24)黄昏鳥の鳴く
昼休みの屋上で、和都は大学ノートを広げて唸っていた。
「さっきから何をそんな唸ってんだよ」
「なーんか、納得いかなくて」
10月に入り、来週から衣替えで夏服から冬服へと変わるような気温。夏の間は昼食スポットとして不人気だった屋上には、ちらほらと人が戻ってきており、じゃんけんで勝った和都と菅原は場所取りと称してベンチに並んで座っていた。
「あぁ、例の本の、解読結果?」
「そ。羨ましいからって、人を殺しちゃうもんかなぁ? 小説とかでは、たまにあるけどさぁ」
「人間、見えてる部分と腹の中は、全然違ったりするからなぁ」
「そりゃあ、そうだけど……」
菅原の言い分も分かる。
しかし、繰り返し見ている、2人と2匹で笑い合っている夢の様子を思い出すたびに、どうしても信じられない。
「その解読作業ってさ、どこでやってたの?」
「どこって……先生の家だけど」
「へぇ、泊まりで?」
「え、うん」
視線をノートから菅原へ向けると、ニヤニヤとやたら楽しそうな顔をしていた。和都はうわぁ、と面倒なものを見るように眉を顰める。
「……なに?」
「やっぱさ、お前ら付き合ってんの?」
水を得た魚のように、きらきらイキイキした顔で言われた。
「菅原はおれと先生に何を期待してんの?」
「えー、男子校とはいえ、色恋沙汰は楽しいじゃーん」
「……自分はどうなんだよ」
「いや、オレは今特に気になる人とかいないし」
「あっそ」
他人の色恋をエンタメか何かと思っているようだ。一番面倒くさいタイプである。
和都はため息をついてノートを閉じた。
「普通に考えて、先生と生徒で付き合ってたら、ダメだろ」
「えー、でも3年生の白坂先輩、英語の八村と付き合ってるらしいぞ」
「……マジで?」
驚く和都に、菅原が肩に腕を乗せて言う。
「だから、そういう話、オレには心置きなく相談していいぞ!」
「べつに付き合ってないし、菅原に相談するようなこともない!」
「えー! あらゆる告白をはね除けてきた『狛杜高校の姫』についに恋人が出来たとか、スクープ以外の何ものでないのに!」
「おれはそろそろ1回くらいお前を殴っても許されると思うから殴っていいよな!」
「ぎゃー、やめろぉ!」
菅原の襟首を掴み、歯ぁ食いしばれ、と拳を振り上げたところで、小坂と春日が屋上へ上がってきた。
「買ってきたぞぉ」
「何やってんだ、お前ら」
昼食時に使ういつものベンチの上で、和都が菅原を殴ろうとしている様を目に留めた2人が呆れたように聞く。
「いい加減、この恋愛脳スピーカー男に鉄拳制裁しようと思って」
「名案だな」
「おお、いいぞ」
和都の言葉に2人が同意すると、菅原が焦ったように言った。
「おい待て小坂、副キャプテンを売るなよ!」
「お前、部活の休憩中もそういう話ばっかしててうるせーんだよ。1年困ってるだろ」
小坂が呆れたように言うのを聞いて、和都はニッコリ笑う。
「じゃあ、バスケ部1年の分も一緒に受けような」
「……怒った顔も可愛いんだなぁ『姫』は」
菅原の言葉に、和都は問答無用で左頬をぶん殴った。
◇
午後の最初の授業は日本史。教科担当は川野である。
以前、和都をしつこく追いかけ回していたが、それ以降も特に変わりなく授業は行われており、『鬼』としての印象が少しばかり薄くなっている。もちろん他のクラスメイトから見れば、当たり前に普通の教師だ。
ただやはり、和都には半透明のツノが視え続けており、『人ではない』という印象は変わらない。
「先日の実力テストを返却します。赤点の方は後日追試を行いますので、そのつもりでお願いします」
黒板の前に立ち、川野が名前順にテストを返却していく。
和都が受け取った答案の点数は、いつも通りの数字が書かれており、ホッとした。以前、川野の小細工で赤点になってから、テストの点数を見るのに緊張してしまう。間違っていた箇所の設問を確認しようと、机の中にある問題用紙を探していると、
「え、うそだろぉ」
後方の席に座っている小坂の声が聞こえてそちらを見た。答案を見ながら渋い顔をしている。
