くたびれもうけ
近くの公園まで少女を連れ去ると、そこにはまた人影はおろか、人の気配すらなかった。先ほどと同様の、異常なまでの静けさはやはり違和感そのものだったが、衛士にはなぜそういったものを感じるのか判らなかった。
「……おにいちゃんは、英語できる?」
ブランコに座って両手を膝に行儀良く乗せる少女は、そうに訪ねてみる。特にこれといった拘束も強いるものも無い自由の身である彼女は、それでも、ただ衛士が目の前で立ちふさがるだけで殆どの行動を起こすことが出来なかった。まだ幼い少女でも、あらゆる面においてこの状況では敵わぬ事を理解できているのだ。
「あぁ、できる」
上目遣いを睨み返すと、彼女はおよそ将来の淑女らしからぬように肩をすぼめてから短く息を吐く。それから腰を上げて立ち上がると、拳を腰にやり、偉そうな態度をとってそれをせめてもの反抗としてみせた。
「日本語はめんどうっ!」
彼女は流暢な英語でそう喚いてから、立腹するように地団駄する。まるで生死を左右する敵を前にしていることを忘れているようだが、実際は、衛士が自分に対しては酷いことはしないと理解できているが故だろう。それを見抜かれていることを衛士はそこはかとなく知って、苦笑混じりに、慣れた英語で答えて見せた。
「その歳であんだけ話せりゃたいしたもんだ」
「ふふん。でもね、セツナ仕込みの体術でアナタを負かしたんだから! チョーシに乗んないでよね?」
曰く、彼女は六つになった頃からみっちりと戦闘術を習っているらしい。上達の程は先ほどの流れるような技を見れば随分と優秀なモノだと理解できたが、それでも衛士に通用しないのは単純に力の問題だった。
そう誇らしげに胸を張る彼女に、ついでとばかりに尋ねてみるのは、恐らくこの少女が持つ特殊能力の事だったが――。
「バカなの? 言うわけないじゃない」
などとごく常識的なまでの反論に、衛士は思わず唸って後退りした。
この手の敵、仮面の男――刹那もそうだろうが、仮に彼が能力者だった場合、この目の前の少女同様に能力は最後の手段や切り札に使うだろう。そしてそれを自身の目論見どおりに相手へ当てるには、極力情報を与えない事が重要である。些細な行動からも見抜かれてしまう可能性があるために、刹那はこの少女に近接格闘という全く別種の攻撃手段をくれてやったのだろう。
将来を考えれば、英才教育と言うレベルだろう。外見から察する年齢に対しての口調はやや大人っぽく、知能も然程低いとはいえない。学校に通っているのかわからぬが、勉学の面でもまともに育てられているのだろう。
できれば――オレも、どうせなら。
そこまで考えて、なんて自分は愚かなのだろうと、言葉を飲み込んだ。今更考えても仕方が無いことだ。その上彼女等は敵である。何に対しても情け容赦ない、それでもリリスより生易しい連中だ。そんな組織を前にして心を緩めてしまえば――どうなるか、自分でも予想し得ない結果が待ち受けているだろう。
「ってゆーか、アナタ臭い。とても汗くさい」
日本語ではとてもこれほど心を傷つけられる鮮烈な言葉は吐けなかっただろう。彼女は何気なくそういった台詞を投げつけると、わざとらしく鼻をつまんで身を退いた。衛士はその顔を強張らせながら首もとのジッパーを下ろして、耐時スーツを腹まで脱いで上半身を下着姿にする。と、耐時スーツに染み込んでいたすっぱい匂いは解き放たれるようにして、今まで感じていなかったその汚臭を広げていた。
確かにこの地上に来てから血に汗に塗れてきたというのに、風呂は勿論シャワーすら浴びていないのだ。臭いを蓄積しても仕方が無いだろうが、それでもこんなにはっきり言われてしまえば、それが例え悪意の無い無邪気な子供の言葉だとしても、いや、むしろそれ故なのかもしれない。とてもショックだった。
「てゆーかお前いくつだよ」
「女の子に歳を聞くのって失礼だと思うけど」
「オレは十七」
「わたしは十二」
流れに乗せられて知った彼女の歳に、衛士は脱力するように肩を落とす。
わずか五つの歳の差などは、兄妹がごとしではないか。最も、いずれ六つ離れることにはなるが――そんな仔細点などはどうでもいい。いや、この妹のような歳の娘にそう言われたのだから、ショックは三割り増しになるだろう。
