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23/26

23)痕跡

「おーい、相模!」

 日課である健康観察簿を届けにいく途中、隣のクラスで同じ保健委員の岸田が声を掛けてきた。

「あ、岸田。おはよう」

「なぁなぁ、こないだお前の『彼女』が学校来たってウワサ、まじ?」

「……お前もその話か」

 やたら楽しそうに話す岸田を、和都はうんざりした顔で睨む。

 実力テストが終わってすぐの放課後、普段は隣県の大学に通う、安曇凛子が狛杜高校にやってきたのである。

 勿論、ただ遊びに来たわけではなく『白狛神社跡地の祠に祝詞をあげる』というちゃんとした理由があってのことだ。仁科と駅前で待ち合わせをしていたらしいのだが、曰く「早く着いて暇だったから」と、高校までやってきたらしい。

 和都はちょうどその時、下校しようと春日と一緒に校門へ向かっており、運悪く学校に到着した凛子と遭遇。凛子に再会の喜びから抱きつかれ、その様子を見ていた大勢の生徒から『相模和都には年上の彼女がいる』という噂が広まってしまったのであった。

 ここ数日は、よく話すような生徒と顔を合わせる度にその話をされるので、ひたすら弁明している。

「彼女じゃないし、おれと先生と共通の親戚だし。先生に用事あるから学校に来たってだけ!」

「なぁんだ、やっぱりそっちの話がホントかぁ。てか、お前と先生が親戚ってのもビックリだけどな」

「まぁ、おれも最近になって知ったから」

 凛子の件を弁明し続けていたため、仁科と親戚関係であることもすっかり周囲に定着してきてしまい、心境としてはなんとも言えず複雑だ。

「じゃあ、お前と先生で、その女の人取り合ってるとか?」

「……そういうんじゃないっての」

 ちなみに、仁科と凛子が表向きの婚約者同士であることは、話が余計にややこしくなるので説明はしてはいない。

 岸田と話しながら保健室の前までくると、普段なら閉じているドアが開いていた。

「……なんだぁ?」

 廊下の外まで、やたら楽しげな教頭先生の笑い声が聞こえる。

 岸田と顔を見合わせ、ひとまず開いたままのドアをノックして保健室へ入ることにした。

「2年3組です。観察簿持ってきましたぁ」

「2年4組も持ってきましたー」

 そう言いながら2人が中を覗いてみると、妙に楽しげな、満面の笑みを浮かべた教頭が仁科の肩を叩いていた。

「まぁまぁ、いいじゃないですか、ね!」

「いや、しかしですね……」

 肩を叩かれている仁科は、明らかに困った顔で答えていて、教頭による一方的な話がなされていたのは明白であった。

「あのー」

 和都が観察簿を持って近づいていくと、こちらにようやく気付いた教頭が、やはり大仰なまでに口角を上げた笑顔のままで、

「ああ、失敬失敬。生徒たちの来る時間でしたね。じゃ、仁科先生、考えておいてくださいね!」

 そう言って、小太りの身体でスキップでもしそうな雰囲気のまま、保健室を軽やかな足取りで出ていった。

「うへー、なんだ教頭の顔。気持ちわるっ」

 岸田が嫌なものを見た、と言わんばかりに眉を顰める。

「やー、助かったわ」

「なにか、あったんですか?」

「あー、うん。ちょっと、大人の話だよ」

 仁科は2人から観察簿を受け取りながら、困った顔をするだけで、詳細についてはどうにも話したくない様子だった。

 そして、話題を切り替えたかったのか、ああそうだ、と思い出したように言う。

「今日、任意アンケートの回収と集計だかんな」

「わかってまーす」

「オレ、塾の日!」

「……そうだった」

「アンケート回収は手伝うからよ! 集計は頼んだぜ、委員長!」

 ガックリ肩を落とした和都に、岸田がそう言って背中をバシッと叩き、一足先に保健室を出ていった。

「……今日の集計、おれだけですかね」

「そうかも」

「まぁ、任意のだし、項目少ないからいいけどさ」

 今回のアンケートは提出任意のもののため、各階に設置したアンケート提出ボックスから回収した分を集計する。1学期に行った全校生徒が提出し、研究発表用も兼ねたアンケートとは違い、ペラ1枚なのでそこまで時間はかからない予定だ。

