後片付け
今日も今日とて今日が始まる。全て世は事もなし。
エミリアは少しばかり不機嫌に眉をしかめていたが、それでもなんとか任務が無事に終了して満足のまま帰還した。今は研究員となっているアイリンに、わざわざ米国から追従させた”特異点”を任せてあるから、九月になって再び訓練兵らの仕上げが始まるまでは全てが休暇だ。だから彼女は、あの『老害じじい』にされたセクハラは全部水に流してやろうと思っていた。
が、少しばかり気まずそうな顔でマンションの自室の扉を叩いたのは、エミリアの平穏をいとも容易く崩してくれたのは、その見事な体躯で視界を遮る船坂だった。
「なんというか、とことん孤独な奴だな。わざとか、お前」
右目に眼帯を。頭に、そして全身に包帯を巻きつけて衣服を纏わぬ青年を眺めてエミリアはそう感想を漏らした。
白を基調としているべき病室は薄汚く、打ちっぱなしのコンクリートが寒々しい印象を与える何も無い空間には、その真正面の壁を頭にして寝かせられるベッドが一台だけ存在していた。その上で座位を取る時衛士は、彼女の登場に気づいてそこはかとなく視線を投げるも、特に興味がないようにすぐさま虚空を凝視し始めた。
気が抜けた、というよりはどこか、魂が抜けたというべきか。テディベアと形容すれば随分と可愛らしくなってしまうが、彼はすなわちそんな風に佇んでいた。
聞いた話によれば両腕共に複雑、粉砕骨折を伴い、また肋骨が内蔵に突き刺さったことによる多量出血、頭蓋骨陥没諸々の重度な傷害を受けたという話だ。本来ならば既に死んでいてもなんらおかしくはなく、むしろそうであって当然だというレベルの怪我である。
一命を取り留め軽症程度にまで傷を引き上げたのは、このリリスが時衛士の肉体損傷を時間遡行技術によって回復させたに違いないが――それまで息が続いたことが奇跡的だというのが、今回の論点だった。
最も、その面を大事にしているのは、時衛士に起こったこれまでの全てを知る者が一握りであるがために、誰ひとりとして居なかった。
――時衛士の意識が覚醒したらしいのが先日八月十三日。彼が帰還したのが、その三日前。
つまり今日までに空白の二十四時間が存在するわけだが、彼はその間一体何を考え何をしていたのだろうか。エミリアは考えて、無駄だろうと肩をすくめた。
確かこの青年の監視役には一人の上位互換が居たはずだが、と考えてみるが、時衛士が逃走したと聞かされて回収に行った船坂からしか情報が得られなかったから、どうにも全てが不鮮明だった。
今ではとりあえず矯正のための包帯による拘束のみで、怪我は殆ど無いに等しい状態だ。
精神的な面はともかく、これ以上踏み込むには情報が足りなすぎる。直接彼に聞いてみるのが一番だが、その行いは見る限りでは傷口に塩を塗るものになってしまう筈だ。だからエミリアは短く嘆息して、衛士に背を向けた。
「エミリアさん」
時衛士が掠れた声で彼女を引き止めたのは、その直後だった。
エミリアは呼ばれてそのまま振り返る。にわかな緊張を孕んだが、その所作はこの上なく自然なものであろうと思えた。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいま。お前もな」
「はい」
その顔面からは筋肉が引き剥がされてしまっているようだった。
唇が静かに薄く開いたかと思うと、そこから滑り落ちるように抑揚のない言葉が流れた。
意思があるのか判然しない。心情が察せない。どういう意図があって声をかけたのか、この瞬間に何を考えているのか。
エミリアが思わず立ち尽くすと、衛士と視線が交錯した。
濁った瞳。本当に眼が見えているのだろうか。そして、傷が完治しているのならばなぜ右目だけは眼帯を付けているのだろうか。
「エミリアさん。一つ、訊いていいですか」
衛士が問う。
肌にまとわり付く冷気がごく心地良いその空間で額から流れた一筋の汗をぬぐいながら、彼女は静かに首を立てに振った。
首肯。
青年はそれを視て言葉を漏らす。
「特異点と付焼刃の違いって、なんですか」
そう言われて、彼女は戸惑わざるを得なかった。
不意すぎる質問だ。
特異点――正式名称『超自然及び超常現象干渉能力に於ける特異点』は、良く良く考えれば本来ならば一般に付焼刃の完全適性と呼ばれる特異能力者にこそ相応しい名前なのかもしれない。
人間の理解のおよそ範疇外に存在する特殊能力。それを保持する武器を使用できる人間ですら限られていて、またその道具の影響により超然とする異能力を個人が得たのが特異点だ。炎を、あるいは水、その他の様々な超常現象を容易に干渉する付焼刃もまた特異点と言えるだろう。
