これからの事
聞いた限りでは壮絶を極めた惨劇も結局は誰ひとりとして怪我も無いままに収束した。青年が食堂の席を立ったのは、よく懐いてくれている少女が最後まで残り、後片付けを終えてから自室へともどって行くのを見送ってからだった。
衛士は心底疲れてしまったように息を吐きながら帰路についていた。帰り道と言っても、ただ自室へ向かうだけであるのだが。
食堂を抜け、ホールをから左右に伸びる通路を左に曲がっていくらか歩いた後にある、四つ目の扉。それがかつて、この地下に来てから衛士が唯一心を休めることを許された空間――だった。
慣れた様子で液晶パネルに人差し指を押し付ける。一秒ほどの間が開いてから、指紋認証を終えた知らせに電子音が短く鳴いた。
扉が鈍く低いうなり声を上げて緩慢な動作で開き始める。真っ暗闇の部屋の中に、通路の眩い光が差し込んで――。
「遅かったね、時衛士」
出迎えたのは若い女の声だった。
「でも帰ってきてたのなら、お見舞いにでも来てくれればよかったのに……って、ごめんごめん。冗談、分かってるよ」
カラカラと楽しげに笑うと、膝より高い位置に裾を持ってくる短いタイトスカートがピンと生地を張り詰めた。触って巨きさと柔さを確かめた彼女の胸が、ただでさえ肉体のラインを魅せるキャミソールから、思っていたよりも浅い谷間を強調させていた。
性的な意味でも魅力的に見える彼女を、つい数日前まで血に汗に塗れた場所で背を合わせていた相方だと認識するのに、衛士は暫く時間を要した。
この女があの”ナルミ・リトヴャク”なのだと理解した衛士は、部屋の中に一歩踏み込み、壁にある証明のスイッチを押してから、顎を引く。途端に変わった目付きは、鋭く彼女を睨むようであった。
「何やってんだ。人の部屋で」
「な、なにって……?」
「こっちが訊いてんだよ」
「ったく、相変わらず酷いなぁ。君が大怪我したってんだから、心配で僕は来てあげたんだよ」
一人称は変わら無かったが、細く華奢な体躯や、細かな、どこか神経質そうに髪を撫でる仕草や肩を抱く所作から、女性である事実を隠しているようには見えなかった。やはり地下ではそうしていないのか、あるいは既にバレてしまっている衛士の手前そうする事は酷く滑稽だから敢えてひけらかしているのか。
衛士にはわからなかったが、特にこれといった興味も関心も、同時に存在していなかった。
「そいつはどうも。用が済んだならもういいだろ?」
「……な、なにが……っ?」
直視すれば網膜を焼くほど眩しい照明が、ナルミの頬がにわかに紅色に染まり始めるのを衛士に見せていた。一体何をどう器用に捉えれば、その紅潮に繋げられるのか――衛士は考えて、漏れるのは呆れたような嘆息だった。
好意的なのはいい、と、そう思っただろう。少しばかり前の自分なら。
嬉しかっただろう。この、どう控えめにいっても美人の女性にそう思われては心が踊らなくもない。その感覚が、感情が完全に失われているわけでも決して無いのだが、今はひたすらに興味がなかった。
強い喪失感が、そうしているのだと衛士には理解できていた。
だから今求めるのは、ただそっとしておいて欲しいと言うものだった。
「帰れよ」
「あっ、酷い。寂しいだろうから添い寝でもしてあげようと思って、お風呂にだって入ってきたのに」
「スカートでどう寝るつもりだったんだ」
「いや、これは君が喜ぶかなぁって思って。寝るときは脱ぐよ」
しれっと答える彼女は既に顔をトマトのように真っ赤にしている。
そんなナルミの羞恥心をかみ殺して発した台詞に返すのは、構わず彼女に迫った衛士の気配だった。
――切迫。見慣れぬ眼帯を付ける衛士の精悍な顔がナルミに迫る。
彼女の胸が大きく高鳴った。身体の芯から煮え立つ興奮が伸びて脳を沸かす。呼吸が乱れるのを彼女は抑えられなかった。
衛士には助けてもらった。それだけでは、この気持ちには理由がつかない。これほどまで女性として大胆になれたのは、衛士の前が初めてだった。
だから――その彼が、彼女のすぐ横を通りすぎて寝台に座り込んだのを見送って、その昂りはいよいよ最高潮を迎える。
が、何事も無いように靴を脱ぎ、そして横になる衛士を見守った彼女は、流石に今何が起こっているのか理解しかねた。
日本のことわざに、据え膳食わぬはなんちゃらと言うものが在るはずだと、彼女は稚拙な脳内のことわざ辞典を開いて導き出した。彼は自身との関係に応じるくらいなら、恥を頭からかぶったほうがマシなのだと。
「え、エイジ、君……?」
「部屋に入って来れたのなら、出られるだろ。一人でも」
「あれは、その……エミリーが、ほら、ね」