「よろしくね、委員長」

「はぁい」

 そう返して、和都は保健室を後にする。教頭先生の件も気になったが、放課後に聞けばいいか、と思いながら教室へと急いだ。





 空の色が早々に白み、橙色の気配が近い放課後。

 保健室のドアをノックもなく開けた人物に、仁科は眉を顰めた。

「よぉ、仁科」

「……堂島か。何か用?」

 小豆色のジャージを着た、大学時代の頃を知るはずの彼は、仁科が怪訝な顔をしていることなど気にも留めず、ずかずかと無遠慮に入ってくる。

「隠してたなんて、水くさいなぁ」

「……何の話だ?」

「あの『安曇家』と繋がってたとはねぇ」

 生徒に向けている時と同じような、穏やかに笑った顔のまま、堂島がそう言った。

「なんだ、お前も『安曇家』と繋がりが欲しいの?」

 昨日の職員全体が参加する会議で、ついに仁科が和都を連れ出していた件を言及されてしまい、仕方なく班活動の調査に協力していたことと、安曇家と親戚関係にあることを説明する羽目になった。

 そういった経緯もあり、欲目のある教頭のような人間からは、会議以降、取り入ろうとするような誘いが多い。

 仁科はわざとらしく、それらと同じような話か、と聞いたのだが、

「とぼけても無駄だぞ」

 貼り付けたような笑顔のまま堂島がそう言うと、触ってもいないドアが勝手に閉まる。一瞬そちらに気を取られ、再び近寄ってくる堂島に視線を戻すと、目の色は赤く、真ん中の瞳孔が縦に細長かった。

「やはり、あの子どもが『狛犬の目』と知って、庇っていたわけだ」

「子どもを襲うようなゲスな大人から、可愛い教え子を守ってるだけだよ」

「『狛犬の目』の気配で分からなかったが、お前もなかなか強いチカラを持っていたんだなぁ」

「だったら、なんだ?」

 そう返した次の瞬間、堂島の手が伸び、襟元を掴んで引き寄せられ、唇を塞がれていた。

 すぐさま右手で思い切り堂島の頬を殴り、顔を引き離す。人間の頬を叩いたはずが、まるでゴムタイヤでも殴ったかのような感触だ。

「……何しやがる」

「食ってやろうにも、あの取り巻きを倒すチカラが少々足りないんでね」

 堂島が小さく舌舐めずりしてみせる。

 ということは、ハクのチカラは鬼ですら怯むような強さになっているわけだ。

 ──まぁ、あれだけデカくなればな。

 協力した甲斐があるというものである。しかし、この状況は厄介だ。

「お前に渡してやるチカラなんかねーけど」

「……腕力は、こっちの身体のほうが強かったな」

 堂島がニッコリ笑う。あ、と気付いた時には仁科の肩を掴んでおり、談話テーブルの上にドン、と思い切り叩きつけるような形で、上半身を押さえつけられていた。強かに打った背中が痛い。

「はっ、子どもだけじゃ飽き足らず、見境なしか」

「なぁに、順番を変えるだけだ」

 そう言って開いた堂島の口の中からは、人間のものとは思えない、まるで獣のような大きな牙が見えた。それがギラリと光ったかと思えば、開かれた襟元の、首の付け根辺りに食らいつく。

