22)玄月の音
狛杜高校文化祭、当日。
学校内は朝からたくさんの来場者で溢れていた。
本校舎の各教室では、学年ごとの展示が行われており、昇降口周辺は運動部や保護者有志による模擬店が並ぶ。第1体育館では文化系各部や有志によるステージ演目、そして第2体育館では大型作品の展示が行われ、学校の敷地内はどこも騒がしい。
狛杜高校の文化祭は、地域住民や生徒の保護者だけでなく、近隣他校の生徒や次年度の入学希望者も多数来校するため、体育祭より明らかに外部からやってくる人が多いのが特徴だ。
「……おれ、ずっとここでいい」
保健室では開会式が終わってからずっと、『救護班』と書かれた腕章を付けた和都が、談話テーブルの椅子に座ってぐったりしていた。
保健委員なので救護班として待機しているだけなのだが、学校敷地内に溢れる人の多さに、保健室から出たくないという気持ちのほうが強い。
「午後から上の見回りだよ、お前」
「やーだー!」
普段のようにコーヒーを飲みつつ、一緒に保健室で待機している仁科の言葉に、和都が駄々っ子のような声を上げた。
狛杜高校が男子校ということもあって、近隣高校の女子生徒も男子生徒を目当てに多数来校する。ただでさえ人混みが好きではないのに、苦手な同年代の女性もたくさん来るという文化祭は、和都にとって鬼門のイベントであった。
「お前、去年はどうしてたの?」
「……屋上の、階段とこにずっといた」
「ははあ、なるほどね」
文化祭の間は屋上が解放されていないため、屋上に繋がる階段付近は人が来ることは殆どない。1年生の時ならば、教室も4階になるので、そこにいても問題はなかったのだろう。
「まぁ、下手に動かれるよりは良いけどね」
学校行事なので、当然『鬼』に憑かれている堂島や川野も校内にいる。担任や顧問をやっていない教師側は、当番で巡回する以外に自由行動が多いため、和都を狙ってくる可能性は高い。
向こうからすれば、ターゲットである和都が、人混みがイヤという理由で開会式以降全く保健室から出てこないのは、誤算だったのではないだろうか。
「見回りも、先生1人で行ってきてよ……」
「ダーメ。お前がごねたから教室階だけにしたんだぞ。他は清水たちが行ってくれてんだから」
「先輩たち、乗り気だったじゃん」
文化祭で救護班を担当している保健委員は、交代で保健室に待機して手当てする係と、校内を回って傷病者がいないか見て回る係に分かれている。文化祭を楽しみたい生徒からすれば、保健室での待機は暇で仕方ないのだが、引きこもりたい和都が大半の時間で待機係を担当することになったため、他学年、特に3年生たちは喜んで見回る係を引き受けてくれた。
苦手とはいえ、文化祭も教育目的の学校行事である。ずっと保健室に引きこもらせるわけにはいかないので、教室階だけでも見回りの時間を、と仁科がねじ込んだのであった。
「まぁ、あいつらはお祭り好きだからね」
「準備すんのとかは嫌いじゃないけど、人がいっぱい来るのはヤダ」
「ワガママな子ねぇ」
今年の文化祭は人出のわりに保健室も平和なほうらしく、時々小さなケガで人が来る程度。本校舎の1階では基本展示などを行なっていないこともあり、廊下を行き交う人たちの話し声や足音がドアや壁越しに聞こえているくらいで、屋外に比べると静かだ。
そろそろお昼も近づいてきた時間。
談話テーブルで本を読んでいた和都が、ふと顔を上げた。
「……あれ? 何か聞こえない?」
耳を澄ませると、普通の話し声とも足音とも違う音がする。
廊下の奥のほうから聞こえる、ぐずぐずとしゃくりあげるような、小さな子どものすすり泣く声。少しずつこちらに近づいてきている。
気になった和都は、保健室のドアを開けて廊下のほうを覗き込んだ。
3〜4歳くらいだろうか。小さな男の子が、顔中を鼻水と涙でぐしゃぐしゃにしながら、歩いてくるところだった。
「どうしたのー?」
和都は廊下へ出ると、男の子の前にしゃがみ込み、目線を同じくらいにして話しかける。男の子は突然話しかけられて驚いたように目を丸くしたが、すぐにまた涙声で喚き出した。
「おがあさんが、いなくなったぁ!」
「あー、そっかぁ」
再び泣きだした男の子の頭を、和都はよしよしと優しく撫でる。
出入り口の騒ぎに、仁科もドアの前までやってきた。
「ありゃ、迷子かぁ」
「そうみたい。実行委員か風紀委員が来てくれれば……」
仁科とそんな話をしていると、保健室のすぐ近く、東階段のほうから知った顔が降りてくるところで。