授業が終わってすぐ小坂の席に向かうと、同じように気にしていた菅原が答案を見て困った顔をしていた。
「どうした?」
「……赤点」
「え、マジで」
小坂はとりわけ点数が良い方ではないが、普段であれば赤点をなんとか回避できている。それがタッチの差で赤点になっているようだった。
実力テストなどの成績に影響のあるテストの赤点は、部活動をしている生徒には死活問題である。なぜなら追試で合格できるまで部活動に参加できず、試合等にも出られないからだ。
「……あれ?」
答案用紙と問題用紙を見比べていたところ、小坂が不審な点に気付く。問題用紙にメモした答えと、答案用紙に書いてある答えが1箇所違う。
少し長めの文章解答の後半。そこが反対の意味の言葉に書き換えられていたのだ。
「ちょっと行ってくる」
小坂はそう言うと、答案用紙と問題用紙を持って、教室から出ていったばかりの川野を追いかける。
ちょうど中央階段の踊り場で川野を捕まえた。
「川野先生!」
「どうしました、小坂くん」
「あの、ここ」
そう言って問題用紙のメモと答案用紙の回答欄を並べて見せる。
「……書き写すのを間違えてしまったんですか?」
「違います。ここはちゃんと同じ内容を書きました」
「いやしかし、答案用紙の答えは違いますしねぇ」
几帳面そうな顔で、川野が少し困ったように笑いながら言った。
「おれ、知ってますよ」
「何をですか?」
「前、相模の答案用紙、勝手に書き替えてましたよね」
小坂が睨みつけながらそう言うと、川野の目がギラリと光った気がする。
「……そうでしたか。それなら話が早いですねぇ」
「は?」
「今日の放課後、相模くんと一緒に社会科準備室まで来てください。そしたら、きちんと採点ミスとして対応してあげますよ」
「な!」
「それでは、次の授業がありますので」
そう言うと川野は授業中の時のような、几帳面そうだが穏やかな顔つきに戻り、階段を降りていった。
小坂はそれを見送ると、不服そうな顔のまま教室へと戻る。
「あ、小坂。川野と話せた?」
和都が心配して声を掛けると、深刻そうな表情で自席に戻り、口を開いた。
「……相模を、連れてこいって」
自席の周囲にいた、和都を含めたいつもメンバーにだけ分かる小さな声で言う。
「は?」
「相模が狙いなんだろ」
「近寄れないなら、おびき出すってか。卑怯だなぁ〜」
「くそっ」
和都の表情が曇る。
自分自身に何か起こるのではなく、自分のせいで他人が被害を受けるのが、どうしたって一番きつい。
「相模」
呼ばれて顔を上げると、先ほどよりも眉間のシワを深くした小坂が、和都を睨むように見ていた。
「お前が悪いわけじゃねーからな。悪いのは川野。間違えんなよ」
「……うん」
言われて和都は小さく頷く。思っていたことが、顔に出てしまっていたようだ。
「小坂、見して」
春日がそう言って、小坂から2枚のプリントを受け取る。
答えの書かれた回答欄と、問題用紙に書かれたメモを春日はじっくり見比べた。やはり文字の一部が意図的に改変されている。筆跡が明らかに違った。
「……和都の時と、同じような小細工だな」
「だろ?」
小坂が自信満々にそう言った。
「なんで気づいたの?」
「そこ、めちゃくちゃ考えて書いたとこだったから、覚えてたんだよ」
「なるほどね」
「しかし、どうする?」
明らかな罠である。ここまで露骨だと、鬼側も焦っているのだろうと予測できた。
それは、和都を守るハクのチカラが、それほど大きくなっているということ。
春日はしばらく考えていたが、何か思いついたようで、
「放課後は、俺が一緒に行く」
そう言って、小坂の肩を叩いた。
◇
放課後。
和都は先日できなかったアンケート集計のために保健室へ向かい、菅原はいつも通り部活へ行った。
そして小坂と春日は、特別教科棟・南棟の2階にある、社会科準備室を訪れるため、階段を上っていた。
「春日、何か勝算でもあんの?」
「勝算というわけではないが、試してみたいことがあってな」
「ふーん?」
よく分からないが、あの妙な目つきをする教師の元に一人で行くより、誰かいた方が圧倒的に心強い。