「……いっ」

 皮膚を裂く鋭い痛みと同時に、身体が内側から急激に冷やされるような感覚。

 ──なるほど、こういうことね。

 堂島に襲われた和都も、直後は氷のように身体が冷たくなっていた。食う、というのは、命と同時に体内にあるチカラも吸い上げるのかもしれない。

「このやろ……!」

 首に食らいつく堂島の顔をまた殴ろうと手をあげたが、すぐに手を取られて押さえ込まれてしまう。

「マジか……」

 顔が離れた、と思えば、牙に鮮やかな赤色を滴らせて、堂島が楽しそうに赤い目を細めてこちらを見た。

「心配しなくても、全部キレイに食ってやるよ」

「……いった」

 掴まれた右手が、ギチギチと強く握りこまれる。

 動かせない。確かに堂島のほうが元々の腕力も上だと思うが、それにしたって強すぎる。

 全くもって、最悪な展開だ。

「俺の知ってるお前は、こういうのが大嫌いなヤツだったよ」

「残念、それは知らなかったなぁ」

 過去の記憶がよぎって言ってみたが、分かっていても、その言葉にひどく落胆してしまう。

 赤い瞳に、開いた口から覗く牙。こちらを見下ろすかつての友人は、やはり中身の違う別人だ。

 その、万事休す、というタイミング。

「2年4組でーす。回収したアンケート持ってきましたぁ」

 保健室のドアの向こうから、今朝も聞いた、底抜けに明るく元気な、岸田の声がした。

「誰も来ないと思ってたんだろうが、残念だったな」

「……チッ」

 余裕たっぷりだった堂島の顔が、にわかにくしゃりと歪み、ドアの方を睨む。

 ガタガタと揺らされるドアの向こうからは、開けようとして開かないことに気付いたらしい疑問の声が聞こえてくる。

「あっれー?」

 ドアの鍵は掛かっていない。もし掛かっていれば、施錠されていることが分かるよう、ドアの鍵部分には印が出るようになっているのだ。

「岸田、どうしたー?」

 廊下の奥のほうから、和都の声が近づいてくるのが聞こえてきて、仁科は少しだけホッとする。

「あ、相模。保健室のドア、開かなくてさ」

「え、鍵は?」

「開いてるっぽいんだけど」

「うそ。先生ー、いるー?」

 ドアをドンドンと叩きながら、普段より大きい和都の声が呼びかけてくる。

 仁科はハアァ、と大きく息を吐いて。

「あー、悪い。いるよー」

 談話テーブルの上、組み敷かれた体勢はそのままに、大きな声で返事をした。

「あっいるいる。ドア、開かないんだけどぉ」

「なーんか鍵んとこおかしくなったみたいでさ。悪いけど、野中さん探してきてくんない? 事務室、誰も居ないみたいで。鍵んとこ、外すしかないかも」

「あ、じゃあ、オレ行ってくるわ」

 そう岸田が返して、パタパタと廊下を走る音が遠ざかる。

 ドアの向こうには和都が変わらずにいるらしい。

「先生、大丈夫? なんか声が変だけど」

「ちょっと、手ぇ傷めちゃってさ」

「えっ、大丈夫?」

「うん、平気へーき」

 話している間に廊下の向こうは人が増え始め、バタバタと騒がしくなってきたのが分かる。

 外のざわつきが増える度に、堂島の顔に浮かんだ焦りの色も強くなっていく。

「野中さん呼んできたぞー」

「すみませーん、外に出てたもんで」

 事務員を務める野中さんの、少しおどおどした声も聞こえた。そしてすぐに、ガチャガチャとドアの鍵部分を外す音がし始める。

 仁科は堂島を見上げ、いつもような調子で言った。

「お前、今ここにいたら都合悪いんじゃないの? ()()()()()()()()()()()()()()のは、おかしいからな」

 人に紛れている異形は、予定外に本性を晒してしまうことを、極端に恐れる。

「……仕方ないな」

 赤い瞳を冷たく蔑むように細めながら身体を離すと、堂島は後退りながらスゥッと空間に溶けるように消えてしまった。

 仁科は、はぁ、と大きく息をつき、身体を起こす。

 背中と、堂島を殴った手の、外側面が痛い。思った以上に強く握り込まれたようだ。

 満身創痍に近いものの、ズキズキと痛む右手ですぐに治療用品棚を開ける。噛まれた部分を軽く消毒しガーゼを当て、ネクタイを直しながら襟元をきっちり閉じた。

 ただ、鍵が壊れて出られなくなっただけ、という状態を取り繕わなければならない。

 廊下の方ではあまりないトラブルのためか、ガヤガヤと少し騒ぎになっているようだった。

 ガチャ、ガコン、と鍵の辺りが外れるような音がして、ようやくガラガラとドアが開く。

「いやー、大丈夫でしたか、仁科先生」

「はい、お手数おかけして」

「老朽化ですかねぇ? 業者にお願いするんで、1週間くらいしたら直ると思います」

「そうですか。お願いします」

 仁科が頭を下げると、野中さんも同様に頭を下げ、紺色の帽子を被り直して去っていく。それを見て、野次馬の生徒たちもバラバラといなくなり始めた。

