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3)無限階段

「保健室行ってくるねー」

 朝のホームルームが終わり、担任教師・後藤から、『健康観察記録簿 2年3組』と書かれた黒い厚紙の表紙のファイルを受け取ると、2年3組の保健委員である和都は教室を出る。

「あっ相模、仁科んとこ?」

 足早に廊下を進んでいたら後ろから知っている声に呼び止められた。そちらを見れば、同じクラスの菅原がトイレから出てくるところで。

「そうー。なにー?」

「トイレのハンドソープ、1個なくなってるから貰ってきてー」

「え、うそ。一昨日2個とも詰め替えしたよ?」

 トイレの手洗い用ハンドソープの詰め替えも基本的には保健委員の仕事なので、一昨日の放課後に詰め替え作業をした記憶がある。

「あ、違う違う、本体のほう。昨日誰かが1個ぶっ壊したんだって。今1個しかない」

「えぇ、なにそれ。……わかった、もらってくる」

「よろしくー」

 菅原がそう言うのを背中で聞きながら、廊下の突き当たりまで向かう。そして東階段を1階まで降りて、第2体育館への通用口を挟んだ向こう側。そこに毎朝通う保健室がある。

「2年3組でーす。観察簿持ってきましたぁ」

「おー、ご苦労さん」

 保健室の引き戸を開けると、椅子に座ったままの仁科がこちらを見た。白衣にワイシャツと紺のネクタイ、少しくせっ毛が目立つ短い黒髪。普段から猫背なのでそうだが、今日はより気怠そうに見える。

「はい、どうぞ。……先生、なんか眠そうですね?」

「あー、今朝寝坊しちゃってねぇ」

 観察簿を受け取りながら欠伸する仁科に、和都は呆れたように笑う。

「夜更かしでもしたんですか?」

「ちげーわ。昨日、残業だったんだよ」

 新学期になって数週間が経ち、学校のある日はこうして毎朝顔を合わせているせいか、以前よりはよく話すようになった。仁科が年齢のわりに砕けた物言いをするから、というのもあるかもしれない。

 ──まぁ、仲良くやっておかないと、チカラも増えないだろうしね。

 新学期初日に現れた、元狛犬のお化け『ハク』に言われ、自分を食べようとしているらしい『鬼』に対抗すべく、和都はいわゆる霊力とやらを増やす必要があった。この霊力(チカラ)を増やすには、波長の合う霊力を持った人間のそばにいる必要があるらしく、この学校で唯一波長の相性がよく、チカラが強いという仁科と、ひとまず仲良くしておこうと不本意ながら考えている。

「あっそだ。トイレ用ハンドソープの、本体ください」

 ここに来る前に菅原に言われたことを思い出した。

「え、詰め替えじゃなく?」

「はい、本体を」

「なんで」

「誰かが1個壊しちゃったらしい、デス」

「ったく、しょーのない……」

 仁科が頭を掻きながら面倒くさそうに立ち上がる。立ち上がると自分より20cm以上は高いので、少し見上げてしまう。ただこれは仁科が極めて大きいわけではなく、和都が高校生男子の平均身長よりも低いせいだ。

 手当のための消毒液や薬剤、書類の並ぶ棚の、下段の引き戸を開けると、普段は使わないストック品を収めているのが見えた。そこに積まれた小さな段ボールの中から新品のハンドソープを取り出すと、仁科が屈めた腰を伸ばしながらこちらに渡す。

「ほれ。無駄遣い禁止だよ」

「はーい」

 ハンドソープを受け取ると、仁科の指先がそのまま顎下に当たって顔を上げさせられる。こちらを見下ろす仁科と、ちょうど目が合った。

「……なん、ですか」

「今日は顔色悪くないね」

「まぁ、はい……」

 戸惑うような和都の返事に、まだ少し寝ぼけたような顔の仁科が目を細めて笑う。

 新学期初めの、体育の時のことを思い出してしまって、和都は少しだけ身構えてしまう。しかし、この男は忘れているのかとぼけているのか。

 ──なーんか、掴めない先生なんだよなぁ。

 悪い先生ではないのだが、普段から飄々としているので、どうにも接し方に迷ってしまう。

「ほれ、1限始まるぞ」

「あ、やべ。失礼しましたー」

 言われて時計を見ると、チャイムの鳴り出す3分前を指していて、和都は慌てて保健室を出ると東階段を駆け上がった。





 保健委員の仕事には、週替わりの保健室清掃もある。

 今週は2年3組と4組が担当であるため、和都も清掃時間は保健室の担当だ。保健室の中央にある丸い談話用テーブルの周りを逆T字型の箒で掃きながら、憂鬱な顔でため息をつく。

