課題:格上の相手を倒す
眠気は去ったかと思ったのに、一度寝ようと考えるとすぐさま睡魔が襲い掛かり瞼が重くなってくるのは何故だろうか。
衛士は徐々に強くなる眠気を払うように大きく深呼吸をしてから、自室へ向かうべく廊下を歩いていると、不意に前方に人影を捉える。薄く開けていた目を見開いてぼやける視界を鮮明にしてやると、目の前の影は眼鏡を直すように右の中指でそれを押し上げてから、歩調が緩まる衛士へと近寄ってきた。
「おはよう、エイジ・トキ。それともこんにちは、か?」
黄色味が強い金髪で、薄いブルーの瞳が特徴的な好青年は、いつもの迷彩服とは違う格好で衛士の前に立っていた。その姿はフォーマルであり、白いカッターシャツに黒のチョッキ。さらに黒のスラックスを身に纏う彼は、妙なまでに似合っていた。
元々、外観から育ちの良さが見える彼だから想像通りと言っても差し支えは無いであろうが、嫌味にならぬ着こなしは少しばかり憧れるものがあった。
「こんにちはかな。時間的に」
しかし、彼――『エクス・バスター』が自分から声を掛けるのは酷く珍しいことだった。彼と出会い四ヶ月が経過した今だからこそ、そう思うのだ。
そもそもわざわざ衛士に話を掛ける人間は七文太くらいしか居なかったし、他者でさえ用事が無ければ声さえも掛けない。普通なら、すれ違って挨拶する程度の仲なのだ。
故にこうして立ち止まって雑談の形を取ろうとするのは、かえって衛士の警戒心を煽るようだった。
「病気で床に伏せていたらしいが、もう大丈夫……では無さそうだが、出歩いて平気なのか?」
彼は衛士の顔色を見て、その厳しげな表情に仄かな綻びを見せかけて、また眉間にしわを寄せる。衛士の深いクマや少しばかりのやつれ具合を見て、上辺だけの心配が本心になりかけてしまったのだろう。
衛士は顔の前で手を振るようにして、大丈夫と二、三度繰り返す。確かに、相手からして見れば三日も寝込んだ人間が未だ不健康な面で出歩いているのだ。衛士の健康以前に、自身に病気やらが伝染しないかが心配になるのも仕方が無いことである。
「気にしないでくれ。オレは病弱なだけだから」
「ふむ、お前がそう言うのならば気にはせんが……お前は他に誰かと会ったか?」
「ん? いや、保健医以外は見て無いな。なんだ、帰省でもしてんのか?」
「はっ、可能だとしても我々に出来ることなど一切無いだろうがな」
確かに。衛士はその言葉に頷いた。
彼等の殆どは表の世界では”死亡”扱いだ。最も、本当に死んだのか、死んだ事になっているのかは分からない。しかし少なくとも衛士のように全世界から居た痕跡を消されているのは、一人として存在していなかった。
こればかりは、それを初めて知ったときは途轍もない衝撃を覚えたものだが、リリスになんらかの理由があると考える事にして、無理矢理納得したのだ。そうしなければ訳がから無すぎて、頭がどうにかなりそうだった。
聞けば試練とて、あった人間となかった人間が居て、その内容も酷く易いものだった。
そんな事があったために、衛士はそれを含めてその存在がやたらに衝撃的だった。だからといって避ける謂われは無いのだが、何故だか妙に、遠い存在に感じてしまう。
「養護教諭から課題の話は聞いたのか?」
「あぁ、今はその帰りだ」
だが渡された紙に目を通す余力は無い。いや、そうする事は出来るのだが、とてもその内容を理解することは出来ないのだ。彼はそうして諦め、一先ず数十時間ぶりの睡眠を貪ろうと画策していた所だった。
「どうやら個人個人で内容が異なっているらしい。だが共通して存在しているのが”四対四の団体戦”だ。出来れば早い内が良かったのだが、お前の体調が芳しくないのだから仕方が無いと言う話になっている」