「あ、ユースケ」
「和都、どうかしたか」
左腕に『風紀』と書かれた黄色い腕章を付けた春日だった。
文化祭で風紀委員は、揉め事などの問題が起きていないか、警備を主として校内を見回っている。
「ちょうどよかった、迷子みたいでさ」
「そうか」
人出が多いとこういった迷子は必ず出てくるものだ。
もし見つけた場合は、文化祭実行委員のいる本部テントで迷子の預かりとアナウンスをしてくれる手筈になっており、見回り担当の風紀委員か実行委員が近くにいるなら、彼らに任せればいい。
春日は和都の近くに駆け寄ると、その場に膝をついて屈み、男の子に手を伸ばす。
「一緒においで、お母さん探そう」
言われた男の子は驚いて泣き止んだものの、プイっとそっぽを向き、そのまま和都のほうに抱きついてしまった。
「ここにいても、お母さん見つからないよ?」
「やだ!」
「えぇ……」
男の子の頭を撫でつつ、和都は眉を困ったように顰めながら春日を見て、
「お前、顔が怖いんだよ。もうちょい何とかならない?」
「なるわけないだろ」
ムッとした顔で春日が返すと、様子を見ていた仁科が小さく吹き出し、喉で笑う。
「相模、こっちは大丈夫だから、一緒に行っといで。ついでに何か食べる物とか買ってきてよ」
「……わかった」
和都はため息をつき、男の子を抱えて立ちがると、
「おれと一緒なら、お母さん来てくれるとこまで行ける?」
「……うん」
「じゃあ、一緒に行こっか」
男の子が頷いてくれたので、和都は不服そうな顔の春日と一緒に、実行委員のテントへ向かった。
◇
「相模ー!」
和都が春日と一緒に、仁科に頼まれた買い物のため、昇降口周辺の模擬店エリアを見ていると、知った声が遠くから聞こえた。
声のする方を見ると、バスケ部がやっているたこ焼き屋台が見える。当番なのか、屋台の中にいる菅原がこちらに向かって大きく手を振っていたので、2人はそちらへ向かった。
「午前中は保健室待機なんじゃなかった?」
「迷子を本部のテントに連れていったとこ」
「あらま。春日いるなら任せりゃよかったのに」
菅原に言われ、和都は困ったように笑いながら、春日を指差し、
「コイツの顔が怖いって、離れてくれなくてさ」
「あー、子どもウケはしない顔だよなぁ」
「うるさいぞ菅原」
春日が不機嫌そうに返したのを菅原と和都で笑っていると、レジ担当の小坂が口を挟む。
「お前ら、なんか食いもん買うつもりなら、うちの買ってけよ」
「あ、先生に食べる物頼まれてたから、3つちょーだい」
「はいよー」
和都が迷いなく指を3本立てたので、隣の春日が少し慌てて、
「おい、俺はお前送っていったら見回りに戻るぞ?」
「知ってる。おれが2つ食べるに決まってるでしょ」
当たり前のように返す和都に、パックに入ったたこ焼きを3つ、ビニール袋に詰めながら菅原が言う。
「やせの大食い」
「牛飲馬食」
「体力ないくせに食う量だけは多いよなぁ」
「うるさいなーもー」
小坂から釣り銭を、菅原からたこ焼きの入った袋を受け取りつつ、和都は口を尖らせた。
たこ焼き屋台を後にしてからも、いくつか近くの屋台を回ってあれこれ買っていく。昼食の時間が近いせいか、模擬店エリアはなかなかの人出だった。
「ユースケは、お昼どうすんの?」
「警備担当は本部で軽食が出るから、交代で食べることになっている。腕章をつけたままの食事は禁止されてるから、外さないといけなくてな」
「そうなんだ」
話しながら歩いていると、視界の端に校舎の西階段側の窓が見えて、和都は立ち止まる。
ちょうど3階から降りてくる階段の、踊り場側にある窓の内側に、黒いモヤのようなものが視えた。
「どうした?」
「……うん。3階、大丈夫かなって」
「一応、多めに見回りをするようにはしているが、今のところ何も起きてないぞ」
「それなら、いいんだけど」
夏休み終盤に感じていた嫌な気配は、そのうち黒いモヤとして視えるようになり、2学期が始まって以降も少しずつ3階に増えていた。モヤの出どころも正体もまったく分からないため、対応のしようもなく。モヤが漂うせいで寒いと感じる和都は、制服がまだ夏服で半袖のため、3階にいる間はジャージを羽織って過ごすようにしていた。
浮かない顔で話をしていると
「すみませーん!」
声を掛けられて振り返ると、紺のプリーツスカートに半袖シャツ、赤いリボンタイをつけた制服姿の女子高生が3人並んでいた。
「狛杜の人ですよね?」
「何年生ですか?」
「教室とか、案内して欲しいんですけどぉ」