 同じく当番として清掃に来ていた4組の保健委員である岸田が、チリトリに集めた埃をゴミ箱へ捨てながら不思議な顔をした。

「おぉどうしたよ、相模」

「いやー、放課後に日本史の補習になっちゃってさぁ」

「へぇ? 珍しい」



<ーー 回想ここから



「え、うそ」

 3限の日本史の時間に返された、テストの答案を見て和都は絶句した。

 先週の授業で『1年生の時の総復習』という名目で行われたテストだったのだが、見たことがない点数のうえ、放課後に補習対象となる数字が残酷にも書かれている。

 部活も塾も行ってはいないが、その分自宅で(暇なので)勉強をしているため、春日ほどとは言わないまでも成績はそれなりにいい方だ。日本史もそこそこ出来る自信はあったので、補習はなかなかのショックである。

「……和都、問題用紙は?」

「え。あ、うん……」

 春日に言われて問題用紙を確認すると、そちらを見る限り正しい答えが書き込まれている。しかし、解答用紙には絶妙に違う答えが書かれてしまっているようで。

「……書き写すの間違えたっぽいな」

「くそー、確認したのに〜〜」

 脱力のまま机に突っ伏す。思い返すも確実に確認はしたはずだ。しかしこうして結果が出ている以上はどうしようもない。

「……てか、補習って何すんの?」

「だいたいは復習のプリントやる感じ。そこでも間違ってる問題は先生が解説してくれる」

「おー、さすが補習常連の小坂」

「殴るぞお前……。おれ今回補習じゃねーかんな」

「それが一番ショックかも……」

「このヤロウ」

 小坂と言い合いつつも、なんとなく補習になった理由には心当たりがあった。教科担当となった川野からは、堂島と同じような、鬼が持つ独特の嫌な気配がするのだ。

「最近、なーんかぼんやりしてること多いし、注意力散漫なんじゃない?」

「べつに……そんなことないよ」

 菅原の言葉を否定はしたが、正直授業中もテストの時間も、気が散っていたのは事実だ。なぜなら、

 ──あれは、『鬼のツノ』だよなぁ。

 川野の額の右端、こめかみの少し上から、まるで牛に生えていそうなツノが1本、スラリと伸びている。

 普通の人には見えていないようだが、和都はその半透明のツノが気になってしまって、授業は正直ちゃんと聞いていられないのだ。

 ──……補習、無事に終わればいいんだけど。



回想ここまで ーー>



「相模」

 3限の後の休み時間に思いを馳せていたら、声と共に目の前に仁科が立っていた。

「ぅわっ」

「手が止まってるぞ」

「すんません……」

 仁科に呆れたように言われて、和都は掃除を再開する。

「でも相模、1年の時はわりと日本史の成績よかったじゃん」

「だから凹んでんのー」

 岸田とは1年の時に同じクラスだった上、隣のクラスということもあって委員活動ではペアになることが多く、ついつい雑談が多くなる。

「教科担当、川野先生?」

「そうー。岸田んとこは?」

「同じ同じ。授業はわかりやすいと思うけどな」

「わかんなかったんじゃなくて、ただの書き写しミスっ」

 和都はチリトリに集めた埃を、岸田の持っているゴミ箱に捨てながら言う。

「よりだっせぇじゃん」

「うっさいなぁ」

 軽口を言いつつ、岸田がゴミを大きなゴミ袋にまとめ始めていた。なんだかんだでそろそろ掃除の時間も終わりである。

「はいはい、雑談してんなよ。もう終わるぞ。岸田はゴミ捨てたら行っていいから。相模は道具片付けて」

「はーい」

「んじゃ、お先ー」

 そう言って岸田がゴミ袋を持って出ていった。中央階段と事務室の間に室内ゴミの集積場所があるので、そこまで持っていくのが岸田の仕事だ。

 和都は使った箒やチリトリなどをまとめ、掃除用具入れに入れていく。そんな和都を見ながら、仁科が少し考えた顔で口を開いた。

「……補習って、放課後やんの?」

「あ、はい」

「どんくらいかかる?」

「んー、30分くらいですかねぇ。何かあるんですか?」

 掃除用具入れの戸を閉めて仁科を見ると、腕を組んで少し困ったような顔をしていた。

「いや、次の委員会で使うプリントの準備、手伝ってもらおうかなーと思ってたんだけど」

