巣穴
ずるり、と壁に着いた手が滑る。
その際、壁には赤黒い汚れが伸ばされるように残った。
「…………ぐ…………ぅ…………」
腹部から滲み出る血を片手で押さえつけながら、彼はよろよろと薄暗い通路を進む。
いつ【インビジリアン】がこの通路に雪崩れ込んでくるか分からない以上、少しでも先へと進むしかない。
簡易的な治療キットは持っているが、現状ではそれを使っている余裕もない。
せめて、少しの時間でも安全な状況が確保できれば、治療キットで止血ぐらいはできるのだが。
彼は腹に穿たれた銃創の痛みに歯を食いしばりながら、必死に足を動かした。
やがて、通路の先に開かれたままになっている扉が見えた。
痛みのために途切れようとする意識を必死に繋ぎ止め、彼はその扉を目指して歩を進める。
そして。
扉の前までようやくたどり着いた時、彼の──アリサワ・ショウの意識は、とうとうそこで途切れた。
◇◇◇
時は少し巻き戻る。
【インビジリアン】の「巣穴」と思しき廃ビルへと、ショウとキャロラインは足を踏み入れた。
崩壊前のこのビルが、何階まであったのかは分からない。だが、現在は二階部分までしかなく、それより上は崩れ落ちている。
ガラスの割れた窓から外光が入り込むため、ビルの一階部分は結構明るい。
一階はかつて受付だったようで、正面にそれらしいカウンターがあり、その横にはエレベーター・ホールが見えた。
以前は、観葉植物や上質なソファなどが置かれた歓談スペースらしき場所も、今では単なる廃墟でしかない。
「どう、ショウ? 何か見える?」
防弾防疫ヘルメットの中で青白い燐光を放つショウの目が、ビル内に残る【インビジリアン】の痕跡を捉える。
「連中は階段で地下へ向かっているな。上へ向かった痕跡は全くない」
エレベーターのドアが二つ並んだ横に開け放たれた扉があり、その先に階段が見えていた。
「そう。あなたを疑うわけじゃないけど、一応は上から調べてみましょう。万が一上に伏兵がいて、挟撃されるのは避けたいわ」
「同感だ」
二人はライフルを構えながら、慎重に階段を登り始めた。
そのまま何事もなく折り返しの踊り場を過ぎ、再び階段を登ればその先には扉がある。この扉は下階とは違ってしっかりと閉じられている。
ショウとキャロラインは扉の左右に分かれ、互いに一つ頷き合うとショウが扉を開けた。
すぐさまキャロラインがその向こうへと足を踏み入れて、ライフルを構えつつ索敵を行う。少し遅れて、ショウも中へと入ってキャロラインと同じように銃を構える。
「──クリア。敵影なし」
二人が足を踏み入れたのは、下と同じようなエレベーター・ホール。そこから通路が真っすぐに伸び、その左右にいくつかの扉がある。
差し当たっての危険がないと判断し、二人は銃を下ろした。
「ここ、何かしらの企業のオフィスビルって感じね」
「それっぽいな。少なくとも、雑居ビルってわけじゃなさそうだ」
「ここに入っていたのがどんな業種の企業だったのか分かれば、発掘品も大体想像できるけど……」
「その辺りも含めて探索してみよう」
ショウとキャロラインは、再び銃を構えると警戒を怠ることなくゆっくりと通路を進み始めた。
◇◇◇
かつてこの部屋は、机や端末などが整然と並び、多くの人間が働いていた場所だったのだろう。
だが、今ではその面影は全くなく、部屋の床には倒れた椅子や机から転がり落ちた端末など、たくさんの物が散乱していた。
だが。
「…………誰かが人為的に荒らしたわけじゃなさそうだな」
「ええ、このビルが崩壊した時、その余波で物が散乱したって感じね」
確かに部屋の中は散乱しているが、その上には分厚い埃が積もっている。部屋の中に足跡らしきものは全くなく、長い間ここには人間も【インビジリアン】も立ち入ってはいないことが分かる。
「一旦、他の部屋も全部確認しよう。それから、何か目ぼしい物がないか探索だな」
「All right」