制服からして、狛杜高校から一番近い近隣高校の女子生徒だろう。
街中でよく見かけるような、派手すぎず大人しすぎない、いたって普通の女子高生。
3人ともただニコニコ笑って話しかけているだけなのだが、和都には怖い以外の感情がなく、顔を強張らせ、何も言えずに1歩後ろに後退った。
「すみません、見回りとお使いの途中なので」
春日は3人に向かって、普段と変わらない顔でそう答える。そして、
「ほら、いくぞ」
動けなくなっていた和都の腕を掴むと、足早に人混みをかき分け、校舎の中に入った。
「……ごめん、ありがと」
「気にすんな」
校舎の中に入って、ようやく声を発することができた。
──まだ、ダメだな。
夏休み、安曇神社で少し年上の凛子と話していた時はわりと平気だったのだが、やはり同年代くらいとなると、まだ厳しいらしい。
嫌な記憶が一瞬にして頭の中を駆け巡って、どうしても世界が真っ暗になってしまう。
「……お前は、よく平気だよな」
和都はちらりと隣を歩く春日を見て言った。どんな状況でも表情を大きく変えず、冷静に対処してくれる。いつもそれに助けられてばかりだ。
「焦っていても、多分顔に出てないだけだ」
「羨ましい」
「お前はほぼ顔に出るから、分かりやすいな」
「えっ、うそ!」
春日の言葉に驚いてそちらを見ると、逆に少し驚いた顔がこちらを見ていた。
「……自覚、ないのか?」
「あるわけない!」
「本当、分かりやすいな」
和都の返事に、春日が呆れたように笑った。
◇
「すみません、1つ貰えますか?」
バスケ部の出しているたこ焼き屋台の前に、1人の教師が立っていた。半袖のワイシャツに紺のネクタイを締めた、日本史担当の川野は、生真面目そうに人差し指を伸ばして、丁寧に言う。
「はい、400円です」
レジ担当の小坂がそう言うと、長財布からシワのない綺麗な千円札を1枚渡しながら、川野が口を開いた。
「小坂くんと菅原くんは、2年3組でしたね」
「あ、はい」
「2年3組の展示、見てきたんですが、とても素晴らしかったです」
「ありがとうございます」
千円札を受け取り、小坂は釣り銭用の箱から、500円玉と100円玉を1枚ずつ取り出す。
「3つの神社についての調査は、小坂くんや菅原くんの班が行っていたそうですね。一体、どんなきっかけで思いついたんですか?」
「あ。え、っと」
透明のパックに詰めたたこ焼きを1つ、ビニール袋に入れて手渡していた菅原が、言われて言葉を詰まらせた。すると、隣で川野をじっと見ていた小坂が、釣り銭を差し出して言う。
「おれがあの山の近くに住んでて、山に変な空き地がある話を相模にしたのがきっかけです」
「ほう……」
川野の黒目が、ぐるりと動いて小坂の方に向いた。その表情は、授業で見る時とそんなに変わったところはない。けれど、一言一言に、妙な威圧感がある。
「そしたら相模が興味を持って、おれのばあちゃんとかに話を聞いたら、あの山には元々いくつか神社があったって教えてもらって、そこから班の活動で調べようって話になりました」
「そうなんですねぇ。神社の調査は、相模くんが主導で?」
興味深そうに頷きながら、川野は小坂から釣り銭を受け取ると、菅原の差し出したビニール袋を両手で丁寧に持った。
「はい。部活も塾も行ってない暇人なんで、相模がメインでやってました」
「あー、そうでしたか。……もう1つ気になっていて。仁科先生が調査協力をされていたみたいですが、どういう理由からなんでしょう?」
「……えっ」
小坂が言葉に詰まる。仁科が調査に協力をしているということは、担任の後藤にのみ話してあり、教室の展示物ではそのことを公開していないからだ。
と、そこに菅原が横から口を挟んだ。
「あ、あの、川野先生。すみません、後ろに待ってる人いるので……」
「あぁこれは、すみません」
後ろを振り返って頭を下げると、川野は横にズレる。そして、
「続きはまた今度ぜひ、教えてもらえますか?」
にっこりと笑いながらそう言って、去っていく。
そこからすぐ後ろに並んでいた数人の客の対応をした後、少しばかり暇になり、ようやく2人は息をついた。
「……あー、ビックリした。まさかこっちに来るとはな」
菅原が暑さ以外でも吹き出した、額の汗を拭う。
「うん、やばかった」
「すげぇな、お前。淡々と返してて。オレ、何も言えなかったわ」
「まぁ、普段から変な客の話し相手とかもするし、調査のきっかけ考えたのおれだから」
