〈ギガンテス〉
新章始まります。
はあはあと自分が吐き出す荒い息が、男性の頭の中に異様に響く。
頭痛のようにがんがんと鳴る頭を振りつつ、男性は一緒に物陰に身を潜める女性へと目を向けた。
「大丈夫か?」
「わ、私は大丈夫……で、でも…………」
あまり顔色のよくないその女性は、男性が背負っているソレへと目を向けた。
「良かった……変わりはなさそうよ」
男性に背負われてやすやと眠るのは、一人の子供。年齢は十歳には至っていないだろう。
男性と女性が切羽詰まった様子を見せているのに対し、その子供は実に気持ちよさそうに眠っている。
「何としてでも、この子だけはここから脱出させないと……」
女性の表情に影が落ちる。それを見定めた男性は、あえて明るい声で告げる。
「違うだろう? その子だけじゃなく、僕と君も『教団』から抜け出すんだ」
「ええ、そう……そうね。『教団』から抜け出し、私たちは実験体ではなく普通の人間、普通の家族として暮らすのよね?」
「そうだとも。僕たちは普通の家族のように、普通に暮らしていくんだ。そのためには、絶対に必要なモノがあるよね」
「必要なモノ……?」
女性は不思議そうな顔で男性を見つめる。
「僕たちもかつては持っていたはずだけど、今は抹消されてしまったもの」
「それってもしかして……」
「そう、名前さ。実験体としてのナンバーではなく、普通の人間として互いに名前で呼び合うんだよ」
「それはいい考えだわ! でも、私たちにはどんな名前が似合うかしら? 以前あったはずの名前はもう記憶から消されてしまったし……」
「そうだね……僕たちの名前はここを無事に脱出してから考えよう。でも…………実はその子の名前だけはもう考えてあるんだ」
どこか照れたような様子を見せる男性を、女性は急かす。
「どんな名前なの?」
「────って名前はどうだろうか?」
◇◇◇
「スルガ屋」から自宅ではなく、直接カワサキ・シェルター運営本部にあるウイリアムの執務室へと向かったショウは、そこにカワサキ・シェルターの首脳陣が勢ぞろいしているのを目にした。
「カワサキ・シェルターの滅亡とは穏やかじゃないな。一体、何があったんだ?」
ショウは一同をぐるりと見回した後、部屋の主であるカワサキ・シェルターの代表へと尋ねた。
今、ここにいる首脳陣は全員顔見知りだ。彼らへは目礼を済ませれば失礼とは思われないだろう。
カワサキの首脳陣とは言っても、特権階級というわけでもない。
住民全てが協力しあって生きているのが各地に存在するシェルターであり、その運営上必要となる各部署の責任者が首脳陣というだけである。
つまり、ショウたちシェルターの一般住民と、首脳陣たちの間に身分的な差などないのだ。
「あー、わざわざ済まんな、ショウ。ちょいとおまえの力を借りたくてなぁ」
「俺の力?」
「ああ。具体的に言うと、おまえが所有するあの装甲車とイチカたちを借りたいんだよ」
いつものように、軽い調子で話すウイリアム。彼も緊急の連絡を受けて、自宅から急いでここへ来たのである。
だが、今の彼が一切ふざけてなどいないことは、今日まで一緒に暮らしてきたショウにはよく分かる。
おそらく、カワサキ・シェルターが滅ぶかもしれないというのは、何かの比喩などではないようだ。
「一体、何が起きたんだ? 詳細を教えてくれ」
「実はなぁ……って、これはまだ公言しちゃならねえ情報だから、他言無用にな?」
そう言い置いて、ウイリアムは言葉を続けた。
「新種の【インビジリアン】……それも、超大型【インビジリアン】が発見されたのさ」
◆◆◆
ぱるぱるぱるぱる、という静かな電動モーターの音を響かせながら、アイナは職場であるカワサキ・シェルターの直営医療施設──住民たちからは「カワサキ病院」と呼ばれている──へ愛車である小型バイクで乗り入れた。
被っていたジェットタイプのヘルメットを脱ぎ、軽く頭を振って髪を揺らす。
「あ、アイナせんせーだ!」
声がした方へと目を向ければ、五歳ぐらいと思しき少女が手を振っていた。その傍らには母親であろう女性。
怪我か病気で、母親と一緒に医療施設を訪れたのだろう。
手を振る少女に応えて笑顔で手を振り返せば、少女は満面の笑みで母親を振り返った。
母親もぺこりと頭を下げ、そのまま少女の手を引いて病院を後にする。
遠のいていく母子の背中を見て、アイナの脳裏にふと自身の両親のことが思い浮かんだ。
父親はごく普通のサラリーマンで、母親は専業主婦。
父親がどんな仕事をしていたのかは記憶にない。ただ、やたらと転勤が多くてしょっちゅう引っ越していたのは覚えている。
同じ所に三年以上いたことがなく、早ければ半年ほどで引っ越していた。そのためか、それとも幼かったからかは不明だが、アイナには学校へ行った記憶もほとんどなく、友達も全然いなかった。
それでも、両親はアイナに優しかった。もちろん、叱る時は叱ったが、決して理不尽なものではなかった。
