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格上侯爵様が私を離してくれません〜婚約破棄の夜、断罪から救ってくれたと思ったら、その日から囲い込みが始まっていました〜

掲載日:2026/03/31

(また、いらっしゃった……)


華やかな演奏が流れる夜会の広間で、壁際にひっそりと立っていると、ルシェル・ウィンセイル侯爵がこちらへ迷いなく歩いてくるのが見えた。


この数日、社交の場では決まって私の隣に現れる人だ。

艶やかな黒髪の下、琥珀色の瞳は静かな熱を帯びている。


次の曲が始まるのを待つ人々がざわめくなか、その足取りは不思議なほど揺るがない。

つい先ほどまで話しかけてきていた令息たちが、示し合わせたようにさっと距離を取る。


「エレノーラ・フォステール嬢……お相手していただけますか?」


そう言って差し出された手は、今夜も私に断る隙など与えないように見えた。


――侯爵様、もしかして本気で……私を囲い込みにきてる?



 * * *



始まりは、一週間と少し前の夜会。

煌びやかな灯りの下、私は婚約者だったアルネロ・ヴァレント伯爵令息に、皆の前で婚約破棄を言い渡された。

私がリネット・マルセンベルク伯爵令嬢を貶めるために、中傷めいた手紙や悪い噂をばらまいていたというのだ。

もちろん、そんなことは一度たりともしていない。


彼の隣には、淡い蜜色のドレスに身を包んだリネットが立っていた。

私の年下の従姉妹で、幼い頃から笑顔が愛らしく、自然と人に可愛がられる子だった。

それがまさか……あんなふうに、彼に庇われるように寄り添う姿を見る日が来るなんて、少しも思わなかった。


「ずっと、気のせいだと思おうとしていたんです。エレノーラ様が、いつもわたくしばかり睨んでいらっしゃるなんて……」


声を震わせたリネットが、長い睫毛を伏せる。

いかにも涙がこぼれそうな顔をしているのに、声だけはよく通る。


「でも、わたくしを悪く言う噂まで広がるようになって、もしかしたらって……怖くなってしまって。それで、アルネロ様にご相談したんです。わたくし、なにかお気に障ることをしてしまったのかもしれないって……」