5人で跡地へ行った日、提出用のノートを作成する際に、調査動機や経緯などを細かく決めておいた。それが役に立った瞬間である。
「あーそうだったな。とはいえ、商売人はすげぇよ」
「でも、どこで仁科が協力者なの知ったんだろ」
「確かに……。1回2人で調べてた時に遭遇したって言ってたから、それで協力者だと思ってる、とか?」
「やっぱそれかなぁ」
自分たちが知る前から、神社については和都と仁科の2人で調べていた。それをきっかけに、困ったことにならなければいいのだが。
「でも、やっぱりあの雰囲気はちょっと、こえーな」
「うん。赤い目もツノも視えなかったけど、授業でみてる先生と違う感じした」
「あんなのに追っかけ回されるのは、たまったもんじゃないな」
太陽が真上を過ぎて、西に傾き始めていた。
◇
「ほら、見回りいくぞ」
「はぁい……」
午後になり、仁科はやる気なく返事をする和都に簡単な応急処置の道具を持たせ、引きずるように本校舎の2階から4階、教室階の見回りに出た。
養護教諭が保健室を留守にする間は、元保健委員長の清水を中心とした3年生が待機しており、ケガ人が出た場合に対応してくれることになっている。
東階段から4階まで上がり、1階ずつ降りながら見て回る形だ。
4階の1年生の展示と、トイレや手洗い場などのチェックをしながら、西階段側までゆっくり見ていく。
そのまま西階段を3階に向かって降りていくと、踊り場の辺りから黒いモヤのようなものが、辺りに漂っているように視え始めた。
「……なんか、いる感じするな?」
「うん……」
仁科にもモヤは視えているようだ。妙な気配と妙な寒さ。ジャージを持ってくるんだったな、と思いながら、和都は両腕を寒そうにさする。
西階段を降りた目の前に入る演習室を気にしつつ、とりあえず3階の2年生の展示を見ていく。
他は軽く教室の中を見る感じではあったが、2年3組の展示の前で仁科が足を止めた。
3つの神社をモチーフにした、お化け屋敷の体験型展示。入り口にはきちんと3神社の名前を載せ、おどろおどろしい雰囲気を作っていた。
「へー、よく出来てんじゃん」
「でしょ?」
和都が少し得意げに言うと、仁科の白衣を引っ張って、
「せっかくだし、見てってよ」
「はいはい」
そう答えて入り口へ向かうと、受付のクラスメイトから3枚のお札を渡される。お札にはそれぞれ神社の名前が書かれていた。
「これは何に使うの?」
「それぞれ名前の書いてるお札を、決まった神社に納めていくの」
「へー」
和都は説明しながら、仁科と教室の中へ入って行く。中は飾り付けされたパーテーションを使ってジグザグに進む形に区切られ、突き当たりに神社がある形だ。
それぞれの神社の場所には、調べた際に出てきたトンネルや井戸が設けられていて、神社ごとの個性が出ている。もちろん、エアー噴射だったり、井戸からお化けが飛び出てくるといった、お化け屋敷としての仕組みも用意されていた。
2つの神社をめぐり、最後の狛杜神社に着く。
入り口には段ボールで作られた、白と黒の狛犬が飾られていた。狛犬たちを撫で、お札を納めるために拝殿とされてる場所に近づくと、そこにはべったりと赤い血溜まりがある。覗き込むと鏡になっていて、自分の顔が血塗れになっているように見える仕組みだ。
仁科も流石にそれを見て立ち止まった。
「……まぁ、史実通りでは、あるけど」
「どうしようかなって思ったけど、個人的にコレが一番怖いから」
「そうだね」
血溜まりを見つめながら眉を顰めた和都の頭を、仁科は優しく撫でた。
白狛神社にお札を納めたら、小さな鳥居をくぐって出口に向かう。
出口の手前には、今回登場した3つの神社について、和都たちが調べた内容をまとめた大型パネルが飾られていた。
「自由な班活動の一例としては、結構良いんじゃない?」
「いいのかなぁって気もするんだけどね」
説明のパネルを見て行くと、最後の方に調査をしたメンバーの名前と、調査に協力した小坂の祖母や、安曇神社の名前が書かれている。そこに仁科の名前はなかった。
「……ちゃんと伏せといてくれたんだね」
「そりゃね。後藤先生には、言ってあるけど」
仁科が神社の関係者であると分かった時、鬼たちがどう動いてくるのか分からない。用心するに越したことはないだろう。
「うん、それで大丈夫でしょ」
2年3組を出た後は、残りの教室を見て回り、東階段から3年生の教室が並ぶ2階を西階段のほうに向かって進む。端までくると、西階段の上の方から、やはり黒いモヤが漂っているのが見えた。