そんな頃になると――時衛士の心は、非常識なまでに弛緩しきっていて、警戒はいつしか解けていた。
何がきっかけだったのか。
後から思い返せば、やはり幼い少女の存在がそうだったのかもしれない。そんな風貌だからこそ殺気も湧かず、戦闘意欲は皆無に落ちた。また彼女自身の戦闘能力も自分に害為すものでは無いと理解していたからこそ、気を許してしまったのだろう。
衛士はのほほんと微笑みながら、水洗いした耐時スーツをベンチに干し、行水した身体を太陽光で乾かしながら、悪意の無い瞳で見つめる少女へと問いかけた。
そういえば、まだ名前を聞いていなかったな、と。
「わたしの名前?」
自分を指差し、問いかけを繰り返す。衛士は小さく頷くと、その指を下唇の下に押し付けてから、うーっと唸るように、何かを考えるような所作を見せた。
――空はすっかり暗くなっていて、セミの鳴き声は昼に比べると酷く静かになっていた。津々と闇が降り注いで肉体に染み込んでくるようで、ここに来たばかりの時の興奮は気がつくと冷めていた。
夜の帳が落ちた世界。その中の小さな公園、彼等が居るベンチは、月のように明るい街灯が彼等を照らしていた。見ようによってはまるで仲の良い兄妹にも見えただろうが、やはり人はそこに寄り付かず、さらにその公園を通りかかることも無い。周囲に人が寄ることが一切無いまま、時が過ぎていた。
衛士が危機に気付ける機会は、それが最後だったのかもしれない――。
彼女はそれから何かを思いついたように、あ、と素っ頓狂な声を上げて立ち上がると、そのまま数歩分前に進んで衛士に背を向けたかと思うと直ぐに立ち止まり、その膝丈のスカートを翻すよう振り向いた。
「時間は――七時。あれから二時間……具合は良好ってとこ」
「……? おまえ、なにを……っ!」
衛士は言葉を最後まで続ける事無く、その身を思わず立ち上がらせていた。
下着一枚に、上半身は包帯にまみれた姿。筋骨はとても年齢には相応しくないほど鍛え抜かれていて、その訓練期間とは辻褄の合わぬ実力を確かに見るだけで認識させていた。が――それを見て相手が畏怖するかどうかは、まったく別の話である。
街灯に照らされる衛士は、いかにも少女っぽい悪戯な笑みを浮かべるその傍らにある闇、否、人の形をとる影に眼を奪われていた。
闇を呑み同化する外套を羽織り、だがそれを翻す身体前面から垂れる手は、その両手に対になるような拳銃を携えているのを伺わせる、というか、見せびらかす。暑苦しいような格好にみえるも、マントの下は軽装なのか、腕は肩までがその肌をむき出しにしていた。
「ミリィ、首尾は?」
気軽な声は、その手に握る一挺手渡すついでとばかりに問いかける。ミリィと呼ばれた少女は楽しげに長い髪を弾ませながら自動拳銃を受け取ると、そのままシンプルな形の黒塗りの拳銃――グロック17L――のスライドを引いて、トリガーガードに指をかけながら口を動かした。
「上々。姿と気配は完全に知覚らない……そうしたから。リョウコの砲撃みたいな攻撃ならまだしも、ね」
「良くやったミリィ。後ろで見てて良い」
「エイジ・トキを殺すの?」
「殺すわけじゃない。話し合いをしてみて、それに応じてくれなければ……だ。ミリィに交渉を頼みたかったが、どうやら彼は、君が好きらしい」
「なら良いんじゃないの? すぐ仲間だよ?」
「君を好きだから来たのに、君を取り上げたら、彼は暴れてしまうだろう? 理想は彼が我々に興味を持って、自発的に歩み寄ってくれることさ」
肩をすくめて男は苦笑し、無理かな、と優男じみた弱音を漏らす。そんな彼の背を叩くミリィは、おそらく自分の出る幕は無いだろうと察したのか、空いた手に安全装置を上げた拳銃を捻じ込みながら彼の前に回りこんだ。
「がんばって!」
「はは、ありがと。それじゃ――いっちょ、やってみますか」
そうやってまだ若いらしい男が意気込む頃――しかし、時衞士にはそのやりとりをまともに理解することはできない。
会話が聞こえる。彼女が不意に”空間から拳銃を抜いた”のも見えた。だが衞士にはその傍らの影を、空間の揺らぎ、あるいは歪みとしか認識できない。
あれが彼女の能力なのか。