「エミリー……?」
捨てるような起伏のない発言を、それでもそれが疑問形であることを理解した彼女はそっと寝台に腰を落として応えてやった。
「うん。エミリー。君の担当のエミリアさんだよ。一つ年上」
「歳なんて聞いてないし――知ってるし――、今は担当じゃない」
つい二ヶ月ほど前に交代した筈だったが、そもそも現在では担当という存在自体が不要になっているので、現在の担当には”顔合わせ”以来会っては居なかった。
さらに今ではその担当の実力さえも上回っているだろうから、必要ないのではないだろうか。
衛士は思いながら、壁に向かって寝転んだまま紡がれる彼女の言葉を聞いた。
「そもそも上位互換ってさ、あんま人が居ないんだよ。キミが知ってるだけで僕に、エミリー、フナサカさん」
他にも全身に帯状の耐時スーツを装着する”アンナ”に、戦闘能力が果たしてあるのか不明の”ミシェル”。さらに、
「えーっと、イワイ君は知ってるよね?」
しれっと漏らすのは、衛士にとっても意外すぎる名前だった。
「い、イワイ?!」
イワイと言えば――必然と連想されるのは祝英雄のあの姿。肉体と完全に一体化し、それ故に精神面でも、肉体的な適正でも生存率が極めて低いとされている『新・耐時スーツ試作型』を装備して尚使いこなしているあの男。衛士がこの世界に来る以前、この間のような試練の中で、この青年の両親を殺したと嘯いた彼の名であった。
なぜあの時あのような事を口にしたのかは未だ知れない。それ故に、色々と因縁深い男だった。
「そう。彼は優秀でね。戦い方も我流なのに随分とヤるし、どこでもかしこでもM1100カスタムでさ。荷物だってナイフと散弾銃以外は散弾か単体弾しか持たないし」
「……あのスーツのせいで回復が尋常じゃないからな。正直、あいつが死ぬところを想像できない」
考えて見れば確かにそうだ。
凄まじい爆発によって崩れた建物の下敷きにされたのにも関わらず、傷を完治させるどころかそこから自力で這い上がるような男である。そんな彼が、どうして死ねようか。
イメージして、それから腹に対戦車榴弾でもぶつければ死ぬだろうかと考えても、なにやら空いた風穴すらも塞がりそうで思わず背筋に寒気が走った。
――特異点と云えども、やはりただ特殊能力が肉体に刻まれただけの、たったそれだけの存在なのだと。衛士にはそう認識出来てしまった。
能力は便利だ。されど万能ではない。
ならばオレがあんな体験をして得たこの未来予知は一体――。
衛士の咆哮が喉にまで迫る。
それを抑えたのは、まるでそれを予期したかのように頭へと優しく触れたナルミの手だった。
「これで大体半分。そもそも適性者自体多く無いからねぇ……案外、狭い世界で失望したかい?」
彼女がそうしたのは無意識である。しかし結果的に、それが暴発しかけた衛士の感情を、別の方向へと向かわせるきっかけとなっていた。
「でもすべからく……って、難しい言葉使って頭良いみたいだろ? 世間は大抵、狭いんだよ」
深く座り直すと、腰と腰が触れ合った。それだけで、衛士の身体は驚いて飛び跳ねるように大きく弾む。その反応がなんだか可笑しくなって、ナルミは不意に溢れる笑みを押し殺して、衛士の横腹に手を添えた。
「おい、フェイ……ナルミ」
「……あぁ、ジェリコに名前は聞いてるんだね。でもキミの呼びやすいように呼んでくれればいい」
やがてナルミは衛士に寄りかかるようにして、横腹に添えた手を滑らせて腹の手前に伸ばし、身体を支える。覗き込むようにして顔を向けるも、眼帯のせいで表情を伺うことが出来なかった。
「なんで、お前はそんなに、オレにまとわり付くんだよ……仕事は終わった。もう関係ないだろ」
「仕事じゃ戦友。休暇中はお友達。ま、キミん所に来たのは――」
ゼクトに、自暴自棄にならないように適度に励ましておけと命令されたからであったが、どちらにしよ衛士に何があったのかを説明された後だったから、自主的にそうしないわけはなかった。
この青年は精神的にとてもタフネスだ。心配は全て杞憂に終わるだろうが、それでも誰かが近くに居たほうがいい。本当は自分が近くに居たいだけだったが、彼女はそうに自分に言い訳をしてこの場所に来ていた。
「キミが好きだから」
屈託の無い笑顔で投げた台詞は、何の反応もない背に当たって滑り落ちる。
それからまた暫く待ってみるも、衛士は微動だにせず、まるで眠っているかのように静かに硬直していた。が――。
なんだか奇妙なほどの熱を肌に感じて、ナルミは衛士の額へと手を伸ばした。短い前髪を掬うようにして脇から手を額に押し付ける。途端に感じたのは、じんわりと伝わる熱が異様なほどに温度を高くしているものだった。