2階にたどり着き『社会科準備室』とプレートの掲げられた扉の前に立つと、小坂は深呼吸してから、ノックして扉を開けた。
「失礼しまーす!」
扉を開けてすぐ目に飛び込んできたのは、黄変した紙束と背表紙の分厚い本が収まった本棚だった。そしてその棚の上部には大小いくつかの地球儀が並び、地図と思われる大きな紙を丸めたものなどが無造作に立て掛けられている。
資料のたくさん置かれた箇所を横目に奥に入ると、社会科目を担当している教職員用デスクの並んだ空間があり、その一番手前の席に川野が座っていた。
春日がぐるりと室内を観察したかぎり、今この部屋には川野しかいないらしい。
「おや、小坂くんと……春日くん。何か御用ですか?」
川野はこちらに顔を向け、穏やかそうに目を細めた。
「今日返してもらった、テストの件で来ました」
「……何か、問題でもありましたか?」
まるで休み時間に話したことなど、一切記憶になさそうな口調である。
「おれの書いた答え、勝手に書き換えましたよね?」
「さて、何のことでしょう?」
「なっ!」
川野のとぼけた態度に、殴りかかりそうになる小坂を制し、春日が解答用紙と問題用紙を持って川野の前に出る。
「川野先生、これは小坂の書いた文字です。こっちは解答用紙の文字」
そう言って、問題の箇所を分かりやすく並べて見せた。
「解答用紙の文字は、明らかに筆跡が違います」
「……そうですか? 私には違いが分かりませんが」
「俺はこの筆跡に見覚えがあります」
「ほう?」
「普段、川野先生が黒板に書かれている文字です。『あ』の書き方が同じです」
「うーん、チョークで書いた字と鉛筆で書いた字では、結構異なるものですけどねぇ」
2枚のプリントを受け取り、わざとらしく見比べながら、川野が言う。
あくまでも、シラを切るつもりらしい。
「……相模の時は、あちこちの回答を修正していたので判別が難しかったんですが、今回は1箇所だけなので、バレバレですよ」
春日の言葉に、穏やかそうに笑っていた川野が、不快感を露わにして睨みつけた。
「こういった不正を他の先生に伝えた場合、川野先生の立場が……」
ガタン、と音を立て、淡々と語る春日の言葉を遮るように川野が立ち上がる。
身長は春日と同じくらいだが、細身のせいか春日より小さく見えた。
「……まったく。人間というのは面倒くさい生き物ですねぇ」
川野はガシガシと頭を掻きながら、大きくため息をつく。そして、ジロリと小坂を睨みつけ、
「私は相模くんを連れてきなさいと、言ったはずなんですが」
「誰がのこのこ連れてくるかよ」
小坂が反論すると、再び、はぁぁ、と大仰に息を吐いた。
「ああ、まったくもって面倒です。人間は食ってしまうと始末に困る。だからこそより美味い人間を見つけるには、人間社会に紛れ込んでおいたほうがいいと思って入ってみたんですが、失敗でしたかね」
ぶつぶつと独り言に近い声で言う川野の身体が、少しずつ大きくなっている。
春日は川野の身長が徐々に自分より大きくなり始めたのに気づき、小坂を後ろに庇いながら数歩下がった。
「必要最低限にとどめておこうと思っていましたが、『狛犬の目』を食うにはチカラが足りなくなってしまいました。子どもの2匹くらいなら、食べておいたほうが良いかもしれません」
身長は3メートルを越えただろうか。天井に頭がつきそうなくらい高くなり、身体つきも隆々とした筋肉で膨れ上がって大きくなっている。肌の色も浅黒く変色し、額の右端、こめかみの少し上からは、まるで牛のようなツノが1本伸びていた。
「……鬼?!」
まるで、おとぎ話に出てくる鬼そのものの姿だ。こちらをギラリと睨む目の色は赤く、真ん中の瞳孔も縦に細長い。
驚く2人めがけて、太い腕が勢いよく伸びてきた。
「うぉっ!」
慌てて後方まで下がって距離を取る。
「大人しく捕まってください。キレイに食べてあげますよ」
そう言って笑う川野の、大きく開いた口からは、巨大な牙が見えていた。
「春日、逃げるぞ!」
小坂がそう言って、入ってきた社会科準備室のドアに駆け寄る。
「え、あれ?!」
