余暇
蒸し暑い夏の夜は、何事も無く終わりを告げどこまでも平和な朝を迎えた。
本当に何事も無かったのか、深夜にあった五分のトイレ休憩の際に何かあったのではないかと周囲に眼を配ってみるも、やはり異質な気配は無く、閑静な住宅地は平和そのものだった。
霞が掛かる空を見上げて衛士はそう思った。平和じゃないのは自分の身の回りだけだ、と。
この調子で何も起こらなければ良い――そう考える事さえも建前で、本音ではさっさと、何人でも良いから手早くこの試練を終わらせたいと考えていた。くだらない、意味も無い戦闘などは価値が無い。
吐き捨てようとして、衛士は新聞配達のバイクの駆動音が近づくのを聞いて、身を退いた。そんな彼は今、とある家屋の屋根の上に座り込んでいた。
夜はあれほど脱ぎたいと思っていた耐時スーツも、朝になると不思議と肌寒さを感じていた。最も冷気自体は露出される顔でしか感じられず、身体と顔との温度差に額には汗が滲んでいるのだが、肌に触れる気温の低さは確かに冷たいと分かるものだった。
衛士は目の前の”自宅”を見下ろしほっと息を吐きながら、バイクがポストに新聞を突っ込んで過ぎていくのを見送った。エンジン音は徐々に遠くなっていって、やがて失せる頃になると、空の霞は晴れ始めていた。
監視するにはうってつけの場所だった其処は、流石に日が差し始める時間帯まで居るわけには行かなかった。まず何よりも、その日光が強くなって肌を焼くだろう。そうすれば集中力が途切れ、まともに見えるものも見えなくなってしまう。次いで、次の刺客が来た際に、この場所に居ては狙い撃ち状態だ。下手な身動きが出来ない分行動は限られて、それ故に相手も攻撃がしやすいというものだ。
仮に今度の敵が狙撃手だったりすれば、危機は何の躊躇も無く衛士の命を掠め取る。
最も、これまでを考えれば、今日に限って突然そういった敵が出てくるという可能性は極めて低いのだろうが。
ともあれ。
「流石に疲れたな。強化装備も身体能力を向上させるだけだし……」
飲食もせず、またかれこれ昨日の早朝から一睡もせず、緊張したまま気を張り巡らせている。これで疲れを知らねば、肉体は限界を超えているという事になるだろう。感覚が麻痺しているという事だ。
空腹に関しては、随分とまともな食事をしていない為にあまり感じなくなっているし、食べ物自体も、胃が受け付けなくなってきている。慣らせばまた元に戻るだろうが――それでも、やはり水だけは飲んだほうが良いと思えた。
口の中がからからになって、立ち上がれば眩暈が、じっとしていれば俄かな頭痛が起こるのは水分不足が原因だというのは明らかだった。
また、今日も随分と暑くなりそうな空模様である。このままでは熱中症にもなってしまいそうだった。
ふぅ、と凝り固まる筋肉を解すように肩をまわして、乾いた眼を潤す為に眼を暫く閉じてから、そっと眼を開ける。衛士はまた息を大きく息をひとつ吐いてから鉛のような重さを持つ腰を持ち上げて、両手を組んで空へと伸ばし、俄かな快楽に心地よい呻き声を漏らしてから、脱力と同時に息を吐く。肉体はそれだけで、固定されていた座位から解放され、自由と感覚を取り戻す。
垂らした両手の、その手で拳をつくり、また力を緩める。それらを繰り返してから、衛士は口をすぼめて細く息を吐いて――予備動作も無く、その屋根から飛び降りた。
試練三日目の朝はやはり特にこれといった襲来は無いままに昼へと移行する。さすがにフェイカーの意識が覚醒した頃だろうと適当に考えながら、衛士は近場の公園で水をたらふく飲んで大きく息を吐いた。げっぷをすればそのまま水が逆流してしまいそうなほど満たされる胃は、焼きつくような痛みを訴えている。
空腹の為だろう。衛士はそれでも張らずに引き締まる腹部を耐時スーツの上からさすりながら、退屈そうに生あくびをしながら道を引き返す。小さな公園を出て五分ほど歩けば、また深夜から待機していた場所まで戻る事が出来た――が、やはり異変は無い。
今日はもう試練は無いのだろうか。なければないで連絡の一つも寄越してくれれば、その分を休息にまわせるのに。冗談っぽく考えてみても、濁りはじめる視界が鮮明になるわけでもない。
衛士は一方向になりつつ思考で、鋭い熱射を全身に受けて汗を流しながら閑静な住宅地のとある一軒の家の前に立ち尽くすと――深く屈んで、太腿に込めた力を全力で解放。すると身体はすぐさま空へと吸い込まれるように高く飛びあがって、衛士は再び、朝までいた屋根の上へと戻っていった。