「そうか。なんか、悪い事をしたみたいだな」
「いや気にすることは無い。どちらにせよ円滑に進む可能性などは、極低いのだからな」
彼は腰に手をあて、ふんと鼻を鳴らす。それと同時に、あの強気な少女――『ステッキ・サラウンド』の世界全てに怒りしているようなキツめの表情が脳裏を過ぎって、なんだか申し訳なくなる。
彼女がどの程度衛士の事を嫌っているのか彼は知らない。だが少なくとも、面と向かって嫌いだと言われていたから、随分と嫌なのだろうと考えていた。そもそも、これほどまで女性に嫌悪感を抱かれたことの無い彼だから、本心から本当に大して気にしていなくとも、地味にショックを受けていた。
だが思い当たる箇所が多すぎるために被害者面も出来ず、まぁこれも一つの未来だ程度の認識で、諦観を帯びて頷いていたのだ。
「ま、善処するさ」
どういった意味で口にした言葉であろうと、この返答は多くに当てはまる。そんな無難な答えに落ち着くと、彼はふっと笑って、両手をズボンのポケットに突っ込んだ。
「七、坂詰。ステッキ、イリス、エイダがそれぞれ街へ出かけた。ハンズは部屋に居る。食堂は調理補助の中年女性が休みになった為に食事は不可だ。食事は各々で済ませろというらしい」
「セブンスって、文太の事か。そういや他の連中は街に出たこと無かったんだな」
「む? そう言うお前はあるのか? 同じ訓練内容で、時間的に余裕が無いのは同じような気もしていたが」
「あ、あぁ……まぁな。ほら、ここに来た時はみんなまちまちだったろ? その時に、うっかり迷い込んだんだよ。いやー、びっくりしたよホント」
バスターは怪訝な表情でそうか、と頷く。腑に落ちぬようではあるが、確認の取れぬ事だから突っ込んで聞くことも出来ぬだろう。一方的にそれを嘘だと疑い、実際に見抜いたとして、それがどうしたと言う事になる。彼にはその理由を付けることが出来ず、故に短い嘆息の後にポケットから抜いた手を軽く挙げた。
「昼過ぎならば俺は食堂に居る。唯一冷房が効いているからな。気分がよくなったら、予定を組むから来てくれると助かる」
「了解。悪いな」
「ふん、病人を無理に動かすほど俺はクズではない」
「はは。んじゃ、またな」
「あぁ」
彼はそう言って通り過ぎ、衛士はそれが視界の端から失せたのを確認してから前に進む。
同年代の同性と、ここまで普通に話すのは久しぶりの事だった。だから新鮮と言うべきか、懐かしいと言うべきか――だからどうというワケでもないのだが、空港で抱いていた気怠るさや、帰ろうと思うと足が重くなる気分的な嫌悪はやや薄まっていた。
案外反応が薄かった、否、いつも通りだったから安心したのだろう。正確にはいつも以上に積極的な会話だったが、その細部は割合にどうでもよかった。
内容ではなく、会話をしたという事実が彼には重要だったのだ。
衛士はやがて部屋の近くにまでやってくると――大きく嘆息する。
彼の部屋の前に立つ人影を見て、まだ休む事が許されていないのかと嘆きたくなった。
栗色のショートボブに、高い鼻。バスター同様に迷彩服姿でない格好は、簡単なシャツにジーンズ姿。起伏の乏しい身体にはメリハリがなく、衛士がそう考えていると視界の端に彼の姿を捉えたらしい彼女は、ちらりと彼を眼で確認してから、緩慢な動作で衛士へと向き直った。
「返事が無いと思ったら居なかったのね」
「……ちょっとトイレにね」
噂をすればなんとやら。衛士は心の中で独りごち、彼女の顔色を伺う。疲弊している今はとにかく面倒なことは嫌だった。