鍵をかけた覚えもなければ、かかってもいないドアは、ぴったり閉じたままビクともしない。ガタガタと何度も揺らしてみるが、開く気配がなかった。
「くそっ!」
社会科準備室の出入り口はもう1箇所あるが、立ちはだかる川野の後ろのほうにある。
「残念でしたね」
これも鬼の持つ不思議なチカラによるものだろうか。
ゆっくりと、楽しげに、獲物を追い詰めたとばかりに川野が近付いてくる。
春日は、小さく息をつくと通学鞄から何かをつかみ出し、川野の顔めがけて思い切り投げつけた。
「お守り?」
投げつけられたものが何であるか、小坂が分かった次の瞬間、
「ギィヤアアアアアアア!」
凄まじい咆哮が、鬼の口から飛び出す。
川野の顔を見ると、お守りの当たったらしい顔の右半分がドロドロと焼け爛れ、小さな白煙が立ち上っている。大きく膨れ上がっていた鬼の身体はしゅるしゅると萎んでいき、普段見慣れた人間の姿に戻っていた。
「おのれおのれおのれ……!」
しかし、顔面は焼けたままなのか、片手で押さえ、お守りを投げつけた春日を睨む。
「小僧! 貴様、なぜそんなものを!」
「安曇神社の巫女さんから、たまたま貰いました」
春日がそう言いながら、床に落ちたお守りを拾おうと川野に近寄ると、よほど効いたのか、今度は川野の方が後ずさっていく。
「……忌々しい!」
吐き捨てるように言うと、更に後方へ下がり、もう一つの出入り口から出て行ってしまった。
しん、と一気に辺りが静まりかえる。
「あ、逃げた?!」
小坂が気付き、出て行こうとするのを、落ちていたお守りとテスト用紙を拾い上げながら、春日が止めた。
「待て、誰か来る」
人気のない南棟の階段を、誰かが上がってくる足音。
固唾を飲んで見守っていると、社会科準備室のドアをガラッと開けて入ってきたのは、世界史担当の西原先生だった。
「あれ? どうした、お前たち」
人間の姿をした大人の登場に安堵しつつ、春日は答えた。
「すみません、川野先生に用事があって来たんですが」
「ああ、そうなの。あれ、川野先生いない?」
「……はい」
「おかしいな、結構前にこっちに来たはずだったけど」
西原はそう言いながら自席へ向かいつつ、室内を見回した。確かにいた形跡はあるのになぁ、と頭を掻く。
「で、何の用事だったの?」
春日は言われて、拾ったテスト用紙を西原に渡しながら、
「この間の実力テストで、採点ミスがあったようなので」
「へー、川野先生が? 珍しいね」
西原が春日に指摘された箇所を確認している。小坂もチラリと改めてプリントを覗き込むと、書き換えられたと思っていた箇所が、自分の書いたものに戻っていた。
「あぁ、本当だね。この内容なら丸になるね」
「そ、そうですよね?」
小坂は若干混乱しつつも、そう声を上げた。
「なるほど、ここが丸なら赤点回避だったのか。小坂はバスケ部だったっけ?」
「そ、そうなんです! 練習したいんで!」
「あはは、そっかそっか。じゃあ俺から川野先生に言っておくから、部活行きな。この答案は、俺が預かっとくよ」
「やった! ありがとうございます!」
小坂が嬉しそうに万歳してお礼を言うと、さっさと社会科準備室を出ていってしまう。
「すみません、お願いします」
春日は西原にそう言って頭を下げると、小坂を追いかけるように社会科準備室を後にした。
◇
「え、それで川野先生、いなくなっちゃったの?」
社会科準備室を出た後、小坂はそのまま部活に参加するため第2体育館へ向かい、春日は報告も兼ねて、アンケート集計で和都が居残っている保健室に来ていた。
「ああ。顔の右半分がヤケドみたいになって。その後すぐ西原先生がきたんだが、会っていないようなんだ」
特別教科棟は、西棟も南棟も階段が1箇所しかない。川野がもし階段を降りていたなら、西原と会っているはずなのだ。
「どうやって……」
「違う空間に逃げ込んだんじゃない?」
一緒にアンケートの集計作業をしている仁科が言った。
「違う空間?」
「うん。堂島が俺んとこ来た時も、いなくなる時はスーッて消えてったからさ」
「こわぁ」
「鬼はそういうことも出来るんですね」
人間とは違う未知のものだと、改めて実感してしまう。