この真上に、3階の演習室がある。どうにもこの妙な焦燥感を煽られる気配が、気になってしまう。
「……上の演習室、一応覗いておこうか」
「そうだね」
2人は再び西階段を上がり、3階演習室の前に立った。
和都がドアに近づいてみると、中から何か音が聞こえる。
「あれ? 何か音がする」
ドアに耳を押し当ててよく聞くと、カサカサと何かが動いているような音。
「誰かいるとか?」
仁科に言われてノックしてみるが、返答はない。
「でも、文化祭の間は鍵かけてるはずなんだけど」
そう言いつつ、念のためドアノブに手を掛けて回してみると、ガチャリ、と開いてしまった。
「あれ?」
驚きつつ、そのまま押し開いて、演習室の中を見る。
中には各教室で使わない机や椅子などが積み上げられていて、誰もいなかった。だが、演習室の奥の窓が1つ、半分だけ開いており、カーテンが小さく揺れていた。
「風の音、だったのかな?」
「んー、なんか違う感じだったけど」
仁科と一緒に中に入り、演習室内を見渡してみるが、雑然と物が積まれている以外の異常は見当たらない。
「とりあえず、閉めてくるね」
和都は積み上がった机の隙間を、小さな身体で器用にすり抜けて向こう側までたどり着き、窓を閉めて戻ってくる。
「これ、鍵は実行委員?」
「うん、そのはず」
「じゃあ風紀委員見つけて連絡を……」
演習室から出ようとしたところ、足元でカサッと音がした。
何かを踏んだらしい。よく見ると、折り畳まれたルーズリーフのようだ。
「カサカサ言ってたのコレかぁ」
窓から入る風で、この紙が動き回っていた音なのかもしれない。
そう思いながら和都が拾い上げ、何が書いてあるのかと開こうとした次の瞬間、畳まれた内側から、黒い何かが飛び出してきた。
「うわっ!」
驚いて手を離すと、黒い何かが和都の腕に触れた。
シュッと細く切り裂くような痛みが腕の内側に走り、落とした紙の上に血がポタポタと落ちる。
「……いった」
「大丈夫か?!」
仁科が慌てて手持ちのハンカチで傷口を押さえる。切れた範囲も広く意外に深いのか、水色のハンカチに赤い色がじんわりと滲んだ。
「もう少し腕上げて」
腕の位置を高めに固定させ、和都に持たせた応急処置の道具が入った鞄を開ける。が、残っていた包帯では長さが足りない。仁科は自分のネクタイを外し、ハンカチの上から圧迫するようにぐるぐる巻きにして止血した。
仁科がそうやって、なんとか応急処置を終えたタイミング。
「……先生、あれ」
和都に言われてそちらを見ると、血のついた紙へ周囲の黒いモヤが吸い込まれていき、折り畳まれた隙間から、もくもくと黒い煙が出てくるところだった。
黒い煙の塊はふわふわと宙に浮かび、ぐるぐる回転し始め、頭と尻尾が鎌になった、妖怪のようなものに変化した。
「なんだ?」
呆気にとられていると、形を成したその鎌の妖怪は、ドアの前にいた2人に向かって、勢いよく突っ込んでくる。
「うぉっ!」
仁科が慌てて和都を庇いながら避けると、白衣の裾がスパッと切れた。
そのキレイな切り口に唖然としている間に、鎌の妖怪はそのまま開け放していたドアから廊下のほうへ行ってしまった。
「あ、しまった!」
3階の廊下には、生徒や来校者がいるのだ。
焦る仁科の声に、
〔ボクにまかせて!〕
半透明の状態になったハクが姿を現し、風のような物凄い速さで、ドアから出ていった鎌の妖怪を追いかけていく。
2人も慌ててハクを追って演習室を出ると、あちこちで小さく悲鳴が上がり始めたところだった。
廊下を歩いていた人の何人かが座り込んでいる。鎌の妖怪に切られてケガをしたようだ。
「大丈夫ですか!」
和都は近くで座り込んでいる人に駆け寄って、応急処置の道具が入った鞄を開ける。
「ごめん、動けるやつ! 保健室行って、待機してる救護班呼んできて」
仁科は呼びかけつつ、ケガをした人数やケガの具合を確認していた。幸い、手足に小さい切り傷を負った人が多く、和都のような大きめの怪我人はいないらしい。
〔まてまてぇ!〕
ハクのほうに視線を向けると、ちょうど鎌の妖怪が反対側の東階段を降りていこうとする手前で追い着いて、そのままあの大きなクチで食べてしまうところだった。
ホッと胸を撫で下ろしつつ、和都も応急処置の手伝いに回る。
廊下にそこまで人が集まっている時間ではなかったためか、大惨事は避けられたようだ。しかし、複数のケガ人が出たり、救護班の応援も駆けつけたことで騒ぎは大きくなってしまった。
「和都!」
