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2)緋色の視線

 狛杜(こまもり)高等学校における保健委員の仕事は以下の通りである。


 ・朝のホームルームの後、健康観察記録簿を保健室に持っていく(2限目休み時間までに)

 ・所属教室前手洗い場やトイレのハンドソープ等補充

 ・保健室の掃除(週替わり制)

 ・授業中に体調不良者または怪我人が出たら保健室に連れていく

 ・健康意識を呼びかけるポスターの掲示、張出

 ・健康に関するアンケートの実施〜結果の張出

 ・行事等での健康観察や救護対応、養護教諭の手伝い


 委員会のなかでも保健委員が特に敬遠されている理由が、観察簿を毎朝保健室に持っていく仕事があることだ。

「じゃあ相模、コレよろしくな」

「はーい」

 朝のホームルームが終わると、白髪まじりの黒髪に恰幅の良い体格の担任教師・後藤から、『健康観察記録簿 2年3組』と書かれた黒い厚紙の表紙のファイルを受け取り、和都はため息まじりに教室を出る。

 ──……めんどくさー。

 2年の教室は本校舎の3階にあり、東階段を1階まで降りると、第2体育館への通用口を挟んだ向こう側に保健室と相談室が並ぶ。

 これから1年間、毎朝、ここへ、この黒いファイルを運ばなければならないのだ。

 ──昨日の今日で顔合わせるの、気まずいんだけどな。

 ただでさえ億劫なのに、昨日の昼休みの出来事を思い出して、より足が重くなる。普段は飄々とした性格の人なので、大丈夫だろうとは思うが。

 和都は再びため息をついて保健室へ近づく。と、普段はきちんと閉じられているはずの保健室の引き戸が珍しく開いたままで、中から何か話している声がする。

「2年3組です。観察簿持ってきました」

 一応開いたままのドアをノックして中に入ると、ピンストライプのワイシャツに紺のネクタイ、白衣を着て眼鏡をかけた養護教諭・仁科と、白Tシャツに上下小豆色のジャージを着た、あの新任教師・堂島が談笑していた。

「あぁ、相模。おはよ」

 気付いた仁科が普段と変わらない雰囲気でこちらを見た。どうやら昨日の出来事については、気にしていないようだ。

「……あの、これ」

「はいはい、ご苦労さん」

 おずおずと近づいて観察簿を差し出すと、仁科が何でもないように受け取るので、和都は少しホッとする。

 その様子を見ていた堂島が、もの珍しそうに口を開く。

「お、なになに?」

「あー、うちの学校、各クラスの健康観察記録簿を保健委員の生徒が持ってくるんだよ」

「へぇ、そうなの。今時珍しいね」

 2人の話し方は、昨日今日知り合っただけとは思えない様子で、少し気になった。

「……先生達、知り合いなんですか?」

「うん。大学が一緒でね。学部は違ったけど、サークルは同じだったから」

「そーそー。だから赴任先聞いてびっくりしたわ」

 ノリというか雰囲気は確かに近いものを感じる。友人同士だったというならなるほど納得がいく。

 始業式で見た時は雰囲気の異様さに吃驚したが、今こうして仁科と話している様子を見る限り、普通の、人の良さそうな教師にしか見えないが。

 ──……本当に『鬼』なのかな。

 昨晩、自分の目の前に現れた元狛犬・ハクが、人に紛れているから人前で襲ってくることはないと言っていた。友人である仁科の前なので、普通の人間を装っている可能性は高い。

