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5)空白地帯

「おはよーございます。先生、今日って放課後に手伝うことないですよね?」

 朝、いつものように観察簿を持ってきた和都の第一声がそれで、仁科はポカンとしつつも差し出された観察簿を座ったまま受け取った。

「おはよ。うん、今日はないよ。明日はアンケートの集計やるけど」

「……そうだった」

 アンケート集計と聞いて和都がわかりやすくうなだれる。

 先日、散々ホチキスで留めていたプリントは健康に関するアンケートだったのだが、その回収期限は明日だった。

「今日、なんかあるの?」

 そう言いながら、仁科がコーヒーを入れるために椅子から立ち上がる。

「体育館の整備点検で部活ないから、小坂のおばーちゃんに話を聞きに行こうと思って」

「あぁ、例の神社探しか。気を付けて行っといで」

 コーヒーを注いだカップを持ったまま、仁科は和都におもむろに近づいて、頭を撫でる。

 そしてそのまま少しだけ屈んで、和都の額に唇で触れた。

 ──……だんだん、慣れてきちゃってるのがなぁ。

 どうなのだろうか、と思っていたのだが、されることにもすっかり慣れた上に、向こうも当たり前の習慣のようになっているらしい。

 思わず、若干呆れ気味に、じっと仁科を見上げてしまった。

「なに?」

 視線に気付いて、仁科が首を傾げる。

「いや、普通にするなーと思って」

「雰囲気とか作ったほうがいい?」

「そんなこと言ってません!」

 相変わらず、何を考えているのか分からない。

 和都はわかりやすくため息をついて、

「……ったく。じゃーね!」

 そう言って保健室を後にした。





 放課後になると、いつものように4人で下校する。普段なら和都の家のある方へ向かう道に繋がる十字路でそれぞれ別れてしまうのだが、今日は塾がある春日のみ駅の方へ向かい、そこから特に予定がないという菅原も一緒に、小坂が普段使っている通学ルートへ足を向けた。

 小坂の家は、狛杜(こまもり)高校の最寄駅より1つ隣の駅の向こう側にある。ちょうど高校からも見える、小さな山の麓あたりだ。

 駅の向こう側へ周ってしばらく行くと、小山の方へ登っていく道の近くに小さな商店街があり、その入り口に『小坂商店』と看板を掲げた昔懐かしい雰囲気のお店がある。これが小坂の祖母が営んでいるお店だ。

 小坂はお店の前に押してきた自転車を駐めると、出入り口の引き戸を開ける。

「ばーちゃん、ただいまー」

 来店を知らせるチャイム音に気付いて、奥から紺のエプロンをつけた白髪の小さなお婆さんが出てきた。

「あらあら。おかえり、トモくん」

 そう言いながら、やってきた3人の高校生をお婆さんが出迎える。お婆さんは少しだけ腰が曲がっていて、ニッコリ笑うシワの多い顔は、どことなく小坂に似ていた。

「あ、ご無沙汰してまーす」

 菅原がいつものことのように、お婆さんに声を掛ける。

 小坂自身の自宅はここからもう少し奥まったとこにあるのだが、お店の方が学校に近いので、部活のない日などは菅原としょっちゅう入り浸っているらしい。

「菅原くんも久しぶりねぇ。……あら、そっちの子は?」

 一番後ろに立っていた和都に目を留めた。

「あ。えと、初めまして。相模和都と言います」

「まぁまぁご丁寧に。小坂キヌエと申します」

 和都が頭を下げたのをみて、キヌエも両手を揃えて頭を下げる。

 ──おれより小さい。

 久しぶりに下を向いて話した気がして、和都は密かに感動した。が、気を取り直して、

「あの、この辺りに昔あった神社のことで、お話を伺いたくて来ました」

「はいはい、トモくんから聞いてますよ。こっちにどうぞ」

「お邪魔します」

 人当たりの良さそうな顔で笑う和都に、2人のやりとりを黙って見ていた小坂と菅原が小さく引いていた。

「相模お前、ちゃんと猫かぶれるんだな」

「いやー、そらぁみんな騙されるわなぁ」

「どういう反応だよ……」

 和都本人としては丁寧に挨拶しただけのつもりだが、周りにはそうは見えないらしいので少々不服である。

 小坂商店は、昔ながらの駄菓子屋がそのまま日用品なども扱う商店になった形で、外から見える部分はお店になっており、奥はそのまま居住スペースだ。

 キヌエがおいでおいで、と招く方へついていく。お店のエリアと居住スペースの間は、会計付近が少し広いコの字形の、昔の家でいう土間のようになっているので、3人はそこに座って話を聞くことにした。