騒ぎを聞きつけた春日が、階段を上がって和都の元に駆けつける。
「あ、ユースケ!」
「何の騒ぎだ?」
和都は周りを見回すと、急いで春日を階段近くの隅まで引っ張って行く。
「お前、腕どうした」
「演習室が開いてて、変な紙から妖怪みたいなのが出てきた」
質問には答えず、和都は小声で手短に説明を始めた。
「妖怪?」
「うん、そいつに切られた。廊下にいた人達も同じ。ハクが食べてくれたから、もういないけど」
状況が状況のためか、和都も説明が早口になっている。
「そうか」
「おれ、手伝わなきゃだから。演習室の鍵、実行委員に報告しといてくれる? あ、あと紙もできたら拾っといて!」
「わかった」
春日に告げるだけ告げると、和都はすぐに廊下の方へ戻っていった。保健室からきた他の保健委員たちと一緒に手当てをして回る。
言われた春日が演習室のほうへ向かうと、確かに施錠されているはずのドアが開け放たれていた。中には誰もおらず、和都の言っていた血痕のついた紙だけが落ちている。
春日はその紙を回収してポケットにしまうと、騒ぎと鍵についての報告のために、本部テントの方へ足早に向かった。
◇
文化祭も無事に閉会し、残すは後夜祭の開始を待つ時間となった保健室には、和都を含めたいつもの5人が集まっていた。
「なんか3階、大変だったらしいじゃん」
談話テーブルの椅子に座った菅原が、和都の方に声をかける。
「うん、めっちゃ大変だった」
疲れた顔でそう答える和都は、椅子に座って仁科からきちんと手当てしてもらっている最中だった。
「相模もケガしたんだろ? 大丈夫か?」
「いや、多分おれが最初」
「忙しくて、後回しになっちゃったんだよねぇ」
和都の腕に新しい包帯を巻きながら、仁科が申し訳なさそうに言う。
3階で最初にケガしてすぐ応急処置をしたものの、その後多数のケガ人の対応をしていたら、あっという間に全員参加の閉会式の時間になってしまい、きちんと治療できていなかったのだ。
「春日クン、本部にはなんて報告してくれたの?」
「一応、演習室の窓が開いてた関係で、カマイタチ現象でも起きたんじゃないか? ということにしておきました」
「風とか真空とかで、切れるヤツだっけ?」
「そうそう」
実際のところカマイタチ現象は、真空に触れて切れるという説や、旋風で舞い上がった小石などで切れるという説もあるので、きちんとした原因は解明されていない。
「ケガをした全員が急に強い風が吹き抜けた、と言っていたので、ちょうどいいかと思いまして」
「まぁ、その辺が妥当かもなぁ」
仁科は春日の報告に頭を掻いた。幸い、和都より酷いケガ人はおらず、応急処置の絆創膏で済んでいる。
「ハクが犯人追っかけてる時、風が吹いてる感じになってたしね」
「犯人て、結局なんだったの?」
「なんか妖怪? 頭がカマみたいになってた」
「本物のカマイタチ?」
「意外と、そうかもしれん」
そう言うと、春日は演習室で拾っておいた紙を談話テーブルの上に広げた。
「なにこれ?」
「演習室から音がするから、中に入ってみたらコレが落ちてて。拾ったら、この紙から妖怪みたいなのが出てきたんだよね」
折り畳まれていたルーズリーフの内側には、出てきた妖怪そっくりのイラストと、その詳細が書いてある。よく知られている鎌を持ったイタチの姿に似ているが少し違い、頭と尻尾が鎌になっており、胴体がイタチのようだ。名前なども書かれていたようだが、血で汚れているので詳細は分からない。
「あー、美術部のやつじゃね?」
「第2体育館に、デッカイ百鬼夜行みたいな絵おいてたな。なんか、すげーなげぇやつ」
「確かに、色んな妖怪がたくさん並んでる絵だったな。それ用の設定画、かもな」
「でも、なんで出てきたんだろう?」
この紙の持ち主は見当がつくが、そこから妖怪が現れた理由が全く思い当たらず、全員で首を傾げていると、
〔それのせいかもねぇ〕
不意に室内にハクの声が響いて、ベッドの上の天井辺りから、しゅるしゅると白い渦が巻き、中からハクが姿を現した。今回はきちんとベッドを壊さない程度、ちょうどいいサイズだ。
「ハク、それのせいって?」
〔多分なんだけど、アイツ、3階に漂ってた黒いモヤの塊だと思うんだよね!〕
「モヤの塊?」
〔そう! 神社にあった『鬼の湧く穴』から出てくるモヤと、おんなじ味だったよ!〕
味、という言葉に少したじろいでしまったが、和都は構わず聞く。
「モヤが塊になると、妖怪になるの?」
