カワサキ・シェルター
「おう、お疲れさん」
【インビジブル】感染の疑いの出た発掘者への検査と処置を終えたアイナに、親し気に声をかける者がいた。
その人物の印象を一言で言い表すなら、「悪人」以外にあるまい。
190センチを超える長身と、それに見合う鍛え込まれた体。皮膚の色は艶のある黒で、頭髪のない禿頭が室内のライトを反射してきらりと輝く。
人相も相当悪く、彼を知らない者ならば、即座に「そのスジ」の者と判断するだろう。
だが、その禿頭の黒人を見たアイナは、怯えるどころか親し気な微笑みを浮かべた。
「あ、お義父さん」
そう。
この悪党顔の巨漢こそが、このカワサキ・シェルターの代表であり、アイナやショウの育ての親であるウイリアム・フィッシャーマンである。
「それでmy daughter、患者の容態はどうだ? やっぱ感染していたか?」
「うん。検査結果は陽性だったよ。でも初期の発熱時に処置できたから、感染は抑え込めたし後遺症も出ないと思う」
【インビジブル】感染の初期症状は、インフルエンザと酷似している。個人差はあるものの、まずは40度近い発熱があり、その後、徐々に意識が朦朧としていく。
朦朧状態と覚醒状態を何度も繰り返しつつ、段々と朦朧状態の方が長くなり、この段階で体に【インビジリアン】化の兆候が現れ出す。
皮膚の色が青白く変化、硬質化、多層化、体型の急激な変化──大抵の場合は体格が大型化する──などの症状が現れた時点で、軽度感染状態と判断される。
その後、徐々に感染は進行してゆき、最終的には異形化、すなわち【インビジリアン】となり果てるのだ。
【インビジブル】の潜伏期間は二日から三日ほど。そのため、外部からシェルターへと入る者は、三日間シェルター外周部に存在する隔離施設へ入れられ、その後にシェルター内部へと入る許可が出る。
これは発掘者も例外ではなく、発掘から戻った者は例外なく隔離される。今回も発掘から戻った発掘者の一人が隔離中に発熱したため、医者であり細菌学者でもあるアイナに検査要請が出されたのだった。
◆◆◆
「何か見えたの、ショウ?」
何かに気づいた様子のショウに、キャロラインは真面目な表情で問う。
「ああ。キャロルには見えないだろうが、【インビジリアン】の足跡があのビルの中に続いている」
と、ショウは半ば崩れかけたビルの一つを指差した。
幼い頃に【インビジブル】に感染したショウは、両目に後遺症が残っている。だが、彼の目に残ったのは単なる後遺症だけではない。
普通よりも遥かに夜目が利き、更には他の人間には見えないモノが見えることがある。
例えば、【インビジリアン】がその体から放つ微量の粒子などがそうだ。
【インビジリアン】は、その体から常に微量な燐光を放っている。夜間などならうっすらと肉眼でも見えるが、昼間や照明のある場所ではほぼ見ることはできない。
だが、ショウの目はそれが見える。
彼の目の構造が【インビジリアン】のそれに近くなったからだろうか、それとも他に理由があるのかは不明だが、彼にはたとえ昼間でも【インビジリアン】が放つ燐光が見えるのだ。
余談だが、【インビジリアン】が放つこの燐光は、単なる光ではなく微細な粒子のようだ。研究者の中にはこの粒子が集まった物が【ブルーパウダー】であり、それが更に結晶化したものがクリスタである、との説を唱える者もいる。
そのショウの目には今、ひび割れたアスファルトに足跡型に残る燐光が見えていた。
その燐光の量から、かなりの数の【インビジリアン】がそのビルに出入りしていることが推測される。
「もしかして……このビル、連中の『巣穴』になっているの?」
「その可能性が高いな」
ショウにだけ見える燐光も、いつまでも見えているわけではなく、時間経過と共に薄れていく。
問題のビル周囲に見える燐光の量から、かなりの数の【インビジリアン】が恒常的にビルに出入りしているのは間違いないだろう。
であれば、このビルが連中の塒──「巣穴」である可能性はかなり高い。
「どうする、ショウ? ビルに入ってみる?」
相当数の【インビジリアン】が生息しているであろう、「巣穴」。そこに立ち入るのは当然危険だ。
【インビジリアン】は特段夜行性というわけではないようで、昼でも夜でも同じように活動する。
もしもこのビルが「巣穴」であったとしても、ここに棲みついている【インビジリアン】の全てが中にいるわけではないだろう。
それでも、「巣穴」がどれだけ危険な場所であるのか、発掘者であれば誰もが知っている。
「ここが『巣穴』であるなら、中に【クリスタ】があるかもしれないわね」
発見数の少ない【クリスタ】だが、これまでに最も発見されてきた場所は【インビジリアン】が数多く生息する場所──つまり「巣穴」である。
そのためキャロラインが言うように、このビルの中に入ればクリスタが手に入るかもしれない。
「…………よし、とりあえず中に入ってみよう。で、連中の数が多ければすぐに撤退する。それでどうだ?」
「All right. それでいきましょ」
ショウの提案に、キャロラインはぱちりと片目を閉じながら応じた。
◆◆◆
カワサキ・シェルター。
現在の人口は約五千人。世界各地に点在するシェルターの中でも、大規模な部類に入る。
関東圏では最大のシェルターであり、その面積は約40平方キロメートル。かつての川崎市の三分の一ぐらいの広さだ。
