疲弊
まさか試練の一番最初の戦闘で、これほどまで情けない姿を見せられるとは思わなかった。
かつての親の仇だというのに、戦いは飽くまで単調で、それでいて苦難を強いられた。最も、戦闘の序盤よりはいくらかの成長を見せる時衛士だったが、あのような勝ち方は弱者のすることだった。
たかだか水素を操る、完全適性を持つ付焼刃を相手に胸に深い×印の傷を作り、全身を打撲や捻挫まみれにしつつもなんとか勝利を掴む。聞いていた話ならば、あの程度の人間が相手ならここまで酷くなる筈ではなかったのに――。
幾度目かになる溜息をついて、視線を落とした。暑苦しいヘルメットとマスクは脇に置いて、ベンチに座っているフェイカーは、膝の上で苦悶の表情を浮かべる衛士を見て、思わず苦笑を浮かべた。
それでも彼が生きているのは奇跡的だった。
傷は深くも内臓は無傷で、止血と皮膚の縫合手術である程度の治癒は可能となった。輸血する為の血液が無いために、特殊な造血剤と痛み止めを彼に飲ませる現在は、ともかく何よりもその回復を見守ることしか出来ない。
衛士の耐時スーツは綺麗に洗われてベンチの背もたれに干され、今では腕や腹に包帯を巻き、フェイカーが買ってきたジャージのズボンを穿く姿だが――戦闘以降、彼の意識は戻っていない。
人気の無い公園の、大きく葉を広げる広葉樹の下。木漏れ日は風が吹くたびに地面に映す模様を変え、視覚的な退屈を与えない。また空は既に紅く燃える日が傾く時間帯であるが故に、一切の人影を作らなかった。
購入したタオルで身体を拭いてやる事しかできなかった為に、膝に乗る頭は油や血でごわごわとしている。洗髪してやりたかったが、そうすれば目を覚ましてしまうだろうし、どうせなら身体ごと洗ってやりたかった。最も、この傷から見て、当分は入浴は厳禁であろうが。
「いい加減、足が痺れたな……」
フェイカーは退屈そうに”鞘に納まる太刀”を手にして、半分ほど抜く。刃はあれほどの血や油を綺麗に払拭しているものの、やはり使用されたが為に見える曇りまでもが消えることは無かった。切れ味は未使用よりは幾らか下がるも、それでも今回の試練で”もしも”が起こったとしても、不備になる程ではなかった。
仮に彼の意識が戻らぬまま、試練が次の段階に移行したらどうなるだろうか。今の彼は戦闘はおろか、逃走すら不可能だろう。
通常の倍近くの弾丸が装弾できる複列弾倉があるのに、飽くまで使いやすさを選んだが為に単列弾倉の9mm拳銃のみを持つ彼では、そもそも残弾の心配が常に脳裏にちらついて仕方が無い。一つの弾倉に九発が装填され、今では総数四○発近くしか残されていない。
最も、9mm拳銃にも複列弾倉式のモノが存在するが、わざわざこの拳銃でそれを実現させる意味は無く、装備が固定されていないリリスの戦闘部隊では酷く人気が無かった。
そうに考えを脱線してみるも、フェイカーの視線は衛士の苦悶の表情から逸れる事は無い。
彼に限って再起不能と言うものはないだろうが――。
ヘルメットと一緒に置いた携帯端末が、小刻みに震えて着信を教える。フェイカーはそれに気付いて手に取り、『応答』の表示をタッチして耳に当てる。すると間も無く、無機質な機械音声に変換された声音が知らせを届けた。
『一八時に試練を開始する。目標は”念動力”を有する完全適正を持つ付焼刃。装備は84mm無反動砲……カールグスタフ。所持弾頭は初期装填を含め八発。また副兵装はハイパワー』
「……まるで、待っていたかのように完全適正が出てきますね。これまで、最大でもマスクを装備したスケアクロウしか出てこなかったのに」
――付焼刃には、現時点で幾つかの種類がある。
