最後の試練:かつての日常
「エージ、髪も背も伸びたよね」
寝台に腰掛けて足をぶらぶらと振り子時計よろしく揺らす彼女は、椅子に腰掛ける半裸の衛士を見て笑った。
――随分と変わってしまった弟を見て、これまで彼のことを忘れてしまっていたことを、自身が死んでしまったのにも関わらずなぜだか生きている、これらが全て現実に起こったことだとなぜだか信じられる事を疑問にしないでそのまま受け止めていた。
訳がわからない。そう言ってしまえば煮え切らない。恐らく残された時間はそう長くはない。彼とずっと、これまでのように一緒にいたいという望みは、多分叶わない。だから泣いている暇も、この奇妙すぎて頭が破裂しそうな事態を無理に理解しようとする必要はないのかも知れないと、彼女は考えていた。
今は幸せだ。
それだけで良いじゃないか。
「姉さんは縮んだな。その分しおらしく見えるよ」
「今までだってそうでしたーって、良いのよそんな話は。鬱陶しいでしょ、私が切ってあげよっか」
「はは、冗談だろ? 姉さん下手くそじゃんか」
衛士は今までそうしたように、それまでと変わらぬ対応を彼女にしてみせる。すると理恵は心底安心したように心からの笑顔を彼に向けて、それから自身の隣を手のひらで叩いて、そこに座るよう促した。
彼は冗談っぽく面倒そうに笑って、それから銃とバックパックをその場に落とし、また耐時スーツを脱ぎ捨てて彼女の傍らへと腰を落とした。包帯だらけの衛士を見た彼女は流石に驚きを隠せないように目を見開いて口元を押さえたが、それもつかの間で、彼が横に来た途端に理恵はその負傷具合もお構いなしに腕に手を回し抱きついて見せる。
その所作は、さながら恋人同士のようだった。
「エージ汗かいてる。臭いがするよ」
「なら離れろ。暑いんだよ……」
――この行為は性的な意味での愛情表現というわけではない。彼が持つその表情や僅かな動作から、その実は寂しさを孕んでいることを見抜いたから、彼女はそういったわざとらしいと思えるほどの積極的な接触方法で直接衛士を励ましていた。
それは、肉親が持つ愛情であったのだ。
「やだよ。今夜はずっとこうしてるの」
「今夜って、もう夜明けだぞ。明日、ってか今日は祭りの準備があるんじゃないのか?」
「いいの。準備カンケー無いし。エージはお祭り、参加できるの?」
甘い香りが鼻につく。女性特有の柔らかさが肉体を包み、その妙に高い体温が包帯越しに伝わってくる。
それから得ることが出来るのは、衛士がこの地上に出てから知ることのなかった安堵だった。
安心出来る。底なしに、心を緩めることが出来る。
アレほど彼女に自分の事を忘れてほしいと考えていたのにも関わらず、今ではこの時間が永遠に続けば良いと――そう考えてしまうほど、決意は揺らいでいた。
本当にこれから戦う必要があるのだろうか。
このまま実姉と共に幸せに、あの時までのように暮らしていてはいけないのだろうか。
ずっとこのままで居たい。姉と共に、時間を過ごしたい――。
そう考えれば考えるほど、胸の奥がちりちりと焦げるのを感じていた。
自分が依存する。そうすれば彼女の死がより現実的なものになる。
それだけはあってはならないことだった。
思いと現実が相反する。
どれほど顔を緩めて目を細めても、この二律背反が昂ぶらせる感情は無意識に衛士の闘士に火をつけていた。
そもそも、最初からこの世界に戻れるとは思っていなかった。だからこそ、衛士は戦いが終わるまで彼女を守りぬくことを決心しなおす。心を強く持てば、また彼女がこの世界で生を謳歌できる事を信じて――。
「エージ、疲れたでしょ。もう寝よう?」
「ん? あぁ、だけど布団がないし」
「何言ってんのよ、分かってるくせにー」
じっとりと蔑む目で衛士を流し見て、彼女はそそくさと自分だけ布団の中に潜り込み、そして隅のほうに身体を寄せる。彼女はソレから掛け布団を翻して、自身の隣へと衛士を誘った。
衛士は仕方がないと言う風に肩をすぼめて軽く笑うと、「失礼します」と冗談めかしく口にして理恵の隣に寝転んだ。それからまた、彼女は再び衛士に抱きついてきて――。