「先生、これ。回収したアンケート」

「テーブル置いていい?」

 保健室に用のある岸田と和都が残り、各教室階から回収してきた、アンケートの束を仁科に見せる。

「ああ、そこ並べちゃって」

 すでに学年ごとに分けてあるようなので、そのまま談話テーブルに並べるように指示をした。

 と、右手を押さえているのに和都が目敏く気付き、

「あ。手ぇ、どうしたの?」

「いやぁ、鍵んとこ叩いたら直るかと思って思い切り叩いたら、傷めちゃってサ」

「だっせぇ!」

「ええー」

 いつもの調子でそう言ってみせると、岸田は笑い、和都は呆れたように眉を顰めた。

「相模、手当してくんない? 利き手だから上手くいかなくてさ」

「……分かった」

 和都は仕方がないという顔で返事をし、薬品やガーゼなどの入った治療用品棚を開ける。

「んじゃ、オレはお先! あとよろしく!」

「おー、気をつけてなぁ」

 岸田が去って行くのを、見送るように仁科が声を掛けた。

「もー、何してるんだか」

 外はオレンジ色に染まり始めている時間。

 椅子に座って向かい合い、和都は差し出された仁科の右手に湿布を貼って、包帯を巻き始める。

「いやぁ、ちょっと慌てちゃってさ」

「まったく」

 先ほどまでの騒がしさが嘘みたいに静かだった。

 和都が丁寧に包帯を巻くのを眺めながら、仁科が呟くように口を開く。

「……俺が神社関係者なの、向こうにバレちゃってね」

「えっ」

 包帯を巻く手が止まり、驚いた顔がこちらを見た。苦笑するしかできない。

「昨日の職員会議でお前と出掛けたりしてる件、言及されちゃってさ。安曇の親戚だってことも、結局話す羽目になっちゃって」

「え、なに。それで今朝、教頭先生とか来てたの?」

 そう言いながら、和都はふたたび包帯を巻き始める。

「そ。親戚の娘さんとお見合いしろってさ。断ったけどね」

 包帯を巻き終えた和都が、不安そうな顔でじっと仁科のほうを見た。

「人間は欲深いし、鬼は食欲旺盛だし。困ったもんだね」

「ねぇ、もしかしてさ」

「……うん、堂島がきた」

「なんで言わないんだよ!」

 そう言って立ち上がった和都は、仁科のシャツの襟周りにうっすら赤い色が滲んでいるのに気付く。

 襟首を掴んで開くと、首筋にガーゼが当てられており、そこにも赤い染みが広がっていて。

「……あ」

「アンケート集計するし、お前ら来るって分かってたから……助かったわ」

 和都を見ると、泣きそうな顔になっていた。

 鬼側にバレたら危険だという話をハクから聞いた時も、不安そうな顔をしていたのを思い出す。

「……そんな顔しないの」

 眉を下げて、いつものように頭を撫でようとしたのだが、それより早く、和都に頬を掴まれて引き寄せられていて、そのまま唇が触れた。

 しばらくして、ゆっくり離れると、泣いているような怒っているような顔が目の前にあって。

「……学校ですよ?」

「知ってる」

 眉を顰めて睨みながら、でも泣くのを我慢しているような、そんな声。

「……危なかったのに、ヘラヘラすんなバカ」

「まぁ無事だったし」

「そうだけど」

 上手く言葉が出てこないらしい。

「てか、なんでしたの今」

「……なんか、ムカついたから」

 俯いた和都の顔が、真っ赤になっていた。

 さすがに予想していなかったので、これには仁科も面食らってしまう。本人はよく分かっていないらしく、小さく笑ってしまった。

「かわいいこと言っちゃって」

「……うっさいなー」

「知ってる? そーゆーの『嫉妬』っていうんだよ」

「知らないし……」

 本人もまだ、自分の感情に戸惑っているらしい。

 でもきっと、それでいい。

 仁科は立ち上がると、わしゃわしゃと和都の頭を撫でた。

 手の痛みに首筋の痛み、背中も多分アザくらいは出来ているだろう。紛うことなく満身創痍だ。

「今日はさすがに帰ろうか。集計は今度にしよう」

「……うん」

 窓の外から、夜の足音が近づいていた。



◇ ◇ ◇



 インターホンの音がする。

 マンションのエントランスの、オートロックのほうの音だ。

「……あれ、なんか届くんだっけ?」

 仁科は欠伸をしながらサイドテーブルに置いていた眼鏡を掛け、ぼんやりした頭で室内の時計を見る。時間はとうにお昼を過ぎていた。

 そこでようやく、今日の予定を思い出す。

「あ、やっべ」

 慌ててインターホンに応答すると、エントランスの様子を表示するモニターには、ムスッとした顔の和都が映っていた。

「……はい」

「おはよー、先生。起きた?」

「ごめん、今起きた」

 そう答えて解錠すると、寝室に戻ってスマホをチェックする。和都からメッセージと着信の履歴が山のように来ていた。よくこれだけ鳴らされて起きなかったものだな、と自分に感心してしまう。