 ジッと観察していると、堂島がニッコリ笑いながらこちらを見て、

「あ、君、2年3組って言ったよね? 4限の体育の担当、俺だからよろしくな!」

「あっ、はい。……よろしくお願いします」

 できれば、避けたい展開だったが、これはどうしようもない。

 ──教科担任、かぁ……。

 体育の授業のたびに、人間に成り済まし、自分を食べようとしている『鬼』と顔を合わせるというわけだ。これはとても、頭が痛い。

 和都の微妙な変化に、仁科が目敏く気付く。なんだか怯えているようで、顔色も少し悪く見えた。

「……相模、具合悪い?」

「いえ、大丈夫です。失礼しますっ」

 和都は慌ててそう返すと、逃げるように保健室を出ていく。

 残された教師2人は、その様子を見送って、少しばかり静かになった。

「……あらら、嫌われちゃったかなぁ? 子どもウケは良い方なんだけど」

「さぁな。ほら、お前も行けよ。1限目始まるぞ」

「あぁ、じゃあな」

 堂島が出て行ったのを見送って、仁科が保健室の扉を閉めると、ちょうど1限目の開始を知らせるチャイムが鳴った。

 ──なんか、変だったな。

 なんとなく、和都の様子が気になった。

 仁科にとって、相模和都は保健室の利用回数が圧倒的に多いため、特に気にかけている生徒の1人である。

 始業式では予想どおりに倒れたうえ、その後の昼休みには少々厄介な出来事が起きた。本人は平気そうに振る舞ってはいたが、それなりの心労にはなっているだろう。

 念のため先に2年3組の健康観察記録簿を開いて確認する。『相模』と書かれた欄には特になにも書かれていない。ということは、今朝の点呼の時点では特に問題がなかったということだ。

 だが、本人も言っていた通り初対面の人間に即嫌われるようなタイプではない堂島に対して、どこか怯えたような顔をしていたのは引っかかる。これが女性であれば本人も苦手だと言っていたので理解できるが、1年の頃からの様子を見るに、和都はどちらかといえばそこまで強く人見知りをするようなタイプではない。

 ──少し、気にしておくか。

 2年3組の観察簿を閉じると、仁科はデスクについてパソコンに向かい、午前中の業務の一つである、健康観察データの入力を始めたのだった。





 2限目の授業が終わった後は、少し長めの休み時間が設けられている。

 飲み物を買いに行こう、と和都はいつもの3人と一緒に、中央階段を降りて1階にある自販機へ向かった。事務室、放送室と通り過ぎた辺りで、昇降口にある2年生の下駄箱から、挙動不審な様子で生徒が1人立ち去っていくのを見てしまった。位置からして、2年3組の下駄箱がある辺りだ。

「……やーな予感」

「確認しとくか?」

「うん……」

 重い足取りで和都は自分の下駄箱の前に立ち、開けて中を覗く。案の定、揃えた靴の上に、白い封筒が置かれていた。

「いやぁ、2日連続ですか。さすがだねぇ『姫』」

「菅原、ソレやめろって」

 呆れつつ封筒の表裏を見る。差出人名はなく、表の隅に小さく『相模さまへ』とだけ書かれている。

「……さっきの生徒、プレート何色だった?」

 この学校は学年ごとに学ランや制服のシャツにつけるネームプレート、着るジャージのカラーが決まっていて、それで3年間過ごす。今の3年生は緑、2年生の和都たちは白 (ジャージはグレー)、そして今年の1年生は赤紫だ。

「赤紫に見えたな」

「じゃあ1年か。すげぇな、どこでお前のこと知るんだ?」

「……知らない」

 新学期の2日目。さして人前に出ることはしていないのにコレである。封筒から丁寧に畳まれた手紙を取り出して開く。キレイな便箋3枚に渡って、和都に一目惚れし、想い焦がれてしまったのだということが、滔々(とうとう)と書かれている。

「……こーゆーの、どんな気持ちで書くもんなの」

「さぁ?」

 自販機の方へ向かいながら、和都はため息をついてその便箋を畳み直す。そして封筒の中に戻すと、その状態でビリビリと破り始めた。

「もぉ、そういうことするぅ」

「掲示板に貼り出して、晒し者にしないだけマシでしょ」

「……それはまー、たしかに」

 自販機横の『紙くず』とラベルのついたゴミ箱に捨てると、そのまま自販機に百円玉をいれた。ボタンを押して取り出し口に落ちてきた、200mlの紙パック牛乳を掴み出すと、ストローを差して口を付ける。

