自己偽装
寮は思っていたよりも地下空間の端に存在していた。
フェイカーの後を付いていくと、彼は街とは反対方向に足を向けて一キロ程度歩いたところで足を止める。前方には未だ開けた視界が広がる其処で手を伸ばすと――目の前に障害物が存在するかのように、その虚空に手を添わせるように何かに触れた。
その何も無いその空間には影が出来、そうした行動の直後に障害物たらしめる存在感を現した。
そこは壁であったのだ。間近で見ても未だにその向こうに道が続いているかに見えるその鮮明な絵は、頭上の蒼穹を作る立体映像と同様のものである。
フェイカーの手のひらから映像が歪み、白い稲妻が壁に沿うように走ると、間も無く響く無機質な音声が、どこからともなくというより、頭の中に直接語りかけてくるように案内を開始した。
『生体認証開始……完了。認識、完了。声紋認証を開始します』
「あめんぼ青いなあいうえお」
『……声紋認証、完了。アクセス権を認識しました』
「地上までエレベーターを頼みたいんだけど」
『目的地を指示してください』
「あぁ……っと、名称、住所は失念。記憶から読み出して」
『了解――そのままでお待ちください』
「それと、悪いんだけどこの規格にあったメットを」
彼が告げると、間も無く――頭上から落下してきたヘルメットが、ごく自然なまでに彼の頭を飲み込み定着した。雑なのか凄まじい技術力なのか良くわからない光景に、衛士は呆れたように嘆息する。
フェイカーは空いた手で首もとの耐時スーツをヘルメットの中に押し込むと、その部分は空気でも入れられたかのようにふくらみクッションを作った。そうして一切の肌を露出しない姿を作り出した彼は、案内の音声に頷いて一歩後退する。
――それらのやりとりは、フェイカーの一方的な台詞から大体を察していた。骨伝導からなる案内音声は衛士には一切聞こえず、だからといってその内容が気になるわけでもなかった。
ただ、転送などと言う超技術を使用せずして表の世界に出られるこの目の前の事実が、妙に彼の胸を高鳴らせていた。
地下五○○メートルという話である。ワンフロアが五メートルだとしても一○○階の、超々高層建築物とはいかぬものの、超高層建築物以上の高さだ。それを一本のエレベーターで行き来するのは安全面を考えると搭乗するのには遠慮したいものだが、転送以外に外に出るための手段はこれしかないのだろう。
やがて目の前の壁のある部分に縦一閃の黒い溝が走ったかと思うと、それは素早く長方形の形に窪み、それから二つに分かれるそれらは両脇に開いてその奥に、割合に広い空間を生み出した。
緊張が下腹部に痛みを走らせる。奇妙なまでに、体が拒んでいるのが理解できた。
あれほどこの世界は狂っていると思い込み、憎んでいた筈だ。自分が居た世界こそが最上で、かけがえの無いモノで、この世界に順応することなどありえなかったはずだ。だというのに、今では表の世界――かつて自分が住んでいた場所に、戻りたくないと潜在下で考えていた。
任務で赴くのではなく、その世界、その場所自体に用があって行くというのが考えられなかった。
そこは既に、衛士が居ていい場所ではない。既に何度も告げられているのだ。”時衛士が誕生しなかった世界”に変異した、と。
もう家族も居なければ、あの心地よかった交友関係も無い。そう考えるだけで胸に鋭い痛みが迸った。
今まで当たり前に存在していたものが、そして今まで、失われても尚心の支えにしていたそれらの喪失を、この眼で理解し、肌で感じなければならないのだ。
これはある種の拷問ではないのだろうか。
衛士はそう吐き散らしたくなる衝動を抑えて、根が張ったように動かぬ足をそのままに、開いたエレベーターの前に立ち尽くす。すると既に乗り込んだフェイカーが、ヘルメットのバイザーを開けて溜息交じりに口を開いた。
「このままグズグズで行くのは良くない。あの世界と決別するのは、君にとっても良い事だと思うけど」
「……決別? オレはずっとこの地下に居るのに、か?」
「心はここに在らず、だろ? 君は踏ん切りをつけなくちゃ前に進めないよ。今だってそうじゃないか」
「オレは強くなっている……!」