 顔を洗う暇もなく、すぐに玄関のチャイムが鳴ってしまい、ドアを開ければ、口を横一文字に結び、分かりやすく怒った顔の和都が立っていて。

「もー、時間になっても来ないんだから」

「いや、まじでごめん」

 今日は和都が仁科家から持ち帰った本の、解読の手伝いをしにいきたいというので、朝から迎えにいく予定だった、のだが、すっかり寝過ごしてしまった。

「メッセージも反応ないし、電話も出ないし!」

「うん、寝てた」

 頬を膨らませ、文句を言う和都を迎え入れるが、どうもこれは、そう簡単に機嫌を取れそうにない。

「お前、よく来れたね。電車?」

「当たり前でしょ! ハクに変なヤツいないか見張ってもらいながら来たの!」

「ここの場所も、よく覚えてたなぁ」

「マンションの名前覚えてたから。検索したらすぐ分かった」

「そっか」

 市立図書館近くの大きなマンションなので、分かりやすいといえば分かりやすいかもしれないな、とリビングに着くまで仁科は考えていた。

「事故に遭ったのかなとか、また先生んとこに鬼が来たのかなとか、色々……」

 不機嫌な声が、だんだん小さくなってくる。

 今回ばかりは弁明のしようもなく、自分が悪い。

「うん、ごめん」

「先生が朝弱いの、知ってるけどさぁ」

「昨日も遅くまで解読やってたから、ついね……」

 リビングまで来ると、ソファ近くのローテーブルには、解読途中の本とメモ用のノート、そして参考用に引っ張り出した辞書などが散らかったまま。

 その様子を見た和都が、眉を下げて呟くように言う。

「あんま無理しないで」

「してないよ」

 俯いた頭を撫でてからソファに座り、おいで、と腕を引いて横に座らせた。口を結んだままの顔を覗き込めば、案の定、目の端に涙が溜まっている。

「まぁ、寝坊と事故は気をつけなきゃだけど。鬼がうちに来るってのは、多分ないから、安心して」

 そう言いながら、溢れる寸前の涙を指先で拭った。

「なんで?」

「ここ知ってんの、お前くらいだから」

「えっ」

「お前も、教頭の擦り寄りっぷり見たろ? 安曇の名前を出すとあーなっちゃう奴多いから、むやみに教えないようにしてんの。家まで押しかけられても、困るしね」

 これは実家を出て、一人で暮らすようになってからついた習慣だった。大学時代はうっかり名前を出すだけでたかられ、家に押し掛けられ、何度となく引越しを余儀なくされた。

 社会人になってからは、可能な限り安曇の名前を伏せ、自宅住所は必要最低限の公開に留めている。

「おれは、なんで?」

「まぁ、成り行きでそうなっちゃったとこもあるけど。お前はトクベツ。だから、他のヤツに教えんなよ?」

「うん……」

 まだ少しむくれたままの頬を軽くつねるように撫でて、唇を重ねた。不機嫌そうに閉じたままの口を、舌先で無理やり開いて内側に入り込む。息苦しそうに縋ってきた腕を、そのまま抱き込むようにしてソファにゆっくり押し倒した。

 息を吐くように唇を離すと、困ったような、観念したような顔が見上げている。

「嫌がんなくなったね」

「……嫌じゃないから」

 言葉と表情が合っていないのは、自分がそうやって機嫌を取ろうとしているのに、勘付いたからかもしれない。

 そんなことを考えていると、和都の手が首元にそっと伸びてくる。Tシャツの襟ぐり、V字に開いたそこから、大きい傷あてパッドが見えていた。

「病院、ちゃんと行った?」

 学校ではネクタイを締めていて見えないうえ、周囲に聞かれても困るので話題に出さないようにしていた話。

「行った行った。手もちゃんと診てもらったよ。骨には異常なし」

 そう言って、仁科は湿布を貼った右手をひらひらと振って見せる。

 つい先日、堂島に襲われた際にできた傷は、しっかり治療して治りつつあった。

「……よかった」

「そうだ、お前の腕は?」

 安堵した顔を見て、文化祭の時のことを思い出し、今度は仁科が和都の右腕をチェックする。

 白くて細い腕の内側に、爪で引っ掻いたようなうっすらした線が残っていた。

「まだすこーし痕が残ってるかな。そのうち消えると思うけど」

「そうね」

 夏休みが終わって以降、2人してやたらケガが多い。

 それだけ、向こうも本気なのだろう。この程度で済んでいる、と思った方がいいかもしれない。

「……あ」

 もう一つ仁科は思い出し、和都の着ていたTシャツの胸元を引っ張って、その内側を覗いた。インナーシャツの内側も覗いてみたが、夏の夜につけた赤紫の痕跡は、白くて薄い胸元からきれいさっぱり消えている。