 和都にとってこれは、高校以前からよくある面倒なものの1つだった。しかし今は、これが『狛犬の目』のチカラのせいだと思うと、ただただ申し訳なさしか出てない。

 ──あの子も、被害者だよな。

 下駄箱から去っていく後ろ姿しか見ていない。

 今まで何人巻き込んで、これから何人巻き込むのかも分からない。

 原因を説明することも、謝ることもできない。

 ならばせめて、以後関わらず、気の迷いだったと忘れられるように処分するのも優しさになるはずだ。

「あら、今日は全然愚痴んないじゃん?」

 和都の後にカフェオレを買った菅原が、珍しそうに言う。

「……毎回怒るのも疲れるんだよ」

「まぁ、それもそうねー」

「なんだ、具合悪いのか?」

 春日が少し、何か思うところのありそうな顔でジッと見ているのに気付いて、和都は視線をそらした。

「へーきだから、気にしないで」

 飲みほした牛乳パックをゴミ箱に捨てると、教室に戻るために中央階段へ足を向けた。





 東階段を1階まで降りると、保健室と階段の間にある廊下の終わりは通用口になっていて、そこから外へ出ると第2体育館へ繋がる渡り廊下になっている。全校集会などでは使われず、基本授業や部活でのみ使用する第2体育館にはステージがなく、第1体育館に比べてひとまわり小さい。

「4限に体育ってダルいよなぁ」

「購買ダッシュいけないからマジこまるわ」

 クラスメイト等のおしゃべりを聞き流しながら、グレーのハーフパンツにジャージ姿の和都は少し憂鬱なまま体育館用のシューズに履き替える。

 もちろん憂鬱な理由は、体育の教科担当になった堂島のことだ。

 朝の保健室で会った様子を見るかぎり、学校内や授業中にわかりやすく襲ってくることは多分ないだろう。ただ、関わらないようにするのはどうしたって難しい。

 ──気をつけろって言われてもなぁ。

 その辺の弱い悪霊にも負けるような今の霊力(チカラ)の状態では、堂島の目が緋く光っただけでぶっ倒れる自信がある。というか、始業式の卒倒の原因は多分それだ。

 ──どうしたもんかな。

 深くため息をついていたら、上から声が降ってきた。

「和都」

 そのまま真上に顔を向けると、真後ろに立っていたらしい春日の顔がこちらを覗き込む。

「あ、ユースケ。なに?」

「……顔色、悪いぞ」

「んー、……そう?」

 今まで、無理に言い寄って来るような有害な人間は、春日が文字通りに追い払ってくれていた。

 しかし今回は『鬼』である。いくらこの友人がかなりの切れ者で、腕力や暴力に覚えのある人間でも、対抗するのは難しいだろう。

 そもそも、そういったお化けや幽霊の類を信じてもらえるのかどうか、長い付き合いではあるものの、話したことがないので自信がない。

「保健室、行くなら今のうちに行っとけよ」

「あー……どうしようかな」

 言われていっそ体育の度に休むことも考えたが、それでは正直進級が危うい。去年もわりと出席単位的にギリギリだったのだ。

 悩んでいる間にちょうどチャイムが鳴り響いてしまい、第2体育館の引き戸が開く。そして、白いTシャツに小豆色のジャージを着た、教科担当の堂島が入ってきた。

「集まってるかー? 始めるぞー」

 体育館に散らばっていた生徒たちが堂島の前に集まり、いつも通りに出席番号順で整列する。和都もいつも通りに並びつつ、堂島から少しだけ視線を逸らして前を向いた。

 堂島は、今朝保健室で見た通りに、ぱっと見た感じは普通の、ただの人間だ。

 けれど、その時とは少しばかり雰囲気が違うようである。仁科という知り合いがいないからなのか、その身体にまとわりついている何かが恐ろしくて、どうしても直視ができない。向こうはこちらが目を逸らしているのに気付いているのか、冷たい視線が突き刺さっている気がする。