〔お化けとか妖怪とか鬼ってね、そういう悪い気が集まって生まれることがあるんだ。最初はただの気の塊だけど、姿とか名前とか細かい設定がつくと『自分はそういうものだ!』って意志を持って出てきちゃう〕
「それで、この絵と同じのが出てきたのか」
ハクの説明に、改めてルーズリーフの絵に視線を落とす。
確かにあの妖怪が姿を現す前、周辺の黒いモヤが紙に吸い込まれていったように見えた。
〔たぶんね〜。細かく設定書いてあるし! あと、チカラの強くなったカズトの血が付いたのも、あるんじゃない?〕
「相模の血は、お化けや妖怪にとっちゃ『栄養ドリンク』みたいなもんか」
「やめてよ……」
小坂の例えに、和都は分かりやすく嫌な顔をして睨む。
しかし、確かに仁科よりもチカラが強くなっているのであれば、鬼たちはより自分を食べたいと思っているのではないだろうか。
「その『鬼の湧く穴』って祠で封じられてたとこ、なんだよな?」
〔そうだよ!〕
「でも、祠が壊れたのは3月だろ? なんで今頃……」
「あ、待てよ。相模が『3階が寒い』って言い始めたの、倒木の撤去作業始まった頃じゃね?」
「もしかして、木をどかしたせい?」
穴を封じるための祠が壊れても、その上に木があったことで、モヤは出られなかったのかもしれない。そうであれば、タイミングとしては合ってしまう。
「でも、なんでモヤは3階に集まって来たんだよ?」
〔そりゃあ、カズトがずっと3階に居たからだよぉ〕
「あっ……」
「……そっか『狛犬の目』」
気付いて、和都の顔に影が差す。
鬼も人間もあらゆるものを惹き寄せる、バクのチカラ。
黒いモヤが鬼やお化けの素であるなら、それに惹かれて集まってしまうのも無理はない。確かに、夏休み終盤から2学期以降、文化祭準備で忙しく、和都は大半の時間を学校の3階で過ごしていた。
今日の3階での光景を作り出した原因に、目の奥が痛くなる。
「相模」
仁科に呼ばれて、ハッとする。
そちらに視線を向けると、諫めるような目がこちらを見ていた。
「お前が悪いわけじゃないからな」
「……うん、大丈夫」
出てきそうになった言葉を飲み込んで、和都は頷いた。
「でも、倒木どかしたせいなら、また集まってくるんじゃねぇ?」
「たしかに。塞がないといけないんじゃ……」
「一応、そういう穴が出てきたら、札を納めるようにって渡してあるとは聞いてるぞ」
撤去工事の手配は、安曇家に一任してある。もちろん『鬼の湧く穴』については、凛子と現当主にも伝えてあるので、それを想定して手配しているはずだ。
「なるほど」
「こないだ見に行った時は、工事もう終わってたっぽいし。じゃあもう大丈夫なのか?」
「確かに、ハクが食べちゃってからは、3階のモヤみたいなの無くなった気がする」
「木どかして、札納めるまでの間に出てきた分が集まってた、ってことかなぁ」
「そうかも」
もしかしたら、3階に漂っていた黒いモヤ全ての集合体が、あの妖怪だったのかもしれない。
モヤの出どころも閉じられ、出てきていたものも全て神獣が食べてしまったのであれば、今回のようなことはもう起きないだろう。和都はホッと胸を撫で下ろし、座っていた椅子の背に凭れた。
「応急処置的な札だとは言ってたけど、今回みたいに開きっぱなしにはならないから、問題ないでしょ」
「応急処置のままで大丈夫なのかよ」
「今回の工事で整地と、祠も作り直してもらったらしいからね。それに近々凛子が『ちゃんとしに来る』って言ってたし」
「んじゃー、大丈夫か」
話が一段落した辺りで、校内放送が鳴り始めた。
〈もうすぐ、後夜祭が始まります。参加される生徒、職員は、グラウンドに集合してください〉
「うわ、やっべ! いかねーと!」
「じゃーねー先生!」
放送を聞いた小坂と菅原が慌てて立ち上がり、保健室から飛び出していった。バスケ部として何かしらすることがあるのだろう。
「春日クンも、後夜祭に参加するの?」
2人を追いかけるように、保健室を出ていこうとしている春日に、仁科は声をかけた。
「はい。参加というか、警備のほうですが。和都は……」
そう言って、和都の座っていた椅子を見ると、座ったまま器用に寝落ちている。
「あれ、いつの間に」
「気ぃ張って疲れたんでしょ。元々体力ないんで、コイツ」
そう言えば、体育祭の時は昼休憩の時にベッドで休んでいたが、今回の文化祭では休憩という名の昼寝をしてなかったな、と仁科は思い出した。
「今日はずっと動き回ってたもんねぇ」
午前中こそ暇ではあったが、昼前からは迷子を運び、午後からは見回りと、騒ぎの中でたくさんのケガ人の手当てをしている。慌ただしい1日だった。