二人は慎重に他の部屋も調べていく。その結果、この階には危険はないと判断した。
その後、改めて価値のありそうな発掘品を探索していく。
「……電源が生きていれば、端末から何か情報が引き出せるんだろうけどな」
床に転がった端末のモニターを軽く蹴飛ばしながら、ショウが呟く。
「さすがに電源は無理でしょう。非常用の自家発電装置があったとしても、ちょっと期待できないわ」
落ちているファイルを適当に広い上げ、キャロラインはぱらぱらとその中を確認する。
その時、ふと彼女の眉が僅かに動いた。
「LHエレクトロニクス…………? もしかして……ここに…………?」
彼女のそのとても小さな呟きは、近くにいたショウの耳にも届かなかった。
◇◇◇
二階には特に目ぼしい物はないと判断し、ショウたちは改めて地下へと向かう。
一階を通り過ぎ、地下へと向かう最初の踊り場にて、二人は装備を再確認する。
「準備はいい?」
「ああ」
二人は互いに頷き合うと、更に下へと足を向けた。
地下一階。そのフロアと階段を仕切る扉は破壊されていた。間違いなく、【インビジリアン】の仕業だろう。
「どう?」
「相当濃い痕跡がある。これはかなりの数がいそうだな」
ショウの目には、【インビジリアン】の体から零れ落ちる残留物が、色濃く残っているのが見えていた。
「……引き返すか?」
「いえ、先に進みましょう」
「…………」
ショウの提案を、キャロラインはきっぱりと拒否した。
普段の彼女であれば、何よも安全を重視する。明らかに危険と分かるこの場で、更に奥へ行こうと判断するとはまず思えない。
その点を疑問に感じたショウは、改めて彼女に確認する。
「本当に進む気か? キャロルらしくないぞ?」
「そう? でも、今日の発掘はあまりいい結果が出ていないし、シェルターの運営部から依頼のあった【クリスタ】も発見できていないわ。折角ここまで来たのだから、少しは成果が欲しいじゃない?」
「そう言われるとそうだが……」
「退路をしっかりと確保しつつ進めば、いざという時には逃げられるじゃない?」
「……分かった。キャロルがそこまで言うのなら進もう。だが、危険だと判断したら即撤退だからな」
「ええ、分かっているわ」
防疫ヘルメットの中で、にっこりと微笑むキャロライン。だが、その口元はほんの僅かだが歪に歪んでいた。
当然、ショウはそのことに気づかない。
◇◇◇
更に地下を進むことを決断したショウたちは、まずは一番手近な部屋を調べることにした。
慎重にドアに近づき、ハンドサインを交わし合ってドアを開け、中へと飛び込む二人。
素早く左右に展開して銃口を向ける。だが、部屋の中には何もいない。
「……何もなし?」
「違う!」
キャロラインの言葉を否定し、ショウは引き金を引き絞る。
ライフルの銃口から吐き出された銃弾が、転がっていた椅子へと叩き込まれ──椅子が青白い液体を撒き散らせた。
「〈ミミック〉──っ!!」
【インビジリアン】の中には〈ミミック〉という識別名で呼ばれる、無機物に擬態する能力を持つモノがいる。
【インビジリアン】には外見や能力で様々な種類に分類され、それぞれに識別名が与えられている。
発掘者などは、この識別名で【インビジリアン】を個別呼称する場合が多い。
〈ミミック〉は椅子やドア、机や本棚などに擬態して不意打ちを仕掛けてくるため、【インビジリアン】の中でも特に危険な種類とされている。
だが、ショウの目には擬態は意味をなさない。彼の目は床に転がった椅子から、青白い粒子が零れ落ちているのをはっきりと捉えていた。
不意打ちに失敗し、擬態を解いた〈ミミック〉。その姿は異様に手が長く、その先が刃物のように変化している。
その刃物状の両腕を振り上げ、〈ミミック〉が自身に手傷を負わせたショウへと迫る。
そこへ、更なる追撃が叩き込まれた。
キャロラインのライフルから撃ち出された銃弾が、〈ミミック〉の命の灯を完全に吹き散らす。
