1/流転の森 -9 影の魔獣
「ッ!」
影の頭部を横断するように切れ目が走り、ラグビーボールのような形に見開かれる。
それは、目だった。
一ツ目の怪物と化した影が、徐々に厚みを帯びていく。
「──ヘレジナ! プルの影!」
「え──」
プルが己の影を見ようと振り返る前に、ヘレジナは既に動いていた。
「疾ッ!」
腰の鞘から抜き放つ一連の動作でそのまま短剣を投擲し、影の目を地面に縫い止める。
その瞬間、プルの影から厚みが失われ、即座に元の大きさへと立ち戻った。
「影の魔獣! 夜を渡ってきたのか!」
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
壊れた蝶番のような音が周囲にこだまする。
「わ、わ、ふぎゃ!」
プルがその場に尻餅をつく。
パンツが見えたが、今はそれどころではない。
「今のが魔獣か?」
そう尋ねながらも、プルの影の異常を見逃さないよう注視する。
「プルさま、お怪我は!」
「だ、だいじょうぶ、……でっす! それより、ま、魔獣は、まだわたしの影のなかに──」
言葉を紡ぎながら、プルが右手を腰の後ろに回す。
そして、
影に刺さった短剣を抜き、
その刃先で自らの喉を刺し貫こうと──
「プル!」
小脇に抱えていたスーツの上着を放り捨て、慌ててプルの手首を掴む。
だが、元来の腕力か、それとも魔獣によって強化されているのか、彼女の腕は頑として動かなかった。
「く、……ッ!」
空いた左腕で、胸を思いきり突き飛ばされる。
転ぶことこそなかったが、数歩の距離ができてしまった。
プルが、ゆらりと立ち上がる。
「プルさま、お気を確かに!」
ふらふらと頭を前後に振りながら、プルが苦しげにうめく。
「──か、から、……だの、自由が……」
ぎい、ぎい。
ぎい、ぎい。
無機質なその鳴き声に愉悦が混じっているように感じられるのは、恐らく気のせいではないだろう。
そのとき、世界が漂白され、選択肢が眼前に現れた。
【黄】プルから短剣を奪う
【赤】逃げる
【赤】プルに体当たりをする
【黄】様子を見る
色を失った世界で、俺はただただ呆然とする。
黄。
赤。
赤。
黄。
冗談じゃない。
どれひとつとして安全な選択肢がない。
どの選択肢を選んだとしても、俺は何らかのリスクを負わなければならないのだ。
赤枠の選択肢は論外だ。
選ぶことを想像しただけで怖気が走る。
俺の無意識が本能的に危険を察知しているのだろう。
選び得るのは黄枠の選択肢のみ。
すなわち、
プルから短剣を奪おうと試みるか、
あるいは一度様子を窺うか。
前者については一度試した。
だが、あの膂力に立ち向かって容易に短剣を奪えるとは思えない。
後者はどうだ。
状況が進めば進むほど事態は悪化していくように思う。
なら、迅速に行動したほうがいいんじゃないか?
思考が堂々巡りを繰り返す。
前者を選ぶべきか、後者を選ぶべきか。
わからない。
何もかも、わからない。
心中で頭を抱えていると、
──す、と。
【黄】プルから短剣を奪う
この選択肢が掻き消えた。
「……は?」
俺の口から間抜けな声が漏れる。
何故消えた。
どこへ消えた。
色のない世界を見渡すと、理由はすぐに知れた。
プルに巣食う魔獣が、今まさに、ヘレジナへ向けて短剣を投擲するところだったからだ。
短剣を持っていなければ、短剣を奪うことはできない。
自明の理だった。
つい忘れていた。
選択肢を選んでいる最中も、ゆっくりと、しかし確実に時間は流れていくのだ。
タイミングを逸すれば、また選択肢を失うだろう。
短剣を奪えなくなった以上、様子を見る以外に道はない。
「……わかった。様子を見る」
そう呟くと、光の粒となった選択肢が、世界を彩色していった。
様子を見る。
そう決意した肉体は、今や完全に動きを止めていた。
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