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26)カイキする日々

 月のない夜。星もあまり見えない。

 白狛神社跡地近くの駐車場で、仁科の車から降りた時、南の空に明るい星が1つだけ見えた。

 木々の隙間から、山の麓の街明かりがチラついている。

「小坂は待つの?」

「え、どうしよう……」

 自転車があるから、と和都の家を出る時に一人先に出発したのだが、山の坂道を上がってくる途中で追い越してきていた。

「わりと近くだったし、待ってもいいんじゃない?」

 坂道の下の方へ視線を向けると、道路沿いに等間隔に立つ街灯とは別の、丸い明かりが左右に小さく揺れながらこちらに向かってきている。

「あーほら、きたきた」

 自転車を立ち漕ぎで向かってきていた小坂は、思っていたよりも速く和都達のいる駐車場にたどり着いた。

「だぁー畜生、負けた!」

「車に勝てるわないだろー」

 菅原はそう言うが、小坂はそこそこ本気で先に到着するつもりだったようで、小さく「くそぉ」と呟きながら、自転車を仁科の車の近くに駐める。

「じゃあ、行きますか」

 車に積んであった手持ちサイズのライトを点けた仁科が先導し、駐車場の脇にある小さな道へ向かった。

 雑草が刈られ、多少分かりやすくなった出入り口の先は、深い闇を飲み込んだように静かで暗い。駐車場エリアや跡地の脇を通る道路沿いに、麓から等間隔に街灯が立ってはいるが、神社跡地はそこを外れる通路を上がった先にあるため、灯りは1つもなく真っ暗だ。

 和都は家から持ってきた懐中電灯を、春日達はそれぞれスマホのライトを点けて注意深く進む。

 山の中だというのに虫の音もなくしんとしていて、昼間の明るい時間とは雰囲気が違う。崩れた石段の残骸を踏み締める、ザリザリとした音だけが響いた。

 坂道を登り切った先、綺麗に整地された暗い空き地が見えてきた、と思ったタイミングで。

〔カズト、やっときたね!〕

 不意に声がして、突然、空き地をぐるりと囲むように、明かりが点いた。

「な、なに? なに?!」

 後方にいた菅原が、前の方にいた和都にすがるようにくっつく。

 明かりの正体は、すべて宙に浮かんだ火の玉だった。まるで灯された石灯籠が並んでいる、夜の神社を思わせるような雰囲気だ。

 その薄ら明るくなった空き地の一番奥のほう。

 初めて来た時には大きな倒木があり、今は綺麗に切り整えられた切り株のある辺りに、真っ白で巨大なオオカミが1匹、お座りした状態でそこにいた。

〔もう待ちくたびれたよ〜〕

 牙の覗く口を大きく開けて、欠伸をしながらハクが言う。

 オオカミの座るすぐ近くには、綺麗に作り直された、小さな黒い屋根と白い壁の祠があった。

「ハク……」

 和都はハクのほうへ、一人近づいていく。

 ハクはまだ、バクが自分を食べる計画を中止することを知らない。

 和都としては、出来れば話し合いですませたかった。もしかしたら、ちゃんと話をすれば大丈夫という考えもあったかもしれない。春日の持っている札で強制的に動きを止めるのは、少しやりすぎのように思えたからだ。