 しかし、約40人いる男子高校生の前に立つ彼は、見た目に変わらぬ雰囲気のまま口を開いた。

「今年の体育を担当する堂島だ、よろしくな。4限だから腹減るよなぁ。コレ終わったら昼だからな! じゃあペア作って。ストレッチから始めるぞー」

 体育館にそれぞれ広がって、ペアを作ってストレッチを始める。和都はこういう時、だいたい身長の近い小坂とペアを組むことが多い。

「相模ー、やろうぜー」

「あ、うん……」

 呼ばれて顔をあげ、小坂の方へ歩み寄ろうとした時だった。

 視界の端に、緋く光る何かが視えた。

 ──……あっ。

 氷のように冷たい手が、心臓を内側からギュッと掴んできたような、鋭い痛み。

「……ぐっ」

 あまりの息苦しさに、その場に崩れるようにしゃがみこんでしまった。

 身体中が震えて、嫌な汗が額に浮き出てくる。内側が凍りついたように、冷たい。

「あっ、おい大丈夫か?」

 小坂が慌てて駆け寄って、背中をさする。そして辺りを見回し、春日を見つけて声を上げる。

「春日ー、相模倒れたー」

「あぁ、やっぱダメだったか」

 小坂の呼びかけに、春日が気付いて、ストレッチのペアを組んでいた菅原と一緒に駆け寄ってくる。

 体育館の一角で起きた騒ぎに気付いた堂島が、小走りで近寄ってきた。

「おーおー、どうした?」

 生徒の輪の中心で倒れ込んでいる和都を覗き込む堂島に、菅原があぁと気付いて説明する。

「あーすみません、先生。相模、たまに急に具合悪くなることあって」

「そうなの? じゃあ保健委員にーって、彼がそうなんだっけ?」

「はい。俺が運ぶんで、大丈夫です」

 春日は堂島にそう言うと、慣れた様子で顔色の悪い和都を両手で抱き上げる。

「ユウ、ごめ……」

「気にすんな」

 呼吸も荒く、心臓の辺りをギュッと掴んだままの和都にそう言うと、体育館の出口に向かう。

「菅原、ドア開けてくれ」

「おぅよ」

 和都を抱えた春日が、菅原と一緒に体育館を出ていく。他のクラスメイト達はまるでよくあることだという風に、ストレッチを再開し始めていた。

「……相模くんは、身体が弱かったりするの?」

 堂島が残った小坂に何気なく聞いた。

「あー、身体弱いとか持病とか、そういうのじゃないらしいんですけどね」

「そうなの?」

「なんかたまにあーなるんですよ、急に。で、だいたい中学から一緒の春日が運んでるんです。1年の頃からそんな感じですね」

「そーなんだ。大変だねぇ」

 他のクラスメイト達がそこまで大騒ぎをしないのは、よくある光景だからか、と堂島も納得した様子で目を細めていた。





「すみませーん、相模倒れましたぁ」

 よく聞く声が聞こえてきて、保健室の引き戸がガラガラと開く。

 仁科が保健室の入り口を見ると、ジャージ姿の菅原と春日、そして春日に抱えられた和都がそこにいた。

「あー、やっぱりかぁ」

 何かしらありそうだという予想の的中に、仁科は頭を掻きながらデスクから離れる。そしてデスクから一番近いベッドのカーテンを1台分だけ引いて囲み、そこに和都を寝かせるように春日に指示をした。

「いつも悪いねぇ」

「いえ」

 春日がベッドに和都を降ろして寝かせる。顔色は悪いが意識はあるようなので、始業式の時より比較的症状は軽そうだ。

「……仁科先生、気付いてたんならコイツに休むように言ってくださいよ」

 ジロリと春日が睨むも、仁科はさして動じず、普段と表情は変わらない。

「やー、言ったんだけどネ。本人に平気って言われたらどうしようもないでしょ」

 ベッドの上では、ジャージ姿のままの和都が、胸のあたりをギュッと掴んで苦しそうに息を吐いていた。そこにベッド用カーテンを引いて、外から見えないように隠す。

「……さ、こっちは大丈夫だから、戻りなさい」

 春日と菅原に授業に戻るように言うと、2人はすぐに保健室を出ていこうする。その後ろ姿を見ながら、仁科は思い出したように春日を呼び止めた。

「あぁそうだ、春日クン」

「はい?」

「昼休み入っても教室に戻れないようだったら早退させるから、そん時はコイツの着替えと鞄、持ってきてくれる?」

「……わかりました」

 春日と菅原が一礼して保健室を出ていったのを見送ると、保健室の入り口に『ベッド使用中』の札を下げてから静かに引き戸を閉めた。

「……さぁて」

 仁科はデスク用のキャスター付き椅子をベッド脇まで寄せて座ると、和都の額に掌を当てる。それから胸の辺りを掴んでいた手首を「ごめんね」と片方だけ取って脈拍も確認した。