運命というものを、この世界の一体何割の人間が信じているだろうか。
時衛士は少なくともそんなものを信じるつもりはこれまでなかったし、これからも恐らくそうだろうと確信していた。だが今回ばかりは、例外だと思われた。
全ての出来事がまるで誘われるかのように起こる。自分がそこに行くことで誘発されるかのように、戦闘が巻き起こる。その全ては命に関わるものばかりだった。
たかが自分と関わっただけで無関係の人間が死ぬ。
そんなふざけた話がありえる筈がない――普通はそう啖呵を切れる。だが今の衛士はそう出来ない。彼は、無数にある可能性の、最も望まぬ一つの選択肢を何がなんでも選びたくないから、ただ口にするだけでソレに近づいてしまう気がするから、なるべくそれに触れぬようにしているからだ。
だが、衛士が動こうが居座ろうが、巻き込んだ一人の少女の人生が大きく変異してしまったことは覆しようのない事実だった。
そして恐らくそれを唯一回避できるであろう砂時計も破壊され、中の砂も”回収されてしまった”のか、あの路地にはもうなかった。あそこに残っていたのはガラス片ばかりで砂の一粒も無く、唯一残っているだろう目に入り込んだ砂も、既に綺麗サッパリ流れ落ちてしまっている。彼はそう考えて、ないものねだりはやめようと一つ嘆息する。
そんな衛士を見て、理恵は肌を焼く強い日差しの下で、暑苦しくとも衛士の腕に抱きついてきた。
「もう、今日は買い物に付き合ってくれるんでしょ?」
「だからこうして付いてきてるじゃん。何が不満なんだよ」
「私ってほら、美人だから結構モテるの。そんな姉を持って、一緒に出かけて幸せじゃない?」
調子はもう以前と同じか、それ以上に整っていて、それ故に衛士の苦手なタイプの人間に成長していた。いつでも強気で自分に自信がある、自立した女性。以前までは鬱陶しいと思いつつも愛おしかった彼女が、今では隠すまでもなく理恵の事が好きだった。
それまではそういったふれあいを即座に拒否をしていたのだが、今では受け入れ、さらに自分から引き寄せている。そこから、理恵自身もその気持に気づいて、積極的になっていたのだ。
時衛士の精悍な顔つきは実際の年齢より大人っぽく見せている。またシャツの上からでもわかる頑健な体つきが衛士をより男らしい魅力を振りまき、また傍らに居る理恵のひどく女性的な肢体やスタイル、その顔づくりが、周囲の人間の注目を大いに引いていた。
美男美女のカップルだと多くの人間は思うだろう。しかしどんな接し方であれ彼らは姉弟に代わりがなく、また両者の意識はそこから外れることは一切なかった。
「つーかさ、明日祭りなのに今日浴衣買うって遅くない?」
駅前の大型デパートに入って、衛士は愚痴るように口にする。と、彼女はむっと膨れたように頬を膨らまし、汗で蒸れる腕を引き剥がして衛士の背を力強く叩いた。
「口答えしないの。そもそも浴衣は持ってるし」
「……? じゃあなんで、また浴衣を買うつもりなんだ」
「浴衣を買うって言う体でエージと一緒に出かけたんでしょ。そもそもアンタ出不精だし」
――またいつ別れてしまう事になるかわからない。その上、また彼のことを、恐らく今度はまた衛士と出会っても思い出すことがないくらい完全に忘れてしまうだろう。
もし本当にそうなってしまうのならば、その瞬間までは衛士と笑って一緒に居たい。
それが、聡明にもおおよそを悟る彼女が望むささやかな願いだった。
「いや、痩せてるけど」
さらに筋肉質だ。
衛士がそう続けようとすると、そんなつまらない洒落は流石に許容範囲を超えてしまったのか、彼女は再び力いっぱい衛士を叩いてみせた。
軽い、まるで風が撫ぜたかのような衝撃と言えない攻撃。それは文字通り痛くも痒くもないが、それは彼女が手加減をしているというわけではなかった。
耐時スーツを着ずともか弱き女性の暴力は一切効かない。彼の肉体がソレほどまでに、あの無茶な訓練や実践を経て鍛え抜かれたということだった。
「肥満症じゃないわよ……ってほら、もう着いた」