「くぅ、眠気って辛いなァ……」
ただでさえ、平和な人生を歩んでいた時には人一倍惰眠を貪っていたのだ。地下空間にて生活習慣を改善されても――今回の眠気はそれとは関係ないだろうが――根付いた習慣は、この世界の空気に触れて目覚め始めていた。最も、それは本当に些細なモノではあったのだが。
衛士はいよいよ全身に重りでも乗せられたかのように鈍重になる怠さに耐え切れなくなって、横になる。大の字になって空を仰ぐと日差しが強く、衛士は腕を額に乗せて日光を遮る。体は汗まみれで酷く深いだったが、ただ楽な体勢になっただけで酷く、恐ろしいまでに心地よく感じられて、衛士の意識はほんの数秒の内に深淵へと飲み込まれてしまった。
――やはり感覚的にはその直後。
見た夢は、とても心臓によいとは思えない落下する夢だった。
身体が途轍もない力に引っ張り込まれ、奇妙な浮遊感と共に、肉体の中心に鋭い電撃じみた緊張が走る。反射的に太腿がぴくりと弾んで筋肉が引き締まり、それに応じるように全身が硬直して――。
「んなぁっ?!」
落下した夢がその実、夢ではないのだと理解したのは、衛士が地面に叩きつけられる寸前のことだった。
およそ八メートルの高さから転げ落ちた衛士は覚悟をする間も無く、またそういった思考に及ぶ暇も無く、首を曲げて後頭部を打たぬ様にすることを精一杯に――その硬く、また熱く熱された色気無い灰色の路面に叩き付けられる。
強い衝撃が背を叩き、自然と肺から空気が抜ける。僅かな間喉が詰まるような感覚に、呼吸困難に陥って、酷く高鳴る胸を押さえながら転がりうつ伏せになり、膝を立てて四つんばいになる。それから激しく咳き込んで、それでも掠り傷一つ無いらしい自身の肉体、否、耐時スーツの強固性を再認識した。
ただ筋肉を強張らせただけだ。本来ならば、頭を打ち付けなくとも大怪我にはなっていたであろう高さと無防備さである。それを、ここまで――とは。いやはや、こういった技術面では流石に頭が下がる。
衛士は近くの、住宅の敷地と公道とを遮る壁を背にして座り込んでから、大きく息を吐いた。
気がつくと、空は俄かな紅さを帯びている。時刻は十七時過ぎと言ったところだろうか。こんな時間帯だというのに人通りは全くのゼロ、皆無であり、それ故に衛士の落下の目撃者は居なかった。そんなものを不自然だなぁ――と、どこか嘯くように考えてから、それが確かに不自然であることを理解する。
今日は日曜日だ。学生でなければ明日は普通に仕事がある社会人が殆どのはず。ならば、どこかに出かけた帰り、その帰宅する時間帯であって然るべきだ。最も出かけずに居たというのならばそれまでだが、それならば今の衝撃音に気付かぬはずが無い。仮に留守にしているのだとして――ここら一帯がこの時間帯に家を空けているのは、些か出来た話すぎではないだろうか。
ここはまず疑うべきであり、衛士の呆けた頭でも、そうする事があたりまえだと理解できた。
まさか――。
「敵、か」
呟く。その瞬間に、衛士の視界には一つの人影が入り込んでいた。
眼をむけ、それでもその影を捉えきれずに顔を上げる。左手側の道路の真ん中、落ち始める太陽を背に、前方に影を伸ばして立ち尽くすその小さな体躯を、衛士はみつめていた。
膝下までのフリルの付いたワンピースの上にエプロンを付けるのような服装は、いわゆるロリータ・ファッションと言うものだった。足はタイツかニーソックスでも履いているのか白く、またエナメルのような照りを見せるブーツはベージュ色で、やや高めのヒールがあった。
全体的な姿の感想とすれば、眼に痛い鮮やかな桃色が特徴的な、まだ幼さの残る少女――というものだろう。
「どうしたの? ぐあい、悪いの?」
舌足らずな口調は、どこかわざとらしすぎるような風を持っていた。
彼女はその、腰まである長い金髪を、そのパーマのかかった毛先をゆらゆらと楽しげに揺らしながら、両手を後ろで組んで駆け寄ってくる。衛士はそんな少女に、嘆息しながら立ち上がって、それから目線の高さをあわせる事無く、胸より小さい背丈の女の子を見下ろした。
「とても悪いぞ」
覗きこむように、されど顔を上げずに上目遣いだけで衛士を見つめる。特徴的な大きなブラウンの瞳は潤って輝き、そういった性的嗜好の持ち主ならば一撃で心を射抜いて見せるであろう表情を作る。
「あたま?」
「殺すぞくそガキ」
だが未だ未成年である彼には、まだ十も離れていないだろう少女の事をガキ呼ばわりできる立場ではない。
