学校探索③
気がつくと、周囲から音はしなくなっていた。
「危なかったね」
彼女の言葉にハッとして、教卓から這い出る。
まだ頭がぼんやりしている気がした。
うまく思考が回らない。
荒い呼吸のまま、立ち上がる。
彼女はいつもみたいにポケットに手を突っ込んでいて、さっきまでのことなんかなかったみたいだ。
いつものような飄々とした態度で、廊下の方に聞き耳を立てている。
僕だけが彼女を意識しているみたいで、なんだか悔しかった。
「もしかしたら警備の人、教室の鍵取りにいったのかも。今のうちにでよっか」
「⋯⋯⋯⋯はい」
「⋯⋯ガキ君、なんか拗ねてる?」
「拗ねてません」
そっぽを向いて答える。
いまにも、警備員さんがまた現れないとも限らない。
もし警備員さんが鍵を持って教室に現れたら、今度こそ隠れおおせることはできないだろう。
彼女はまだ僕になにかいいたげにしていたけど、僕は無視して外へ出た。
それから僕たちは、教室にやってきたとき以上に細心の注意を払って、最初に侵入してきた女子トイレにたどり着いた。
僕は女子トイレであることを示す赤い少女のマークをみて、少し躊躇する。
窓から侵入するときと違って、正面から女子トイレに忍び入るのは、流石に躊躇われた。
だけど脱出の為には仕方ないと言い聞かせて、僕は脚を踏み入れる。
「じゃあつぎ、どこ行く?」
中庭へと降り立つ窓の前で、彼女がつぶやいた。
「え、まだ探索するつもりなんですか」
「だってまだ、教室しかいけてないし」
いわれてみればそうだけど、さっきの警備員さんのこともあるし、正直、できるだけ早く学校を去りたい。
「そうはいっても、他にいけるところなんてありますか?」
「んー、職員室?」
「テスト問題の管理してるだろうから、警備も厳しそうじゃないですか?」
それにきっと職員室なんか行っても、つまらないと思う。僕にとっても、別に馴染みがあるわけじゃないし。
「んー、じゃあ、プールは?」
「プール、ですか……」
うちの学校では校舎から少し離れたところに位置していて、そこまでセキュリティが厳しい印象はない。
更衣室には入れないだろうが、周囲を囲う柵が低いので、プールサイドに侵入することはできるだろう。
「⋯⋯⋯もう十一月手前ですし、水も入れ替えてないと思いますよ?うちの学校、水泳部ないし。だいたい僕たち、水着持ってないじゃないですか」
「別に入れなくてもいいの。楽しそうだから、いってみようよ」
やんわりと反対意見をだしてみたが、やっぱりダメだった。
彼女はもう行く気満々みたいで、既に窓から中庭に降り立とうとしている。
僕は小さくため息をついて、彼女の後を追った。
*
眼前には、頭ほどの高さの柵がある。
格子状になっているので、足を引っ掛ければそれほど苦労せずに登れるだろう。
彼女は軽々と柵を登り、その向こう側に飛び降りた。僕も若干もたつきながら、その後に続く。
夜のプールは月の光を映しながら、ゆらゆらと揺らめいていた。
「綺麗だね」
輝く水面を覗き込みながら、彼女がつぶやく。
僕も同感だった。
キラキラと反射する光の粒が生み出す光景は幻想的で、とても綺麗だった。
見慣れた昼のプールとはまた違った、非現実的な美しさがある。
風が吹くたびに光は形を変えて、僕たちを包み込む。
僕は、目の前にいる彼女を見据える。
どうしても彼女に、言いたいことがあった。
「さっきは、ありがとうございました」
「別にあたし、なにもしてないと思うけど」
プールサイドの前でしゃがみ込んでいた彼女が、立ち上がっていった。
「⋯⋯⋯⋯黙って聞いてくれているだけでも、救われた気分になりました。担任の先生にも親にも、誰にもいえてなかったから」
「なら、どうしてあたしには話してくれたの?」
振り返って、彼女がいう。
たなびいた髪が月明かりに照らされて、煌めいた。
「⋯⋯⋯⋯あなたといると、少しだけ心が軽くなるんです。自由で奔放なあなたを見ていると、まるで僕もそうであるような気がする、みたいな…… 」
「ガキ君は、自由でいいんだよ」
「⋯⋯⋯⋯そうなのかもしれません。でも、今はまだ、その自信がもてないです。あなたみたいには、振る舞えない」
俯く僕をみて、彼女がこちらに歩み寄る。
視界の端に、長く伸びた髪の毛が映り込む。
彼女の白い指が僕の腕に伸びて、その手のひらを握った。
彼女の指は少し冷たかったけど、たしかに人の体温を感じて、僕はなぜか少し泣きそうになった。
「名前。あなたじゃなくて、紫月って呼んで。紫の月って書いて、紫月」
僕は、すぐ目の前にいる彼女の、紫紺の瞳を見つめる。
深夜に二人で学校にまで来ているのに、僕たちはまだ互いの名前すらも知らない。
そんな事実に、僕は今更気がついた。
「紫月、さん」
「うん、ガキ君の名前は?」
「天城陽向。陽に向かうと書いて日向です」
「わかった」
彼女はそう、短く告げる。
今も僕の手と彼女の白い指は、絡み合ったままだ。
「名前、呼ばないんですね」
てっきりさっきの流れからして、彼女も僕の名前を呼ぶと思ったのに。
「ガキ君はまだまだガキだし」
僕の両の手を弄りながら、彼女は告げる。
そしてしばらく間をおいてから、耳元で囁いた。
「いつかガキ君がガキじゃなくなったら、名前で呼んであげるね」
なんとなく悪戯げな顔を浮かべる彼女の顔をみて、顔がカッと熱くなる。
手を繋いだままではいられなくなって、僕は彼女の手を振り解いた。
「⋯⋯⋯どういう意味ですか」
「大人になったら、って意味」
「っ!そういうことじゃなくて」
「それ以上も以下もないよ」
彼女はそう告げて、僕の後ろへと立つ。
そしてそのままフェンスを乗り越えて、向こう側に飛び降りた。
「帰ろっか」
そういって歩き出すので、僕は慌てて彼女の後を追って、横に並んだ。
「次は、泳げるプールにいこうね」
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