だからさり気なく視線をそらしてみると、彼女はいつものような厳しい表情で衛士の目の前へとやってきて、腰に手をやり立ち止まる。手ぶらであるのを見るに、どうやら心配になって見舞いに来たというわけではないらしい。
衛士は溜息を飲み込んで彼女を見据えると、頭一つ分低い故にその頭頂を見下す形となっていた。
「何か用なんです?」
「まずはそのわざとらしい敬語をやめてもらいに来たわ」
「わざわざそれだけの為に?」
「そんなわけ――」
言いかけて、彼女は言葉を止める。それから何かを感じたようにポケットから携帯端末を取り出すと、確認することも無くそのまま耳に当てた。どうやら、着信が来たらしかった。着信音を鳴らさずにバイブレーションだけで着信を伝えるそれは中々気付き難いものだが、慣れれば案外そうでもない。
こんな生活のお陰で、些細な振動や音さえも感知する力が鋭くなっているのだ。だから耳を澄ませばスピーカーから僅かに漏れる相手の声が聞こえるが、流石にそんなプライバシーも何も無い事を彼はしない。
ただ、この隙を利用して自室へ戻るだけだ。
衛士は素早く彼女の傍を通り抜けると、そのまま部屋の前に移動する。液晶パネルに指を当てて開錠すると同時に扉は緩慢な動作で開き、やがて完全に開扉した。長袖の身体にぴっちり張り付くインナーは暑苦しく、今すぐにでも脱ぎたい気分で部屋の中へ、そして入り様、すれ違い様に壁のスイッチへ手を伸ばして照明を点灯させる。すると途端に真っ暗な部屋の中は鮮やかな光に照らされた。
彼は寝台の上に置きっぱなしになっている、強制的に与えられたノートパソコンとタクティカルベストを寝台上方にある床頭台に乗せなおし、その上に被せるようにCD―ROMと紙を置く。
着替えようかと考えたが、面倒なので一先ず下着一枚になろうとズボンのベルトに手を掛けた瞬間、不意に、未だ開け放されている扉の前に立つ気配を覚えた。
首だけを後ろに向けると、なにやら用がありそうなステッキがじっと衛士を見つめていて――彼は仕方無しに、肩をすくめて振り向いた。
「ま、街でナナと坂詰が……て、適正者の先輩方に絡まれたらしいって。それで、教官を呼んできて欲しいって言われたけど、今は教官たちが居なくて……」
「そうか。街は怖いな」
以前も確かこんな事があった気がする。当事者で、だ。さらにその後に訓練中に何か大きな出来事があったような気がしたが、思い出せないので気のせいだろう。
時衛士は自身が死に掛けた出来事を丸々忘れている。それはリリスが彼の怪我の治癒の為に強制的に肉体ごと時間を巻き戻したからであり、だがそれでも”何かがあったような気がする”と感じられるのは異常な事であるのだが、掘り下げない限り、彼の中では一生”気のせい”で終える。
だが、それが今後にどう関係するというわけではなかった。ただ、彼の、時衛士の常識では考えられない程の時間回帰に対する適正を分かりやすく表していた、それだけの事だった。
「悪いけど、保健の先生呼んできてくれる?」
「サラウンドさんはどうするんだい?」
「私は先に行って止めてくる」
無理な話だ。衛士はそれを聞いて首を振る。
彼女の実力は、確かに普通の少女よりは比べるのが申し訳なくなるほど強い。そして突如としてこんな場所につれてこられて、過酷な訓練を受けても弱音一つ吐かぬその忍耐力やらは目を見張るものがある。衛士としても見習いたいものだったが、それはあくまでも、表の世界にいる普遍的な少女と比較してであった。
まともな適正者、ただの一般の訓練兵と比べれば、後者と対等に渡り合えるか否か程度の、微妙なモノだった。その分適正者としての適応能力が高いのだろうが、現在起こっている問題を解決する力は恐らく無いだろう。