だとすれば、亜空間を作り出す、あるいは空間を裂いて別の場所とつなげる能力なのだろうか。
前者なればこの世ならざるモノを召喚するのだろうか。後者であれば、またそこから助っ人を登場させるのだろうか――。
この推測で行けば能力は明らかに後者の効果を持つことになる。だが衞士はそれをそうだと納得させるつもりなどさらさらなかった。
まだ可能性がある。
目の前の空間の歪みは、正確に言えば人の影に無理矢理もやをかけぼかしたように映っているのだ。
この宵の中、街灯の下に――いや、日中だろうと一度見失ってしまえばそれを再認識させる事はできない。
つまり、あの影が動けば、彼女の能力はある特定の何かを対象に知覚させないようにするものだと証明できる。
が――それがわかったところで、勝てるか否かの話は別問題なのだが。
「君に一つ訊きたい事があるのだけれど」
声はすぐ後ろから聞こえ、同時に衛士は、その首筋に冷たい何かが触れるのを知覚する。
「てっ――」
振り向くよりも早く耳の直ぐ近くで劈く発砲音が、全ての音を掻き消した。衝撃が首を側面から打撃して、焼け付くような熱さを覚えさせる。弾丸はその首の表面を抉るようにして過ぎ去っていき、また、その余韻を残しつつも、衛士は次いで首に鋭く巻きつく糸の存在を理解した。
きりきりと音を立てるように幾重もの輪を作って首の肉に食い込むそれは、ワイヤーかなにかの頑丈さを思わせるも、その細さはピアノ線のようなものだった。いつのまに巻かれたかも分からぬソレに衛士が食い縛った歯を剥いて両手に拳を握ると、声は再び、耳元で囁かれた。
「手ぶら相手に銃は卑怯だと思ってね。いくらかスマートな手段に出させてもらうよ」
威圧によって……というわけでは無いモノの、声が出ない。深く食いみ肉を裂きはじめるその糸が、物理的に声帯を押しつぶさんとしているからだった。呼吸さえも途端に苦しくなって、衛士はその額から流れる汗を垂らしながら、自身の状況をしっかりと理解させるための間を置かれてから、言葉を聴いた。
「君はこちらに来るつもりはないかい? 歓迎するけど……」
唐突な台詞は、だがしかし、現状では冗談かなにかとしか受け取れない。さらにこの状況での問いかけは、まともな精神状態で聞くことが出来ないために、衛士は彼がふざけているものとばかりに思っていた。だから、絞り出すような声は、間髪おかずに背後の、自身の生死を握る男に罵倒を撒き散らしていたのだ。
「ざっ……けんな、てめぇ……! 舐めた、事を!」
「ひっどいな。君ならまともに聴くと思ったんだが――まぁいいや。今回は僕個人としての質問が本題みたいなものだし」
「は、任務放棄、かぁ? 何がしてぇんだ、てめぇは……、っ!」
また戯言を吐き散らせば、首を絞める糸に、力が加わる。燃えるような熱い痛みが喉を絞め、さらに首を切り落とさんとする鋭さに衛士は思わず口をつぐんだ。
「君たちこそ一体全体何がしたいんだ? 世界市民気取りの諸君は!」
まだ発砲音の余韻が残る鼓膜に、より強い振動がさらに鼓膜を震わせる。つんと響くそのノイズじみた声は音を割らし、ただでさえ要領を得ない言葉の意味を、さらにわけのわからぬものにしていた。
「あぁそうだ。君たちリリスという組織は世界に根付き始めている。指定した要望さえ聞いてくれれば、その絶大な軍事力と、馬鹿みたいに膨大な資金でなんでもできるんだからね。誰もが欲しがる、その手中に収めたいと思っているだろうね。助けられた国はいざしらず、関わっていない国を探すなら、そっちを数えたほうが早いくらいだ」
「て……な、ぜ」
なぜにそれを、その情報をそこまで知っているのか。リリスとて一応は秘密結社だ。全世界に、彼の言うとおりに根付いていたとして、それをそこまで認識する、その情報を手に出来るのはある程度の権力を持たねばならぬだろう。
そこまで考えて、衛士は自分の思考の間違いに気がついた。
そうだ。彼等の組織は、リリスとは違う。ならば情報は平等に、目の前の、得意気な顔で踏ん反り返るミリィと呼ばれた少女にさえも行き渡っているのかもしれない。しかし違うのかもしれないが、兎も角、そういった所に疑問を持つこと自体がまるで的外れ。今はまず、彼の吐き出す情報から真実を得て、少しでも自分のものにする事がまだ賢いやり方だ。