「この辺りの神社は、ほとんどその裏の『狛山(こまやま)』の中にあったそうですよ」

 のんびりとした調子でキヌエが話し始める。

「昔はもう少し山の範囲が広くて。でもほら、そこに電車を通したでしょう? その時に少し削ったんで、今くらいに。最初はそんなに高くない山だし、全部なくそうか、みたいな話もあったらしくて」

「平らにしようとしてたんですか?」

「そうそう。最初はそうだったみたい。だからその時に山の中にあった神さまを、よそに移動なさったんだって曾祖父さんが言ってましたねぇ」

 元々はこの地域一帯を綺麗に整地して、新興住宅地にする計画があったそうだ。しかしその計画は途中で頓挫し、狛山の麓を少し削って、線路を通すだけで終わったらしい。

 確かに図書室で郷土史を調べた時には、山を削って線路を通した話はあったが、住宅地の計画が無くなったという記載はなかった。

 和都は話を聞きながら、持ってきていたノートにキヌエの話を書き留めていく。

「そっか。それで高校周辺ってお寺に比べて神社が少ないんだなぁ」

「あぁ、言われてみれば、確かに」

 線路を通す前は、山側に神社、その反対側にお寺という感じで、数のバランスは良かったのかもしれない。

「山から移動させた神社はいくつだったんでしょうか?」

「確か2つだったかしら。山の反対側のほうにもう1つあるんだけど、そちらを移動させる前に住宅地の計画が白紙になっちゃったから、そこはそのまま」

「じゃあ、山には最初3つの神社があったんですね」

「あ、ううん。4つ」

 そう言ってキヌエが、シワシワの手を出して、親指だけ折って見せた。

「4つ?」

「山には元々4つあって、そのうち1つは電車を通す計画より、ずぅーっと前に移動されてるそうよ」

「……そうなんですね」

 和都はメモを書き終えると、鞄の中からゴソゴソと何重かに折られた大きな紙を取り出した。

 それを丁寧に広げると、ノートを8枚ほど並べたような大きさになり、そこにはモノクロの地図が描かれている。

「これ、この周辺の地図なんですけど……」

「そんなの持ってきてたのか」

「うん。わかりやすいかと思って」

 座っていた上がり框の上に地図を広げ、3人は立った状態で覗き込んだ。

 狛山は背が低いわりに範囲の広い山で、道路も線路近くに2本と山頂を通過する道の合計3本が、山の向こう側まで続いている。小坂商店を含む商店街は、その3本に分かれる広い交差点の手前にあった。

「えーと、小坂商店がここでしょ」

「線路通すついでに山潰すのが始まりだったなら、線路の辺りから移動させるよね、やっぱり」

「となると、神社は線路の近くにあったのかな? もしかしたら線路になってるかも」

 地図上に走る、線路を表す記号の線をなぞりながら、その周辺にあるものを見ていく。基本的には住宅が多いようだが、そうではなさそうな空間もちらほら見受けられる。

「この辺りに空き地っぽいのあるね」

「ここもそれっぽいけど」

 線路沿いに1箇所、そこから少し離れた山の斜面側に1箇所、気になる場所が見つかった。見つけたら紙の地図と、スマホの地図アプリで見ることのできる航空写真とを比べて確認する。

 何かがあったらしい痕跡はあるが、アプリの写真では不鮮明で詳細は分からない。和都は神社の跡地候補の場所として、紙の地図の上に赤ペンで丸を付けた。

「とりあえず、2箇所はこの辺、かな」

「あと1箇所かぁ」

「その時に移動したのか、古いものなのかはちょっと分からないんだけど、山の中腹にも神社があったそうですよ」

 キヌエの言葉に、地図上で捜索する範囲を線路沿いから山頂の方へ変えていく。

「そういや、坂道の途中に変な空き地あって、小学生ん時に遊んでたな」

「どの辺?」

「山頂に行くほうの道んとこだったと思うけど」

 小坂の発言から山頂を通過する道の周辺を中心に空き地らしい場所がないか見ていった。

 基本山なので、地図上の山頂周辺は何もない空間がたくさんある。ただ、航空写真を見る限りほぼ植樹された斜面のようだ。

「あ、この辺とか?」

 山頂を通過する道沿いに妙な空間を見つけて、和都が指を差す。しかし小坂の反応はいまいちで。

「どこだったかまでは覚えてねーけど、多分その辺じゃねーかなぁ」

 道路に接したそれらしい場所が他にないので、和都は赤いペンでそこに丸を書く。

 さらに山の向こう側まで見てみるが、現存する神社が記されていたので、結局この3箇所だろうという感じになった。

「あの、移動された神社って何て名前だったとかは、聞いてないですか?」

 地図を折り畳んで鞄に仕舞い込みながら、和都がキヌエに尋ねる。和都の本来の目的は『白狛(しろこま)神社』を見つけることなので、分かるのであれば名前は知っておきたい。