デパートの一階、出入口からまっすぐ進んで、通路の両脇に並ぶ店の中から一つを選んだ理恵は、衛士の手を引いてその中へと入っていく。
そこは一般的な洋服店で、手前にはその季節にあった薄手の服がマネキンに着せられて展示され、中にはいくつもの水着がハンガーに掛かって並んでいる。また少し進めばワンピース類があって――目的の品は、店の奥の壁側に展示してあった。
彼女は既にその配置を把握していたのか足早に浴衣の前まで歩みを進め、無数に乱立するマネキンの前で立ち止まった。
「てか、洋服屋にも浴衣ってあるんだな」
「ある所に来たのよ。あ、これなんてどう?」
彼女が指を指すのは紺色の生地に明るい青のアジサイの花が点々と咲く、落ち着いた柄のものだった。
理恵がコレを着れば確かにサマにはなるだろう。肉親のひいき目で見ても何を着ても似合う彼女だが、元気な彼女にとってこの色は少しばかり落ち着きすぎているような気がする。
衛士がそういった思惟の果てに、端の方のマネキンを指で示そうとして――帯の下に下げられる値段を見て、その手は思わず流れるように口元を抑えることで落ち着いた。
「さ、三万……?」
てっきり五千円前後の商品ばかりだと思っていた衛士には、その価格は些か衝撃的すぎた。
そもそも衣服にはあまり金をかけない彼である。主に値段の安い大量生産品のみを購入していた衛士の平均的な買い物の出費は一式を購入しておおよそ五千円が良いところであった。
だから、一年に一度しか着ないであろう浴衣にそれほどの資金を使うのはやや理解の範疇外だったが、思い出作りのようなものだと思って許容してきた。それに、かなり値段が張るというものがこの世に存在していることだって勿論わかっていた。
だが、やはりそれを目の当たりにしてみると、少しばかり信じられない。現実に、この服をこの値段で購入する人間が果たして居るのだろうか。
「あぁ、これぇ?」
しかしそんな誤魔化しが彼女に通用するはずもない。理恵はそう言いながら衛士が指そうとした、黒地に真っ赤な彼岸花が咲き乱れる浴衣。いくらか不景気な気もしたが、相反的な風が似合うと思ったのだ。
しかし高校三年――否、順当に行けば現在は大学一年か、社会人一年目の彼女がただ夏だからとその服に手を出せるだけの金があろうはずもない。ように思われた。
「でも、ちょっと大人っぽすぎない? クラスの友達に見られたらちょっと恥ずかしい……かなって」
「……、ちょっとまって。クラスって?」
「一組だよ、三年一組。エージは三組だっけ、二年の」
「ま、まぁ……」
――おかしい。明らかに食い違っている。
記憶と現実が、絶対的に並行していない。
理解出来ない――。だが今正に、時衛士の脳裏には一つの可能性が閃いていた。そしてその思いついた推測通りでなければ、確かに一度落とした命が再びよみがえる筈がない。
つまりは、以下のとおりの事である。
――衛士がこの世界を辞した瞬間に時間はその時点から一年前に逆行し、さらに時衛士の残渣を掻き消した。世界すべてを塗り替えたというわけではない。いわば、時間逆行が終えた時点で一つの部品を失い、ソレが故に異なる一つの世界となった。衛士が居た場所と似て非なる世界と成り得たのだ。
その為に未来が変わる。
ごく狭い範囲だが、それは衛士にとっての全てであったものばかりだった。
何かの、リリスの何らかの考えがなければここまで細かいことをしないだろう。ならばその何かとは一体なんだろうか。
もしかすると、最初から時衛士がここに来てこうすることが予測――いや、予定されていたのかもしれない。
だとすれば、この命は、これまでの人生全ては同じように……。
考えると思わず背筋が凍りついた。
嫌な考えだ。この世の憎悪を寄せ集めたような、酷く邪悪で禍々しいものだと思えた。
「って、たかっ! いや、エージが出してくれるなら良いけどさ」
そんな複雑な心境へとめまぐるしく変化した衛士とは相対的に脳天気な彼女は、一銭も持ち歩いていない彼にそう告げる。衛士はまるで現実に引き戻されたようにはっと息を飲んで、それから軽く愛想笑いをしてみせた。
「あは、話聞いてなかったってこと?」