熱を出している。それも酷く高い、風邪だとかそういった次元ではない――いつ脳みそが溶けて血が沸騰してもおかしくはないような、触れた手が火傷してしまいそうな熱を、衛士は持っていた。
何故こんなに突然に。ナルミは思うと同時に、スカートのポケットに入っている通信端末へと手を伸ばそうとして、その手を予期し得ぬ速度で捕まれ、ベッドへと引っ張られた。
身体が傾き、瞬く間に倒れる。
気がつくと既に起き上がっていた衛士とすれ違いに、彼女は熱の残渣の上に寝転がった。
――空間に、割れんばかりの破裂音が鳴り響いた。
その直後に壁の一点を抉るような凄まじい衝撃がぶつかり、建物全体を激しく揺さぶる。それだけで、その衝撃だけでこの寮自体が崩落してしまう連想が出来てしまうソレだった。
扉の、液晶パネルがあった部分が爆ぜたように大雑把にぎこちない穴を開けていた。またその部分が朱く色を染め、融解しかけているのがわかる。
それと共に、穴からい若い男の声が響いた。
「ノックをしても反応がないので仕方なく強制執行の命のもと砲撃を致した。被害には目を瞑れ」
明かりを漏らす穴から幾本かの指が生える。それはがっちりと扉を掴むと、力任せに押し開け始めた。
壁の破片を頭からかぶった衛士は、自身の高熱を思わせぬ動きでナルミの太ももに手を伸ばし、スカートの下に留めてある小型の拳銃を掠め取った。
発砲。
火花が散り、同時に穴から伸びていた指に赤い血花が咲く。短い悲鳴が轟き、指はすぐさま引っ込んだ。
――眼帯が生まれた鬼火の蒼い輝きを鈍くする。ナルミはただそれだけで、彼が本当に特異点に相成ったのだと理解した。
「てめぇ、調子に乗んなよッ!」
男の怒号が扉を叩く。今度は少しばかり空いた扉の隙間に手を突っ込んで、スライド式のドアを力一杯弾いて開ける様に、その扉を引き剥がす勢いでこじ開けた。
どんな力を持てばそう出来るのか。果たして扉は強引に開扉されてしまい、廊下の照明を背に受ける三つの人影がそこに居た。
「すまんな時衛士。来客だ」
そう言ったのは、堅苦しい軍服じみた迷彩服に身を包んだ船坂だった。
船坂と比べれば勝るとも劣らぬ体躯をした、白髪頭をオールバックにした老人を挟んでもう傍らには小刻みに震えて手首を抑える、船坂と同様の格好をした男。足元には見覚えのある砲筒が転がっていたものの、顔に覚えはなく、おそらく初対面であろうと判断した。
――誰かの悲鳴が聞こえる。
多分、さきの音や衝撃に驚いて出てきた誰かが、追随した他の警ら係に銃でも向けられたのだろう。
そう考えれば、この三人の丁度真ん中にいる老人は、随分と重要な人物なのだろうか。
衛士は朦朧とし始める頭でそう考えてみるものの、だから何だというのだという結論しか導けなかった。
茶色いジャケットを身につけ、襟元には上向きの矢尻を三つ重ねたような記章が貼りつけられている。それは主に米陸軍にて『軍曹』の階位を示す階級章だった。
男は靴を鳴らすように一歩大きく前に出て、後ろで手を組んだまま胸を逸らした。
「貴官が時衛士で相違ないな?」
通った鼻筋に、透き通るように蒼い瞳はかつては美青年だった風貌を思わせる。シワだらけで、彫りの深い顔には確かな老人としての威厳があり、また鋭く光る瞳は未だ若さを忘れていなかった。
流暢な日本語はあまりにも自然すぎて、妙な違和感を男にもたらした。
「あ、あぁ……あなたは?」
「話は聞いている。この日本に於いて唯一の特異点だという話をな……。わたしの名はハーガイム……付焼刃の調査と兵隊の育成に赴いた」
ハーガイム。それはアイリンが思いつきで米国まで飛び、一般兵を付焼刃化させるために必要と思われた為に、米国のリリスから半ばお払い箱となっていた所を引きかれ連れてこられた男だった。
年齢は六二。身長一七八センチに対し、体重は八○キロ。些か太り気味のような数値だが、そのガタイのよい身体には多くの筋肉で占められていた。
還暦を迎えた欧米人は太ったイメージが強い衛士にとって、その姿はやはり少しばかりは畏怖を覚えるものがあった。
「……と、まぁ。堅苦しい話はここまでだ。礼儀を重んじる日本人にはこれで十分だろう? わたしは疲れたが」
流れるように腰に伸ばした手は素早くベルトに差してあった回転式拳銃を引きぬき、衛士の額目掛けて発砲する。
それを済んでで避けてみせた衛士は、それでも背後の壁に突き刺さった弾丸の気配を覚えながら、呼吸を乱しながら立ち上がった。
「着いて来いミスター。副産物の異能力、付焼刃、特異点の持つ能力、使い方、その全てを教えてやろう」