お泊り③
「お風呂、ありがとう」
僕の心もようやく落ち着いてきた頃、洗面所の扉の向こうから声が聞こえてきた。
どうやら紫月さんが風呂から上がったようだ。
「ところでガキ君、服貸してくれない?」
「ああ、パジャマないですもんね」
彼女服はいつも通り、パーカーにショートパンツというラフな装いだったけど、寝るにはフードが邪魔で、少し堅苦しいだろう。
「取ってくるので、少し待ってください」
「ありがと」
僕は自分の部屋のクローゼットを漁った。
それから、僕が着ているのと同じような白シャツを取りだす。しかし、シャツは半袖のものしかない。
これだけじゃ少し肌寒いかと思い、上下のジャージセットも取り出した。
「紫月さん、もってきました」
「じゃあ、渡してくれる?」
「はい」
声はするけど、扉は開かない。
僕がドアノブに手をかけたとき。
ある思考が頭によぎった。
風呂上がりで、彼女は服を貸してほしいといった。つまり、扉の向こうの彼女はいま────
「⋯⋯⋯紫月さん、服着てます?」
「ん?着てないけど」
ごく当然のように、そういってのける。
(まったく、この人は!!)
僕は扉の向こうの彼女を想像して、一人赤くなる。
危ないところだった。
いくらなんでも、ガード緩すぎると思う。
「あ、下着はつけてるよ」
「聞いてないです!」
余計な情報を付け加えないで欲しい。
僕は脳内に浮かんできた映像を必死に振り払っていった。
「⋯⋯⋯服、扉の前に置いておくので自分でとってください。僕は部屋に戻っておくので」
「ええ、いちいちめんどさくない?」
扉の向こうから、気怠げな声が聞こえてくる。
「扉、ちょっとだけ開けて手渡しすればいいじゃん。そうすれば見えないでしょ?」
「でも⋯⋯⋯」
僕が返事をする前に、扉がガチャっと開いた。
そしてその先からにょきっと、白くて細い腕が伸びてくる。
その腕の先にいる彼女は今─────
僕は反射的に、彼女の腕から目を逸らした。
別に見つめたってその先が見えるわけじゃないけど、なんとなく目を合わせることができない。
「ちょっとガキ君、早くちょうだいよ」
彼女の手が、パタパタと空を掴む音が聞こえる。
僕は目を逸らしたまま、折り畳んだ服の一式を突き出した。
彼女はそれを掴んだようで、僕の手から一式は消え、代わりにガチャリと扉が閉まる音が聞こえた。
ホッと安心している僕の耳にシュルリと、布が擦れる音が扉の向こうから聞こえる。
僕はできるだけそれを聞かないようにしながら、リビングの奥に引っ込んだ。
しばらく経った後。
僕のジャージ一式に身を包んだ紫月さんが、洗面所から出てくる。
濡れた髪を垂らした彼女はなんだか、いつもよりも色っぽく見えた。
ジャージもいつも僕が使っているもののはずなのに、彼女が着ると完成されたコーデみたいに輝いている。
身長は彼女の方が少し高いくらいだけど、サイズは大丈夫だっただろうか。
「キツかったりしないですか?」
「うん、ジャージは大丈夫。でもシャツの方がちょっと……」
「シャツ…?」
彼女は下を向いて、自身の胸を見つめる。
前が開いたジャージから覗く白シャツは、窮屈そうに生地を伸ばしていた。
主に、胸あたりの生地が張っている。
「⋯⋯⋯それくらいは、我慢してください」
伸ばしかけた視線を逸らして、僕は答える。
「うん、大丈夫。そろそろ寝る?」
「そうですね。眠気、ありますか?」
「んー、実はあんまり」
僕は時計を見やる。
時刻は四時あたりだった。
「それじゃあ、ホットミルクでも入れましょうか」
「ホットミルク?」
「眠れないときは、一人でよく飲んでるんです。作っておくのでその間、紫月さんは髪乾かしといてください」
「ありがとう」
二人分の牛乳、あったっけ。
僕は冷蔵庫の方へ向かった。
*
対面して、僕と紫月さんが座る。
彼女の手には、湯気が立ち昇るマグカップが握られていた。
彼女は両手でカップを持ち上げて、口をつけた。ピクッと彼女の肩が跳ねる。
「⋯⋯⋯⋯熱い」
「猫舌ですか?」
肩を跳ねさせる紫月さんがなんだかおもしろくて、僕は少し笑った。
彼女はフーフーと息を吹きつけて、もう一度カップに口をつける。
「⋯⋯⋯⋯甘いね」
「はちみつ、入れてありますから。落ち着く味ですよね」
「うん、あったかい」
僕もカップに、口をつける。
飲み慣れているはずのホットミルクはなぜだか、いつもよりあったかい気がした。
「ガキ君は、いい旦那さんになれるね」
頬杖をついて、彼女がつぶやく。
「そうですか?」
「うん。料理もできるし、眠れない夜にはあったかいミルクまで入れてくれるんでしょ?最高じゃん」
「そんなの、考えたことなかったです」
徐々に慣れてきたのか、彼女もカップの底を高く持ち上げはじめた。
一口飲むごとに、ホッと息を吐く。
旦那、か。
家庭を持つことなんて考えたことなかった。
もし結婚なんかしたら、こうやって心温まる時間をずっと過ごしていられるのかな。
穏やかに時間が流れていく。
最初は緊張しっぱなしだった彼女との時間も、気がつけばリラックスして過ごせるものになっていた。
別の意味で、ドキドキと緊張させられることはあるけど。
彼女と出会ってから、まだ出会って一週間も経っていない。
それなのに、一年間共に過ごしたクラスメイトなんかよりも、彼女と過ごす時間の方が自然体でいられる気がする。
気がつけば彼女といる時間を、心地いいと感じるようになっていた。
やがて、僕と彼女のマグカップの中身が底をついた。
「ごちそうさまです」
身も心も温まったような気持ちになって、ゆっくりと目を瞑る。
うん、今ならよく眠れそうだ。
「それじゃあ、歯磨いて寝ましょうか」
「あ、歯磨きない」
「ほんとに無計画で来たんですね……」
じとっと彼女を睨む。
駅で出会ってその場で連れて来られたけど、その場の思いつきだったのだろうか。
「しょうがないから、ガキ君のあとでいいよ」
「なにいってるんですか。新品あるので、それ使ってください」
そんな軽口を叩き合いながら、僕たちは洗面台へと向かった。
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