「まぁ、さすがに消えちゃったか」

「……ちゃんと消えました」

 そう答える和都の頬が、不貞腐れたように膨らんでいた。

「体育の着替えの度に、ユースケに確認されちゃうから、もうつけないでね」

 うんざりしたように和都は言うが、仁科には初耳な話である。

「……え、なに。アイツ、体育で着替える時、毎回お前のことひん剥いてんの? 変態じゃん」

「いや、そこまではしてない。けど、なんかチェックはしてるみたいだから」

 当たり前のように言っているが、体育の着替えの際に同性とはいえクラスメイトの身体を、何かしら痕跡がないかと確認をするのは、普通ではない。

「お前はそれをよしとしてんじゃないよ」

「……あれ? 変、なの?」

「変だっつの。まったく、お前らは」

「なんか、ユースケに色々全部任せちゃってるから……」

 距離が妙に近すぎるのは、2人が1年生の頃から感じていたことだが、これはどうもお互いに無意識であるようだ。

 ただ、仁科からすれば、面白くない話で。

「じゃあ、春日クンに見つからないとこなら、いいわけだ」

「いや、つけないでって言ってるじゃん?」

 仁科は和都の言い分を無視すると、細い足の付け根を大きな手のひらで掴み、指先を太腿の内側に滑らせる。

「……この辺、とか?」

「どこ触ってんの?!」

 仁科が悪戯っぽく笑ってみせたが、冗談にも見えず、和都の顔が赤くなった。

 もちろん、履いているパンツの上から触れているが、ぎゅっと押さえつけてくる指の感触は、どうしたって分かるだろう。

「さすがにここまで見ないでしょ? 見てたら俺でも引くけど」

「いや、そうだけど……」

「だめ?」

「だめ!」

 キッパリ断られたので、仁科は「仕方ないなぁ」と考えるような仕草をしてみせて、

「あー、じゃあ、」

 和都の着ているシャツを、インナーごと裾のほうから胸の上まで捲り上げた。

 筋肉の目立たない薄い胸と腹。白い肌に細い(あばら)の凸凹が目立つ。

「わ、ちょっと!」

「やっぱこっちかなぁ」

 節の太い長い指で、胸の辺りをゆっくり撫でた。

「ね、おれの話聞いてた?」

 和都が抵抗するように捲り上げられた裾を戻そうとするが、仁科の掴む力に敵うわけもなく。

「あ、」

 胸の中央、左側。心臓のある箇所より少し上の辺り。

 上擦った小さい悲鳴と一緒に、表面の皮膚をきゅう、と強く吸い上げる。

「……んっ」

 ささやかな身じろぎと、ほんのり色づいた息を零す音。

 唇をゆっくり離した白い胸元に、赤い楕円の痕が咲いていた。

「せんせーの、ばか……」

 赤い顔で、ムッとした声が罵倒する。

「お前、肌白いからたくさん付けたくなるんだよねぇ」

「もー! ダメだってば!」

「大丈夫大丈夫、もうしない」

 仁科は笑って言いながら、捲り上げていたTシャツの裾を戻した。

「ちゃぁんとインナーで見えないとこだから、ね」

 春日に見つかると、それはそれで面倒なので、可能な限り見つからない場所にしたつもりだ。心臓のすぐ近くなんて、それこそ意図的に下着まで脱がさないと見えるはずがない。

「……もう。なんでそんなに痕つけようとすんの?」

 ソファに寝転がったまま、困ったようにこちらを見上げて和都が言う。

「なんでって……」

 仁科は和都の手をとり、上体を引き起こすようにして抱き寄せると、

「自分のものには、名前を書くでしょ? アレと同じ」

 掴んだ手指に口づけながら、ジィッと和都の目を見てそう言った。

 呆れていた和都の顔が、分かりやすく、みるみる赤くなっていく。

「……な、にそれ」

 色々と耐え切れなくなったのか、自分から身体にすり寄ってきて、胸元に掴まるように顔を埋めた。

「消えたらまた付けるから。ちゃんと言ってね」

「……うん」

 赤くなった耳元で囁いた言葉に、観念した声が返事をする。

「そんな必死にならなくてもいいのに」

「だって、誰にもやりたくないし、どこにも行かせたくないから」

 言葉にすると、妙に子どもじみた執着のようだ。