「あー、名前については聞いてないわねぇ。曾祖父さんなら知ってたかもしれないけど」

「そうですか……。ここには、今はもう何もないんでしょうか?」

「跡地ってわかるようにしてるとは、聞いてますよ」

「なるほど」

 それであれば、現地に行けばその神社が何という名前だったか、くらいは分かりそうだな、とノートにメモする。

「ただ、どれの話かは分からないんだけど、1つだけ小さな祠が残ってるとこがあるらしいの」

「祠?」

「商店街の裏手の、もっと外れのほうに住んでたお爺さんが毎週お世話に行ってたそうよ。でもその人も数年前に亡くなったから、どこにあってどうなってるかは分からないんだけど」

 キヌエさんの話によれば、そのお爺さんの家はお店をやっているわけでないうえ、ちょうど違う地区になるエリアに住んでいるため、それ以上の情報はないらしい。

 ハクの記憶では神様がいなくなり、人が来なくなった後も、小さな祠が残っていたそうなので、そこが白狛神社だった可能性は十分あり得る。

「そういや、移動した神社って、どこに移動したの?」

「線路を通す時に移動させた神様は、2つとも隣の県の大きい神社に移したって」

「神社に神社を引越しとかって、できるもんなの?」

「え? あぁ、どうなんだろう……?」

 小坂に言われ、和都もはたと思い直す。

 たしかに、神社は引越しをするものなのだろうか? 今まで考えたこともなかったので、和都はノートに調べることの1つとしてメモしておいた。

「その神社は、何という神社か分かりますか?」

「あら、なんて言ったかしらねぇ?」

 キヌエが困ったように首を傾げる。和都もそういうものに大して詳しくはないので、思いつきもしない。すると、

「隣の県で大きい神社ってなると、『安曇(あずみ)神社』とかかな?」

「あー、それそれ。『安曇神社』」

 菅原の言葉に、キヌエが思い出した、と嬉しそうに手を叩く。

「『安曇神社』? おれ知らないや。菅原、詳しいね?」

「詳しいわけじゃないよ。デカくて有名なのと、オレん家の初詣、毎年そこ行ってるってだけ」

「あぁ、なるほど」

 和都はそう頷きながら、ノートに『安曇神社』とメモをした。





「今日はありがとうね、小坂」

 話を聞き終えて小坂商店を後にすると、すぐそこの駅まで小坂が自転車を押しつつ、見送りについてきた。

「おう! いつでも来ていいからな!」

「昔ながらのお店って感じでいいよね。レトロでめっちゃ雰囲気あって」

「だろー? まぁでも、駄菓子と日用品だけじゃそんな流行らないから、結構大変なんだけどな」

「駅の反対側、大きいスーパーがあるもんなぁ」

 高校から小坂商店に向かう途中、駅の反対側を通ってきたので、大型スーパーが人で賑わっているのは見た。小坂商店のあった商店街も帰る前に少し覗いたが、確かに人はそちらに流れているように思える。