衛士は肩幅に足を開いて腰を落とすと、静かに叫ぶ。眼には熱など籠らず、どこか力のない咆哮だったが――次の瞬間、エレベーター内から姿が消えたフェイカーに、衛士は思わずたじろいだ。
殺気が喉元に触れて、回避行動を取る暇もなく衛士は行動を制された。息を付く間もない恐ろしく素早い行動に、衛士はただ眼を剥いて、含み笑いの後に続く言葉を聴くことしか出来なかった。
「いつまでも成長過程じゃ困るんだよね。君の真髄は単なる戦闘能力じゃない。上層部と話していて判らなかったかい?」
わかるわけなどない。
一つの情報しか渡さずに全てを窺い知れと無理難題を吹っかける彼等が、何を期待しているのかなど判然とするわけが無い。
戦闘能力に期待していなければ一体なぜ鍛えられているのだろうか。
フェイカーの言葉に一々腹を立ててみては、その怒りに力が籠らない事に気がついて自分に失望する。
先日の、イリスに元気付けられた自分が嘘のようだった。情緒が不安定になっているようで、自分で自分に不安を覚えて、肩を抱かれる衛士は、連れられる様にしてその箱の中へと入っていった。
FとBしかないタッチパネルを操作すると、扉は直ぐに閉じて――。
天井の照明が蒼白く輝いて網膜を焼くほどの光量が、寮の自室よりやや広い程度の空間を満たした、その次の瞬間。
――生温い風が頬を撫でるのに気がついた。
ざわめく喧騒が耳に届くのを知覚した。
閉じた眼を開けようとするその最中で、酷く高鳴る鼓動に呼吸を乱されていることを認識した。
そこは空間の中ではないことは直ぐにわかった。あのエレベーターが、およそ衛士の知るエレベーターたる動きをしなかったのを理解した。
恐らく、転送装置だ。
権利を持つ人間のみが自主的に、そして自由に外に出ることが出来る――今となっては、衛士にとってその情報は半ばどうでもいいものになっていた。
「これは受け売りだけど――因果律の全ては君にある。本来、この世界に君はいないはずだからね。異分子である君はそれを持っているといっても過言ではない」
即ち、衛士がここで何をしようとしまいとも、起こり得る全ての試練は確実に彼に襲い掛かるし、それを回避することなどは極めて困難である。傍らに立つフェイカーはそれだけ告げると、ヘルメットのバイザーを締めてから、無線で接続されてある携帯端末を、ヘルメットの内臓マイクから音声で命令し、とある機能を作動させた。
途端にその身体から光が発される……否、彼に降り注ぐ全ての光が反射され始めたかと思うと、すぐさまその漆黒を纏う姿は色を、その存在を薄れさせて、間も無く透明化していった。動けば彼が居る空間が僅かに揺らぐものの、それをまともに認識出来る人間はその場に居らず、フェイカーの不可視化は完璧に思えるものだった。
これは旧・耐時スーツの新しい機能である。光学迷彩機能と呼ばれるソレは光を回折させることによって姿を消す。しかしスーツ内の温度、湿度を保つことが出来ているそれであるものの外まではそうすることができず、熱源探知機などを使用されてしまえばその位置は用意に割り出されてしまう。
「ひひひっ、君がどうなっても僕は助力しない。飽くまで監視役だ。だから……ま、頑張って」
軽く肩を叩いて、彼の気配は直ぐに衛士から遠のいた。
――ジリジリと肌を焼く太陽光が衛士の額に汗を浮かばせる頃、彼は漸くいくらか呼吸が落ち着いた辺りに眼を開ける。地下空間などでは決して感じることの出来ない眩い光が、薄く開けた途端に視界一杯に飛び込んできて、やがて見開くと、目の前の景色の広がりを見た。
有象無象の人の流れ。色気の無い迷彩柄、或いは白か黒のみの衣服を纏うのではなく、それぞれがそれぞれなりの好きな服装を着るその光景。当たり前であるはずなのにそれを新鮮に思えてしまう衛士は、溢れ出る汗を額から垂らして、後退。するとその背はすぐさま硬い障害物、壁にぶつかって停止する。
「……はぁっ、くそ……!」
胸に凄まじい圧力を受けているかのように、息苦しくなる。首でも絞められているかのように視界が揺らぎ、膝が小刻みに震える。
「――外出を控えてください!」
男の叫び声は、そこからそう遠くない位置から大気を震わせる。
通行人の好奇の目が通り過ぎる。衛士は胸を押さえて、歯を食いしばって俯いた。