 約束で、痕跡で、色んなもので雁字搦(がんじがら)めにしてでも繋ぎ止めておきたい、嘘偽りのない、これが本心。

「……大丈夫だよ」

 ゆっくり顔を上げた和都が、両手を伸ばして仁科の顔を引き寄せると、そっと額に口付ける。

 それから、自分の小さな額と仁科の額をくっつけると、ジッと目を見て言った。

「おれ、どこにも行かないから」

 困ったような、けれど、嘘のない言葉。

「……うん」

 そう答えた次の瞬間、ばちん、と目覚めるような衝撃が両頬に走った。

 叩いた目の前の張本人は、どこか頼もしい顔をして、力強く言う。

「ほら、本の解読作業やるよ! せんせーは顔洗ってきて!」

「はぁい」

 感傷に浸っている場合ではないのだ。





 遅い昼食をとった後、2人は仁科家から持ち帰った本の解読作業に入る。

 3冊あるうちの1冊は、仁科がすでに解読し終わったらしい。

「これは何の本だったの?」

「白狛神社の、運営に関する帳簿だった」

「帳簿? お金の流れとか?」

「そ。念のため一応全部読んでみたけど、事件の真相に関係ありそうな内容はなかったね」

「そっか」

 リビングのテーブルに本とノートを広げ、和都はアプリで解読した本の内容をノートに少しずつメモしていく。

 和都は白狛神社にまつわる内容の書かれた本を、仁科は孝四郎の手記と思われる本の解読をそれぞれ手分けして進めていた。

 安曇神社で保管されていたものと違い、紙の劣化や汚れが酷く、アプリでも判別の難しい部分が多くある。

「……ところどころ、エラーになっちゃうね」

「そうなんだよねぇ」

 和都の解読している本では、白狛神社の場所に鬼の湧き出る穴があったこと、後の大神が鬼を喰らい、懐いていた人間を殺され鬼になったことなど、安曇神社の蔵で見つけた書物と同様の内容が書かれているようだった。

 もちろん、より詳細な内容も書かれていて、

「丑寅の方角に鬼の湧く穴があった。うしとら……?」

「たしか北東の、いわゆる鬼門の方角。鬼が入ってくるって言われてる方角だな。あー、だから余計に鬼が出てきやすかったわけか」

「なるほど」

 仁科の解説もノートに付記しつつ、さらに読み進めていく。

 すると、以前から謎であった、白狛神社の狛犬、ハクとバクについての記述も見つかった。

「……大神の子ども?!」

「えっ、マジで」

 仁科もさすがに驚いて、隣で作業していた和都の本を覗き込む。

 曰く、大神は鬼の湧く穴を見張り、里に降りる鬼を逃さず食らうため、2匹の子狼を成し、神獣として神社に仕えさせたらしい。

 そのため、白狛神社では代々、チカラの強い宮司と同等にチカラを持った権宮司の2人を置き、ハクとバクをそれぞれ使役させていたようだ。

「よりチカラのある人間じゃないと、務まらなかったわけか」

「安曇家が『本物』だからできること、って感じ」

「そうだね。白狛神社以外にも、そういう『本物』を相手にする仕事をしてきてるから、チカラが強い親戚同士で結婚とかしてたんだろうしなぁ」

 まだ安曇家のみだった頃からのそれを、仁科を含むいくつかの名前を変えた分家に分けて以降も、ずっと繰り返している。

「孝四郎さんの日記のほうは、それに関連して何かあった?」

「うーん、なんかずっと、自分のチカラのなさを嘆いてばっかりでさ」

「え?」

 今度は和都が仁科の開いている本を覗き込む。

 日記を読み込んで分かったのは、この当時、本来であれば白狛神社の宮司は、新しく『仁科家』と名乗るようになった分家の人間が、代々務めていく予定になっていたということだった。『安曇家』は隣県に安曇神社を拠点として発展したため、それと同様、新しい『仁科家』も発展の拠点として白狛神社を管理していく計画であったらしい。

 しかし、神獣と契約できるだけのチカラがなければ、白狛神社の宮司を務めることはできない。

 初代の仁科家となった兄弟の中では、一番チカラの強かった孝四郎が宮司を務める予定だった。しかし、それでも神獣を使役できるだけのチカラに及ばず、一時的に安曇真之介が宮司となっていたらしい。