「そ。だから向こう側まで行くの大変な人とかが使ってくれてて、それでまだやってける感じ。あとは近場だけだけど、配達とかかな」

「へー。……え、あのおばあちゃんがやってるの?」

「いやいや。おれとか妹が休みの日とか部活ない日に交代でやってんだよ。量が多い時はかーちゃん達が車で行くけどね」

「そうだったんだ。小坂が計算得意なのってそれ?」

「まぁねー。できれば店はおれが継ぎたいから、大学もそっち系行こうと思ってるし」

「え、偉すぎる……」

 そんな話をしていたら、あっという間に駅の改札近くまで来ていた。

 小坂は「じゃーなー」と手を振って、自転車に乗って行ってしまう。和都は菅原と2人、駅の改札の方へと向かった。

「相模は、将来何になりたいとか、考えてんの?」

「なーんも考えてないや。菅原は?」

「オレ? 学校の先生やろっかなーって」

「えっ」

 小坂だけでなく、菅原もちゃんと考えていたことに驚いて思わず立ち止まってしまった。

「……そういうの、考えたこともなかった」

「ふーん。まぁ、大学行ってから見つける人もいるし、焦らず見つけたら?」

 菅原の言葉にうーんと唸りつつ、改めて改札の方へ視線を向けると、3つある自動改札の1つに、黒い大きな人影が視えた。

 その影は改札を通り過ぎるわけでもなく、人が通りぬける隙間にぼやぁっと立っていて、高さは3メートルくらいある。普通の人には視えていないようで、数人がその影をすり抜けるように改札を通っていった。

「ん? どうした?」

 先に歩き出した菅原が、不思議そうにこちらを見るので、和都は焦りつつそれらしい言い訳を考えて、

「あ。……おれ、せっかくだから歩いて帰るよ。電車乗っても1駅だし」

「それもそっか。じゃーなー」

 菅原が手を振って、当たり前のように改札を通っていく。黒い人影のいないほうを通っていったので、和都はホッと胸を撫で下ろした。

 黒い影は何か意志をもってあそこにいるようだ。動くことはないだろうが、近づいたら気持ち悪くなりそうな、いやな気配を感じる。

「さて、と……」

 歩いて帰ると言ったものの、自宅近くの十字路からここに来るまでのルートを、正直覚えていない。スマホを取り出して地図アプリを開くと、自宅までの最短ルートを確認しながら和都は歩き始めた。

「……みんないいなぁ」

 空は綺麗なオレンジ色に染まっている。

 その下を、人通りの少ない道を選びながら歩いていると、すぐ横からしゅるりと円を描いて犬の首だけのお化け、元狛犬のハクが現れた。

〔どうしたの? カズト〕

「あ、ハク」

 普段は姿を隠しているが、人気のない場所ではこうして霊感のある人間に視えるような状態で出てくる。原理はよく分からないが、神獣だったのでそういうのも可能なのかもしれない。

「みんな当たり前に将来のことを考えてるんだなぁって思って。なんか羨ましくなっちゃってさぁ」

〔将来?〕

「うん。おれはずっとここから居なくなりたいってことしか思ってなかったし、大人になる前に死ぬんだって漠然と思ってたから」

 時々地図で確認しながら、迷路のような小路をウロウロと、誰もいない真っ暗な家を目指して歩いている。

〔そっかぁ。でもカズトは、仕方ないかもねぇ〕

「まぁねぇ。散々な目にしか遭ってきてないし」

 未来が欲しいと思ったことはない。

 生きているのに精一杯で、いっそのこと、さっさと終わって欲しいとしか思っていない。

 それなのにまだ、なぜか、生きている。

「とりあえず今は、将来どーのより、神社見つけて鬼をなんとかしないと、生きてられるか分かんないからね」

〔そうだね!〕

 ため息をつきながら角を曲がると、目の前にたくさんの墓石が立ち並んでいた。どうやら墓地の入り口のようだ。

「……お墓だ」

 夕暮れ時、狭い路地の隙間にも、ふわりと線香の香りが漂ってくる。

 入り口から遠巻きに少しだけ中を覗くと、比較的近い位置に真新しいお墓があって、その前に手を合わせる女性と小さな子供がいた。女性は疲れたようにうなだれていて、その隣の子供は不思議そうにお墓を見つめている。

 お墓のほうに目を向けると、墓石のすぐ隣に半透明の男の人影が立っていた。事故に遭ったのだろうか、身体の右半身がぐちゃぐちゃに崩れていて、視線はぼんやりとお墓の前の2人に向けられているのが視える。

 駅の改札にいたものはかなり『よくない』感じがしたが、あの男性からはそんな感じがしない。以前は視えるだけで気持ち悪くなっていたのに、今はそこまで具合が悪くなる気配もない。