一つは、化学防護服のような矯正器具を装備しなければ能力を使用できない未熟適正。
また一つは、機械的構造を持つマスクに、そこから伸びるゴムチューブを肉体に埋め込み、特殊な薬物を投与することで超能力を使用できる普遍適正。
そして最後に、生身のまま強力な異能力を操る完全適正。
それらは皆、装備が少なくなる毎に能力が強くなっていることを示しており、また、完全適正の付焼刃の存在などはそもそも、三月時点では未知の存在だったのだ。
付焼刃の存在は判然としていた。が、完全適正が現れたのは翌月四月。そして突然、爆発的にその存在が露になってきたのはこの八月であった。
『貴様に知る権限は無い』
「さいですか」
溜息混じりにそう返すと、わざとらしくマイクの近くで舌打ちをしてから通話を切り、ヘルメットの中に放り投げた。
――公園の中にある時計を見ると、時刻は一七時三○分を少し過ぎた所だった。
「ったく……もし僕が付焼刃か特異点だったら、ゼッタイに治癒系の能力だったのになぁ」
これほど手際の良い治療は自分でも良く出来ていると自負している。そして適正者として数少ない衛生兵としての技術を持っていた。そしてフェイカーと戦場を共にしたものは皆、その存在の大切さに敬意を表するように『衛生兵殿』と呼ぶのだ。
今回とて、衛士の監視役として呼ばれたのはそういった技術を有していることが最も大きかったと言える。戦闘は何があっても助力は厳禁であるために、なのだ。
フェイカーが、忙しさ以前にこの理不尽な体系にいつになくストレスを溜め込むと、そんな怒気が伝わったのか、衛士の瞼が一度強く痙攣する。それを見るフェイカーは慌ててヘルメットの中からフェイスマスクを取り出し、手馴れた様子で頭から被って彼の起床を静かに待った。
――時衛士には、眠っているときにすら休む暇は与えられない。
その精神下、夢の中では先ほどの戦闘をおさらいでもするかのように幾度とも無く生と死を繰り返し――その意識が覚醒に向かう頃には、まるで三月時点からの戦歴を繰り返したかのような感覚を取り戻していた。
最も、その肉体の動作などには”ズレ”が生じてしまうが、それでも先の戦闘よりは明らかに感覚を取り戻せたと言えるものだった。
急激に引き上げられるようにして泥沼に落ちた意識は勢い良く目覚め、そして衛士は張り付く瞼を引き剥がすように、徐々に眼を開けた。視界に飛び込んでくる真赤な光が眩しく思わず腕を上げて光を遮ると、呼吸が止まる燃えるような激痛が胸に広がった。
「うっ……くぅ、いてぇ……」
さらに筋肉が緊張しているのか、関節を緩やかに滑らかに動かすことが出来ない。身体全体の痺れもあった。衛士はそれでも必死に身体を起こそうとすると、ふと、頭がなにやら柔らかいものに乗っていることに気がついた。
薄く開く眼を大きくすると、明かりを遮る黒い影が頭上にあって、
「起きたかい、トキ君?」
優しく声を掛けるのは、フェイカーだった。
「……、キモい事すんなよ」
衛士は飛び起きる元気も無く、転がるようにしてベンチから降りると、そのまま不恰好に身体を起こし、再びベンチに腰を落とした。その肘置きに乗っていた足のふくらはぎに鋭い痛みが走ったが、こむら返りをしているわけではないのを理解してから、大きく息を吐いた。
それからまた、身体に巻きつけられている包帯を見て、その下の傷口に包帯の上から指を沿わして範囲の広さを確認する。そうして動くのに大変不自由だと認識して、背もたれに身体を預けた。
それだけの動作でも痛みが走り、楽になったところで彼はまた口を開けた。
「……悪いな、コレ」
「あぁ、気にしないで。これも仕事の一つだから」