〔ここに来たってことは、カズト、お別れは済んでるんだよね?〕

 ハクは和都が近づいてくるのを見て、すっと4本足で立ち上がる。そして、ニッコリ笑うと、

〔じゃあ、いっただっきまーす!〕

 後ろ足で地面を蹴って、前足を伸ばしたハクが、大きな口を開けて真っ直ぐ、和都に向かって突っ込んできた。

 すぐに仁科が和都を抱き抱えるようにして横に飛び、後方にいた春日たちも逆方向飛んでハクを避ける。

 敷き詰められた小石をジャラジャラと跳ね飛ばしながら着地したハクが、くるりと和都のほうを向いた。

〔もー、なんで逃げちゃうの?〕

「んなもん、逃げるに決まってんだろ!」

 小坂が叫び、バクに向かって持ってきていたボールを投げる。だが、あっさり尻尾で叩き落とされていて、大した攻撃にもならない。

〔痛くないから大丈夫だよ!〕

「そういう問題じゃなくて!」

〔じゃあ、なぁに? カズトはボクと一緒にいたいんじゃなかったの?〕

 ハクがまるで駄々っ子を相手にした時のような、困った顔をした。

「一緒にいてくれるのは嬉しい! でもおれ、死にたくないよ!」

〔ニンゲンのままがいいのー? でもカズトの周り、ひどいことするニンゲンばっかりじゃん!〕

 和都が叫んで訴えるが、ハクはぶんぶんと2本に分かれた尻尾を大きく振って、呆れるばかりだ。

〔お家とかお部屋とかに閉じ込めたりさ、あっちこっち追いかけ回したり。カズトにいっぱい痛いことするニンゲンもいたじゃん〕

「痛いこと……?」

 ハクの言葉に、菅原が訝しんで和都を見た。春日はハクから視線を逸らして唇を噛む。

 一瞬頭を過ったのか、和都も少し傷んだ表情をした。

「……ハクはずっと、見てたんだもんね」

〔そうだよ! でもボクはバクがいいよって言わないと、助けてあげられないからさぁ〕

 そう言ってハクがピンと立てた耳を垂れる。

 ハクの言葉に、仁科がなるほど、と頷いた。

「つまりお前は、バクが使役する『狗神』だった、というわけか」

 狗神は使役者の命令で、人を殺したり、人に憑いて発狂させることができる。

 バクは祟り神として仁科家の末子に憑き、ハクはバクの裁量で動く使役獣として側にいたようだ。

〔そんな感じ! でも、バクがボクを使うことって、あんまりなかったなぁ。バクの目を見ただけで、ニンゲンはすぐおかしくなっちゃうし。そのくらい、ニンゲンって『鬼』に近いんだよね〕