「あぁ、別にいいですよ。終わったら保健室に来ますね」

 和都としては、チカラのある人間の側にいる時間を増やせるので、面倒ではあるが手伝いは積極的に受けたいところ。

「助かるわ。よろしくね」

「……はぁい」

 何も知らない仁科にそう言われ、ちょっとだけ罪悪感を持ちつつも、先生も助かるのだから問題はないはず、と自分に言い聞かせながら教室へ戻った。





 放課後、日が落ち始める少し前の、空が白み始めた時間。

 補習の時間になってみれば、教室に居たのは和都と川野だけであった。

 ──……マジか。

 何人かはいるだろうと思っていたのに、アテが外れてしまったようだ。

「では、復習用にプリントを用意していますので、こちらを」

「……はい」

 プリントを2枚渡され、和都はとりあえずそちらに視線を落とす。

 補習を受けるのが自分だけということもあってか、川野は和都の机の前に腕を組んで立ち、ジィッとこちらを見下ろしていた。

 プリントはテストと違って穴埋め式のものだったが、内容はテストとほぼ同じようなものばかりだったので、和都はスムーズに解答していく。

「……点数が、とても低かったので気になっていたのですが」

「あー……回答欄、書き間違えてたらしくて」

「あぁ、そうなんですね」

 真正面に立ち、うんうんと頷く川野の額の右端からは、やはり半透明の角がスラリと伸びているのが視える。和都は極力そちらを見ないように努めながら、ただ手を動かした。

「そうだ相模くん。私、休日によく史跡や神社跡地なんかを巡るんですが」

 雑談のつもりなのか、川野がそんなことを言い出した。

「この辺りにも廃神社があると聞きまして、とても興味深くてですね……。相模くんは徒歩通学で学校近くにお住まいだとお聞きしたんですが。廃神社のこと、ご存知ではないですか?」

「……すみません、おれ、中学の時にこの辺に越してきたんで、そういうの、あまり詳しくなくて」

「あぁ、そうだったんですね」

 返事を返しつつも、視線は補習用のプリントに向けたまま、ひたすらシャープペンを走らせる。

 なるべく早くこの場を去りたかった。

 しかし気のせいか、気配と声がだんだん近くなっている気がする。

「鬼を封じたという伝説があるそうです。ただ、すでに廃れてしまったそうで」

 机の端に、節の目立つ手が置かれる。

 声の、息のかかる位置が、近い。

「封じられた鬼はどうなったんでしょうね?」

「……あの、プリント終わりました」

 おしゃべりを遮るように、走り書きを連ねて終わらせたプリントを2枚、川野と自分の間に差し出す。

「……うん、ちゃんとできてますね」

 プリントを受け取るも、川野はそちらに軽く目を通しただけで、視線はすぐに和都を向いた。

「そうだ。神社巡り、相模くんもよかったら、一緒にいかがですか?」

 不意に川野の手が伸びてきて、頬に触れる。

「あの、おれ、仁科先生にも呼ばれてて……」

 伸びてきた手から逃げるように身体を引いた。が、

「いいじゃないですか。……もう少しお話しましょうよ」

 顔をぐっと近づけられる。

 緋色の瞳、縦に細長い瞳孔。

 人間のそれとは違っていて、息を呑んだ。

「……っ!」

「私は、君ともっと仲良くなりたいんですよ?」

 心臓が、胸のあたりが、ヒリヒリと凍るように痛くなってきた気がする。

「やっ……」

 咄嗟に両手を前に出して、川野を突き飛ばす。

 いきなり突き飛ばされたというのに、川野は穏やかに笑った顔を貼り付けたままだ。

「……すみません!」

 机の上のペンケース類を急いで通学用鞄に詰め込むと、そのまま逃げるように教室を飛び出した。

「相模くん、まだ話は終わっていませんよ」

 響く声が教室の方から聞こえたが、構わずに中央階段を駆け降りる。

 保健室に行く場合は東階段を使うことが多いが、それよりなにより、今は一刻も早く教室から遠ざかりたかった。

 踊り場の窓から西日が差し込む。空はまだ夕暮れには少し遠いようだ。

 3階も2階も人が誰もいないようで、珍しくしんと静まり返っており、自分が階段を駆け降りる足音だけがバタバタと騒がしい。

 ──あれ?

