訪問
昨晩、というより今朝は、なかなか眠りにつくことができなかった。
目をつぶっても、シヅキと呼ばれていた少女の柔らかい唇の感触や、月明かりの下、左手の指先に伝わった《《ナニカ》》の感触がフラッシュバックして、どうしても眠ることができなかった。
結局、眠りに就いたのはお昼頃。
目が覚めたのは、すっかり夜が遅くなってからだ。
ベッドから身を起こした僕は、まずリビングで夕食をとることにした。
朝食も昼食もスキップしてしまったので、すっかりお腹が空いていた。
食料品を詰め込んでいる棚から、カップラーメンを取り出す。
いつもはもう少しまともな料理をしているのだけど、今はそんな気にはなれなかった。
お湯を入れて、カップの上に箸を置き、三分間待つ。
(昨晩のことは、現実だったんだろうか)
この身体の疲労感は昨晩の出来事が現実であったと告げているけど、記憶の中の昨晩に起こった出来事の数々は、あまりに現実感に乏しい。
寝ても醒めても、夢を見ているみたいだ。
耳をつんざくタイマーの音で、ふわふわと浮遊していた思考が現実へと引き戻される。
久しぶりに食べたカップラーメンは食べ慣れた味で、なんだか安心した。
最近は夜の散歩が日課だったけど、今日はそんな元気がでなかった。
(今日は家でゆっくりしてようかな)
そう考えていると。
ピンポーン。
インターホンの音が部屋に響き渡った。
僕は一瞬胸がドキリとした。
もしや、親が帰ってきたのだろうか。
いや、それならインターホンを鳴らすのはおかしい。
部屋付けのチャイムではなく、エントランスからの呼び出しだ。
宅配なんかも頼んでいないし、心当たりはなかった。
部屋番号を間違えているのだろうか。
ピンポーン、ピンポーン。
なおも電子音の音は鳴り続ける。
間違えているなら教えてあげようと、僕はインターホンの前にたった。
「あの、部屋番号間違えてませんか?」
『あ、ガキ君?やっほー、遊びにきたよ』
「え」
画面の向こうでは、紫紺の瞳をもった少女がこちらを覗き込んでいた。
「⋯⋯⋯なんでここにいるんですか?」
『だから遊びに来たんだって。とりあえず、入れてくれる?今日も結構寒いから』
「嫌です。帰ってください」
『え、せっかくきたのに』
「頼んでないです」
画面越しの彼女は、わざとらしく肩を落とした。
なんだか悪いことをしている気分になってくるけど、どう考えてもこんな夜更けに突然やってくる向こうが悪いと思う。
『なら、ガキ君が外にできてよ。あたしを中に入れなくてもいいから』
「全然交換条件になってませんけど」
『細かいこと気にしないの。エントランスで待ってるから』
「⋯⋯⋯⋯行きませんよ?」
『じゃあ、来るまで待ってる』
それだけいって、彼女は画面の中から姿を消した。
昨日も思ったけど、ずいぶん身勝手な人だ。
向こうが勝手に来たのだから、このまま無視すればいい、のだけど────。
彼女が言ったとおり、確かに今夜は寒い。
昨日も寒かったけど、更に冷え込んでいるようだ。
彼女がいるのは、ロビー前にある、各部屋に繋がるインターホンなんかが置かれているエントランスだ。
あそこは外へと繋がる扉がすぐ外にある上に、空調も効いていない。
そんな中で彼女をいつまでも待たせておくのは、少し良心が痛む。
「はあ……」
僕は溜息をついた。
*
「ガキ君なら来ると思ってた」
壁に寄りかかるようにして待っていた彼女は、僕の姿をみると身体を立てて、つぶやいた。
「それにしても、高級マンションってすごいね。エントランス先のロビーに入るのにも認証が必要なんだ」
「⋯⋯別に、そんな大したところじゃないですけど」
「こんなところに住んでるなんて、ガキ君ってば金持ちなの?」
「親がちょっと、稼ぎのある仕事に就いているのは事実です」
「そうなんだ」
彼女の格好は、昨晩とそれほど変わっていなかった。
グレーのパーカーに、脚を大胆に露出したショートパンツ。
違いといえば、今日はフードもキャップも被っていないことくらいだろうか。
おかげで今夜は、綺麗な彼女の顔がよく見えた。
「結局、来てくれたんだね」
「まあ、今日は寒いですし……。いつまでも待たれて管理人さんに怪しまれても、困るので」
「優しいね」
ぽつりと、彼女がつぶやく。
「常識を捨てろ、とかいったのは、あなただと思うんですけど。寒い中で人を待たせておかないっていうのは、常識的な行動とは違うんですか?」
「常識と良識は、違うから」
ポツリと彼女は呟いた。
「⋯⋯⋯よくわかりません」
「そのうちわかるよ」
常識と良識。
はっきりとした差異はないように感じる。
どちらも、守るべき規範のようなものだ。
「仮に常識と良識は違うとして、深夜に未成年を連れ出すのは良識ある行動ですか?」
「あたしの良識辞書にはOKってかいてるよ」
「⋯⋯⋯それって本当に良識ですか?」
「別に人間の価値基準なんて、自由でいいの」
相変わらず、彼女のいっていることはよくわからない。
加えてすべての言葉を無表情でいうものだから、冗談なのかどうかすらもわからなかった。
僕は彼女のいうことに対して、深く考えるのはやめた。
「結局、今日はなにしにきたんですか?」
「だから最初にいったじゃん。遊びにきた」
「こんな夜中に?」
「夜中だからいいんでしょ?」
彼女は不思議そうに、首をこてんと傾げる。
「せっかくの夜なんだから、引きこもってちゃもったいないよ」
「⋯⋯⋯普通、逆だと思いますけど」
「でた、ガキ君の普通」
彼女はポケットの中からスマホを取り出し、その画面をこちらにつける。
スマートフォンには、零時を少しまわったあたりの時刻が表示されていた。
「例の零時を過ぎたら魔法がかかる、とかいうやつですか?」
「うん。だからガキ君は常識なんて捨てなくちゃいけないの」
「正直、馬鹿馬鹿しい話だと思うんですけど」
「へえ。でも────」
彼女はスタスタと、こちらに歩み寄る。
そして近づき、耳元で囁いた。
「『ガキ君はもう、魔法の中』なんだから、そんなの関係ないでしょ?」
その言葉をきくと何故だか、昨夜のことがフラッシュバッグしてくる。
あのバーでの出来事に、屋上での出来事────
僕は耳が熱くなるのを感じて、思わずその場から飛び退いた。
「とにかく、外に出よう」
彼女は昨夜と同じように僕の腕を掴んで、歩き出した。
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