「なるほど、仕事……か」
「そう。特別感謝を感じる必要は無い。ただ、下手に怪我を負わないほうが助かるのは、どっちも同じ意見だろう?」
「はは、確かに」
衛士がぎこちなく笑うとフェイカーは眼を薄く、微笑みを表現するようにして、脇に置くヘルメットの中へと手を伸ばしてガサゴソとビニールが擦れる音を立てる。それから間も無く取り出すのは、袋に入った菓子パンだった。
喉元を引っかくようにしてマスクの裾を指に引っ掛けると、そのまま強く引っ張って鼻筋まで引き上げる。すると夕日に照る形の良い輪郭の顎が現れ、小さな口が、まだ包装も開けてもいないパンを待つように開いていた。
衛士がそんな姿を呆然と眺めていると、その卑しげな視線に気付くフェイカーはむすっと頬を膨らませるようにして衛士を流し見て、嘆息した。
「食欲はないんだろう?」
「無いけど……いつまで引っ張ってんだ。つぅか気にしてたのかよ」
「折角買ってきたんだよ。気くらい遣ってほしかった」
「男なんだろ、細かい事を気にすんな」
「じゃあ気にする」
「どういう事だよ」
寮を出る前の事を思い出して、衛士は肩をすくめた。またそれだけの動作でも肉が引き攣り、筋肉が痙攣する。併発する激痛に衛士が思わず呻くと、それが面白いとばかりに下品な笑い声を上げるフェイカーは、それを横目に大量の苺ジャムが塗りたくってあるコッペパンにかぶりついた。
フェイカーは眼を閉じ頬を引き上げて恍惚の表情を作ると、それから咀嚼し、それを飲み下した頃に、思いついたように口にした。
「僕は朝から何も食べてないんだからね」
「知るか」
力なく返答をして、衛士は早くも乱れた呼吸を整えるように肩を上下させて、長く細く息を吐く。
――もしこの状況で敵が来たら最悪だ。
衛士はそう考えてから、はっとして首を左右に回して周囲を見渡す。が、目的のものは見当たらず、それから自身の衣服を確認してみるが、上は包帯だけで下は黄色のラインが入った薄手の黒いジャージという半裸で、衛士の胸に焦燥が燃えた。
そして表情にもその色が見えたのだろう。フェイカーは彼に気付き、それから肩を叩いて注目を得ると、それから視線を衛士の背後へと向けた。
彼は促されるようにして首を後ろに向けると、そこには目的の品、生乾きの耐時スーツが背もたれに垂れていて――手を伸ばすと、直ぐに砂時計と拳銃、ナイフと予備弾倉を回収することが出来た。
また、耐時スーツも着用すれば効果を発揮してくれるだろう。最も、下半身のみであろうが。
上半身は先の戦闘であまりにも傷つきすぎた。ボロ布といっても過言ではないが、それでも下半身の部位が稼動するのは、スーツ自体に特殊な機材が積まれているのではなく、単なる”増幅装置”として存在しているからである。
肉体の動き、筋肉の流動に反応して、スーツの生地に織り込まれている人工筋肉が肉体と擬似的に一体化して力を与える。だから瞬間的な衝撃は不得手だし、極端に長い持続も無理がある。
されど、それで十分であると判断されるほどその耐時スーツはバランスが良く、そもそもこの装備がある時点で苦戦するという事態がありえないのだ。
が、そもそも付焼刃との戦闘を予想しての装備ではない。だから今回のことも、”仕方が無かった”の一言で片付いてしまうだろう。
衛士は掻き集めた武装を眺めてから、あまりの貧弱さに思わず蒼白の顔に笑みが浮かんだ。
――四つの予備弾倉に、六発のみが残る弾倉。ナイフは健在だが、この肉体では上手く使えない。砂時計はこの中で唯一の希望だが、それでも戦闘は厳しいだろう。
相手が大火力で来たら? 重火器を持ってきたら? また白兵戦に持ち込まれたら?