それでも心配をして声を掛けるような人間は居ない。最も、今の衛士にはそれが居たとしても応えてやる事すら出来ないのだが。
これほどまで立派な格好をしているのに、これまで無数の人間の命を容易に奪ってきたはずなのに中身がこれでは話にならない。
――広い歩道の向こうには、円を作る道路がある。そこにはバスやらタクシーやらが待機していて、また衛士から右方向には大きな口を開ける、駅構内へと続く出入り口。
電車が駆ける震動が壁越しに微細に伝わってくるのを感じながら、大量に吐き出される人の波をわき目に見る。通りには多くの人間が過ぎるが、その殆どは駅の前を通り過ぎるだけであった。
身体が重くなる。自分だけ尋常ではない重力に喰われているのかと思うほど、微動だに出来ない。関節の節々が硬直し、その場に折れて倒れることすら、壁を背を擦り付けるようにして三角座りをすることすら出来ない。
呼吸は次第に落ち着く一方で、心が凍えるほど冷えていくのを彼は感じていた。
「あれ」
そうした頃に、通行人の声が聞こえるように――否、彼の頭はようやくそれらの囁きを理解する余裕を持てるようになっていた。
「自衛隊?」「おたく」「イベント?」「コスプレ?」
重なる声は、向けられる好奇の視線は衛士に突き刺さる。
額から流れ落ちた汗は、そのまま乾き熱したコンクリートの大地に一つの水玉を作り出す。
「ミリオタ」「あ、拳銃」「ニューナンブ」「へぇ」
頭の中で世界が回る。まるで、洗濯機の中に放り込まれたようだった。眩暈が擦るように視界はぼやけて、身体が正常に直立できているのか、左右に忙しなく揺れているのか知覚出来ない。
「具合悪そう」「厚着だから」「脱げば良いのに」「アレな人でしょ」
息苦しい暑さに我慢ならず、首元まで上げたジッパーを下腹部まで下ろす。つなぎのように一体化するそれは顔と足先以外を露出させぬ造りとなっていて、スネまでを覆う革のブーツを履いてしまえば保温効果は絶大に発揮される。
それ故に、地下と同じ気温でありながらもそれ以上に暑さを感じるこの地上では、本来なら流さぬはずの汗も垂れ流れる事態となった。
やがて衛士は耐時スーツの上半身を脱いで腰に巻きつけると、次いで着込む、黒の吸水性の高いインナーの腕をまくると、この夏ならではの灼熱にはいくらか楽になれた。
腰の鞘に刺さるナイフの取り回しが幾らか困難になるが、レッグホルスターの9mm拳銃がある。予備弾倉は胸元のポケットに収まっているものの、どちらにせよ衛士はこの地上では火器類を使うつもりは一切無かった。
少し落ち着く。すると緊張感が失せたように喉が渇きを訴えたが、金銭は勿論、サイフすら持ってきていないから、その欲求を満たすことは出来なかった。が――。
「あの、トキ……さん?」
その瞬間、欠片も浮上していなかった記憶の大海から突如として巨大な影を見せる鮮明な思い出が、彼の意識を一瞬だけ吹き飛ばしていた。
世界が暗転する。しかし間も無く再び現れた光景が、衛士に軽度の失語を促した。
――白い、フリルが沢山付いた可愛らしい半袖のワンピースを着込む少女。長い髪は縦に巻かれるようなパーマをかけられていて、その顔造りには気品が伺える。琥珀色の大きな瞳は衛士を見据え、それ故に、彼は彼女を見つめる眼さえも動かせずに硬直した。
早乙女美琉。それが彼女の名前である。
かつて衛士によって交通事故を回避した――という事になっているのだが、実際には彼が手を加えずとも自身で事故などに遇わなかった彼女は、衛士に対して一方的な恩義を覚えていた。
それがきっかけで、あれから仲良くなっていくであろう状況だったのだ。
しかし、それから間も無くして衛士に試練が課され、死にかけ、家族が死に、そして世界から彼の存在が――。
「トキさん、ですよね。あれ、でも、私……あなたの事を、ずっと――」
頭を抱え、眼を強く瞑る。彼女は混乱するようにぶつぶつと何かを呟いていた。
同時に、衛士の脳内も軽いパニック状態にあった。
なにせ、これまで散々、時衛士という存在は世界から”無かったこと”にされていると聞いていたのだ。だから彼女が衛士の存在を理解し、またその思い出を記憶に留まらせていることなどは絶対にありえないし、だからといって現状から察するに、今まで教えられていた情報が嘘だというわけでもない。