「それにしても、凛子さんのくれたお守り、すごいんだね」
「ああ、確かに」
春日は通学鞄に仕舞ったお守りを、再び取り出して眺めた。
花の地紋が入った紫色の生地で、表に『御守』、裏に『安曇神社』と金糸で刺繍された、どこにでもありそうなシンプルなお守りである。
先日、白狛神社跡地に祝詞をあげに来た際、凛子が「鬼を撃退できるくらい強いヤツだから」と和都と春日にくれたものだ。
「安曇神社のお守りは、効果がすごいって評判だしね」
「へー、そうなんだ」
「噂は聞いたことあります」
「先生も、貰えてたらよかったのにね」
そう言いながら、和都も自分の鞄からもらったお守りを取り出す。
「……なんで俺の分、なかったんだろうな」
「嫌われてるんじゃないですか?」
春日が仁科にそう毒づいてすぐ、室内に声が響いた。
〔そのお守り、なんかすごいねぇ〕
一番手前のベッドの上で、しゅるしゅると白い渦が巻き、大きな白い犬が姿を現す。首には赤白の捻り紐を首輪のように結び、尖った耳をピンと立て、金色の瞳がこちらを見ていた。
「ハク!」
出会った頃は首までしかなかったが、前足から胴体、後ろ足まで綺麗な実体を現しており、残るはお尻の先の尻尾だけという状態だ。
「ハクはすごいお守りって分かるの?」
〔もちろん! あの神社のパワーがめっちゃ詰まってるなぁって感じるよ〕
ニコニコと笑って話すハクと和都。
仁科と春日は正直、内心では穏やかに話すような気分ではないのだが、その理由を和都に知られるわけにはいかない。
〔でも、今度はコサカとユースケかぁ。なかなかカズトを食べられないから、焦ってるんだろうねぇ〕
「そうみたいだな。お前のチカラがだいぶ強くなったせいだ、というのを川野も言っていた」
「たしかに。あと、尻尾だけ?」
〔そうみたい!〕
ハクがそう言ってお尻を振ってみせた。
「まぁ先週末も、先生の家に泊まり込んでたみたいだしな?」
そう言って春日は腕を組み、トゲを含んだ言葉を和都にジロリと投げかける。
「……べつに、解読の手伝いしてただけだし」
視線を逸らしつつ、和都は答える。
「泊まる必要はあったのか?」
「うっかり寝ちゃったんだよ!」
「へー?」
口を尖らせる和都から、春日は視線を仁科に向けて。
「普通は、起こして家まで送るもんですけどね?」
「……いやー、全然起きなかったし、家に誰もいないって言うからさ」
「だからって生徒を自宅に泊めるのも、どうかと思いますけど」
「親戚のおじさんの家に泊めてあげただけだって」
仁科が相変わらず飄々と答えるので、春日が深くため息をつく。
親戚関係といえど、限度はあるだろう。
「ちゃんと節度はもってくださいよ」
「分かってまーす」
そう言って仁科が談話テーブルの上に広げたアンケート用紙をまとめ始める。話ながらも進めていた集計作業が終わったようだ。
「……ユースケ、学校外のことは口出さないって言ったくせに」
「内容による」
「何だよそれぇ!」
和都も仁科と同様にアンケート用紙をまとめ始めた。担当していた分が終わったらしい。
「それに、家に一人でいるより、誰かといたほうが安全だと思わない?」
「まぁ一理あるがな」
「でしょ?!」
怒ったように言う和都を置いておき、春日はハクのほうを真面目そうな顔で見て、
「おい、ハク」
〔なぁに、ユースケ〕
「実体化したら、鬼じゃない人間でも食えるのか?」
「だれ食べさせるつもり?!」
春日の質問内容に、和都もさすがに慌てた。
〔あはは、食えるよ! というか『鬼』も食べる時はまるごと食べちゃうつもりだしね〕
「え、まるごとって……」
〔うん! 身体ぜーんぶ丸ごと!〕
今度はハクの回答に、和都の顔が青ざめる。
「え、待って、ハク。それじゃ困っちゃうよ」
〔なんで?〕
「堂島先生は、今はたしかに『鬼』だけど、鬼が憑いてるだけなんでしょ? 鬼だけ食べるって出来ないの? 堂島先生は、先生の友達なんだよ」
「できれば、俺からもお願いしたい。あぁなっても、友人は友人だからな」
黙って聞いていた仁科も、これについては口を開く。被害には遭ったが、悪いのは彼ではなく、彼に憑いた『鬼』だ。