そう考えている最中も、彼の言葉は途切れる事無くつらつらと続いていた。
「おかげでどこぞの発展途上国の人口は半分ほどに減ったし、人口破裂もなくなった。今まであった紛争も驚くほどになくなってきてるし……何もしらない一般人が見れば、そりゃ世界が平和になってきているんだろうね」
糸の力が弱まる。ここまでで何か意見を紡ぎだせ、という意味だろうか。
衛士はお陰で広がる気管に大量の空気を流し込んで、幾度かの大きな深呼吸の後に、一つ咳払いをしてから口を開いた。
「リリスのおかげ。つまりお前は、リリスが世界を支配しようとしてるって? 何の為に」
実質、時間を操作できる技術を持つのだ。わざわざ世界に根を回さなくとも、それが可能となっているのではないか? いや、正確にはそれが実現しているのではないか。
衛士が尋ねれば、糸は再び首を締め付けた。
「僕はそれを訊いたんだよ。特異点の君にね」
「と、特異……点だぁ? 誰が……」
「君だよ。そうじゃなければ、君が無意味にこの街に滞在している理由が分からない。偵察に来たのだろう? 僕たちを」
――そもそもこの男は、どこまでリリスという組織について知っているのだろうか。ここまではいくらなんでも情報漏洩があるとみてまず間違はないが、それは誰からだろうか。今、まだ組織に在席する人間……はさすがにないだろう。
ならば一番可能性がある人間としては、やはり刹那という仮面の男。彼の装備している戦闘服が衛士の持つ耐時スーツと同様のものだと考えれば、あの身体能力にも説明がつく。どうやってリリスから逃げ出したのかは甚だ疑問だが、それでも、そういった仮定を導き出せぬよりはマシだった。
「へ、オレが特異点、だ? あぁ、そうか。だからてめぇらは、オレを殺そうとしてきたのか」
「以前はね。今では君の有用性を見て、誘いに来た。僕は断然反対なのだけど」
「わたしは賛成ー!」
呑気そうに手を挙げ身体全体で意見を出す少女を見て、男はまるで打って変わったように、思わず苦笑する。
「どのみちだ。オレは知らないし、知っていたところで――個人的な問題だが――テメェが大の大嫌いだから教えてやる筋合いは無い。それと、ここで死ぬつもりも、断じて無いっ!」
握った拳をそのまま背後へと投げる。と、それが彼にとって思いもよらぬものだったのか――瞬時に気配は遠のき、同時に首に巻きつく糸の存在は消えうせた。その直後に身体には生温い液体が降りかかるが、彼にはそれを気にしている余裕などは無い。
衛士は慌てて振り向きながらベンチへと駆け出し、脱げば途端に動かなくなる右腕に耐時スーツの袖に通し、それから拳銃を引き抜いた。
しかし想定していたものとは違い、先ほどと同様に空間の揺らぎは少女の傍らにあって、「ったく」と嘆息じみた声が漏れたのを、彼は聞いた。
「君には見えているのだね。僕の姿が……さすがに、鮮明に、というのは勘弁してもらいたいのだけど」
「殺そうとしたり、逃げたり。オレにはテメェの方がわけわかんねぇよ」
「確かに今なら君を殺せるかもね。だけど、今回の仕事はそうじゃない。今回の結果を元に、また仕事は違って来るんだよ。現場判断の君たちの所とは違って、一つのことにも細かいのさ」
「なら巣に戻ったら伝えておけ。オレを殺すなら――そうだな。能力者を束にして寄越せ、ってな」
「あまり見損なわないで欲しいな。怪我人に多勢で挑むほど、卑怯じゃないさ。臆病では、あるかもしれないけれどね」
あくまで穏やかな口調で返す男は、それからミリィの背後へと身を隠す。その気配が如実に退いて行くのを衛士は感じて、それから胸を撫で下ろし、ベンチに身体を預けた。腕を通した耐時スーツは未だ水を含んでぐしょぐしょで、それでいて汗がまだ抜けていないからこそ、妙なまでの汚臭にそれは変化していて、酸っぱい匂いが鼻腔に突き刺さった。
ミリィはそれから、まるで友達と分かれるように大きく手を振ってから男の背を追っていって――衛士は酷く疲れきった様に、ベンチの硬い板の上で横になった。
もはや、考える力も湧かない。全身が鉛になってしまったかのように重くなってしまったのを彼は感じていた。
時衛士はそれから間も無くして眠りに落ち、試練の三日目を終わらせた。