彼女は性格的に直球過ぎる。仮に以前絡んできた憲兵のような人間が相手だったら、確実に実力行使に出てしまう。その場合、どちらが勝利するかは火を見るより明らかだった。
久しぶりに見る彼女の真剣な眼差しは、睨まれているよりかは幾分かマシで、衛士はそれを見て、これみよがしに嘆息して見せた。
「どうせ行くなら一緒に行こうぜ」
衛士はそれだけ言って彼女に背を見せると、それから乱雑に置いたタクティカルベストと纏めたレッグホルスターを取り出し、拳銃だけを取り出す。今回に限っては暴発などは無縁だろうから掃除も調整も分解も整備も必要が無かった。
彼女は武器を所持している衛士に驚き眼を白黒させていたが――衛士はこの言い訳は向かいながら考えようと、そそくさと部屋を後にし彼女を促した。
「ははっ、オトモダチはちゃんと呼べたか? あぁ?」
緑味の強い黄緑の鮮やかな長い髪を持つ女性、エイダは漆黒の戦闘服を身に纏う男に肩を抱かれ、回される手でそのまま豊満な乳房を鷲掴みにされていた。
逃げ出そうと思えば逃げ出せる拘束であるものの、周囲にさらに二人の似たような装備の男が居る時点で下手な行動は得策ではない。この屈辱的な態勢のままが、皮肉にも一番安全であったのだ。最も、その安全がいつまで続くかは分からない。
そんなエイダの正面には、今にもそんな男たちに飛びかかりそうな、ロンゲの先を黄色に染める優男はその顔に怒りを満たして強く拳を握っていた。傍らには、その状況に怯えるまだ幼げな少年が膝を震わせてただ呆然としていた。
――ステッキと別れたのは正解だった。彼女が何を思って寮へ戻ると言ったのかは大体予想がついたし、それを止める理由が無かったが、それは不幸中の幸いというものだろう。彼女が居れば、状況は悪化の一途を辿るだけだ。
彼女の実力が足らないというわけではない。この男たちは耐時スーツを装備しているのだ。
決して脱げない代わりに超人的な肉体強化を可能とする試作型ではなく、バランスが良く汎用的で、最もポピュラーとされている発展型。故に、生身で武器も持たぬ彼女等が敵う筈も無いのだ。
一般兵ならまだしも、同じ適正者に、武術に秀でていない人間が太刀打ちできるわけが無い。
だからステッキが呼んでくるであろう教官か、あるいはバスターか、年長者のハンズを待つしかない。彼等が来れば、確実に状況は良い方向へと向かう。最低限、現状を脱することは可能なはずだ。
「あぁお前のご要望通りにだ。だからさっさとその手を離せよ、殺すぞクソったれェ!」
焦げ茶色のジャケットに、白のシャツ。ダメージジーンズ姿の彼は格好こそ何処にでも居る若者風だったが、訓練兵の中でもそれなりの実力を持つ有望株だ。しかしそれでも、戦力が彼たった一人ならば勝ち目は皆無であり――。
「調子に乗るな、クソ餓鬼が」
その刹那、その言葉を置き去りにして弾けるように飛び出た一人の男が瞬間的に七文太へと肉薄し、一閃。鋭い拳が眼にも留まらぬ速さで彼の腹部へ突き刺さり、強い衝撃が貫通する。彼は僅かに足を浮かび上がらせると、その身を無防備にし、次ぐ打撃が頬を捉えた。
衝撃。痛打。彼は意識をそぎ落とすような打撃によって弾かれるように大地へと叩き付けられ、大地に横たわるその顔を、硬い靴底で踏みつけられた。
周囲からは既に人が居らず、誰かが止めることも無い。これでは騒ぎを聞きつけた正義漢が来る方が早いのではないかと思われたが、呻く文太の声が、僅か一秒でも、一分でも、体感する時間を長くさせていた。
「そっちの坊主は?」
