最終バス
念のためにリュクサックへ入れたレインコートの出番はなかった。少し荷物だが、使わないに越したことはない。
自宅のアパートから3時間ほど自転車に乗り、私は目的地の寺にたどり着いた。現地は風が吹いていて少し肌寒い。やや傾斜になっている砂利道を進んでいくと高い塔が見えた。五重塔というやつだろうか。当然ではあるが、中学生の時の教科書に載っていた建物と同じだ。
私は旅をするのが好きだ。普段の日常から抜け出し、非日常を感じる感覚がたまらなく心地よい。将来どんな風に生きていくかは考えていない。だがなんとなく、こうやって遠くへ行く生活を続けていたいと思う。
生まれたのは厳格な家庭だった。幼い頃から礼儀規律を教え込まれ、親に言われたとおり勉強し、大学に入った。そこでたまたま履修した風土学を学んで弄れた私は、ある日講義を休んで他の土地へと飛び出した。その1回の決断で、私は土地の自然や建物、人の暮らしを見ることに魅入られてしまった。月に1度が2度になり、週末から平日になり、最後には大学に行くことも無くなった。その情報はやがて親に伝わり、大激怒された。今は連絡することも無い勘当状態である。
学校を辞めさせられた上に家にも帰れなくなったが、自由に生きたかった私は、家に連れ戻されなかったことを勝手に最後の情けだと思っている。
今はアルバイトをして生活しているものの、家賃を払うことが精一杯で趣味に使い込めるまでのお金は多くない。用意できるのはご飯代、寝床用のホテルかネットカフェ代、少しの交通費ぐらいだ。目的地までバスを乗り継ぐといった贅沢はできないから、旅の殆どは自分の足――そしてがたがきてはいるが相棒の自転車が頼りだ。あまり遠くには行けないが、今となってはゆっくりと移動して町並みを肌で感じる事は何よりの幸せだ。
心ゆくまで周辺を満喫し、自宅へは次の日の夜までに帰ることができた。この自転車はライトが割れて壊れているので、夜に乗ることができない。だから明るいうちに帰らないといけないのだった。いつか付け替えなければと思っているものの、いつも夜までに帰れてしまっているのでなかなか新しくなっていない。
「おお君か、おかえりなさい」
自転車を止めようとしていると、庭の倉庫から大家さんが出てきた。掃除中らしくエプロンとマスクをしている。私は小さくお辞儀をし、こんばんはと小さく呟いた。
大家さんは米寿をこえていながら、元気ではきはきとした性格だ。昔はスポーツマンとして活躍していたらしいとお隣さんから聞いている。引っ込み思案で少し疑い深い性格な私はそんな大家さんを少し苦手に思っていたから、もしや今すぐアパートから出て言ってくれと通告されるのでは無いかと思った。よく考えれば大家さんは声をかけただけだから、あまりにも失礼な話である。
大家さんは何かをぶつぶつと吐きながら私にその場で待つように言うと、再び倉庫に入っていった。緊張で耳に心臓の音が響く。
「君、これを貰ってくれないかい。倉庫を掃除していたら出てきたんだ」
大家さんが倉庫から取り出したのは催促状ではなく自転車だった。白い、少し錆がついているもののロゴや会社名も書いていない奇麗なフレームをしていて、高齢の大家さんが持ち上げられるほど全体的に小さい。恐らくミニベロという機種だろう。倉庫に使わないものを放り込んでいく住人をよく見るが、昔の住人が置いていったのだろうか。
「いつもそのボロボロの自転車でどこかへ行っているじゃないか。いつもバイトをしているし、お金がないんだろう? ほら、こっちのほうがきれいだから使いなさい」
確かに私の自転車はボロボロだ。ライトもつかないし、かごは歪んでいるし、塗装も所々禿げている。だが、相棒と思っている程大事な自転車だった。なけなしのお金で買った、思い出の自転車だった。
「ありがとうございます大家さん。ですがこの自転車が良いんです。そうだ、他の住人さんにも聞いてみてはどうですか」
「このアパートに住んでいる人たちは全員職場とか学校が近場にあるから要らんよ。自分ものらないしほら、貰ってくれないか」
私は大家さんのその言葉を意外に思った。大家さんは確かに活気のある人だ。しかしそれは何か物事をするのに精力的で若々しいという意味で、こんな風に人の意見よりも自分の意見を前に出すような性格ではなかったからだ。
おろおろとながらミニベロを見てみると、サドル埃を拭きとるように水の跡がついていることに気が付いた。サドルだけではなく、フレームにも埃が付いていなかった。元から私に渡すつもりで、捨てる気はないようだ。