やはり幾度かの死は覚悟しておかねばならない。
フェイカーへと視線を向ければ、その手には既に半分以下になったパンを、それでも包装の上から掴んで食事を続けていた。口いっぱいに頬張っているのかその両頬が膨らみ、味わっているのか目を閉じていた。綺麗に伸びる長いまつ毛に、衛士は嘆息する。こいつも美形かと首を振った。
その脇には、ベンチに立てかけられている太刀がある。おそらくフェイカーが自ら回収してきたものであろうと彼は考えて、同時に降りかかる「もしかするとフェイカーがあの殺人鬼の手引きをしたのではないか」という雑音たる思考を拭い去り、また思考に耽る。
街灯につけてある時計は時刻を一七時四五分を示しているのを見て、何故だか胸の高鳴りを覚えた。
そしてふと――ここで戦闘が起こった際の、近隣への被害を脳裏に過ぎらせた。
前回は街中でも、人気の無い道路だったからまだ良かった。だがここはどうだろうか。
見るからに広い公園である。ならば近くに民家があるのではないだろうか。もしそうなら、仮に相手が銃火器、例えば軽機関銃や小銃類を使用するならば、被害は確実に死人を出すものになる。
「なぁフェイカー。ここは、どこの公園だ?」
この街ならば、公園の存在などは限られている。
だからこそ、移動するなら早くしなければならない。
「あのアーケード街を抜けた所にある住宅街の中の」
「……ちっ」
彼は短く舌打ちをして、息を詰まらせるように呼吸を止めて、立ち上がる。包帯には早くも、じんわりと紅い色が広がっていた。
衛士はそのままズボンを脱ぐも、ブーツに裾が引っかかる。苛立たしくそれを踏みつけ足を抜き、またそれを繰り返してパンツ姿になった。それから手を伸ばして上下一体の耐時スーツを手に取り穿いて、ボロボロになる上半身部分を腰に巻きつけた。
腰を折り、裾をブーツの中に押し込むと、次いでベンチの上に置いた拳銃を備え付けのレッグホルスターに。ナイフを腰の鞘に収め、砂時計を再び専用ホルスターに突っ込んだ。
予備弾倉は適当にポケットに入れて――それらを五分かけて終えると、傍らに立つフェイカーは新たなパンを片手に、冷たい視線を衛士に向けていた。
「トキ君。君には物を与えても甲斐がないね」
「そいつは悪かったな」
どうでも良さそうに背を向けるも、衛士の動きはそこで止まる。
今更どこに行けばいいのか、分からない。そもそも戦闘を行って周囲に被害を出さぬ環境など、人が住む街では不可能ではないのか。
ならば、かえってこの公園の中のほうが安全なのだろうか。
衛士は考え、視線を宙に泳がせ、それから参ったように肩をすぼませた。
「さすがに、今日はもう来ないよな……?」
「なんて答えてほしい?」
「あー、もうお前黙ってろ」
不意に身体が重くなって、視界がぐるぐると大きく揺らぎ回る。まともに立っていることが出来なくなって、衛士は慎重な動作でベンチに腰を落とした。
痛みには慣れたものの、指先、足先の痺れはやはり不自由なモノだった。
「どうしたの、移動しないのかい」
「っせーな。わかってて言ってんだろ」
浅く腰をかけて、背もたれに体重をかける。無理に足を引き上げて足を組み、額から流れる汗をそのままに、苦しげな表情を隠す事無く腕を組んだ。
そうすると、再びフェイカーは隣に腰をかける。既にパンは手元に無く、マスクは再び顔を覆い隠していた。
「トキ君」
呼ばれて、フェイカーへと顔を向ける。すると既にヘルメットをかぶり、バイザーだけを開けた姿がそこにあり、薄く開かれる目は何かの強い意思を持って、衛士を見据えていた。
「んだよ」
「生き残れよ」
「穏やかじゃねぇ言葉だな」
「ま、今の君ならさっきよりはマシな戦いになるだろうね」
「嘘は止してくれ」
うんざりするように手を払うと、フェイカーは珍しく軽く笑い、立ち上がる。バイザーを下ろして顔を隠すと、間も無くその姿も周囲の景色に同化して――瞬間的に、その存在は視覚的に捉えられなくなった。
同時にベンチの正面――やや離れた位置にある足腰の弱い高齢者の為、あるいは車椅子の為に作られたスロープに、人の影を見る。
衛士は自分に辛く当たるこの現状に辟易しながらも、腰に手を伸ばし、砂時計を反転させた。
時計は丁度、一八時を指していた。