文太の頭を踏み潰さん勢いで体重をかける男は、それだけでは物足りぬ様に、怯える小動物のように小刻みに震える坂詰へと目を向ける。しかし彼はただ怯える風を見せるだけで、何かを口にすることは無かった、が――。
「いてっ」
不意に、そんな男の頭部に小石がぶつかる。
この広い通りには確かに小石は腐るほど存在するが、流石に突風などで巻き上がるようなものではないし、そもそもこの地下空間には風が無い。だから、それがぶつかると言う事は、誰かが故意に石を投げなければならない。
彼はそんな行動をされたことに、著しくプライドを踏み躙られたような気がして、その目に殺気を籠らせ、文太を踏みつける足に力を込めると――その正面に、一つの人影を捉えた。
「憲兵に絡まれたことはあったけど、流石に適正者は初めてだな。何かあったの?」
身体の輪郭を隠す事無く浮かび上がらせる黒いインナーの腕をまくり、迷彩柄のズボンを履く、今男たちの手中に居る彼等とは違う色気の無い姿。手ぶらで、体つきは鍛えられていて”サマになっている”が、それでも耐時スーツを着る彼等三人に敵うようには思えなかった。
教官か、あるいは他の仲間の助っ人を想定していたエイダにとっては彼の登場は予想外だった。しかしそれも、彼女にとっては不安材料に他ならず、安心することは出来ない。
乳房を掴む力が強まり、彼女は痛みに喘ぐ声を抑えて俯いた、瞬間。
「な、てめ――」
男の短い悲鳴が耳に届き、驚いて顔を上げると、其処には男の巨大な体躯が横たわる姿があった。
時衛士は先の男がそうしていたように彼の顔面を踏み躙り、その背後では痛みに目を潤す文太が起き上がり、それを坂詰が手助けをする。残る二人は、それでもその表情に余裕を浮かべていた。
「やっと出てきたか。ヒーローは遅れてやってくるとか、そう言う奴か?」
「オレはアンタが考えてるほど暇じゃないの。つかアンタら誰だよ」
「てめぇが気に喰わねぇ野郎共だよ、トキィ!」
足元から咆哮が響き、衛士は振り上げた足を力一杯叩き落す。すると間も無く地面に付きたてるように身体を支えていた両手は力なく伏せ、男の意識の消失を知らせた。
衛士はそれから嘆息して、理解できないと首を振る。彼には目の前の男たちの顔など覚えていないし、そもそも会った事すらないのかも知れないという高い可能性が、肉体を蝕む睡魔と合わさって凄まじいストレスとなっていた。
――確かに、突如として訓練兵の分際で任務に出て活躍する新参が現れれば嫉妬したくもなるだろう。それは仕方が無い事だ。それは理解できる。しょうがない。
だが、それを理由にして喧嘩を吹っかけるならわざわざこんなまどろっこしい事をしなくても良いのではないか。
「腕に自信があるなら、んな人質なんて必要ないんだがな」
任務に訓練。そのせいで喧嘩を売る機会が無いのはしょうがない。しかし幾らなんでも無関係の人間を利用するなんてのはどうしようもなく落ちぶれた人間のすることだ。これならば、正々堂々と因縁をつけてきた憲兵の方が随分と立派に見える。
そしてこんな人間が”選ばれし適正者”で、その為にあの憲兵の気持ちが分かってしまうのが、悲しいところだった。
「調子に乗るなよ、クソ餓鬼が!」
傍らに立つ一人が、衛士の前へと躍り出る。船坂とまでは行かぬものの、衛士が見上げねばならぬほどの高い背丈はそれ故に大きな威圧を生む。男はそれを利用するようにさらに両手を広げて衛士を圧迫するものの、彼は気負う様子も怯える風も無く、飽くまで冷静にその男の顔を見上げていた。
「一発打たせてやるよ。来い!」