 3階から1階まで、3階と2階の踊り場、2階フロア、そして2階と1階の踊り場で折り返す回数は3回しかない。3回折り返せば1階に着いているはずだ。

 だが、すでに6回は折り返している。

 駆け降りても駆け降りても、なぜか1階にはつかず、気付けば3階に戻っている。

「……なんで?」

「待ってくださいよ、相模くん」

 上の方から、ずっと穏やかなまま、慌てる様子もない、川野の声が追いかけてくる。

 和都は肩で息をしながらも、ひたすら階段を駆け降りた。

「くそ……!」

 もう10階分以上は駆け降りている気がする。

 上から聞こえる声との距離が、だんだんと縮まっていた。このままでは、捕まってしまう。

 ──そうだ!

 再び3階に戻ったタイミングで、今度は廊下を東階段のほうに向かって駆け出した。

「おやおや、まだ元気なんですねぇ。どこへ行くんですか?」

 こちらが廊下を走り出したのに気付いても、やはり穏やかな声は楽しげに追いかけてくる。

「……どうせ、逃げられませんよ」

 中央階段と東階段の間には、4組から6組の教室が並んでいる。

 走る横目で教室の中を見た。普段なら誰かしら残っているはずなのに、人っ子ひとりいない。

 もうずいぶん時間が経った気がするのに、教室の奥の窓から見える空の色も差し込む西日も、教室を飛び出した時と全く変わっていないようだ。

(ハク! ハク!!)

 心の中でハクに呼びかけてみるが、応答はない。

 ここは、今までいた世界とは違う世界なのではないだろうか。

 もしそうだとしたら、どうやって川野から逃げることができるのだろう。

 東階段にたどり着いて、再び階段を駆け降りた。

 3階と2階の踊り場、2階フロア、そして2階と1階の踊り場で折り返したが、やはり3階に戻っている。

 ──くそっ!