 ハクは呆れたようにそう言った。

「そうだね、そうかもしれない」

〔カズト、自由になりたいって言ってたでしょ! だから、自由にしてあげるってば!〕

 再びハクが大きな口を開け、和都に向かって突っ込んでいく。

 仁科と一緒に横に飛んで避けると、祠の近くまで来ていた。それより後ろは雑木林で、逃げられそうなスペースがあまりない。

「でもそれは、おれの望んだ自由じゃない!」

〔えー? ボクと一緒になれたら、カズトの会いたがってた、オトウサンにも会えるのにぃ〕

 ハクの言葉に、ハッと息を飲む。

 亡くなってから、幽霊が視えるはずのこの目で視えなかった実の父。

「……やっぱり父さんが視えないのは、神様になっちゃったからなんだね」

 普通の人に視えない世界のことを知るうちに、それはなんとなく理解していた。

 寂しい時、辛かった時に、泣いても叫んでも、現れることはなくて。

 遠くにいってしまった神様には、話しかけることしかできない。

〔そうそう! だからさ、〕

「ごめん。ごめんね、ハク」

 ハクと同じ神様になれば、会いたい人に会えるのかもしれない。

 父に会えたら、たくさん話したいことがある。聞いてほしいことがある。できるなら頭を撫でてほしい。

 でも、

「それでもやっぱり、おれはまだ人間として生きたいよ」

 やりたいことも、約束も、人間の自分じゃなければ出来ないことだ。

「酷いことする人もいたけど、助けてくれる人もたくさん、たくさんいたよ」

 そうでなければ、きっと自分はここにいない。

 自分にここにいて欲しいと思う人達のために、生きていたいと思うようになった。

「だから、ハクと一緒にはなれない。……ごめんね」

 和都が困ったように笑う。

〔……うー、やだ! ヤダ!!〕

 ハクは和都の言葉に、牙を剥き出しにして、ぐるる、と喉を鳴らす。それからぶんぶんと頭を振った。

 和都を食べるのは、バクと一緒になるために必要なこと、重要なこと。

 ハクにとって、バクの願いを叶えること、バクと一緒になることは、最優先事項である。

 和都を食べられないということは、それが叶わないということ。

 それだけは、絶対にイヤだった。

〔バクはカズトの中にいるの! 一緒になってくれないと、ヤダ!〕

 前足の爪を出し、大きく口を開けたハクが、和都に向かって飛びかかろうとした。

 が、それはかなわなかった。

 何かに引っ張られるように、ガクンとハクのお尻が地面にくっついた。それから後ろ足、胴体、そして前足と、順番に地面にくっついていく。

〔え? なに? なに?!〕

 ハクが混乱している間にも、見えない透明な手がその白い大きなオオカミの巨体を地面に押しつけていく。

〔はれ、なんで? あ、これ勅令?! 勅令だ! だれがぁ?!〕

 ついにハクの頭が地面にべったりくっついた。体勢としては、犬がやる『伏せ』のような格好。

 その地面にくっついた頭を、どうにか無理やり動かして、術の始まりだった自分のお尻の方に向ける。

「……うまくいったか」

 二股に分かれた尻尾に小坂と菅原がそれぞれしがみつき、その根元辺りを春日が手で押さえていた。

 春日が押さえていた手を退けると、『伏せ』の意味を持つ、神獣への命令が書かれた札が貼られている。

〔なんでユースケが勅令のお札持ってるのー?!〕

 札を見たハクが驚いて叫ぶ。

 想定外も想定外。

 札の存在もそうだが、春日がその札を使えたことも想定外だ。

「それは、孝四郎の日記に残っていたものだ」

 頭をべったり地面にくっつけたハクの鼻先に、和都がそう言いながら歩み寄る。よく見ると、さきほどまで黒かった瞳が金色に光り、その真ん中で細長い6つの瞳孔が花びらのように広がっていた。

〔あ、バク! バクだ! ねぇ、なんで?〕

 和都がバクに成り代わっていると気付き、ハクが叫ぶ。

「ハク、もういいんだよ。もう、大丈夫」

〔……探しもの、見つかったの?〕

 ハクがきょとんとした顔をした。

 バクの探し物。

 それは、真之介が死んでしまった、あの日の夜の真相と、孝四郎が殺した理由。

「うん。ユースケとニシナと、カズトが見つけてくれたんだ」

 そう言いながら、バクはハクの大きな鼻先に抱きついた。

 元々繋がっていた神獣たちは、触れ合うことで記憶を共有できるらしい。

 目を閉じて、しばらくそのままくっついていると、バクの知った事件の真相と、和都を食べずに元に戻る方法がハクの中に流れ込んでくる。

〔……そっかぁ、孝四郎はやっぱり優しいね〕

 ハクは閉じていた目をゆっくり開けながらそう言った。

「……そうだな」

 孝四郎が自分たちに残したメッセージを思い返す。

〔もう、いいの?〕

「うん、もういいよ」

 そう言って笑い合うと、ハクに抱きついたまま、バクがすぐ近くにいた仁科のほうを見た。

「センセイ、頼むよ」

「ああ」

 仁科はバクに近づくと、普段の和都にするみたいに頭を撫でる。

 それから孝四郎の遺していたもう一つの札を、バクの背中に貼った。

「うぉ……」

 札を貼った瞬間、和都の身体が金色の光に包まれ、その中から和都そっくりの、金色の光の塊がゆらりと身体を起こす。

 光の塊はすぐにハクの額へ抱きつくようにして吸い込まれていった。すると今度はハクの身体全体が大きく光り出す。

 ゆっくりと光が収束し、眩しさがなくなったあたりで、和都はそっと目を開けた。

 大型犬くらいの大きさの、白と黒のオオカミが2頭、こちらを向いて座っている。黒いほうの額には、金色の綺麗な角が1本すらりと生えていて、毛並みはツヤツヤと揺らめくように輝く。