しかし――こんな幼い少女ですら”完全適正”を持っているのだとすれば、自分が今敵対している組織は、そういった面では進んでいるのかもしれない。適正者などの、いわゆる能力者の質では明かに向こうが上だ。そもそも、あれほど完璧に能力を使用できる連中を付焼刃などと呼ぶのは、苦戦を強いられたのだから失礼な気がしてくる。
もう少し、格好良い呼び方でもしてやりたいものだが……特に思いつかず、衛士は渋ったような表情で頭を掻くと、にっと笑む少女は同時に後ろで組んだ手を前に回していた。
「じゃあもっと悪くしてあげる!」
「そいっ」
彼女が手にするのはどこかで見たような出刃包丁。能力者の質は高くとも支給品はまるで銀行強盗か計画殺人などの庶民的なレベルだと見て取れて、どこか安心できる。
衛士は大きく振りかぶる彼女の両手首を掴むと、素早く軽く力を込める。すると、
「いっ」
と可愛らしい小さな悲鳴を上げたあと、そのまま手から力を零し、握った包丁を滑り落とす。それは甲高い金属音を鳴らして二度ほど弾むと、その刃で日光を反射しながら路上に落ち着き――次ぐ蹴り技は、狡猾に衛士の金的を狙っていた。
しかしそれも、股関節に力を込めるだけで、攻撃された感覚はあれども一切の衝撃は無く。
「おい少女……。なんか、少年って言うのはわかるけど、少女って呼ぶのは違和感あるよな」
「やーだっ! はなして!」
腕を大きく振り、また地団太を踏むようにして体重をかける。だがその細い肢体には力が無く、ただでさえ敵わぬ男の力に耐時スーツの筋力が加わり、その拘束は彼女にとって絶対的なものになる。
だが、何も知らぬ者が見れば立派な誘拐犯だ。誘拐犯が立派なわけではなく、どこからどうみても誘拐犯だという意味である。
「まぁそうしたいのは山々だけどな」
無論、子供に手を出す趣味などは毛頭無い。殺すつもりで挑んでくる敵ならば例え女であろうとも容赦はしないが、このような幼い子になどはとても手を上げる事は出来ないのだ。
「とりあえず目的だ。オレを殺しに来たんだろうが、誰に言われたんだ?」
「いーわーなーいっ! いっちゃだめなの!」
甲高い喚き声が、音が無い閑静な住宅地に響き渡る。まるで超音波のような声に衛士は耳を痛く、思わず顔をしかめる。と、少女は跳び上がり、その足裏を衛士に向けて――慣れたようなとび蹴りが至近距離で鳩尾を見事に仕留める。
それでもダメージは微塵も無く肉体を叩くが、それよりも予想外の行動に驚きを禁じえない彼は思わず手を離していた。
「ちょ、逃げん――」
「ないよっ!」
追うように手を伸ばすが、既に姿は無い。かと思いきや、言葉は半ばで遮られ、腰を折る深い前屈姿勢の傍らで台詞は力強い意思を持って紡がれた。
少女は手を組み振り上げると、衛士が彼女の姿を見る間もおかずに振り下ろし、鉄槌のように叩き込まれるソレは狡く頚椎を狙った。
非力な腕力でも、両手をあわせて脆弱な部分を狙えばそれなりのダメージとなる。それが彼女の戦い方なのだろう。そしてそれはとても正しかった。
――視界が大きく揺らぎ、ぼやける。一瞬だけ指先が痺れて、
「のぉいっ!」
打ち上げる膝が衛士の側頭部を穿つ。また衝撃が脳を揺さぶり、衛士は平衡のままならぬ体勢のまま不安定な足取りで幾度かたたらを踏み、やがて耐え切れなくなって崩れるように倒れてしまう。
胸をうってうつ伏せになる衛士は激しく咳き込んで、それでも容赦の無い少女は彼の背に乗って、伸びて長くなる髪を掴んで顔を引き上げた。
「ばーかばーか!」
首をへし折らんとする勢いで頭を反らせたかと思うと、全体重を乗せた腕で後頭部を押して地面に叩き付ける。硬い路面を叩く額はそのまま衝撃を頭の中に浸透させて、また強く撃たれる鼻はその奥でつんと染みるような痛みを覚えさせた。
いささか、侮りすぎていたのかもしれない。
衛士はその気になればいつでも引き剥がせる少女を背に乗せたまま、また思ったほどでもないダメージを幾度も幾度も顔面を叩き付ける事によって備蓄しながら、少しばかり自分を戒めることにした。
「もっとバカに……っ!」
してあげる、と言葉は続かなかった。それはいい加減、無邪気な邪悪さに我慢なら無くなった衛士が上体を起こして乱暴に彼女を振り落としたからであり――また噴き出た鼻血に濡れる醜い顔に、恐怖を覚えたからであった。
悲鳴すらなく、絶句する。腰を抜かして両手で身体を支える少女は、それから暫く、睨み続ける衛士を前にして硬直していた。
そんな状態が解けたのは――帰宅した住人が、その現場を目撃して警察を呼んだことがきっかけになる。