どさり、と音を立てながら、床に転がる〈ミミック〉。床の上に、青白い液体がじわじわと広がっていく。
倒れた〈ミミック〉にしばらく銃口を向けていた二人だが、〈ミミック〉が完全に息絶えていることを確認すると、息を吐き出しながら銃を下ろした。
「まさか、いきなり〈ミミック〉から歓迎を受けるとはね」
「どうする? 引き返すか? この先、こいつやこいつ以上の【インビジリアン】がわらわら出てくるかもしれないぞ?」
「うーん、迷うけど……できれば、もう少し進みたいわね」
「…………今日のキャロルはらしくないぞ。一体どうした?」
「あら、そう? ちょっと今日は成果が気になっているだけよ?」
ヘルメットの奥から、じっと最愛の恋人を見つめるショウ。その視線をしっかりと感じ取り、キャロラインはにっこりと微笑む。
「私たち二人なら、これぐらいの危機は潜り抜けられるでしょう?」
確かに、彼女の言葉に間違いはないとショウは思う。
彼女と出会ってから今日まで、これ以上の危機に何度も直面し、それを乗り越えてきた。
キャロラインと一緒なら、これぐらいの難易度の発掘であれば成し遂げられる。そういう思いはショウの中にも確かにあるのだ。
「分かった、もう少しだけ進んでみよう。だが、退路の確保だけは忘れるなよ?」
「ええ、もちろんよ。でも──」
「ん?」
こつん、という小さな音。
それは、キャロラインとショウのヘルメット同士が軽く接触した音だった。
ヘルメット越しとはいえ、至近距離でじっと見つめ合うショウとキャロル。
バイザーの向こうに見慣れたキャロラインの笑顔を見て、ショウが感じていた彼女に対する僅かな違和感が徐々に薄くなっていく。
「奥へ行く前に、もう少しこの部屋を探索してみましょう?」
「…………ああ、そうしよう」
◇◇◇
「ねえ、ちょっとこれ、見てくれる?」
キャロラインがそう言いながら示したのは、机の上に設置された端末の一つだった。
「この端末だけ、変じゃない?」
「…………この端末だけ、他よりも新しいな」
「この端末って、【パンデミック】以降のタイプなのよ」
「何? それはつまり、誰かが【パンデミック】以降にこの廃墟に端末を設置したってことか?」
危険な【インビジリアン】の「巣穴」に侵入し、端末を設置した人物がいる。一体、どんな理由があってそんなことをしたのか。
ショウには全く理解できない。
「危険な『巣穴』にわざわざ忍び込んで……いえ、その人物が端末を設置した後に、ここが『巣穴』になったという可能性もあるわね……」
キャロラインはぶつぶつと自身の推測を呟きながら、背負っているバックパックから何かを取り出した。
「どうするつもりだ?」
「この端末が【パンデミック】以降のタイプなら、私たちが持っているマルチデバイスの予備バッテリーが使えるんじゃないかと思ってね。ちょっと時間かかるかもしれないから、ショウは入り口を警戒していてくれる?」
「了解だ」
恋人の言葉に従い、ショウは部屋の入口へと目を向ける。
それを確認したキャロラインは、端末と予備バッテリーを素早く繋いだ。
──やっぱり、接続できた! あとは…………。
端末の起動画面が終了すると同時に、キャロラインは検索機能を立ち上げてとあるキーワードを打ち込んで検索を実行する。
そして。
──あ、あった! やっぱり、ここで李 浩博士は研究を……《ジョカ》の研究を続けていた……! でも、この端末の中にそれらしい研究資料はない。ということは、どこか他にも端末があって研究資料はそこに……?
端末の中にあったデータは、単なる覚書のようなものでしかない。ならば、このビル内のどこかに研究資料、もしくは試作機──いや、運が良ければ完成体が保管されている可能性もある。
ちらりと背後を振り返り、しっかりと入り口を警戒しているショウを見て、キャロラインはヘルメットの奥でにんまりとした笑みを浮かべた。