腰を落とし、脇を締めて握った拳を腰に引き付ける。衛士は大地に踏ん張って完全な受ける体勢を見せると、彼の言葉に促される様にではなく、そういった挑発に我慢の限界が来たのか、男は大振りになる腕をそのままに振りぬき、風を切り裂く速度で、全体重を乗せる拳を衛士の顔面目掛けて振るう。
が、しかし。
その強烈なパンチは瞬く間に衛士の顔があった位置を通り過ぎ、その腕は軽やかな足捌きで背を向ける彼の肩に乗せられる。次いで鋭い足払いが容易に男の体勢を崩し、身体を宙に浮かばせる。よって肉体は衛士の背に覆い被さって――華麗な一本背負いが極まった。
鋭い衝撃が大地に打撃音を鳴らし、男は肺の中の空気全てを吐き出した。男は痛みを訴える暇も無く、追撃にと振り落とされる鮮烈な踵落としを水月に叩き込まれ、瞬時に意識を殺がれて脱力する。
「清々しいクズだ」
一仕事終えたように息を吐くと、背中にそんな一言が飛びかかった。
やれやれと首を振り、変わらず表情の無い顔で男へと向き直ってから薄く微笑んだ。
「アンタに言われちゃお墨付きだな」
衛士は既に背を向けた際に見られてしまった、ベルトに挟んだ拳銃を腰から抜いて提げる。男はまた「クズめ」と繰り返してから、指が埋もれるバストから手を離して、次いでエイダの首を絞める様に拘束した。
「発展型に人質。こっちは生身なんだから、このハンデくらい良いだろ」
「いいや、テメェは一方的に嬲られなきゃ気が済まねぇ」
「だけどアンタはエイダさんを殺す覚悟も無いんだろ? だって殺したら絶対的な死しか無いもんな。アンタが逃げられるような資質持ってたら正々堂々来る自信があるはずだしな」
「いたぶる事は出来るぜ?」
にたりと嫌らしい笑みが浮かぶ。それは冗談などではなく、個人的嗜好として実際にそれをしても良く、するつもりがあるという意味を孕んでいて――そうすると同時に、衛士の瞳に殺気が宿った。
「アンタらの敗因は全員で来なかったことだ」
走るわけでもなく、俊敏な機動を取るわけでもない。衛士はただ素直になるように男へ向かい歩き、そうしてやがて彼の正面、手が届く位置に立ち止まる。
そんな正直になる衛士に、これからどうして痛めつけてやろうと拳を握る男は――気を緩ませたが故に、衛士の目にも留まらぬ動作に対応が出来なかった。
素早く振り上げられた腕は男に何をするでもなく、ただ嫌らしく口角を吊り上げ薄く開く口の中に、無理矢理銃口を押し込んだだけだった。
噛み締められた歯を叩き、それでも銃を押し付ける。彼は首を反らし押し返すが、一人の人間を拘束したままの態勢で衛士の銃を振り払うのは酷く困難に思えた。さらに、引き金には既に指が掛かっている。それが弱装弾のペイント弾だとしても痛手は免れず、実弾だとすれば死は絶対的だった。
――引くわけが無い。男は自分に言い聞かせるように考えるが、その無機質な瞳が何を考えているかはわからなかった。
引くわけが無い。これはただの喧嘩だと、そう言い聞かせれば言い聞かせるほど、自信は、言葉の力強さは失われていく。
「拘束を解け。でなければ今すぐ殺す」
底冷えするような声に、衛士より巨大で頑健な肉体を持つ男は怯えたように力を緩ませ、エイダをすぐさま解放する。彼女はそうされても未だ恐怖が消せぬように、駆け足で衛士の背後へと退いて行った。
彼女が文太の下へと行く頃には、既にステッキも到着していた。膝に手を乗せ、乱れる呼吸を整える彼女は今来たというわけではなく、衛士が二人目の男と交戦した際に到着していたのだ。エイダは衛士がそれに気付いているのかは分からない。
もしかしたら、それを知っていてわざと大袈裟にやってみせているのかもしれないと考えてみるものの――それでも、この男たちに恐怖すら抱かず、相手の油断を利用して容易に打ち倒していくその力は確かなモノだと言えた。