〔うーん、出来るとは思うけどぉ〕
「本当?」
〔でもね、ちょっと難しいんだぁ。鬼や悪霊が憑いてる状態ってね、元にある人間の魂に掴まってる状態なんだよ。それを離してもらうには、一度人間の身体から魂だけを放り出す必要があるんだ〕
「魂だけを、放り出す?」
〔そう! 魂だけにされると、掴まってるだけの憑物は必ず手を離すことになってる。そうやって離れたタイミングで鬼だけ捕まえられたら、食えるんじゃないかな!〕
理屈については理解したが、やることはそう簡単な話ではない。
「魂だけにするって……どうやって?」
〔ほら、人間って事故とかに遭うと、臨死体験っていうのするでしょ? あんな感じのが出来ればいいんだよ〕
「でも、事故だとケガしちゃわない?」
「下手したら事故で死ぬ可能性もあるからな」
憑いている『鬼』を引き剥がすために事故を起こしたとしても、肉体が負ったケガが原因で死んでしまったら意味がない。
〔まぁ、幽体離脱ってのが出来れば、一番早いけどね〕
「幽体離脱……」
言われて3人は揃って悩む。そう言ったオカルト的な知識が全くないので、なんとなくのイメージでしか話せない。
「堂島なら殴って気絶させればいけねぇかな?」
「先生、力で敵わなかったんじゃないの?」
「……うん」
先日堂島に襲われた際は、全くもってチカラで敵わず、結局ケガをする羽目になった。
どうしたらいいか、と悩んでいると、ハクが手を挙げる。
〔それならボクがちょっとだけ殴る役やるよ!〕
「えー、うっかり殺したりしないでね?」
〔大丈夫、大丈夫!〕
ハクがケタケタと楽しそうに笑った。
和都は若干の不安を感じつつも、これまでもちゃんと自分を守ってきてくれたのだから、と思い直す。
その横で、仁科が学年別にまとめたアンケート用紙を整えていた。
「さ、任意のアンケート集計は、ひとまずコレで終わりだね」
「お疲れ様でした」
疲れ切った和都が談話テーブルに突っ伏した。
「作業はそれで終わりか?」
「うん、明日グラフとか作るつもり」
「さぁさ、暗くなる前に帰りなさい」
言われて和都が窓の外を見ると、空はすっかりオレンジ色に染まり、紺色の気配が近付いている。
「うわ、もう夕焼けしてる」
「日が短くなってきたな」
和都が帰り支度を始めたので、それを待つ間、春日は窓に近づいて空を見上げた。すると仁科が近づいてきて、
「春日」
「なんですか?」
「お前も帰り道、気をつけなさいよ。居なくなった川野が、どこに潜んでるか分からんし」
「はい、大丈夫です。襲われたら、またコレ投げるんで」
そう言って春日が仁科に紫色のお守りを見せる。
「……凛子にお礼言っとかないとだねぇ」
「そうですね。俺からの分も、伝えといてもらえますか」
「はいはい」
話している間に和都の支度が終わったようで。
「よし、帰ろ!」
「じゃあ気をつけてな」
「うん、先生もね!」
そう言って手を振って保健室を出ていく和都と春日を、仁科は目を細めて見送った。
○
日が落ちて、空の端にオレンジの残り火が見える頃。
狛杜高校からほど近い山の中、車の往来がある整備された道から大きく外れ、草木が茂り、獣道に近い状態になった旧道を、スーツ姿の男がふらふらと歩いていた。
顔の右半分は焼け爛れており、どうにか見えている左目は異様なまでにギョロついている。
月もなく、灯りもない道だというのに、男は目指す場所へ真っ直ぐ歩みを進めていた。
「……忌々しい! 忌々しい!」
ぶつぶつと呪詛のように低い声で呟きながら、男が辿り着いたのは、かつて神社のあった空き地の入り口。
そこには、訪問者がなくなり、落雷によって倒れた大木で封印の解けた『鬼の湧く穴』があった。悪しきチカラを源とする鬼にとって、その穴は自身のチカラを回復できるパワースポットである。
男の目的は、そこから漏れ出るチカラで、この焼け爛れた顔を治すことであった。
鬼たちの間でも『本物』と噂される『安曇神社』の神力はなかなかに厄介である。今までであればすぐに回復し、あの場にいた2人の子どもを食えただろう。だが『狛犬の目』に吸い寄せられ、魅せられすぎたせいか、他の人間を喰らうことを忘れ、全くもってチカラが足りていない。