 後ろが気になって、降りてきた階段を振り仰ぐ。東階段を降りてくる時には廊下のずっと向こうにいたはずの川野が、ゆっくり階段を降りてくるのが視界に入った。

「そろそろ終わりですか? 疲れたでしょう」

 声のトーンそのままに、顔は穏やかに笑っている。

 ただ、額の右端からはすらりと牛のような角が伸びていて、楕円を歪めたような瞳は赤く、真ん中の瞳孔は縦に細長く入っている。

 明らかに人間ではなかった。

 ──『鬼』だ。

 おそらく向こうは、こちらが疲れて立ち止まるのを待っている。

 息が上がったままだが、構わずまた駆け降りた。

 2階フロアに降りようとした瞬間、足がもつれて最後の1段を踏み外していた。

「うわっ……!」

 前方に体が大きく傾いて、勢いよく床に転がった。

「……いって」

 強かに肩を打ったが、痛がっている場合ではない。

 すぐに立ち上がって階段を降りなければ、と上体を起こした瞬間、

「あれ、相模。補習おわったのか?」

 よく知った声が耳に飛び込んできた。

 視界の端に、白衣を着て、両手で紙の束を抱えた仁科が立っているのが見える。

「あ、先生……?」

 辺りをよく見ると、左側に第2体育館へ向かう通用口、そして目の前から右の方へ、保健室と相談室が並んでいる。

 毎朝通っている、よく知る1階の光景だった。

「転んだ? 大丈夫か?」

 ちょうどプリントを保健室に運び込むところだったらしい仁科が近寄ってくる。

「え、と……」

 頭の整理が追いつかない。

 和都は座り込んだ状態で仁科を見上げたまま、何か言おうとしたのだが、うまく言葉が出てこなかった。

「どうした。なんか、あったのか?」

 明らかに自分の様子がおかしいと感じたのだろう、仁科が小さく眉を顰める。

 そこへ、階段の上部から川野の声が追いかけてくるところで、

「相模くん、まだ話が……」

 穏やかに追い詰める声が途中で止まる。

 2人してそちらを見上げれば、川野の目が丸く見開いていた。

「……おや、仁科先生」

 声音は変わらないものの、予想していなかった展開だったらしく、驚いているのが分かる。

 仁科は和都のほうにチラリと視線を向けた後、再び川野に視線を戻す。

「川野先生、そのお話とやらは急ぎだったりしますか?」

 階段の踊り場辺りで立ち止まった川野に向かって、仁科はいつものような軽い調子で尋ねた。

「……いいえ」

「じゃあ、保健委員の仕事を手伝ってもらう予定だったんで、もういいですかね?」

 仁科の言葉に、川野がすっと目を細めて、やはり穏やかな調子のまま言った。

「そうだったんですね。補習は終わっていますので、大丈夫ですよ」





 保健室に入り、ガラガラと引き戸を閉めた。

「怪我とかしてないか?」

「あー、はい。もう痛くないんで、大丈夫です」

 そう答えながら小さく息をつく。

 別の先生と一緒にいれば、あの鬼もこれ以上追いかけてくることはないだろう。

「そう、ならいいけど」

 仁科が抱えていた紙の束を保健室の中央にある、広い談話用テーブルに積み上げた。

「あ、えっと、準備って?」

 和都はあまり深く追求されないうちにと、保健室にきた理由を思い出して仁科に尋ねる。

 テーブルの上には、プリントの山が3種類並んでいて、横にホチキスが置かれていた。

「うん。各クラスで配ってもらう用のアンケート、委員会の時に渡す予定のなんだけど、3枚で1セットだから留めてもらおうと思ってね」

「全クラス分て……これ、留める機械とかなかったですっけ?」

 狛杜(こまもり)高校は全校生徒、各学年6クラスなので、700人以上はいる。なかなかの分量だ。

「こないだ教頭がぶっ壊して修理中なんだよ。はい、ホチキス」

「……はい」

 2人は談話用テーブルの端と端に座り、3種類あるプリントを1枚ずつ取っては右上の端をパチンと留めていく。ひたすらに3枚1組を取っては留める作業を繰り返した。

「……もう少し、人数呼ぶべきだったんじゃないですか?」

 あまりの作業量に、和都は早々にうんざりしながら言う。

「他の奴らは塾だなんだで断られたの。お前くらいよー暇そうな奴」

「……そうですか」

 言われてみれば、今年の保健委員はほとんどが塾に通っている。保健委員の活動でよくペアになっている岸田も、確か今年から受験に向けて塾に通うようになったと言っていた。

「まぁ、結構時間かかるし、遅くなっちゃうだろうから、親に心配されるとかなら早めに言ってね」

「ああ、大丈夫です。どうせどっちも残業で家にいないから」

「……あ、そう」

 仕事の忙しい両親は、帰宅時間が基本的に遅い。ここ最近は、顔を合わせるのもほとんど朝だけになっているので、自分の帰宅時間が多少遅くなろうが、気にもしないだろう。

 留め終わったプリントの数を数えていると、仁科が不意に口を開く。

「そういや、なんで川野先生に追っかけられてたの?」

 パチン、パチンと、ホチキスの留まる音が響く合間の、雑談のようだった。

「……あー」

「言いたくないならいいよ」

 返答に困っていると、仁科にそう言われてしまう。

 和都は口をつぐみかけたが、ああでも、と始業式の日のことを思い出した。

 この人は、あの時起きた出来事を、見ている。

「……始業式の日の、みたいな?」

「え? ……マジで?」

 さすがの仁科も手が止まり、困惑した顔を和都に向けた。

「一緒に神社巡りしませんか、だって。……行くわけないし」

「その、やたら人に好かれちゃうってのも、考えものだねぇ」

 努めて普通を装って話したつもりだが、仁科にはなんとなく見透かされているような気がする。

「みんな勝手ですよね。おれのこと、たいして知らない癖に」

「そうだねぇ」

 再び静かになった保健室に、パチン、パチンとホチキスの音が響く。

 窓の外の空は、夕暮れが近づいているのを知らせるように、薄らオレンジ色が混ざり始めていた。

 不意に視界の隅に何か見えた気がしてそちらを見る。保健室の入り口辺りの空中で、白い半透明のモヤが渦を巻きながら犬の首の形を作るところだった。

〔カズトー! 大丈夫だった?〕

 頭の中に少年のような声が響く。元狛犬のハクだ。

 最初に出会った時より、だいぶ輪郭がハッキリしてきている。

(ハク! 呼んでも出てこないから心配しちゃったよ)

 向こうは自分の心を読めると言っていたので、和都は声を出さずに心の中で返答した。

〔ごめんね。あの変な空間に入られちゃうと、ボク助けてあげられないんだよぉ〜〕

(あー、そうだったの)