私と大家さんは立ったまま黙り込んでしまった。何かを話さないと終わりそうになかった。このような雰囲気は苦手だ。
何を話せばわからなくなってしまい、結局使う予定もないのに受け取ってしまった。
受け取った自転車は自宅の扉の前へ置くことにした。アパートの自転車置き場は満員で置くことができない。普段はそこへ置くことが決まりになっているが、埋まっていて無理なら構わんと大家さんが許可してくれた。
少々通路を塞いでしまうから、申し訳程度に壁へ近づけておく。離れて見てみると、まるでアウトドア気質で活発な人が住んでいるようななかなかいい感じになった。使いはしないだろうが、インテリア程度にはなってくれそうである。私は満足して家の中に入った。
数週間後、ニュースで天気を確認した私は旅へ行くことを決めた。今日ぐらいに外へ出ようと予定してシフトをいれないでいたので、心置き無く出かけることができる。
今日は山の方へ行こうと思う。大きな滝があると聞いているから、それを探しながら進んでみよう。汗をたくさんかくだろうから着替えを持っていくといいかもしれない。
リュックサックに荷物を詰め込み家を出た。鍵をかけるのは忘れない。サイフだけでなく通帳もすっからかんで盗まれて困るものはほとんど持っていないが、開けっ放しだと大家さんに声をかけられるので念のため。私は自転車のもとへと向かった。
「あれ……?」
意気揚々と自転車に乗ろうとしたが違和感を覚えた。挿した鍵が空回りする。馬蹄錠が開かないのだ。
色んな方向に力をかけて回してみるが――駄目だ、全然引っかからない。ネジ穴でもあれば分解してみようと思うのだが、見当たらなかった。ネジ穴があれば分解して盗難できるから当然か。
近所の自転車屋はどうだと調べてみるものの、今日は丁度定休日らしい。次に近い店も見てみるが2キロも先だった。歩いて行くには少し遠すぎる。
これでは出発することができない。慌てて解決方法を検索しようとしたが、あることを思い出し、自宅の扉を見た。
これみよがしにミニベロが立てかけてあった。
まさかこんなにも早く出番が来るとは思わなかった。試し乗りもしていなかったので動くか心配だったが、錠を外すと無事に動いた。
アパートに置いてきた相棒には申し訳ないが、ガタガタせず乗り心地も良い。大家さんが倉庫から出した後に点検でもしてくれたのだろうか。タイヤが小さくなった分増える漕ぐ回数もあまり気にならなかった。私は町中を軽快に進んでいった。
町を通り過ぎて人通りの少ない山道を進み、寄り道しながら目的地にたどり着いた。昼の2時すぎ、いい時間だろう。
滝の周りを歩きながら、立ち寄った道の駅で買ったおにぎりを食べた。近くで栽培されているお米を使っているらしく、ラップにくるまれていて手作り感のあるところが気に入った。地域活性化活動のうちのひとつらしい。具が自分の好きな昆布なのもうれしいところだ。とてもおいしい。
滝口の方に続く階段があったので登ってみると、奥が展望台になっていた。ベンチがあったので腰を下ろす。景色を見ると、奥の方に小さな村らしきものが見えた。田んぼが多いように見えるから、もしかするとこのおにぎりのお米はあそこで作られたものかもしれない。
「行ってみるかな」
売っているかはわからないが、このおいしいおにぎりを食べられるかもしれない。私はその集落へ向かうことにした。おにぎりを食べきり、自転車のもとへ戻る。
1時間で着いて観光、そのあと山を駆け下りれば夜には町に間に合うだろう。この自転車はライトが付くので夜走れるのが心強い。
腕時計を見ながら自転車にまたがり、動き出そうとした時だった。バキッという音とともに急にペダルの抵抗がなくなった。立ち漕ぎをしていたので、思い切りサドルにお尻を打ち付けた。
「痛っー!」
とてつもない痛みがお尻を襲った。耐えきれず自転車から降りてお尻を抑えて悶える。何が起こったんだ。
痛みでしゃがみこんだまま、顔をおこして自転車を見た。タイヤの隙間からひものような物が飛び出ている。チェーンが切れていた。
痛みが引くまでと5分ほど休んだが、お尻が痛すぎて歩けなかった。あまり考えたくはないが、骨折しているような気がする。
自転車が壊れてしまっては歩いて帰るしかないが、歩くことができない。家に電話したいところだが、今の関係だと敷居が高い。私は最終手段を救急車を呼ぶことに決め、とりあえずは目の前の道路を通る車に助けてもらうことに決めた。