正直なところ、彼女にはその違いを説明しろとて、説明の使用がなかった。
違いといえばなんだろうか。
彼女は唸るように暫し考えてから、苦々といった風に口を開いた。
「敵か味方か、だ」
大まかな種類として分ければ、特異点と呼ばれる方がより時空に干渉している。が、無論例外も存在するためにそんな説明は衛士の質問に対する返答にはならない。ならばより明瞭な、当たり前を口にするしかエミリアには手が残されては居なかった。
そんな答えに、短く衛士は息を吐く。
彼はそれからまた言った。
「なら、オレは……」
弱々しい様子は以前にも見たことがある。だが、今回は随分と雰囲気が違っていた。
悲観的なものでは決して無い落ち着き。見ているだけでも空っぽなのがわかるのに、それでも少しばかり余裕のある様子。無表情だからこそわからないが、恐らくこれからも彼から本当の笑顔が見られる機会は極端に少なくなるだろうと、彼女は考えていた。
おもむろにベッド外へと足を放り投げると、彼はそのまま滑るようにして寝台から落ちて立ち上がる。素足ゆえにぺたぺたと床に貼りつくような感覚を覚えながら、下着一枚に包帯を巻きつけた姿でエミリアへと歩み寄る。が、わずかに構えた彼女の横を、衛士はするりと過ぎて行った。
肌に触れるか否かのすぐ近くを通った直後に、強い気配は背後で停止した。
エミリアが振り向く。
衛士は頬に薄い笑みを浮かべたまま、静かであればその息遣いが良く聞こえるであろう距離で立ち止まっていた。
――衛士の口が開く。その刹那を狙って開いた彼の背後の扉は、同時に声を荒らげた闖入者の侵入を容易く許していた。
「エミリア! 訓練兵の――」
「ハンズか。いい、オレが行く」
巨大な体躯が、衛士の視線に舐められただけで途端に大人しくなる。唖然というよりは畏怖と表せるように船坂は眼を剥いて、部屋の端に畳んで置かれる無地の白いポロシャツ、色の薄れたジーンズに真新しいスニーカーを、特に急ぐわけでもなく着用していく衛士を見守っていた。
「衛士、お前、もう身体は……?」
「えぇ、大丈夫ですよ。なぜか傷跡がくっきりと残ったままですが、なんら問題はありません」
大きすぎず小さすぎず。調度良いサイズの服を纏えば彼は一見好青年の様相を呈しているが、その袖から伸びる男らしい太い腕に巻きつく包帯が、その印象を瞬く間に拭い去ってくれる。
「んで、ここはどこなんです? 外まで案内、お願いしますよ」
衛士は大きく伸びをするようにしてから息を吐くと、少しばかり脱力気味に船坂へと言葉を投げた。
「クソ、これも課題の一つなのか?」
透き通るような金髪を乱しながら、”エクス・バスター”はメガネを押し上げて訓練銃を構えた。モデルはリボルバーで、装填数は六発。既に二発のペイント弾を発砲しているために、残弾数は心許ない。
――つい数分前までは綺麗に掃除されていた食堂も、気がつけば机も椅子も全てがガラクタになってしまっている。外からの光が入らないために、蛍光灯を破壊されてしまった今では闇に飲まれて何も見えなかった。
救いなのは、出入口の開かれた扉から挿し込む光だが、近づけば姿が確認され、また最も狙い撃ち易い場所であるが故に逃げ出すことも出来なかった。
「逃げてもこんなトコロってよぉ、まったくツイてねぇんじゃねぇのか、俺たち」
小汚いロン毛を掻き上げて、長身の男はそう漏らした。
屋外訓練場から逃げ出した際に持っていた武器は一挺の突撃銃だったが、不意の殺意ある攻撃に怯えた彼はそれを投げて逃げ出していた。さらによりにもよって寄生するのは、まともな司令塔と成り得る利発そうな青年の元だった。
「黙れ七文太、貴様が勝手にこんな袋小路にだな……」
言葉を遮る凄まじい破裂音が響く。それと一緒に弾けて飛んだ木の破片が頭に振りかかるのを覚えて、どうやらまた机か何かが破壊されたのだと認識した。
短く舌打ちをするバスターの肩を、文太は白々しそうに優しく叩いた。
「でも俺を心配してついてきてくれたんだろ?」
「クソ、一度死ね貴様!」
――支援を望めるとすれば他の四名の訓練兵だ、が。
一人は同年代でありながらも少年と思しき容姿の男”坂詰保志名”。
もう一人は実年齢、容姿ともにそのまま幼い少女”イリス”。
さらに些か近接戦闘を主とするものの、接近戦に於いての戦闘能力と性格に難のある”ステッキ・サラウンド”。
落ち着きと冷静な判断が望めるも、火力に問題がある”エイダ”。