「……お前が、バク?」

〔ああ、やっと話せたな、カズト〕

 金色の中に雪の結晶のような6本の細い瞳孔を持つ瞳のオオカミが、和都に向かってそう言った。

〔……すまなかった〕

「ううん。バクもきっと辛かったよね。今ならバクの気持ち、おれも分かるよ」

 和都はそう笑って近づくと、ハク同様に赤と白のねじり紐を巻いたバクの首に抱きついた。

 ゆっくり身体を離した和都の顔を、バクはじっと見つめて、

〔ふむ。やはり少し、残ってしまったな〕

「え?」

 バクの言葉に仁科が近づいて、和都の顔を覗き込む。

「……左目だけ、金色になってるな」

 和都の大きな黒目の部分が金色に光っており、バクと同じ雪の結晶のような瞳孔が咲いていた。

〔以前ほどの強さはないが、そちらの目だけで今まで視えていたものも視えてしまうはずだ〕

 元々和都には、幽霊の類を視るチカラはない。バクの目のチカラが残ったために、これからも視えてしまうようだ。

〔ただ、その目には人を寄せるチカラもあるから、多少は惹き付けてしまうだろう。もちろん以前ほど極端に執着されるわけではないがな〕

「そっか……」

 全くの『普通』に戻ることは、やはり難しかったらしい。

 だが、少しでも呪いのようなチカラが弱くなっているなら、今まではよりはきっとマシだろう。

〔それに、ボクが離れるのに、カズトが溜め込んでいたチカラを使い果たしてしまった。またしばらくは、センセイから分けてもらったほうがいい〕

 チカラが無くなったと言うことは、悪霊に対抗するチカラがないということ。それは去年までのような、人の多い場所で悪いものに当てられて倒れる体質に戻ってしまったということになる。

「心配せずとも、ちゃんと分けるさ」

 バクの話を聞いていた仁科が、和都の頭を撫でる。その様子を見て、バクが笑った。

〔まぁ、言わずともくっついてるような奴らだしな。そこは問題ないだろ〕

 言われて和都の耳が赤くなる。仁科は変わらず頭を撫でたままだ。

〔バク、やっと戻れたね!〕

〔ああ、久しぶりの身体だ〕

 ハクが嬉しそうにバクの身体に擦り寄って笑う。バクも嬉しそうに笑っていた。

 仲の良さそうな2頭の頭を和都がそれぞれ撫でていると、遠巻きに見ていた小坂達が、どうやら大丈夫そうだ、と判断したのか近寄ってくる。

「おおー、黒いのもカッケーな!」

 バクに近寄り、小坂がそう感想をもらすと、ハクが羨ましそうに声を上げた。

〔えー! コサカ、ボクは? ボクは?〕

「ハクも綺麗でカッコイイぞ!」

〔ヤッター!〕

 喜んだハクが1本だけになった尻尾をブンブン振ると、小坂はハクの頭を撫でてやる。

 2頭の様子を見て笑っていた和都が、そうだ、と気付いて。

「あ、2人はこれからどうするの?」

 狛犬をやめ、祟り神と狗神をやめ、ただの神獣に戻った2頭。

 その先どうするかについては、特に聞いていなかった。

〔えー、どうしよう?〕

〔まぁ、住む場所もないし、適当に野良神としてあちこちを回ってもいいかな〕

 この世界には、視えないだけで沢山の神様が存在している。神社のような場所にきちんと祀られているものもいれば、特にそう言った場所を設けずに、流れるように放浪する神様も存在しているらしい。

「そうなると、もう会えなくなっちゃう?」

〔まぁ全く、ということはないだろうが、どうだろうなぁ〕

〔ニンゲンはすぐ死んじゃうからねぇ〕

 神様のように永く生き続ける存在と人間では、やはりどうしたってそこにズレが生じる。人間にとっての数十年が、彼らの少しだったりするからだ。

「住む場所が決まっちゃうと、やっぱりそこに縛られたりするの?」

〔いや? 普段はそこにいるというだけで、縛られるわけじゃない〕

〔真之介に使役されてた時は、命令で狛犬の像から出れなかっただけだしね。今は誰かに使役されてるわけじゃないから、自由だよ!〕

 2頭の言葉に、和都はそれならば、と声を弾ませて言った。

「じゃあさ、ここに住むのは?」

 和都の提案に、2頭はポカンと口を開ける。

〔え、ここ?〕

〔住むにしても、依代になるものがないとなぁ〕

 バクに言われて、和都は辺りを見回した。

 後ろのほうを向くと、以前あった倒木の、根元であった部分が綺麗に整えられた切り株として残っている。この辺りで一番大きかったようで、幹はそれなりの太さがある。

「こういう、木の根っこに住む神様もいるんでしょ?」

 和都がその根のほうへ向かうので、2頭も後をついていき、木の根をマジマジと観察した。折れた部分は断面を綺麗に整えられていたが、その中央は大きく切れ込みの入ったように割れている。しかしその割れた部分の内側から、新しい芽が小さく伸び始めていた。