アルネロの眼差しに、露骨な失望が浮かぶ。


「リネット嬢から話を聞いた時は驚いた。まさか、お前がそこまで陰湿な真似をしていたとはな。……正直、見損なった」


ひそやかなざわめきは、もう疑いではなかった。

子爵家の三女でありながら男爵家の養女となった私なら、家格に恵まれた伯爵令嬢の従姉妹を妬んでも不思議はない――そう受け取られているのがわかった。


「子爵家の血を引き、礼法も身についていたからこそ、お前との婚約を受け入れたというのに……見込み違いだったな。お前のような女は、社交の場に立つ資格すらない」


糾弾の色が濃くなる。

もう、婚約を破棄されるだけでは済まなかった。

このままでは私は、「年下の従姉妹を妬み、陰で貶めた女」として、社交界から締め出される。


「待っ――」


とにかくなにか言わなければ……そう思った、その時だった。


「――もう十分だ」


そう大きくもない声だった。

けれど、その一言だけで……広間を満たしていたざわめきが、不自然なほどあっさりと止んだ。


人々の視線がいっせいに向いた先、人垣の向こうからルシェル・ウィンセイル侯爵が姿を現す。

王都でも別格とされる侯爵当主で、私のような立場の令嬢には、本来まるで縁のない相手だった。


黒の礼装を隙なく着こなし、艶やかな黒髪の下では、琥珀色の瞳が穏やかにこの場を見ていた。

彼がこちらへ歩み寄るにつれて、広間のざわめきがすっと静まっていく。

アルネロの表情が目に見えて強張る。


「ウィンセイル侯爵……」


ルシェルは足を止めると、まず私ではなくアルネロとリネットを見た。

その目は冷たいわけではない。

けれど、ひとたび向けられれば、誰も逆らえないとわかる類のものだった。


「婚約を解消するのはご自由に。だが、確かな証拠もないまま令嬢を見世物にするのは……褒められたものではないな」


「しかし、手紙や噂も実際に――」


「あったのだろう。だから彼女がやったと決めつけた。違うか?」


あっさりと言葉を重ねられ、アルネロが詰まる。

ルシェルはわずかに口元を動かした。

笑っているわけでもないのに、その仕草ひとつで、広間の誰もが次の言葉を待つように息を潜めた。


「なら、なおさら今夜はここまでだ。これ以上続ければ、伯爵家の名を損なう。そのくらいは、君にもわかるだろう?」


アルネロは唇を引き結んだまま、もう何も言い返せないようだった。

リネットも、さすがに顔色を失っていた。

ルシェルはそこでようやく、私へ向き直った。


「エレノーラ嬢。――今夜は、私がお相手しよう」


そう言って差し出されたのは、私を伴うための片腕だった。

それを見て、私は一瞬動けなかった。

その片腕が自分に向けられたものだとわかっているのに、どうにも現実味がない。


取っていいのかもわからないまま、広間じゅうの視線だけが痛いほど突き刺さる。

このまま立ち尽くしているほうが、よほどみじめだった。

私は覚悟を決めて、その片腕に指先を添えた。


ルシェルは、それだけで十分だとでも言うように、静かに私を引き寄せる。

その距離の詰め方があまりにも自然で、私は抵抗することすら忘れた。


「ウィンセイル侯爵、それは――」


アルネロが声を上げかける。

ルシェルは振り向きもしなかった。


「何かあるなら後日、ウィンセイル家へ」


それは提案ではなく、ほとんど決定事項のように広間へ落ちた。

誰ひとり、もう口を挟めなかった。


そのまま私は、ルシェルに伴われて広間の中央から離れた。

逃がされたというより、皆の前で彼の隣に置かれたのだと、遅れて気づく。

それは、ただ庇っただけでは済まないやりかただった。


それからの時間、ルシェルはただ当然のように私のそばにいた。

彼が一歩前に立つだけで余計な詮索は消え、あれほど痛かった視線も遠のいていく。

けれど、胸のうちだけはいつまでも静まらなかった。


夜も更け、帰るために玄関先へ出ると、待たせてあった馬車の扉が開かれる。

そこでようやく、私は小さく息をついた。


「……侯爵様」


帰る前に、どうして私にここまでしてくれるのかだけは、聞いておきたかった。

けれど、名を呼んだところで、ルシェルが先に口を開いた。


「三日後の茶会にも、出てほしい」


「えっ……?」


そんなことを言われるとは思わず、つい聞き返す。


「出なければ、怯んだと思われる」


彼は淡々と続ける。


「心配はいらない。その時も、私が隣にいる」


その一言だけを残して、ルシェルは私を馬車へ乗せた。

扉が閉まったあとも、最後の言葉だけがいつまでも耳に残っていた。



 * * *



翌日の午後、ウィンセイル侯爵家から手紙が届いた。


昨夜の件を受け、三日後の茶会に出席するつもりがあるなら、送迎は侯爵家で引き受けること、会場でもルシェル侯爵が目を配るつもりであること――そんな内容が、簡潔に記されていた。


あからさまに出席を求める言葉はない。

それなのに、ためらう理由だけを先回りして取り除かれている気がした。


本当に、あの人は私を社交の場から退かせるつもりがないらしい。

そう思うと妙に落ち着かないまま、私は茶会へ出ることになった。


三日後。

茶会の招待客のなかには、令嬢だけでなく令息たちの姿もあった。

その視線はやはり痛く、婚約を破棄され、従姉妹を貶めたのではないかと噂されている令嬢――そんな目で見られているのが嫌でもわかる。


けれど、茶会が始まってほどなく、その空気は静かに変わった。

ルシェル侯爵が当然のように私のもとへ来て、誰も異を唱えられないまま隣の席に腰を下ろしたのだ。


それだけで十分だった。

先日の夜会とは違い、もう誰も露骨な視線を私に向けてはこない。

彼が隣にいる……その事実には落ち着かないままだったけれど、三日前からの息苦しさだけは、不思議と少し薄れていた。


そして――今夜だ。



 * * *



――侯爵様、もしかして本気で……私を囲い込みにきてる?


そう思っているあいだに、私はまたルシェルに手を取られ、広間の中央へと導かれていた。

音楽が始まり、半ば引き寄せられるまま彼と向き合う。


「侯爵様」


「なんだ」


「……どうして、そこまで私を気にかけるのですか」


ルシェルは一瞬だけ目を細めた。

それから、私にだけ届く声で言う。


「さて。どうしてだと思う?」


そんなふうに囁かれて、まともに答えられるはずがなかった。

曲が終わっても、ルシェルはすぐには私を離そうとしない。


「少し、こちらへ」


促されるまま、広間に面したテラスへ出る。

背後にはまだ演奏とざわめきが残っていて、完全に人目が切れたわけではない。

だからこそ、彼がここで何を口にするつもりなのか、余計に落ち着かなかった。


「もしかして」とは、もう何度も思っている。

けれど、それを自分の都合のいい勘違いにしたくはなかった。


「これ以上、曖昧にしておくつもりはない」


琥珀色の瞳が、まっすぐ私を捉える。


「あの夜、あなたを連れ出したことが、気まぐれや同情だと思われているのなら……心外だ」


ほんのわずかな沈黙が落ちた。

広間から流れてくる演奏だけが、やけに遠く聞こえる。


「養家に入ってからも、身なりや立ち居振る舞いを崩さず、どんな場でも卑屈にならない。それでいて、安易な愛想で媚びることもない。社交の場でのあなたを、何度も見てきた」