なら、なぜ彼女は衛士の名を呼び、またまるで久しぶりに再開したかのような懐かしさで接しているのだろうか。
衛士は考える。その未熟な頭脳を駆使する。必死に頭を、思考を回転させて――。
「――す、すみません。ごめんなさい、私、何かヘンな事を言いました?」
彼女の不意な言葉に、目まぐるしく動く展開に、彼は声を発そうとする余裕すらなかった。
彼女はそう言って深く頭を下げた後に、
「あの、人違い……みたいで。本当にごめんなさい!」
まるで初めて奇人に出会ったかのような怯える眼で衛士を一瞥した後に、急いで彼に背を向け、一目散に雑踏へと姿を消した。
心が揺らいだ。そうした途端に蹴飛ばされて、より深い闇の中に落ちていく。
だというのに、意味のわからない目の前の現実に、そんな非情に、衛士は心が澄んでいくような気がして――頬に、笑みを浮かべる精神的余裕を持つことが出来た。
「何かの間違い……いや、リリスが試したんだ。オレがどうするか。そうに違いない」
そうでなければ彼女が僅か数秒でも、世界から、彼を知覚する全てから記憶を、形跡を消されたその中で、衛士の名を呼び立ち止まることが出来ることなどありはしない。
そう考えると、体が軽くなったような気がした。
やっぱりオレはこの世界の人間ではない。そう再認識すると、不思議と心が躍るような気分になってくる。
居ていい存在のはずが無いのだ。
この世界に来たのもある意味任務。だから、下手に気負う必要も無いし、そもそも何かに気負っていた今までが異常だった。
彼は頭を振って、それから額の汗を拭い、髪を掻き揚げる。
衛士は完全に非情が染みこんで、それ故にささやかな悪意をもたらす現実から眼をそらすことを覚えていた。
「はは、そうだよ。オレはもう大丈夫だ。落ち着いた……決別をちゃんとするって、こういう事か」
大きく息を吐いて、重くて仕方が無かった身体を壁から引き剥がす。足を上げると、それは思っていたよりも簡単に上がって、容易な一歩を踏み出した。
彼は喉の渇きを思い出して――生唾を飲み下してから、目的も無くかつて自身が過ごした街を彷徨うことにした。
商店街にまで来ると、人波は途絶え――というか、人影の一切が失せていた。
人の子一人見る事は無く、全ての店にはシャッターが下りている。アーケード手前にあるからくり時計は十時からやや過ぎた時刻を指しているから、開店前と言うわけではないだろう。そもそも一年以上通った場所である。現状が異常であることくらいは容易に理解できた。
そして”そいつ”は、唐突にやってきた。
ポケットの中に震える異物を理解する。衛士は手を突っ込んで着信を知らせる携帯端末を取り出し、タッチモニタに表示される『応答』のウィンドウをタッチしてから、それを耳に押し当てる。鮮明な声は間も無く、エコーが掛かって耳に届いた。
『君に教えておくべき大切なことを一つ忘れていた。今は大丈夫かな』
どこからか聞こえてくる小さな”ピンポンパンポン”という音階が鳴り、声が響く。だが衛士にはその内容を聞き取ることは出来なかった。
「あぁ……まぁ、大丈夫だ」
『試練、あるよね。あったよね。君の。去年の六月に終わったの。十四ヶ月前の』
年月から見ればその経過は正しかった。が、衛士には何かの代償か、罰か、なんらかの作用によって感じる時間経過が加速して、実質的に五ヶ月前の事だと感じていた。
そう考えれば、確かにこの成長、変化は余りにも突飛過ぎる。それを自分でも理解出来るのだから、他者から見ればそれは顕著なものだろう。期待されるもの、仕方が無いような気がした。
『君の家族が殺されたっての。アレは……祝英雄の仕業だと、君は理解しているわけだ』
あの時は、タクシー運転手に『精神異常者が施設から逃げた』と聞いて、彼がそうだと思っていた。
そして実際に出会い、凄惨な光景を見て、イワイを半殺しにして――彼が精神異常を装っていたと言う事を再認識する。彼自身、家族を殺したのは自分だと言っていたのだからもう疑う余地は塵とて存在していなかった。
衛士は頷き、肯定する。
鼻で笑うような声は、その直ぐ後に耳に届いた。