この四名が一体どのような奇襲劇を画策すれば、自他共に認める今期最強最大の、近、中距離を覇権とする男を打ち倒すことができようか。
武器と言える武器は、単純に当たれば激痛を覚える程度のペイント弾。手榴弾、榴弾系統の武器も煙幕に他ならず、ただ打撃だけで意識を奪える強靭な攻撃を如何様にして対処すれば良いのだろうか。
考える間に、唯一の光源となる扉に影が一閃過ぎったかと思うと、その闇にさらなる影が湧いてでた。それと同時に妙な煙が鼻に付き、どうやら煙幕が張られたのだとバスターは理解した。
「ふたりとも、こっち!」
甲高い声が出入口へと誘う。それの直後に、間も置かずににわかに閉じかけていた扉が影も気配も無く殴打されて――蝶番が強引にねじれて、扉は容易に吹っ飛んだ。
「きゃあっ!」
悲鳴。
バスターの焦りが指に伝わった。
出入口へ向かう影が見えた。
「おい、バスター!」
狙いを定め、発砲。
火花が散る。同時に、音に反応するように男の顔がこちらに向いた。
「オトリだよ、ばーかッ!」
「いや、そっちも囮だから」
男――ハンズの背後から鈍い声が伝わった。
脊髄反射的に彼の身体は捻って背に受ける気配へと振り向くが、ソレよりも早く、全弾開放で弾かれた引き金が突撃銃から延々とペイント弾を吐き出していた。
煙が撒かれているがゆえにその背丈すらも判然としえぬ影。容赦のない発砲は、それでもハンズに痛みしか与えられない。
故に、怯まない。
……確かに、煙によって侵入を容易にして、また仲間を囮にするという発想は認めよう、とハンズは思った。
彼がそういった傲慢さを表面下に見せた瞬間――彼の側頭部には、固い木製のストックがぶち込まれていた。
鋭く差し込まれる衝撃、激痛。突撃銃の思わぬ使用方法に、ハンズはすっかり足を止めていた。
影が迫る。瞬く間に、気配は肉薄した。
「ったく、笑えるよな」
指を折り込み硬く握られた正拳が、寸分狂わずハンズの水月に叩き込まれる。
――肉体の一部を瞬間移動させられる能力は、その時点では完全に封じ込まれていた。
「”ここの地下”に寝かせてたんなら……フナサカさんよ」
されど、屈強さも持ち味の一つであるハンズが、それだけでは崩れない。拳を握る事によって手甲を強く締め直すハンズは、懐で無防備にテレフォンパンチを構えた青年の頭部目掛けて拳を投げた。
「アンタ、ここ一回素通りしてんじゃねーかよ!」
だがしかし、その扉さえも簡単に吹き飛ばしてしまう打撃は目の前の些か逞しい体つきの青年を叩く事は出来なかった。
明らかに勢いづいていたあの姿勢は気がつくと崩れていて、見下ろす位置からやや離れた場所で拳を腰に引きつけていた。
全てを破壊してきたこの拳が、目標も捉えられずに虚しく自身の目の前を落ちて行く。
青年、時衛士の姿が再び眼前へと迫り来た。
「お前、いつの間に……ッ?!」
「つい十秒前」
あれだけ吠えていたのにもかかわらず、顔には感情の色一つなく。
拳は無情に、鋭く素早く無駄なくハンズのあご先を捉え、打ち砕くが如き破壊力で打ち上げていた。
男の頭が天上を仰ぐ。暗がりの中でも、その視界が確かに揺らぐのを彼は理解できていた。
さらに一撃。渾身の一打が横腹に食い込んだ。さらに一発。身体を反らし、振り子のように勢い付けた全身全霊の凶器がもう片腹を貫く。
右、さらに左。繰り返される暴撃の数々が、嵐の如くハンズを打ち砕いていく。
まるで銃撃でも受けるように、情け容赦のない打撃の応酬にハンズの肉体が踊り続ける。
抵抗はもはや出来無い。その一撃一撃が、あの”力自慢”の男に近き威力で肉体を穿っていた。
――また、右拳を耳の高さまで引き上げる。大ぶりの構えは、よくテレフォンパンチと呼ばれたソレだった。
「ったく。なんでお前こんなことになってるんだ?」
わけわかんねぇ奴。
心底吐き出したようなため息を最期に――大きく前へと踏み込んだ足が勢いを腕に上乗せし、体重、速度を加えた拳が、血に塗れたハンズの顔面に突き刺さり、喰らい付き、その自身よりいくらかの巨体を力任せに地面に叩きつけた。
衝撃が風となって空間に染み渡る。
鈍い地響きが静かに足から全身へと伝わった。
時衛士は――喧騒の終止符を打った直後に、再び割れんばかりの歓声に見舞われる。
ハンズが一本の電話の後に突如として暴れだしたと言う真相を耳に入れたのは、それから行われたささやかな出迎えパーティが終えてから暫くの事だった。
また――そのハンズがアイリンの命によって研究所に連れられ、その後姿を見る者が誰も居なくなるのは別の話である。