「だな。ごめん」
陳謝すると、「もう」と溜息をつく彼女は踵を返して再び浴衣へと向き直る。
その折に、ポケットに突っ込んだ通信端末が小刻みに震えて――衛士がそれを取り出す頃には着信は終えていた。画面を確認するとどうやら電話ではなく電子メールの着信だったらしく、それを開いてみてみると、『その通りだ』と、ただ一文だけが書かれていた。
「っ! バカにしやがって!」
やはり手のひらで踊らされていただけなのだ。
胸の奥が強く弾む。怒りで目の前が真っ赤に染まり、それから徐々に白んで何も見えなくなった。
噛み締める奥歯は、今にも砕けそうに軋み悲鳴をあげる。握りこぶしを作る指は手のひらに喰い込み、鮮血を滴らせていた。
――リリスという組織をすぐにでも潰そうと決意した。
しかしその強い感情や決心さえも利用されていた。これではただ組織の命令に頷き執行する己が無い機会のような人間と同じ、いや、そこに自覚がない分衛士のほうが哀れだろう。そしてそれがどうしようもなく覆し用のない現実ならば、尚更だった。
「くそ……、何が運命だ」
何がなんでも変えてやる。仮にソレが、運命を変えるという事自体が運命だとしても、そんな堂々巡りを気にしてやることなぞ二度としてやらない。
これがリリスの思惑ならば、高確率で近日中に不幸が起こる。
そんな事など、させるものか……されてたまるものか。
時衛士が再び我に帰ったのは、その直後に理恵によって力強く頬を引っぱたかれてからだった。
「ったく。エージはいっつも上の空」
全て理恵の奢りで食事を終えた衛士は、愚痴る彼女をなだめることすら出来ずに肩を落としていた。
確かに今日は申し訳ないことをしたと思う。彼は感情の暴走を経て、心の底から懺悔していた。
「あぁ、じゃあ今日はこれから――」
「へへ、じゃあ俺達と少し遊ぼうぜ!」
脇から体ごと割り込んできた声は、勢い良く理恵に肉薄するとそのまま腕を奪い強く握る。そうするのと同時に、衛士は背後から腕を首に回され、強く絞めつけられていた。
不意に襲いかかる彼らは総数で六人――衛士を縛る腕力からして、ただの不良だとか、そこいらの人種だということが容易に窺い知れた。
「え、エージ!」
目の前の男が理恵を強く抱き寄せる。その顔に見覚えはなく、動機は不明。恐らくは和気藹々とした雰囲気が気に食わなかったのか、あるいは彼女に目が眩んだかの理由だろう。が、その行為はあまりにも未熟すぎた。
まず仮にこの両者が一般人だとしても普通はしない。まして、デパートの人通りの多い通路のど真ん中でなどと愚かなことは。
「へぇ、遊んで欲しいのか」
衛士は冷めた声で口にすると、衛士を縛る男が反応するよりも早く腕を力づくで引き剥がし、思い切り後頭部で顔面を打撃した。
短いうめき声に似た悲鳴が漏れ、衛士は構わず前進する。理恵を掴む男に辿り着く前に二人が目の前に立ちはだかったが、殺し合いの際と同じような恐ろしげのある冷たい雰囲気に、彼らは思わずたじろいだ。
一気に加速するようにその隙を縫うようにして進み、瞬く間に男へと肉薄した衛士は――貫手のように鋭く手を伸ばして、その雑なモヒカン頭を力強く掴んで、理恵から引き剥がすように引き寄せた。
「い、いてぇ!」
「少し遊んでやるよ、感謝しな」
ひとまず挨拶がわりに腹を膝で蹴り上げて、それから近場のトイレへと、その六名の男達を引き連れて、衛士は二、三分だけ理恵の前から姿を消した。
それから彼はまた、お決まりのように引きつった笑顔で理恵に手を上げ合流する。まるで余裕を見せないのはわざとやっているのかとすら思える様子で、理恵も、やはり時間がないのだろうかと探ってしまうほどだった。
だが、そんな不器用な弟を見ると、変わっていないと安心することが出来て――同時に垣間見た、衛士が新たにした日常に不安や心配を隠すことが出来なかった。
だから彼女は、そんな表情を衛士に見せないが為にまた腕に抱きついて――日は早くも、傾き始める時間帯へと移行した。
明日は日時が早まった夏祭り。
理恵は、そして衛士は共にその日を楽しめるようにと願いながら帰路に着いた。