「もしかして、仁科家が管理していく予定の神社だったから、安曇神社に白狛神社の資料があんまりなかったのかな?」

「それはあるかもね。この資料もうちの金庫から出てきたものだし」

 和都はノートに日記の内容をメモしていきながら、事件の真相について考える。

「孝四郎さん、真之介さんが羨ましかったのかな?」

「……まぁたしかに、それっぽい記述はあるけど。でも、記憶の中では2人は仲良かったんだろ?」

「うん、そこなんだよね」

 安曇神社で夢を見て以降は、2人と2匹が仲良く話している夢しか見ていない。

 きっとそれが、バクが一番幸せで、続いて欲しかった記憶なのかもしれない。

「羨んで殺人を犯すって、まぁミステリとかじゃよくある話だけど、なーんかしっくり来ないんだよなぁ」

 和都は少し考えて、過去に見た夢の記録を遡る。

「男女で言い争いする夢の後、真之介さんが倒れてる夢を見てるんだけどさ」

「あー、そういやそうだったね」

「ずっと繋がってる記憶なんだと思ってたけど、孝四郎さんが殺してたのなら、違うことになるんだよね」

 もし夢の記憶が地続きのものであれば、直前まで言い争っていたと思われる女が犯人である可能性が高い。孝四郎が犯人だとすると、繋がらなくなってしまう。

「まぁ、見てる記憶は、結構時系列バラバラっぽいしな」

「でもなー、続きっぽい感じがするんだけどなぁ」

 そう言いながら、和都がソファに身体を預けてゴロゴロと転がりだした。

 どうやら集中力が切れたらしい。

 何気なく時計に視線を向けると、そろそろ夕飯という時間だ。

「こんな時間か。お前そろそろ……」

「おなかすいた」

 帰りをどうするか聞くつもりが、かぶせるように言われてしまった。

 とはいえ、家に送るのは夕飯を食べてしまってからでもいいだろう。

「……ピザでも取るか」

「やったぁ」

 和都が両手を上げて喜んでみせた。それから適当に宅配ピザを注文し、待っている間にリビングを片付け、届いたピザで夕飯を済ませる。

 そうしてようやく、和都を送っていくために支度しようか、というところで。

「……マジかこいつ」

 トイレに行って戻ってきたら、リビングのソファで和都がぐっすり眠っていた。無防備な顔で寝息を立て、自宅で過ごしているかのような寛ぎっぷりである。

 仁科は頭を掻きながら、呆れるようにため息をついた。

「どんだけ俺のこと信頼してんの? コイツ」

 教師と教え子ではあるが、これまでに何もなかった関係ではない。

 どうしたもんかな、と考えていると、

〔大丈夫だよー、ニシナ。カズトは元々泊まるつもりだったから〕

 頭の中で響くような、ハクの声が聞こえてきた。

 ぐるり辺りを見回すと、ダイニングテーブルの下の影の中から、犬の鼻先と目だけがジッとこちらを見ている。

「……狗神らしい場所にいるな、ハク」

〔うふふ。たまにはこういうのもいいかなぁって。まぁカズトのおかげで大神に戻れそうだけどね!〕

 狗神は本来、狗神使いといった人間に使役され、術者の意向により憑いた相手に害をなす存在だ。そして普段は、床下や水瓶の中など暗い場所で待機しているものらしい。

「まったく、上手いこと言い包めたもんだよ」

 和都の状態は、言ってしまえば、特殊な狛犬のチカラを持った祟り神と狗神が憑いているようなものだ。祟りも狗神もそれだけで厄介だというのに、特殊なチカラも加わっているため余計にややこしい。

〔ボク、嘘は言ってないよ!〕

「ま、神の常識と人間の常識が違うだけの話だからな」

〔……ニシナはバクから聞いてるんでしょ? ボクらのこと〕

「まぁね」

 安曇神社に泊まった最後の晩。

 ハクとバクの最終的な目的が、和都自身を食べることだというのを告げられた。

 そして、それを回避する条件として提示されたのが、祟りの発端となった事件の真相を見つけることである。

〔でも残念だったね。やっぱり昔の事件の真相なんて、みつかりっこないもんね!〕

 今日2人で解読していた様子を影から見ていたのだろう。

 確かに、ハクの言う通り、納得のできるような情報はまだ見つかっていない。

「まだ、全部読めたわけじゃないよ」

〔あ、ボク知ってるよ。そういうの、おーじょーぎわがワルイって言うんだよ〕

「どうかな?」

 仁科はそう言うと、ソファで眠ったままの和都を抱え上げる。

 そして、ダイニングテーブルの影から見つめている金色の目を睨みつけ、

「コイツは、お前らになんかにやらねーよ。絶対にな」

 そう言うと、奥にある寝室のドアを開けて入り、そのまま閉じた。

〔ムダなのになぁ……〕

 リビングにクスクス笑う声が響いて、そのうち消えた。

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