 思った通り、自分がいた場所はこことは違う世界だったようだ。

 ──じゃあ、なんで出られたんだろう。

 保健室の入り口を見つめて、ぼーっと考え込んでいると、

「相模」

「は、はい!」

 声をかけられて我に返る。

 そちらを見れば、仁科が不思議そうな顔で自分を見ていた。

「どうした? 手が止まってるぞ」

「……すみません」

 和都は慌てて作業に戻る。

 すると今度は注意したほうの仁科が、和都の見つめていた辺りにじぃっと視線を向けて、

「……で? その犬みたいなのは、何なの?」

 いつもの調子でそう言った。

「えっ」

〔すごい! ニシナはボクも視えるんだね!〕

「ほー、俺の名前も知ってるわけね。……なんなんだお前」

 はしゃいでクルクル回り始めたハクを、仁科の目はしっかり捉えていて、眉は小さく警戒するように顰められている。

「うそぉ……」

〔ほらね! ほらね! ちゃんとニシナは強いチカラがあるでしょ?〕

 ちゃんとハクが視えていて、声も聞こえている。

 ハクから聞いていたし、倒れた時の一件でチカラを持っているのは確信していたが、改めて目の当たりにすると驚きを隠せない。

「……先生、こういうの、視える人だったんですか」

「うん、まぁわりと?」

 ハクを指差しながら尋ねると、本人から出てくるのは肯定する言葉。

 半信半疑だった和都も、これでは納得せざるを得ない。

「まじか──」

「で、言いたくないなら聞かないけど?」

 それはつまり、言いたい話なら聞いてやる、という意味だ。

 和都は大きく息をついて、

「……実は、その」

 自分が狛犬の生まれ変わりで、幽霊が見えたり人間をやたら惹き寄せたりしてしまうこと、悪霊などに当てられて倒れしまうこと、そして今は『鬼』に狙われていることまでを、ポツポツと正直に話した。

「へー、お前が狛犬、ねぇ」

「なんですか」

「いやぁ、なんか誰かに仕える感じじゃないなって」

「そうですか?」

 仁科は変わらずプリントの端をホチキスで留めながら、和都の話した内容を頭の中で反芻しているようだった。

「まーしかし、なるほどねぇ……」

「……ごめんなさい」

 その様子を見ながら、和都は小さくそう言った。

「え、なんで?」

「倒れる理由、ずっと言えなくて……」

「気にするなよ。お前のせいじゃないんだし」

「そう、だけど……」

 口籠もりながら、和都はぎゅっと唇を引き結ぶ。

 仁科は自分が倒れる度に、なんでだろうな、と原因を一緒に考えようとしてくれていた人だ。ずっと騙していたみたいで、どうしても申し訳ない気持ちになってしまう。

「しかし『鬼』ねぇ。で、その『鬼』が堂島と川野先生に憑いてて、対抗するためのチカラは、俺と一緒にいると強くできるって認識でいい?」

「……はい」

「ふーん。あぁ、それで保健委員?」

「いや、それは本当、たまたま、偶然」

「あ、そう」

 プリントを留める作業を続けつつ、仁科なりに突拍子もない話を納得して腹に収めているようだった。

「……それにしても、ハク、だっけ?」

〔なぁに? ニシナ〕

「なんで『鬼』はコイツだけを狙うんだ? 狛犬だったんならお前だって狙う対象なんじゃないの?」

「確かに……」

 仁科に言われて、和都もそれはそうだな、と気付く。

〔そりゃー鬼がカズトを狙うのは、人間のほうが食べやすいからだよ〕

「食べやすい……」

 まさかの理由にゾッとする。

「幽霊同士のほうがなんか簡単そうだけど」

〔霊体が霊体を取り込むには、取り込みたい側より圧倒的にチカラが強いか、格が上じゃないと難しいんだ〕

「格って、神様が一番上で鬼が一番下とか、そういう順番みたいなヤツ?」

 考えたことはなかったが、八百万の神がいるといえど、そういうモノたちにもランク付けというものがあるようだ。

〔そうそう、そんな感じ。ボクは神様に仕えてた元狛犬だけど、格はまだそれなりに上のほうだし、ニンゲンに入って悪さするしかできない鬼ごときが、ボクを直接食べたりなんてできないのサ〕