 ふと、バクはちょうどその木が、かつて拝殿の裏手にあったのを思い出す。あの時は大きく伸びた枝葉が穏やかな木陰を作るので、よく真之介や孝四郎と休んでいた。

〔……そうだな、悪くない〕

〔えー! でもここだと、人が来てくれないから寂しいよぉ〕

 和都の提案に乗り気になったバクの言葉に、ハクの耳がしょんぼりと垂れる。

 確かにここは車の往来はあるし、駐車場代わりのスペースもあるが、なかなか人が立ち寄るような場所ではない。

「じゃあ、おれが来てやるよ」

「……小坂。え、来れるの?」

「ああ、おれん家からなら、自転車で行ける距離だしな。それにおれは、ばーちゃんの店継ぐつもりだから、ずっとこの辺に住むつもりだし!」

 小坂がそう言って笑う。確かに以前、そんな話をしていた。

「おれも隣の駅だけど、先生に頼んで連れてきてもらうよ」

〔ホント、ホント?! カズトもコサカも来てくれるの?! それなら住むー!〕

 ハクは大喜びで、ぴょんぴょん跳ねながら宙でくるりと回ってみせる。

 首だけだった時も、ハクは嬉しいと宙をくるくる回っていたが、身体がある頃からそれは変わらないらしい。

 そんなハクを、小坂がじっと見つめて、

「……ハクの背中って、乗れそうだよな」

〔あ、乗る? 乗ってみる? いいよー!〕

 そう言ってハクが小坂に背中をみせる。

 小坂がおそるおそるその背中にまたがり、紅白のねじり紐に掴まると、ハクがゆっくり地面を蹴った。小坂を乗せたハクの身体がふわりと宙に浮かぶ。

「おー、すげぇ!」

 宙に浮かんで動き回るハクと小坂を、和都と菅原は下から見上げて笑った。

「お前ら、気を付けろよー」

 和都達の様子を近くで見守っていた仁科は、妙な遊びを始めたので一応声をかけておいた。神獣がついているとはいえ、ケガをしてしまったら大変だ。

 と、その輪の中に1人足りないことに気付く。仁科が辺りを見回すと、少し離れた場所から和都達を眺めている春日を見つけ、そちらへと歩み寄った。

 春日は砂利の敷き詰められた地面の上で、胡座をかいて座っている。

「お疲れさん」

「はい」

 すぐ隣まで来た仁科を、ちらり、と一瞬だけ見上げたが、春日の視線はすぐ和都のほうへ戻っていた。

 当の和都は、菅原と一緒にハクと小坂を見ながら屈託なく笑っている。

「……去年、アイツを助けられなかった時からずっと、俺は間違ったことをしてるんじゃないかって思ってたんです」

 サイアクなことが起きた、あの日。

 ボロボロになった顔で『約束は守る』と言われた。

「これはただの俺のエゴで、本当は本人の望む通りに、死なせてやるのがいいんじゃないかって」

 人が死ぬというのを、ただ見たくないだけだった。

 簡単に死んでしまおうする『死にたがり』。

 中学で出会った時からずっと、ただ、死んで欲しくないという気持ちだけで守ってきた。

「でも、ようやく間違ってなかったって思えました」

 春日がそう言って、満足そうに微笑むのを見て、仁科はその横にしゃがみ込み、肩を叩いた。

「……正直、お前が1番頑張ったと思うよ」

 言われた春日は目だけをその隣に向けて、

「なので、これから後のことは、先生(オトナ)に任せます」

「え、丸投げ?」

「要らないなら、俺がもらいますけど」

 春日はそう言って、口角を上げてニヤリと笑った。

 さすがに仁科もムッとして返す。

「……やらねーし。それとこれとは別だろ」

「ま、選ぶのは向こうですけどね」

 春日が立ち上がったので、仁科も続いて立ち上がる。

 腕時計を見れば、さすがにそろそろ学生を連れ回していてはいけない時間だ。

「おーい、そろそろ帰るぞー」

 仁科が神獣2頭とはしゃいでいる3人に声を掛けると、はーい、と元気のいい返事が返ってきた。





「……あれ?」

 和都が目を開けると、見慣れない部屋の大きなベッドの上にいた。

 白い壁に黒い木目の家具で統一された室内。身体を起こすと、グレーのカバーの薄い掛け布団をかけられていたことに気付く。

 ぼんやりした頭で、どこだったか思い出そうとしていると、

「あ、やっと起きたな?」

 部屋のドアを開けて、紺色のゆったりとしたルームパンツを履き、上半身は裸のままの仁科が、バスタオルで頭を拭きながら入ってきた。

 そこでようやく、仁科の家の寝室だった、と思い出すと同時に、意識がハッキリする。

「先生、おれ……?」

「こっちに来る途中で、寝ちゃったんだよ」

 事態の急転と一切の解決により、本来の見張りと称した泊まりは必要がなくなったのだが、バクが離れたことによる体調の変化などがあった場合、自宅に1人では心配だということで、和都は結局仁科の家に泊まることになった。