外周をコンクリートの壁や鉄条網などで覆い、外敵──【インビジリアン】やシェルターに対して敵対的な人間など──に対して備えている。
独自の守備戦力を有し、この戦力をシェルターの住民たちは敬意と親しみを込めて「自警団」と呼んでいた。
SFの映画やコミックなどに登場するような、シェルター全域を覆うような巨大なドームは存在しない。そのため、大気の汚染状況を知らせる天気予報は、住民にとって最も必要不可欠な情報の一つだろう。
シェルターの代表はウイリアム・フィッシャーマン。彼を筆頭に、各分野の専門家がAIなどをサポートに使用しつつ、彼とシェルターを支えている。
そのシェルター代表であるウイリアムはと言えば、義娘相手に愚痴を零している真っ最中だった。
「大体よぉ、オレぁ元々軍人であって、政治家じゃねえっつーの。そんなオレにシェルターの代表なんかやらせるのがそもそも間違いってモンだよなぁ」
ウイリアムはかつて、米軍ヨコスカ・ベースに所属していた軍人であった。【パンデミック】発生直前に入隊した彼は、配属先のヨコスカ・ベースに着任した途端、【パンデミック】による世界規模のパニックに巻き込まれたのである。
世界中の国々がその機能を失っていくに従い、それぞれに所属する軍も乱れに乱れた。
ゲリラ的に発生する大気中の【インビジルブ】の高濃度状態……【ブルーミスト】により、大気の状態が予測不明となることがしばしば発生、結果、航空機を飛ばすことが難しくなった。
飛行中の航空機が【ブルーミスト】中に突っ込んだ場合、エンジンに十分な酸素が供給できなくなり、墜落する可能性が高くなるからだ。
【パンデミック】の初期、この【ブルーミスト】による航空事故──通称【ブルーストライク】──が相次ぎ、人類は空を飛ぶための翼を奪われた。
結果、当時の在日米軍は船舶による故国への帰還を選択した。だが、海にも【インビジブル】による汚染は徐々に広がっていたのだ。
海洋生物が【インビジブル】に感染し、水棲【インビジリアン】へと変貌するのに、それほど時間は必要なかったのである。
元より体が大きかったクジラやダイオウイカなどの大型海洋生物は、感染によって更に巨大化・狂暴化し、軍艦をも沈めるほどの巨大な怪物……いや、怪獣へと変貌を遂げた。
これら巨大怪獣によって何十何百という船舶が海の底へと沈み、母なる海は人類へと牙を剥く存在へと変わってしまったのだ。
「……てなわけで、オレたちゃ故郷へ帰ることもできなくなっちまったんだな、これが。まあ、中には無事にステイツへ帰還できた連中もいるらしいが、当時はあっちと連絡も取れなかったから、詳しいことは分かりゃしねぇ。果たして何人が無事に向こうに着いたのやら」
「小さい頃から、何回も聞かされたよ、その話」
カワサキ・シェルター外周部に存在する、【インビジブル】感染者を隔離するための施設。その談話スペースの一つに、ウイリアムとアイナはいた。
「でも、お義父さんは自分からこっちに残ったんでしょ?」
「まーな。オレぁ天涯孤独でステイツに親族がいたわけでもねーし。それに、オレぁガキの頃からジャパニメーションやトクサツが大好きでなぁ。入隊後の配属先がヨコハマ・ベースと聞いた時にゃ、小躍りしながらジーザスに感謝の祈りを捧げたモンさ」
だが、ヨコハマ・ベースに配属された彼を待っていたのは、世界トップクラスの華やかさを誇るジャパニメーションでもなければ、ハリウッドに比肩するほどの技術を持ったトクサツでもなかった。
彼を待っていたのは、B級SFムービーのような宇宙からの侵略者だったのだ。
「ま、その後もアレやコレやあって、気づけばカワサキの代表者サマってわけだ。ホント、こういうのをこっちの言葉で『一寸先はゴミ』って言うんだよな?」
「それを言うなら、『一寸先は闇』だよ、お義父さん」
「あれ? そうだっけか?」
ちなみに、二人のやり取りは日本語である。カワサキ・シェルターでは、日本語と英語が日常的に使われており、誰もが両方の言語を問題なく操る。
更には中国語やハングルもかなり普及していて、シェルター内ではこれら四つの言語をあちこちで見かけることができるだろう。
「よっし、そろそろ休憩も終わりだ。お仕事に戻るとしますかね」
「うん、アタシも感染した人の経過観察に戻るよ。お義父さんもお仕事頑張ってね」
「愛する義娘と話して、お義父さんも元気出たぜ! ありがとな!」
「アタシでよければ、これぐらいはいつでも」
手を振りながら談話スペースを出ていく養父に、アイナはにっこりと微笑む。
ちらりと談話スペースの窓から外へと視線を向ければ、空が徐々に茜色へと変わっている。
「しょーちゃん……今日は帰ってこないのかなぁ?」
ショウとキャロラインが発掘へと出かけ、その帰還が日を跨ぐ時はこれまでもあった。
シェルター内やその近辺ならば無線も届くし、生き残っている通信衛星を利用したシェルターとシェルターを繋ぐ回線も、ある程度は復旧している。
それでも、廃墟内はほとんど無線が使えない。【ブルーミスト】には電波を攪乱する性質もあるようで、そのため【ブルーミスト】が色濃い廃墟からはほぼ無線が通じないのだ。
「いつ帰ってきてもいいように、ご飯の準備だけはしておくからね」
だから無事に帰ってきてね、と心の中で呟いたアイナは、気持ちを切り替えて自分の仕事へと戻っていった。