 ハクの口ぶりからして、狛犬というのはそれなりに高位の存在になるらしい。狛犬を辞めたとしても、順番は変わらないようだ。

「へー、なるほどね」

〔その点人間は、魂と精神と肉体がくっ付いて出来た生き物でしょ?〕

「あー、なんだっけ『三位一体』ってやつ?」

〔それそれ。この3つはそれぞれくっついてるから、強さとか格とか関係なく肉体から魂に直接手を出せちゃうんだよ〕

 三位一体とは、3つのものが1つになることの意味だ。どうやら人間というのはそういう風にできているらしい。

〔そうやってカズトを取り込まれちゃうと、番として魂が繋がってるボクも一緒に取り込まれちゃうの〕

「つまり、相模を食えば普通なら食えない狛犬まで食べられて、一石二鳥なわけねぇ」

「うえぇ……」

 より強いチカラを一気に手に入れられるのであれば、和都を狙うのもわかる話だ。

「うーん……でも、相模のチカラを強くしても、そもそもの解決にはならないんじゃないの? 鬼をやっつけちゃったほうが早くない?」

「やっつけるって、どうやって……」

 怖いものからは逃げるしか選択肢がなかったので、その発想はなかった。仁科は少し考えて、

「あー、封印するとか?」

「やり方、知ってます?」

「知らない」

「ですよね」

 漫画の世界ではないので、都合よく霊力で闘うなんてわけにもいかない。そもそも今の自分には、嫌なものに耐えられるチカラすらない状況なのだ。

「……あ。ハクが実体化して食べちゃう、とか?」

〔その方法もあるね! でもまだまだぜーんぜん足りないからねー〕

「だよねぇ」

「ま、それも考えつつ、なんか他にも方法は考えた方がいいんだろうな」

 話しながらも進めていた、プリントを留める作業もだいぶ終わりが見えてきた。窓の外の空は、オレンジ色に染まり始めている。

「てか、そもそもその鬼はどっからきたんだろうな?」

〔そこが分からないんだよねー。今の時代、鬼なんてそうそう居ないはずなんだけど〕

 仁科とハクの言葉に、和都は補習の時に川野の言っていたことを思い出した。

「そういえば、川野先生がこの近くに『鬼を封じた廃神社』があるって言ってたけど」

「……鬼封じてたのに廃れたら、ダメじゃないか?」

「もしかして、そこの封印が壊れちゃった、とか?」

「それはありえるなぁ」

 仁科が腕組みをして唸る。そんな大事な封印を放置して、神社が廃れるということはあり得るんだろうか。

「そういや、お前らはそもそもどこの神社の狛犬だったのよ? あ、でも狛犬を辞めたってことは、神社はもう無いのか?」

「ハクは、覚えてる?」

 和都にはその時の記憶がないので、ハクに聞いてみる。

〔昔の記憶がボクも曖昧だけど、カズトがこっちに越してきた時に、なんか懐かしいなぁとは思ったから、この近くだったんじゃないかなぁって〕

「そっか。名前とかも覚えてないの?」

〔名前は覚えてるよ!『白狛(しろこま)神社』っていうの!〕

「……『白狛神社』ねぇ」

 仁科はスマホを取り出し、地図アプリで学校周辺を検索するが、それらしいものはヒットしない。

「……あ、廃神社なら検索じゃ出ないか」

「どういう神様を祀ってる神社だったの?」

〔大昔に、人間を食い殺した鬼を退治して封印した神社だよ!〕

 ハクの言葉に、あれ? と思考が止まる。

「え、鬼を?」

「……それじゃねぇのか?」

 仁科に言われ、ハクが驚愕の表情で大騒ぎをし始めた。

〔えええええ! ホントだ!! どうしよう?!〕

 右往左往しながら、ハクが空中でグルグル旋回する。和都もその可能性については考えていなかったので、少し頭が痛い。

「ちょっとハク、落ち着いてよ。その、狛犬を辞める時に、そこにいた神様とかはどうなったの?」

 和都に言われて、ハクがピタリと止まる。それからピンと立った耳をへにゃりと下げた。

〔……お祀りしてた神様は、いつの間にかどっか連れて行かれちゃって分かんない。それから全然ヒトが来なくなっちゃって、ボクたちはそこに置いてけぼりだったし。小さな祠が残ってたのだけは、覚えてるけど〕