『しかしどちらにせよ君の存在が”無かったこと”になったお陰で、未来……今となっては過去だけど、ともかく結果は大きく変異した。が、やはり君がココに来た事によってその因果律――因果、かな。その結果を導く為に、やってくるわけだ』
「意味がわからねぇよ。分かりやすく頼む」
『君の家族は生きている。だけど君が来たから、君の持つ――持っていた未来と同じくするために、今殺されようとしているってわけ』
その話、家族は未だ生存しているという事については、おおよその想像が出来ていた。
衛士がいなかった世界。つまり彼が持ち込む試練は無く、それ故にイワイが”暇つぶし”に殺人を行うことは無い。だから、家族の生命が危ぶまれるはずが無い。
あれが起こってから、世界には幾らかの改変が行われたのだ。彼にとっては現実味のない、酷くフィクションじみた話だったが、それが可能である組織に弄ばれているのだ。むしろ、出来てもらわないと困るとまで考えていた。
衛士が未だに姉の存在を胸に抱きかすかな希望、心の支えにしているのは、そういった理由も含まれていた。
そして後者も、試練と言うものを行う上で決して予想できなかったことではなかった。
リリスは、およそ人間が想像できる限りの残酷を、可能ならば衛士にしてやろうとしている。目的は”特異点”に覚醒させるためであり、その為には肉体、精神において極限の状態が必要不可欠であるからだ。
しかし――これが、これを含めて後幾らか……十日という滞在期間から考えて、最低あと五から十あると思うと気分が重くなる。
ソレと一緒に、胸が躍るのは酷く複雑な気分だった。
彼の言葉から、疑惑が確信へと移り変わる。
だというのに、彼の中での変化は予想以上に、ささやかなものでしかなかった。
『――理解、できたかな』
アーケード街。その向こうから影が現れる。
人影は、一人分だった。
「あぁ、おかげさまで」
『警察は一応動いてるけど。刃物持ってるからね。だけどそこには当分来ないよ』
「……一応聞くけど、なんで?」
『君が思っているより僕は面倒臭がり屋だから、答えない。分かってるなら自己完結してよ』
「それじゃコミュニケーションが取れないって、散々分かったからだ。言ったろ、一応って」
やがてその姿、服装から表情まで捉えられる距離までそいつは近づいた。
血よりやや黒いシャツに、ジーンズというラフな格好。腕や顔、ズボンまでもがその赤さに染色されていて、シャツの裾部分に伺える白さから、それは元々純白だったのだろうと想像した。
つまりは、返り血をシャワーの如く浴びた男が正面からやってきているという事だった。
肩まで伸びた黒い髪はてらてらと光に照って、右手に提げる血まみれの刀は鈍く光る。鞘はなく、抜き身のままの危うさは、使用者同様に振り撒かれていた。
「キチガイに刃物は持たせんなよ」
『彼は精神異常だけど、快楽殺人者って奴だからね。単純に人を斬る、殺すことに性的快感を覚える人種だよ』
「んじゃ、脱獄か?」
『みたいね。誰かが手引きしたみたい』
「つか、刀ってそんなに長く使えんの? 精々切れて二、三人って聞いたけど」
『いや、丁寧に使えばそうでもないよ。手入れも鍛錬も無しにぶっ続けで使えばそれなりに持つ。少なくとも、君との戦闘で幸運にも刀が折れるなんて事は無いから安心してよ-―っと、それとまた忘れてた』
饒舌になる彼にうんざりして端末を耳から離すと、また彼はそう告げる。
衛士は嘆息してから脱いだ耐時スーツに腕を通しつつ、耳を傾けた。
『カタナ。回収しておいてね。今回は武器も持ってきて無いから』
「なに、おまえ刀使うの?」
『相手は精神異常者で生身なんだから、一方的じゃなくて質の戦いを頼むよ』
彼は答えず、一方的に言ってくれる。そして衛士が反論する間も無く、思いついたように付け足した。
『QOBだよ。クオリティオブバトル』
「は、ライフじゃなくてバトルかよ」
『君らしいだろ?』
「どっちかといえば快楽殺人者だろ」
心外だよ、と衛士は捨てると、通話を切って端末をポケットにしまう。それから開いた手で服を固定すると、そのまま勢い良くジッパーを首元まで上げた。
腰に手を伸ばして短刀を装備し、砂時計の位置を腕で触れておさらいをしてから、腰を落とす。
そうして第一の試練は開始した。