男はようやく着いた出入り口で息をつくと、かつて石畳のあった登り坂を、ぜいぜいと息を切らして登っていく。
少しでも近づけば、チカラを吸収して回復してくるはず。だが、その気配が一向に訪れない。
「……どうなっているんだ?」
坂道を登りきった男は愕然とする。
雑草が伸び荒れ果て、祠を壊した倒木が転がっていたはずの場所は、倒木がなくなり、残っていた根株は切り整えられ、綺麗に整地された空間に新品の祠がポツンと佇んでいた。
また場所が綺麗になっただけでなく、きちんと清められており、当てにしていたチカラも、解き放たれていたはずの穴も、きっちりと閉じられてしまっている。
「なぜ……。いったい誰が」
狼狽え呟く言葉に、空き地を囲む雑木林の中からクスクスと笑い声が響く。
〔バカだなぁ。カズト達に決まってるじゃないか〕
「貴様『狛犬の目』の番か!」
〔ピンポーン♪〕
楽しそうに答えると、ハクは雑木林の中から飛び出し、ゆっくりと空き地の真ん中に降り立つ。
白い毛並みの巨大なオオカミ。首には赤白の捻り紐を結び、尖った耳と大きな口と鼻。前足、胴体、後ろ足、そして、お尻の先には大きく二股に分かれた尻尾が揺れる。
「……まさか、すでに完全体に?」
〔うん! まぁ一部分だけ視えないようにするなんて、朝飯前だからね!〕
「くそっ」
その男──川野は、強大なチカラを前に後退る。
あの『狛犬の目』に惹き寄せられてしまった悪鬼悪霊は、『狛犬の目』を食うことができなければ、『狛犬の口』に食われるのだ。
〔いやー、君たち『鬼』が居てくれたおかげで、カズトもニシナからチカラを沢山もらえるくらい仲良しになったから、これでも感謝はしてるんだよ! カズトを狙ってくれてありがとうね!〕
「何が『ありがとう』だ。散々邪魔をしただろう!」
〔そりゃそうだよ。カズトを食べるのはボクなんだからぁ〕
「なんだと?」
川野が1つしかない目を丸くして驚く。
自分たちと同じ目的の存在が、狙っているエモノの味方にいるのだ。無理もない。
〔だから、感謝のシルシに『狛犬の目』のチカラから、解放してあげようかなって思って!〕
「……そんなことが出来るのか?」
〔そりゃあね。神様だからね、ボク〕
「では『狛犬の目』は諦めよう。解放してくれ!」
あの美しい『狛犬の目』に捉われることは、渇望し、己を削り続けるある種の呪いだ。
そこから解放される術があるというなら、やぶさかではない。
川野が喜んで叫ぶのを見下ろしながら、ハクはその、縦1本の瞳孔をたたえた金色の瞳を細めた。
〔そう、思ってたんだけどねぇ。……ボクのお気に入りのコサカを食べようとしてたから、やっぱりやーめた!〕
「な!」
白いオオカミは大きな口を大きく開き、人間の形をした鬼に食らいつく。短い叫びをあげて、くの字に曲がった男の身体は、あっという間に大きな牙と牙の隙間に吸い込まれ、バリ、ムシャ、ゴクン、と飲み込まれた。
しん、とした静寂。
風が吹いて、ざわざわと空き地を囲む木々がざわめく。
暗くなった空き地の真ん中で、巨大なオオカミは白い毛をぼんやりと輝かせながら、長い舌でぺろりぺろりと口周りを舐めていた。
〔んー、やっぱり大人の鬼っていうは、おいしくないなぁ〕
眉を顰めながら、ハクはそう呟いた。
〔ドウジマは憑いてる鬼だけ食べてってお願いされちゃったけど、こっちの『鬼』は特に言われてないから、いいよね!〕
凛子によって清められた、かつての居場所はやはり居心地がいい。
昔ここに建っていた神社も、元々は安曇家の人間が清めていた場所だ。きちんと受け継がれてきたチカラなのだろう。新しいのにどこか懐かしさを感じる波長だ。
ハクは100年以上ぶりに手に入れた四肢をうーんと伸ばし、空を見上げる。
〔カズト達、バクの頼まれもの、見つけられなかったみたいだし、そろそろ、いいかなぁ〕
白いオオカミは昔より星の少なくなった空を見上げながら、長い舌でベロリと舌舐めずりをした。