おしりの下に着替えを置き、道路脇に座り込んだ。驚いたからかお腹が空いてきた。おにぎりがあればいいが、すでに食べきってしまった。
私は大きなため息をついた。朝と今と、2回も自転車の調子が悪いなんて運がない。もしかしたら今日は運がない日で、車も通らなかったりするかもしれない。ありえそうで笑ってしまった。
30分経ったが車は通らなかった。痛みは引かない。何もできず、眠くなり始めた。後30分待ってだめなら救急車を呼ぼうか、いや今呼ぼうか。だが救急車を呼べば家族に連絡がいくだろうから、また怒られるだろう。しかし誰かが来なければ帰ることもできない。どうするか。
踏ん切りがつかず頭を搔きながら悩んでいると、エンジン音がかすかに聞こえた気がした。
「来た!」
私は立ち上がって辺りを見渡した。だが体が即座にお尻のことを思い出ししゃがみ込む。気分が落ち込んでいたから、嬉しさで飛び上がってしまった。
エンジン音は正解だったようで、もう少しだけ待つとバンが走って来た。運転席に向かって手を振ると、目の前で止まってくれた。
「こんなところで座り込んでどうしたんですか」
運転手が窓を開けて声をかけてくれた。黒い制服を来ている。どこかのお店に務めていて、その行き帰りだろうか。
「乗ってた自転車が壊れてしまって。お尻を強く打ち付けてしまったので山の下まで送ってくれませんか」
私が事情を話すと、運転手は驚いた顔をした。
「下の方の町からここまで自転車で! ようここまで来ましたねえ。どうぞ乗ってください」
運転手が優しい人で安心した。私は荷物をリュックサックに詰め、助手席に乗り込もうとした。
「その自転車も乗せていいですよ。後ろ使ってください」
「自転車もいいんですか?」
「ええ、ここに置いていくとかわいそうでしょう。幸い誰も乗ってないんで空いているんです」
後ろのスライドドアが開いた。運転手は私が自転車を持てないのを見て、積み込むのを手伝ってくれた。中に乗り込むと、後部座席には窓を背として向かい合わせに長椅子が置いてあった。
「この車はバスなんです。今来た道の先に村があって、そこと町をつないでいます。こちらに座っても大丈夫ですよ」
村は目指そうとしていた場所だろう。見回すと壁に交通機関のステッカーが貼ってあった。人が少ないから小さい車で運行しているのだという。
私はここに座りますと言って、要らないとは言ってくれたがバス代を払った。シートベルトは無く、備え付けられている棒をつかんだ。バスはゆっくりと走り始めた。
「お客さん運がいいですねえ、今日はこれが最終便なんですよ」
「最終便ですか? まだこんな時間なのに」
腕時計は16時を指していた。しかもまだ日中だ。
「ええ、最終便です。見ての通り乗る人がほとんどいないので、本数が少ないんです。今日は既に3回往復しているんですが、乗るのは荷物だけで人は1人も乗りませんでしたよ。お客さんが本日第一号です」
運転手は笑った。確かに展望台から見た村は家が少なかった。自分のような若者は町へ出て、高齢者しか残っていないのかもしれない。
「そんなに少ないのに、なぜバスを運行しているんですか?」
私がそう聞くと、運転手は少し間を開けて答えた。
「わたし、村の出身なんです。会社にここの運転手を志願して、運転させていただいてます。父と母が村に住んでいて毎日会えるので、職権乱用みたいなものですね」
運転手はまた笑った。
「今は人口が少ないですが、昔は人が大勢いて、近くにある川で遊ぶ観光客が多かったんです。ここの運行を指示している社長もその1人でした。……この村を忘れたくないんです。このバスが無くなれば本当に人が来なくなって、忘れられてしまうでしょうから」
私はその話を聞いて自転車を見た。バスを待っているときに見つけて気になっていた事だが、真っ白のフレームの端の塗装が剝げ、うっすらと文字が見えていたのだ。そこにはアルファベットで「1960 KOUJI」と書かれていた。アパートの大家さんの名前だった。大家さんが昔使っていたのだろう。
天井を見上げ、大家さんのことを考えた。頭に浮かぶ大家さんは元気に笑っていて、いつも挨拶をしてくれて、よく散歩にも出かけていて、バイト先にもたまに遊びに来ていて……だがいつも1人だった。
「いつかこのバスも無くなってしまうでしょう。ですがそうなっても、みんなに覚えていてもらえるように伝えていきたいと思います。お客さんもどうか忘れないであげてください」
バスは坂道を下り始めた。窓の奥には町が見え始めていた。