月夜の下で
「月が大きいね」
彼女がつぶやく。
たしかに今夜は満月で、月が大きい。
連れ出された屋上は地下のお洒落な店内とは違い、簡素だった。
コンクリートの地面で、目立つものは大きな換気扇と、家庭栽培用の鉢がいくつかあるだけだ。
その鉢では、緑の葉っぱが生い茂っている。
あれは、ミントの葉だろうか。
ここら一体はビルが多いようで、周囲は軒並みコンクリート製のビルだった。
しかし夜だからか、はたまた使用されていないからか、人の気配を感じる要素は全くない。
パッと手を離されて、彼女は前に進み出る。
大きな月と彼女の姿が重なった。
月夜に照らされる彼女は、まるで人間じゃないみたいに美しかった。
「夜って自由だと思わない?」
「⋯⋯⋯思います」
少し悩んで、僕は素直に答えた。
夜の不思議な開放感。
夜の空気に触れると、重い心も少し軽くなる。
「ここには、ガキ君を縛るものなんてなにもないよ」
「⋯⋯⋯⋯」
「思う存分、自分を解放したらいい」
「⋯⋯そういわれても、どうしたらいいのかわかりません」
「あたしの胸を揉むとか」
「なっ」
なにをいうんだ、この人は!
彼女はとんでもないことを、なんでもないかのようにいってのける。
「まあ、冗談だけど」
「タチの悪い冗談はやめてください……」
「あれ、揉みたかったの?」
彼女の目が、意地悪く細められる。
思わず、彼女の胸の方に目線を移してしまった。
パーカーを着ていてボディラインは見えにくい服装だが、その中でも女性らしい膨らみは、しっかり存在感を主張している。
「⋯⋯⋯⋯そんなこと、ないです」
「別に揉んでもいいのに。残念」
「っ、揶揄わないでください!」
「バレた?」
相変わらずの無表情のまま、彼女そう告げる。
僕は耳まで真っ赤になって反論した。
顔が赤いのは、初めてのアルコールのせいに違いない。たぶん。
「とにかく、遠慮は必要ないって話。ガキ君の好きなように振る舞えばいい」
「⋯⋯別に、遠慮しているつもりはないんですけど」
「身体に染み付いてるんだよ。だから、あたしがそれをぶっ壊してあげる」
右腕を取られ、強引に引き寄せられる。
突然の引力に僕は体勢を崩して、彼女の右肩に身体を埋めるような体制になる。
甘い匂いがして、身体が火照るのを感じた。
「『ガキ君はもう、魔法の中』だよ」
そのまま彼女は、僕の左腕をとった。
肩に顔を埋めているので、自分の身体がどうなっているのか把握できない。
彼女はとった腕を持ち上げ、なにかに触れさせた。
なにか、柔らかい感触が指に伝わる。
彼女が僕の腕をナニカに強引に押し付けると、指は僅かな反発を喰らいながらも、ふにゅりと沈み込んだ。
「『もう、魔法の中』」
脳に焼きつけるように囁かれる言葉に、思わず蕩けそうになる。
僕はなんとか力を振り絞って、彼女の腕の中から脱出した。
「っ!なにするんですか!だいたい初対面の僕に、どうしてそこまで─────」
「どうしてだと思う?」
「答えになってないです」
彼女は少し目を伏せた。
「深い理由なんてないよ」
「だから、答えになってないですって」
「─────じゃあ、いつか教えてあげる」
そういって、彼女は僕の後ろにたった。
「じきに月が沈んで、朝日が昇るね。それまでに、帰ろっか」
無責任にそういいつけて、彼女は階段を下っていく。
僕はしばらく放心状態で、すぐに後を追うことができなかった。
*
しばらく経って店内に戻ると、初めて会った時と同じように、フードとキャップを深く被った姿の彼女がいた。
「帰り道、わからないだろうから案内してあげる」
「⋯⋯スマホがあるので、別に一人で帰れます」
「この辺かなり入り組んでるから、マップアプリ使っても怪しいと思うけど」
「もうすぐ日の出とはいえ、まだ暗いし、危ないわよ。紫月の言葉に甘えちゃったら?」
キュッキュとグラスを磨いているお姉さんから、シヅキと呼ばれた少女にアシストが入った。
ポケットに手を突っ込んでいる彼女を見る。
どう見ても、怪しい風貌だった。
どちらかというと、彼女と一緒にいる方が危ない気がする。
「いいから、送ってくよ。ほら、着いてきて」
彼女はそう言い残し、一人でに店を出て、階段を上がっていく。
僕は少し迷って、お姉さんの方をみた。
「変な子だけど、危ない子じゃないわ。キミのことを気に入ってるみたいだしね」
「その理由がわからないんですけど⋯⋯」
「あの子、すごい美人じゃない。役得でしょ?」
「そういう問題じゃないです」
「堅い子ねえ……」
そういえば、と思い出す。
『シンデレラ』とやらは彼女が注文していたけど、最初に飲んでいたオレンジジュースの料金は払っていなかった。
僕は財布を取り出す。
オレンジジュース一杯くらいのお金は入っていたはずだ。
「ああ、ジュースのお代なら結構よ」
「いや、そういうわけにも…」
「いいのいいの、初回様料金よ。別に商売する気でこの店やってないもの」
「こんな立派なお店を構えてるのにですか?」
商売をする気がないなんていうには、この店には気合いが入りすぎている気がした。
お姉さんは憂いげに息を吐く。
「趣味ではじめたのだけれど、こんな場所に店を構えてしまったものだから、お客さんが全然来ないのよ。お代の代わりに、また来てちょうだい」
「⋯⋯⋯ほんとに、いいんですか」
「もちろん。『メッザノッテ』は年中無休、深夜の零時から、日が登るまでの時間営業しているわ」
メッザノッテ。
それがこの店の名前みたいだ。
「それより、紫月が外で待ってるわよ。今夜は寒いから、早いところいってあげなさい」
「⋯⋯⋯わかりました。ありがとうございます」
僕は最後にお姉さんに礼して、店を後にした。
*
「遅い」
シヅキと呼ばれた少女は、店を出て階段を登った先で待っていた。
外で待たされていたことで、少し不満げだ。
「家の位置、教えてくれる?」
「⋯⋯⋯市民公園のすぐ近くにある、マンションです」
「ああ、あの大きい。あんないいところに住んでるんだ。それなら結構すぐだね」
すぐに思い当たったらしい。
彼女は淀みない足取りで歩き出した。
ここら一帯の地理は頭に入っているらしかった。
店から家までの距離は、案外近かった。
徒歩で十五分程だったので、家から駅までの距離よりも近い。
「ここだよね?」
彼女は目の前にある高い建物を見上げる。
「そうです。────わざわざ、ありがとうございました」
彼女に感謝の言葉を告げることは躊躇われたけど、こんな夜更けに家まで送ってもらったのだから、お礼を言わなければ失礼だと思った。
「部屋は何号室?」
「1203号室ですけど、わざわざ送ってくれなくても大丈夫ですよ。管理人さんもいますし」
「わかった」
それだけ告げると、彼女は踵を返して背中を向ける。
「じゃあ、またね」
僕は彼女の姿が見えなくなるまで、その後ろ姿を、ただぼんやりと眺めていた。