 ──先生のおかげ、なのかな。

 実感はあまりないが、着実にチカラは増えているようだ。

〔ねぇカズト、暗くなっちゃうよ?〕

「……うん」

 ハクに言われて、和都はその場を後にした。





「ただいまぁ」

 玄関を開ける頃にはすっかり日が落ちていて、誰も帰宅していない家の中は真っ暗だった。玄関から順番に家中の電気をつけていくと、和都はいそいそと奥の部屋へ向かう。

 部屋の明かりを点けると、小さなチェストの上の、小さな遺影の前に立ち、手を合わせた。

「今日はね、小坂のおばーちゃんのお店に行って、話を聞いてきたよ。色々聞けて楽しかった。神社の場所、ちょっと絞り込めたから、今度先生と行ってみようと思う」

 親切な彼らのことだ。

 きっと一緒に行ってみようと言ってくれるに違いない。

 だが、鬼をなんとかするためだ、なんて御伽噺のような理由を信じてもらえる自信はない。上手い言い訳を考えておかなければ。

「あとみんな、将来のこと考えてて、羨ましくなっちゃった」

 小坂も菅原も、先々のことをどうするか考えていて、やっぱり自分には何もないのだと思ってしまった。

 でも、今はまだ、その将来を望んでいいのかよく分からない。父親が生きていたら、こんなことも相談できたのだろうか。

 不意に、墓地で見た光景を思い出す。

「……本当はお線香とか、父さんにも必要なんだろうなぁ」

 線香をあげたら、この目でも視えたことがない父親に会えるのだろうか。そんなことを考えながら、部屋の明かりを消して出る。

 そのまま、奥の部屋から2階に上がろうとしたタイミングで、玄関のドアが開いた。

「ただいまー」

 ジャケットにスカートを履き、ビジネスバッグを肩に掛けた反対の手に買い物袋を持った、母親だった。

「あ、母さん。おかえりなさい」

 そう声をかけたのだが、入ってくる時は少し疲れているけれど普通の表情だったはずの母親の顔は、和都を見た途端にたちまち不機嫌そうに歪む。

「……まだ制服でいたの。ちゃんと着替えなさい」

 靴を脱いで上がりながら、母親はため息をつきながらそう言った。

 和都としては、見慣れた光景である。この人は、自分に「ただいま」と返す言葉や、笑いかける方法を忘れてしまったらしい。

「おれもさっき帰ってきたから」

「こんな時間まで何をしてたの?」

「……委員の仕事で、遅くなっただけだよ」

 春日以外の友達の家に行っていた、などと言った途端にヒステリーを起こしかねないので、それらしい嘘をつく。

 この人はそういう人なのだ。

 さすがに何年もこの調子でいられたら、こちらも対処法だって容易に思いつくようになる。

「ん?」

 不意に、スンスンスン、と母親が辺りの匂いをわかりやすく嗅ぎ始めた。なんだろう? と見ていると、眉間のシワを顰めて、

「お線香の匂い……」

「え? する?」

 言われて和都も辺りを嗅ぐが分からない。

 たしかに帰り道で墓地の近くを通ったが、その時の匂いを室内では感じなかった。もしかして制服に付いてしまったのだろうか、と学ランの袖を嗅いでみたがやはり分からない。

「貴方まさか、お寺とか行ってないでしょうね」

 目を釣り上げ、大きな声を出しながら母親が近づいてきたので、和都は思わず数歩だけ後ろに退がる。

「い、行ってないよ!」

「本当に?! そういうものと関わらないようにって言ってるでしょ?!」

 母親は持っていたバッグや買い物袋を放り出すと、悲鳴のような大声で両肩を強く掴んできた。ぐっと食い込んでくる指の先が痛い。

「貴方はそう言うものに狙われやすいから、絶対に近づいちゃダメって言われたでしょう?!」

 まだ、実の父が生きていた頃。和都の不可思議な言動に怯えた両親に、有名な霊能者の元へ連れていかれたことがある。その時に幽霊の集まるような場所、心霊スポットの類に近寄ってはいけないと言われたことをきっかけに、精神的に不安定だった母親は過剰に思い込み、お墓だけでなく神社仏閣すらもダメだと言うようになったのだ。

「どうしてお母さんの言うことが聞けないの!」

「行ってないよ! 大丈夫だって!」

 捲し立てる母親の手を振り解き、和都は2階に駆け上がる。そのまま自室に飛び込んで、階下からの叫び声が聞こえないようにドアを閉めた。

「はぁ──……」

 持っていた鞄をその辺に放り投げ、着ていた学ランを脱ぐと、そのままベッドに倒れ込む。

 視えない世界を、父は理解したが母は怖がっただけだった。

 例え同じものが視えていても、正しく共有することは難しいのに、まして普通に視えないものを、視えていない人にきちんと理解してもらえるはずがない。

「……視えてない人に、あれこれ言われたくないっての」

 和都は深く息をついて、目を閉じた。

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