 しゅんとして言うハクを見ながら、仁科は今度はうーん、と首を捻る。

「狛犬置くくらいならちゃんとした神社だったろうし、連れていかれたんなら何処か人のいるところに移されたんだろうな。しかし、残された祠ってのは気になるな」

 神社を移動するのであれば、そこにいる神様は全て移動させるはずだ。となると様々な理由で移動させられない何かの可能性が高い。

「もしかして、そこに鬼を封じてた、とかですか?」

「そうねぇ。それに鬼である川野がそこにお前を連れて行こうとしてるあたり、そこが鬼の拠点になってる可能性もあるぞ」

「うえぇ……」

 全てが曖昧で憶測でしかない。となれば、やることは1つだ。

「とりあえずはその『白狛神社』だった所を見つけて、どんな神社だったかちゃんと調べたほうがいいな。敵を知るにはまず、味方からってね」

「そうですね」

 気付けば話しながらやっていた作業はすべて終わっていた。

「よし、おわりっ」

「お疲れ様でした……」

 談話テーブルの上には、クラス分毎に数えて縦横に重ねた山が3つ出来上がっている。

 和都は疲れた顔で、立ったままテーブルの空いてるスペースに突っ伏した。

 窓の外は、すっかり夕暮れのオレンジ色に染まっている。

「まぁうっかり聞いちゃったし、乗り掛かった船だから、とりあえず協力くらいはしてやるよ」

 仁科の言葉に、和都は顔をあげて背筋を伸ばす。

「……あ、ありがとうございます」

「とりあえずは、お前のチカラを強くしてやりつつ、神社探しって感じかね。チカラが強くなれば、急に倒れるのもなくなるんだろ?」

 和都の横に立った仁科がハクに聞く。

〔うん!『いやなもの』より強くなるから、影響されなくなるよ〕

「一緒にいる時間長くすればいいとか?」

〔そうだね。一緒にいたり、触ったり〕

「ほー。じゃあなるべく委員の仕事を手伝ってもらうようにしようかね」

「うええ……」

 いい事を聞いた、と言わんばかりの笑顔で、仁科が和都の頭を撫で始めた。今後は保健委員としてコキ使われるという未来が、容易に想像できる。

〔あ、あと、基本的にチカラは口から出てることが殆どだから、効率いいのは口移しだね。この間のみたいな!〕

「この間……?」

 ハクの言葉に、和都は先日の、体育の時間に倒れた時のことを思い出してしまって、視線を床に向けた。

 しかし、やらかした当の仁科はすぐには思い至らなかったのか少し考えて、

「あぁー、水飲ませた時のか」

「……あれ、毎日はダメでしょ」

「まぁ学校でしょっちゅうやってたら俺が捕まるわな」

「そこまでしてくれなくていいですよ」

 そもそも、水を飲ませるためだけに、何故あんなことをしたのかが分からない。

 睨むように横の人間を見上げれば、飄々とした様子は相変わらずだ。

「まー、そっちはさすがに無理だけど。……おでこにチューくらいならしてやろうか? ベロチューはした仲だし?」

 仁科がそう言って、何やら楽しそうな顔をこちらに向けた。

 鬼に対抗できるチカラを一刻も早く増やすには、それくらいはしないといけない、のかもしれない。

 和都は眉を顰めながら、不服そうに答える。

「……よろしくお願いします」

「はいよ」

 そう言うと、仁科が少しだけ頭を屈めて和都の額に唇を当てた。

 狭い額の中央に、柔らかいものが短く触れて、すぐに離れる。

 ──……うわ、本当にした。

 なんとなく照れ臭い気持ちになってしまう。

「……でこチューしやすい高さだねぇ」

「怒りますよ?」

 ジロリと見上げた先で、仁科が眼鏡の奥の目を細めて笑った。

「ま、とにかく情報集めないとね」

「神社のこと、調べなきゃ」

「そうねぇ。……ある程度の場所にアタリつけて、実際に行って確認してみないとかな。ハクはそこに行けば、神社があった場所かどうかくらいは分かるんだろ?」

〔うん! ちょー分かる!〕

 そう問われた元狛犬のお化けは、より輪郭もハッキリしてきていて、白い色も濃くなってきているようだった。チカラがきちんと増えている証拠なのだが、和都としては若干複雑でもある。

「バスとかで行ける範囲ならいいんだけどなー」

「そういうのは車のがいいでしょ」

「……先生、免許持ってます?」

「俺、車通勤だよ」

「えっ、うそ」

 窓の外の空は、オレンジの端から少しずつ紺色が混ざり始めていて、夜の始まりが近いことを告げていた。

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