仁科は椅子で眠り続ける和都を、ベッドに移すために抱え上げる。
「少し寝かせて、起きたら参加するか聞いてみるよ」
「多分、参加するとは言わないんで、あとはお願いします」
「えっ」
「……学校内で襲うは、やめてくださいね」
「だから、襲わないっての!」
「それじゃ」
眉を顰めて仁科が返すと、春日が小さく笑って保健室を出ていった。
◇
「……あれっ?!」
ハッと気付いたら、見慣れているが久々に見る天井が視界に入る。
そのまま勢いよく身体を起こすと、椅子に座っていたはずがベッドの上だった。
「お、やっと起きたか」
声のしたほうを見ると、談話テーブルで仁科が何か作業をしている。今日の分の、保健室利用者のメモ整理のようだった。
「え、あれ、みんなは?」
「みんな後夜祭に行ったよ」
仁科に言われて窓の外へ視線を向けると、日が暮れて暗くなり始めている。とっくに後夜祭は始まっており、そろそろ最後のキャンプファイヤーが始まるような時間だ。
「お前、どうする?」
「……疲れたからいいよ」
和都は仁科の質問に、うんざりしたような、本当に疲れた顔で答える。
今日は本当に、いろいろなことがあり過ぎて、疲れてしまった。
「そう。じゃあ、これ片付けちゃうから待ってて。送ってくから」
「うん……」
和都はベッドから降りると、グラウンドの見える窓の方に近寄り、普段は下がっているブラインドを上げる。
落葉し始めた桜の木々の間から見えた後夜祭は終盤らしく、グラウンドの中央付近には薪が組んであった。生徒たちは遠巻きにそれを囲み、組み上げた薪の前で誰かが話しているのが見える。窓を閉めた状態なので声は聞こえない。
と、いきなりボォッとオレンジ色の炎が、薪の中央から立ち上った。薪の前では、どうやら着火開始のカウントダウンをしていたらしい。
「先生、キャンプファイヤー始まったよ!」
和都がはしゃいで窓の外を指差す。
「お、いいねぇ」
ちょうど作業が終わったらしく、仁科も楽しげにグラウンドを見つめる和都の隣に行き、オレンジ色に立ち上る炎を眺めた。
ふと思い立ち、仁科は入り口のほうへ行くと、保健室内の明かりを消す。オレンジ色の光がより明るく見えた。
「あ、いいね」
薄暗い室内で、和都が嬉しそうに笑う顔が光に照らされて浮き上がる。
仁科がその隣に戻ると、和都が寄りかかってくるので、凭れる頭を優しく撫でた。
長い、長い、1日の終わり。
紺色に染まり始めた空に向かって、煌々とした炎が立ち上る。
グラウンドにいる生徒たちも、炎を囲んでそれぞれ自由に眺めているようだった。
ただ、ちらほらとその輪から離れていく人影も見える。あまり遅くなると、少し面倒なことになりそうだ。
「……さ、帰ろっか」
「うん」
上げていたブラインドを下げると、炎の明かりが遮られて、室内がより暗くなった。
と、仁科が和都の頭に触れ、そのまま少し屈んで、小さい額に唇で触れる。
「今日の分ね」
「はぁい……」
囁く声にそう返して、そのままジィッと見上げていると、またすぐに顔が近づき、今度は唇に唇が触れて、すぐに離れた。
「学校で、するなってば」
「えー? 顔に出てたよ」
和都のムッと膨らませた頬を、仁科が指でつまんで笑う。
「……う」
昼間、春日に言われたことを思い出してしまい、顔が赤くなったのが分かった。
「すこし、思っただけだし」
こんなに薄暗くて顔が分かりにくい状態でも分かってしまうくらい、自分は顔に出てしまうのだろうか。そう思うと、少し恥ずかしい。
そろそろ行こう、とほんの少しの明かりを頼りに帰り支度をする。
保健室内の戸締りを確認しながら、和都は、ああそうだ、と思い出して、
「今度、先生の家、行っていい?」
「……いいけど。文化祭終わったから、すぐ実力テストじゃないの」
「テスト終わった後! 先生の実家にあった本の解読、まだ終わってないでしょ?」
和都に言われ、仁科は疲れたように眉を下げた。
「あー、それねぇ。文化祭準備とかもあって、マジで進んでないんだよね」
本当なら何よりも最優先したい作業なのだが、仕事を疎かにも出来ないので、なかなか難しい。
「でしょー? 手伝いにいく。それに多分、おれが知らないといけないことだし」
「……そうだね」
仁科は和都の頭を撫でる。
それは、彼が知らない、彼のための調べ物。
今を最後にしないために。
「さ、帰ろうか」
「うん」
そう言って、2人で一緒に保健室を後にした。