 駅前のファストフード店で5人一緒に遅い夕飯を食べてからそれぞれを送っていき、その後仁科の家に向かう途中、和都は車の中で寝落ちたらしい。

「背中とか、色々診たいから、ちょっと上脱いで」

 和都が言われるままに上に着ていたシャツとインナーを脱ぐと、ベッドに上がってきた仁科がバスタオルを肩にかけたまま、背中や腕にケガがないかとしっかり診る。

 特に背中の札を貼った辺りは、何か跡が残ってしまっていないか、顔を近づけて念入りにチェックした。

「……うん、身体のほうは問題ないかな」

 そう言ってこちらを見た仁科に、和都は少し違和感を覚える。いつも見ている顔に、何か足りない。

「先生、メガネしてなくて、見えるの?」

 足りないものに気付いて聞いてみると、仁科はああ、かけ忘れてたな、という顔をした。

「本当はメガネなくても、生活する分にはそんなに支障なくてさ」

「へー、じゃあなんで?」

「車の運転するからね。掛けなくても一応大丈夫なんだけど、掛けてたほうがちゃんと見えて安全だし」

「そっか」

 仁科は納得する和都の顎を手で少し上げて、今度は和都の目のほうをじっと観察する。診るのは特に、左目。

「……今は黒目だな。見え方は? 見えづらかったり、霞んだりはしない?」

「うん、そこは特に変わんない。けど、」

「けど?」

「山の麓の駅、改札に黒いのいたでしょ?」

「あー、いたね」

 言われて仁科も思い出す。

 菅原は電車の方が早いからと、そのまま駅で別れたのだが、その時に3つある自動改札の1つの隙間に、真っ黒い影がぼやぁっと立っているのを視た。

「あれが前より少し、薄いっていうか、ぼんやりした感じに視えた」

「なるほど。俺にはハッキリ黒いのが視えたから、ちょっと視界は変わって視えてるかもね」

「……そうみたい」

 バクの言っていた通り、以前より視えるチカラは弱くなっているような気がする。

 視えて楽しいものではなかったけれど、今まで視えていたものが急に視えなくなるのは、それはそれで妙な恐怖感があった。

「不安?」

「少し……」

 素直にそう答えると、大きな腕に抱き寄せられた。

「今まで視えてた世界が変わるのって怖いよなぁ。でも、完全に視えなくなるわけじゃないし」

「うん」

「もし困ったら、俺に言えばいいからね」

「うん」

「よく、頑張ったね」

 大きな手が頭を撫でて、そう言った。

「うん……!」

 ようやく、いろんな緊張が解けた気がして、つかえていた何かが涙と一緒に溢れ出す。たぶんそれは、死んでしまうかもしれない恐怖と、何も変わらないかもしれない絶望だ。

 仁科は和都の大きな瞳から止めどなく流れてくる涙を拭ってやり、そのまま両手で顔を包むと、唇を重ねる。それからゆっくりベッドの上に押し倒して、静かに唇を離した。

「これからも一緒にいるから」

「うん」

 仁科が和都の脇に並ぶように横になり、そのまま身体を抱き寄せると、和都が胸元に頬を擦り寄せる。

 肌のしっとりとした感触と、その下からじんわりと感じる熱。

 そして、トクトクと内側から命の流れる音がする。

 生きている音。

「……人の肌ってあったかいんだね」

「そりゃあね」

 仁科は小さく笑って、和都の頭を撫でながら、2人分の身体を包むように掛け布団をかけた。

 和都が自分からぎゅっと抱きつくように近寄ってくる。

「落ち着く?」

「うん。なんか、安心する」

「そっか」

 そのまま2人でぎゅっと抱き合ったまま、深い眠りに落ちていった。



◇ ◇ ◇



「2年3組でーす。観察簿持ってきましたぁ」

 和都はいつものようにそう声をかけて、保健室のドアを開ける。

「お、ごくろーさん」

 そう返す仁科は、カップにコーヒーを入れているところだった。

「今日は寝坊してないみたいですね」

「してないよ」