ただの訓練兵が、同時期に訓練を開始した少年が、これほどまでに成長しているとは流石に思わなかった。
良くて同程度、それか少し強い程度だと思っていたのだが、これでは――八人の中で、一等の実力者ではないか。
圧倒的な力があるわけではない。誰もが舌を巻く戦略があるわけでもない。何かに秀でたものが無いのは隠していた実力に関わらず変わらないのだが、それでも彼は強いのだ。
エイダ自身、なぜ彼が相手を倒せるのか分からない。”相手の隙や力を上手く利用している”だけにしか見えなかったのだ。
「良くやった。やれば出来る男だと思ってたよ」
「~~~~ッ!?」
感情の無い声が空気を振動させる。男は瞼を痙攣させながら――情も無く、機械的にその指が引き金を絞るのを見て、声にならぬ悲鳴を上げた。
が、カチリと銃が僅かに動いた感覚だけが歯に伝わった。衝撃は無く、故に発砲は無かったと思考を放棄した頭がそれを知覚させる。
彼はそのまま肩透かしを食らったとへらへら笑いながら衛士を小突きたかったが、どうにもそういった理性は働かず、先の恐怖と、生きている安堵と、そして目の前の少年に対する激しい怒りによって表情をまともに作れず、だが凄まじい安心が膝から力を抜いた。
男は膝を崩し、膝立ちになる。しかしそれでも目線は、衛士の胸元辺りと言う高さにあった。
「はは、残念。仕事帰りで弾倉空っぽなんだよ」
衛士はそれからまるで抑えていた感情を解き放つようににかっと機嫌よく笑ってから、引き剥がした銃口の汚れを男の耐時スーツで拭い去る。それから弾倉を抜いて銃弾が存在しないことを男に見せびらかしてから、また大きく笑って男の肩を叩いた。
顔を耳元まで持って行き、顔はいつまでも笑顔のまま、囁きに似た冷徹な声が男の肝を震わせる。
「本当に残念だ」
衛士はその言葉を残して、背を向ける。空の弾倉を戻して腰のベルトに差すと、それから感嘆の声を上げる文太が喜びを表現するように衛士の背を叩いて抱擁した。
――恐らくこれで全てがバレた。もう言い訳は無理だ。単純な文太やステッキだけに目撃されたのならまだしも、聡明で冷静を売りにするエイダにまで見られたのだ。もう何を言っても、それが真実で無い限り信じてはもらえない。
酷く面倒だ。嫌な事になった。
もう少し痛めつけられながらも何とか勝利を掴むと言う演技は出来ただろうが、そんな痛い事はしたくは無いし、時間がかかりすぎだ。銃のハッタリも一度しか使えない上に体力も限られている現状では賭けの一つだし、どうせなら確実にやってしまいたかった。
そうしなければ、勘違いしたあの男たちが更なる大きな火の粉となって襲い掛かる可能性があるのだ。
それはどう考えても煩わしい。ならばいっその事今回そうしたように思い切り痛めつけてやれば、下手に手を出そうとする人間は居ないはずだ。そしてこの事が適正者の中でも伝わって、常識人が制してくれもするだろう。
だが――今後が思いやられる。
相手がバカだったから倒すのは簡単だったと言えば、そんなバカに捕まり倒された文太らの面子が潰れる。慣れていたからと言えば、任務に出ていたことを察せられてしまうだろう。ならばどうするか?
衛士は考え、頭を抱えて、大きく嘆息した。
もういい。なるようになれだ。
今は兎も角、そんな事に頭を悩ませるよりも惰眠を貪りたかったのだ。
――衛士はそうして訓練仲間にもてはやされながらも、それを一切耳に入れず寮へと戻る。
そんな彼が、今回の事で『格上の相手を打倒する』と言う課題をクリアしたと知ったのは翌日の夕方、目を覚ましてからの事であった。