは随分と歩いたのにも関わらず、人一人、出くわすことは無かった。最も、構造からして人が住むような場所ではないのだ。外に出るだけでもこれほど過酷なのは異常で、誰も好ましく思わないだろう。そして必要の無い複雑さだった。
しかし衛士には、それについて何かを考える余裕は失せていた。
先の戦闘、鬱憤を晴らすためだけに売った喧嘩で随分と体力を消耗してしまったのだ。
暗闇に紛れた奇襲の数々で、良く鍛えられた一般兵を何とか打倒することは出来たが――。
「……ちくしょう」
いつまで経ってもこのリリスと言う組織の手のひらで踊らされているような気がしてならない。いや、それは気のせいなどでは無いだろう。ここに居る限り、彼等の言いなりになっている限り、正にその通りなのだ。
扉を開けた先には高層の建築物が立ち並ぶ。二車線の道路が延び、だがそこに車は通っておらず、何十、何百もの人が行き交っていた。
ビルの中には様々な商店が内包され、看板を下げている。そこはまるで都市部のような光景だったが――午後十二時ともあろう時刻にも、この蒼穹に加えて煌々と空間を照らす眩い太陽が、この世界が紛れも無い地下空間であることを再認識させてくれる。
衛士が頼りない足取りで人通りが多い歩道部分へと飛び出ると、多くの人間が彼の血に塗れた顔を凝視し、その格好に怪訝な表情を見せる。衛士はそれに構わず、どちらに進めば寮に付くかもわからぬまま立ち尽くした。
仕方なく誰かに声を掛けてみようと試みるが、通り過ぎる全ての人間が衛士を避け、それ故に、彼を中心とする半径三メートル前後の人口密度が限り無く薄い空白の空間を、込み合う歩道に作り出していた。
――あの部屋に繋がる扉には『制御室』とのプレートが掲げられていた。小さなコンテナのようなものが、街中に、商店に挟まれるようにしてぽつりと不自然に立っているのだが、誰もそれに気をとめることが無い様に、酷く無関心に過ぎていく。やがて衛士も同様に扱われ始め、彼の目の前を通り過ぎていく人間が、無関心のまま表情も、眉一つ動かさずに通り過ぎる人間ばかりになっていった。
だがそれはそれでいい。寧ろ下手に警戒されるよりはマシであったが……。
「最近、ツイてない……」
頭を掻き乱されているような気分だった。
せっかく纏まり始めていたのに、この世界にも、悪い傾向だが慣れ始めていたのにもかかわらず、あの立体映像の男と出会ってから全てが崩れて行ったような気がした。
全部が滅茶苦茶だ。
衛士の未熟な精神も手伝って、自分が一体何をしたいのか、何をすべきなのか――今まで明確だった目標を見失うのは、それほど難しいものではなかった。
心が落ち着けば、自分は本当にこの組織を潰したいのかと疑問に思ってしまう。
魂が揺さぶられれば今すぐにでも、実力が応じずともこの組織の本部へと突っ込みたくなってしまう。
それ故に、自分と言うものが良くわからなくなっていた。
――今までどうやって自分を保っていたのか。どうやって悪を見つけ、どうやって自分の正義を理解していたのか。
わからない。疑問符を浮かべる以前に、考えようとする意欲が失せていた。思考が零れ落ちる以前に、全てが枯れ果ててしまっていた。
自暴自棄ではない。どちらかといえば抑うつなのだろう。
この拳を振るえば、命が掛かれば、少し気が晴れるような気がした――が、それでもこのモヤがかかる思考が冴えることは無い。
何かきっかけが必要なのか。ただ単に、不幸な自分に酔っているだけなのか……。
衛士は力なくその場に座り込み、うな垂れる。それでも誰かが声を掛けてくれるはずも無く、いつの日かのようにエミリアが優しい笑顔を見せてくれることは無かった。
――彼がそれから寮に戻るために行動を起こし始めたのは、男に指定された日時に差し掛かる二時間前の事だった。