 そう言いながら仁科は差し出された観察簿を受け取る。

 在籍していた教師の失踪に交通事故、さらには屋上の柵が落ちるという災難続きの狛杜高校は、2日ほどの臨時休校を経た後、しばらくは自習も多くどこか落ち着かない雰囲気だったが、ここ最近はようやく通常通りの学校に戻ってきた。

 いなくなった川野や入院している堂島の代わりに新しく教師がやってきたり、屋上は柵の改修工事が終わるまで立ち入り禁止となるなど、変わった部分も多いが、これもそのうち、普通になっていくだろう。

「そうだ。昨日、堂島のお見舞いに行ってきたんだけどさ」

「あ、どうでした?」

 和都の願いであった『鬼だけを食べる』ため、堂島はハクの引き起こした交通事故に遭い、入院していた。

「意識もハッキリしてたから、どうなんだろうなと思って話してみたんだけど。どうやら、お前に執着していた部分の記憶だけゴッソリないらしい」

「その部分だけ……」

 堂島は鬼として和都を執拗に狙っていたが、その時は意識を乗っ取られた状態だったのかもしれない。

「うん。俺を襲ったのも覚えてないみたいだったよ。お前に噛みつかれたんだって傷見せて話したけど、普通にドン引きしてたわ」

「そりゃあ、ね」

 笑いながら言う仁科に、和都は少しばかり呆れる。

 仁科は堂島に、一緒に飲んだ時に酔っ払ってやったことなので覚えていないんだろう、と言っておいたらしい。

 鬼として行動していた部分以外は、本人の意識で動いていたようなので、復帰してから大きな齟齬(そご)が起きる、ということはなさそうだ。

 また仁科は、どのタイミングで鬼に憑かれたのか気になって、狛杜高校での勤務が決まった前後についても聞いていた。

「こっちに赴任が決まって来る途中で、神社跡地の駐車場のところで休憩をとったらしくてな。その時に憑いたんじゃねーかな」

 狛杜高校へ車で向かう途中、山を超えた辺りで急激な眠気に襲われ、見えてきた駐車場のような場所に一時的に駐めて、仮眠をとった覚えがあるという。

 その時にはすでに祠が壊れており、鬼はその辺りで入りやすそうな人間を待っていたのかもしれない。

「足を骨折してるから、もうしばらくは入院だろうな」

「……そう、ですか」

 堂島を『鬼』から助け出すためとはいえ、和都はなんだか申し訳ない気持ちになった。それを見た仁科が、そっと頭を撫でる。

「そんな顔しないの。骨折程度で済んで、よかったほうだよ」

「……うん」

 下手をすれば、死んでしまっていた可能性もあると思えば、結果としてはいい方だ。

 ふと時計を見ると、そろそろ1限目が始まる時間になっている。

「そろそろ、いかなきゃ」

「ああ、待て」

 仁科に腕を掴まれそちらを見ると、少し屈んだ顔が近づいて、和都の小さな額に唇が触れた。

「……今日の分ね」

「はぁい」

 バクが和都から離れる際、悪霊達の影響を受けないよう溜めていたチカラを使いきってしまったので、仁科からチカラを分けてもらう日課は、まだしばらく続く。

 ちょっとだけ照れながら笑って仁科のほうを見ると、ふいに顎を掴まれ、親指が唇をなぞる。

「こっちは今度、うちに来た時にね」

「……うん」

 少しだけ顔を赤くして和都が答えると、仁科は眼鏡の奥の目を優しく細めて笑い、もう一度頭を撫でた。

「そうそう。放課後はポスターの貼り替えだよ」

 相変わらず、保健委員としての仕事は多い。

 卒業するまでの残り1年半ほどは、この先生の横でこき使われる日々なのだろう。

「わかってまぁす」

 コーヒーに口をつけた仁科にそう返すと、保健室のドアを開け、

「じゃあまた放課後にね、先生」

 和都はそう言って保健室を出ると、教室に向かって足早に階段を駆け上がった。



<了>

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