その言葉で、あの夜だけの気まぐれではなく、前から私を見ていたのだとわかった。


「だが、あなたには婚約者がいた。だから見ているだけだった。……あの夜までは」


そこで、彼はわずかに間を置く。

その続きを、私は息を詰めるように待った。


「あの場で、あなたを放っておくつもりはなかった。そして一度関わったからには、中途半端に退く気もない」


庭園から吹き上げた夜風が、テラス際の花をかすかに揺らした。

その揺れが収まるのを待つように、ルシェルははっきりと言い切った。


「あなたを、私の隣に迎えたい」


冗談めいた疑いが、その一言で一気に現実へ変わる。

囲い込みにきているのでは、なんて自分でも半信半疑だったのに……本人の口から告げられてしまえば、笑って済ませられない。


「……こうして何度も隣にいらっしゃれば、嫌でも意味を考えます」


ひとつ息を吸って、私は続けた。


「でも、あんなふうに婚約を破棄されたばかりの私が、その言葉を本気で受け取っていいのか、まだ――」


「本気にしてもらわなければ困る」


私の言葉を待たず、ルシェルは返す。

さすがに面食らってしまった。


「そのうえで、あなたに決めてほしい。これからも、私の隣に立ってくれるかどうか。……ただ」


ルシェルの目元が、わずかに緩んだ。


「これまでまともに言葉を交わしたこともない相手だ。すぐに答えを出せとは言わない。まだ私を信じきれないというのなら、待とう」


その言葉のせいで、かえって逃げ道がなくなる。

囲い込むように迫ってくるくせに、最後の選択だけは押しつけない。

こんなにも厄介な人だったなんて。


「……もし、私が頷けば?」


ルシェルの言葉にためらいはなかった。


「正式に婚約を申し込む。社交界の誰にも、文句を言わせない形で」


返事は、もう決まっていた。

私は小さく笑う。


「……ずるいかたですね、侯爵様」


「よく言われる」


真顔で返され、思わず息が漏れる。

そのおかしさに、肩の力がふっと抜けた。


「私も……」


一度だけ、息を整える。


「侯爵様のお隣に、立ちたいと思います」


一拍の間を置いて、ルシェルが私の名を呼ぶ。


「エレノーラ」


その響きだけで、頬が熱くなった。


「その言葉を、受け取っても?」


私は静かに頷いた。



 * * *



その数日後、ウィンセイル侯爵家から正式な婚約の申し入れが届いた。


男爵家の養女である私に対して、侯爵自らが望んだ縁談。

屋敷中が驚きに包まれるなかで、私はもう不思議なくらい落ち着いていた。


返事は、受諾。


その報せが出た瞬間から、社交界の空気はまたあっさりと変わった。

あれほど好き勝手に囁いていた人々が、今度はこぞって「ウィンセイル侯爵が選んだ令嬢」として私を見る。

アルネロとリネットもまた、先日の断罪を軽々しく信じたことの愚かさごと噂されるようになり、以前のように人々の中心で笑ってはいられなくなった。


勝手なものだと思う。

けれど今は、もうそのことに傷つくばかりではなかった。

だって、彼は本当に――私を隣に選んだのだから。



 * * *



婚約が正式に整って最初の夜会。

広間へ足を踏み入れると、ルシェルは迷いなく私の前まで来て、当然のように片腕を差し出した。


「行こう、エレノーラ」


その一言には、返事を促す余地すらなかった。

私は一瞬だけ目を瞬かせ、それから黙って彼の腕に手を添える。


それだけで十分だった。

もう誰も、婚約を破棄された令嬢を見るような目で私を見ない。

私は最初から、ウィンセイル侯爵の婚約者として彼の隣に立っていた。


一曲を終え、広間の端へ戻っても、ルシェルは私の手を離さなかった。

指先を包まれたまま、ふいにその手が持ち上げられる。


「……ルシェル様?」


問いかけるより早く、手の甲にやわらかな感触が落ちた。息が止まる。

婚約前なら、きっとこんなふうには触れられなかった。

それを思い知るには、十分すぎるほど甘い口づけだった。


顔を上げると、琥珀色の瞳が静かに私を見つめている。

そのまま彼の手が私の腰へ回り、半歩ぶん、逃がさないように引き寄せられた。


「婚約前は控えていただけだ」


低い声が、耳元近くに落ちる。


「これからは違う。最初から、私の隣にいればいい」


あまりにも当然みたいに言われて、すぐには言葉が出てこない。

腰に添えられた手は強引ではないのに、もう遠慮するつもりがないことだけは、はっきり伝わってきた。


まともに顔を上げていられない。

けれど、不思議と逃げたいとは思わなかった。

私はそっと、彼の礼装の袖をつまむ。


「……私も、ルシェル様のお隣にいたいです」


その瞬間、彼の目の奥に宿る熱が、わずかに深くなる。


「なら――」


腰を抱く腕に、ほんの少しだけ力がこもった。


「もう、誰にも譲らない」


心臓が大きく跳ねる。

それなのに、今度は目を逸らさなかった。


広間の灯りのなかで、私はそのまま彼を見上げる。

もう壁際で息を潜める必要はない。

この先は最初から、彼の隣が私の居場所なのだと、身体の奥まで知らされるようだった。



【完】




お読みいただき、ありがとうございました!

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