その両親は、【パンデミック】で【インビジリアン】に殺された。両親もアイナも運良く【インビジブル】に感染こそしなかったが、感染して変異した【インビジリアン】──顔見知りが目の前で【インビジリアン】に変異した──が両親に襲いかかったのだ。
両親が死んでからのことは、アイナもよく覚えていない。気づけば、今の養父であるウイリアムに引き取られていた。
自分よりもひとつ年下の、一人の少年と共に。
◆◆◆
「お、アイナじゃーん。おはおはー」
医療施設の建物へと向かうアイナに、気安く声をかけてくる者がいた。
「あ、スワティおはよー……って、もうお昼だけどね」
「お互い、今日は昼からのシフトだからねー」
スワティと呼ばれたのは、浅黒い肌と黒い髪の20歳前後の女性だった。
本人いわく両親はインド出身だが、彼女自身はこちらで生まれ育ったのだとか。
現在は医療施設で看護師として働いており、年も近いことからアイナとは親しい。
「おお、それが噂の弟くんからのプレゼント?」
スワティはアイナが着ているレザージャケット──赤いダブルライダース──を見て、目を輝かせる。
「いいな、いいな、アイナはいいなー。そんな高価な革ジャンをプレゼントしてくれる姉思いの弟がいてさー。ウチの弟なんて、お菓子ひとつくれないよー?」
「高価って……確かにそうかもだけど、これ、しょーちゃんが自分で見つけた発掘品だからね。実際にお金出したわけじゃないよ」
「それこそだよー。発掘って、まさに命がけじゃんね? その命がけで得た戦利品をぽーんとくれるなんて、相当愛されているからっしょ?」
「あ、愛されて……で、でも、アタシだけじゃなく義父さんや義兄さんたちもジャケットもらっていたし……」
頬を染め、もじもじと身を動かすアイナを、スワティはにまにまとした笑みを浮かべて見つめる。
「何にしろ、羨ましいことは確かだよ。できれば、アイナの弟くんとウチのクソ生意気な弟を交換して欲しいぐらいさー」
「だめでーす。そんなトレードには応じられませーん」
二人の女性は、楽しそうに声を上げ笑い合った。
そうしながら、アイナは心の中で小さく呟く。
──しょーちゃん、お昼までに帰って来るって言っていたのに帰って来なかったな。何かあったのかな?
◆◆◆
「分かっちゃいるとは思うが、念のために言っておく。今からここで見聞きすることは、オレが許可するまで一切他で漏らすな。たとえアイナといえども例外じゃねえから、そのつもりで聞け」
いつも以上に真剣な様子の養父に、ショウも黙って頷いて見せる。
今、この場に来ているのはショウだけだ。「スルガ屋」で一緒だったミサキは、一足先に家へと向かった。
「まずはこいつを見てくれ」
ウイリアムが端末を操作すると、空中に映像が投影された。
首脳陣たちは既に見ているようで、特に驚くような反応もなく無言で映像へと目を向けている。
映し出された映像には、トーキョー遺跡らしき廃墟群が窺えた。これまで何度もトーキョー遺跡に入り込んだことのあるショウには、見覚えのある光景だ。
どうやらドローンで撮影されたようで、映像の視点がどんどん高くなっていく。
そして、手近に立っていたビルよりも高度を上げ、次いで映像が前へと進み出す。ドローンがある程度まで進んだ時。突然、映像が途切れた。
まるで、ドローンが何かに撃墜されたかのように。
「…………気づいたか?」
「ああ。遠くに何かが映っていたのがちらりと見えた。あれが……?」
ショウの問いに、ウイリアムは黙って頷いた。
「超大型【インビジリアン】の周囲に映っていたビル群との比較から、あの【インビジリアン】の全長は優に10メートルを越え、下手をすると15メートルにも及ぶかもしれないと推測される」
ウイリアムに代わって説明するのは、ショウの義兄の一人でありカワサキ・シェルターの電子・通信部門の主任でもあるドウモト・コウスケだ。
彼は端末を操作して、画像が途切れる直前で映像を止める。
そこには、廃墟と化したトーキョー遺跡に乱立する廃ビル群の中に、明らかに異様な存在が映し出されていた。だが、距離がありすぎてその存在の詳細な姿は確認できない。
「オレたちはこの超巨大【インビジリアン】を、〈ギガンテス〉と命名した」
以後はこの名称で呼ぶようにな、と続けたウイリアムに、ショウは頷いて見せる。
「この映像の出所は?」
「こいつぁゲンタロウたちのチームが撮影したモンだ。もちろん、あいつらにも他言無用は命じてある」
ゲンタロウとは、ここカワサキ・シェルターの建設にも携わった超ベテランの発掘者で、ウイリアムとも縁が深い人物である。
ショウもゲンタロウとその仲間たちのことはよく知っている。彼らがこの映像を提供したのであれば、件の超大型【インビジリアン】──〈ギガンテス〉の実在は間違いないだろう。
しかし、それをすんなりと信じられない者も、やはり存在していた。
「だがね、フィッシャーマン代表。本当にその〈ギガンテス〉とやらは実在するのかね? 我々が見た映像が、何らかのフェイクや合成という可能性はないだろうか?」
と、横から口を挟んだのは、小柄でひょろりと線が細く、ついでに髪の毛も薄い男性だった。