 ──熱はなし、脈は少し早め、か。

 いつも倒れる時と、症状としてはあまり変わらない。

「……すみません、せんせ」

「謝るなって。保健室は使いたい時に使っていい場所なんだよ」

 声も掠れ、辛そうに息の上がる頬に触れる。

 脈拍が速いわりに、妙に冷んやりしていた。

「……先生の手、あったかい」

「そう?」

 和都が虚ろな顔で、触れた手の平に頬をすり寄せてくる。

 なんだかまるで、普段は愛想のない野良猫が珍しく甘えてきた時のような気持ちになってしまった。

 すり寄せられた頬をそのままにしていると、酷かった呼吸が次第に落ち着いてきて、心なしか顔色も良くなってきたような気もする。

「……ちょっとは落ち着いた?」

「はい……」

 こちらを見上げる顔が、息苦しさからくる虚ろなものから、眠そうな雰囲気をまとったものに変わったので、仁科は少しホッとした。

「今日は何がダメだったんだろうなぁ? 早く原因がわかるといいんだけどね」

 そう言って頭を撫でるが、和都は押し黙ったまま。

 よく見ると、まつ毛の長い瞼が大きな目を半分閉じていて、意識はすでに半分ほど寝ていそうだ。

「じゃあ、休みなさい。なんかあったら呼んで。近くにいるから」

 仁科は立ち上がるとベッドカーテンの外へ出て、クリーム色のカーテンをきっちり閉じる。それからキャスター付きの椅子をキュルキュルと引いて、定位置である作業デスクについた。



 暗い闇の向こうから、自分を責める声がする。

〈どうして言うことが聞けないの?〉

 ごめんなさい。

〈お前のせいで、こうなったんだよ。責任をとってくれ〉

 ごめんなさい。

〈──────〉

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


〈大丈夫。お前は悪くないよ〉

 ……え?



 ──……父さん?

 ふっと目が覚める。最後の声は、とても懐かしくて、暖かかった。

 眠りながら泣いていたようで、目の端に涙が溜まっていて、目の周りには涙の乾いたような跡ができている。喉もカラカラで、寝ながら何か言っていたのではないだろうか。

 ──聞かれてたら、やだな。

 カーテンの向こうにいる人のことが少しだけ気になった。

 とはいえ、眠る前に比べるとだいぶ状態が落ち着いている。心臓に入り込んだあの氷のような冷たい痛みが、キレイに溶けてなくなっていた。

 ハクの言う通り、仁科が近くにいる、というのがいいのだろうか。

 寝落ちる前、仁科の手の平が頬に触れていた時、体温と一緒に何かが自分の中に入り込んできたのを確かに感じた。

 ──あれがハクの言ってた、分けてもらうってヤツなのかな。

 霊力とか、そういったチカラについてはよく分からないけれど、仁科の触れたところから入り込んだものが、自分の内側に刺さった冷たくて鋭い『いやなもの』をゆっくり溶かしてくれたような気がする。

 中学の時より回復するのが早くなったのも、成長ではなく単純にチカラを分け与えてくれる人間のそばにいる回数が多かったから、という可能性もありそうだ。

 和都は横になったまま手を伸ばし、ベッドカーテンを小さく開ける。ちょうどデスクで作業をしていた仁科が見える位置で、向こうもすぐに気付いてこちらを見ていた。

「ん、起きた? どうした」

「みず……」

 声を発してみると、思った以上に出ない。だがすぐに分かってくれたようで。

「あぁ、待ってな」

 仁科はそう言ってすぐに立ち上がり、ウォーターサーバーの水を紙コップに入れて持ってくる。ベッドカーテンの内側に入ると、上半身を起こそうとしている和都の背中を支えながら、紙コップを渡してくれた。

「ほれ、飲めるか?」

「ん……」

 紙コップを受け取り、口の中に少しだけ水を含んだものの、うまく飲み込めない。気管のほうへ入ってしまったのか、喉がつかえたようでゲホゲホッと咳き込んでしまった。

「おっと」

 水をこぼさないよう、咳き込み始めた和都から紙コップを取り上げた仁科は少し考えた顔をして、

「……しゃーないな」

 紙コップに残っていた水を自分の口に含むと、和都の顔を両手で包み、唇を合わせる。

 ──……え。

 仁科の舌が口の中に入り込んで、その隙間から少しずつ水が流れ込んできた。

「……んっ」

 咄嗟に仁科の腕を掴んで、反抗しようとするも、向こうの力が強すぎてどうにも出来ない。

 こちらに構うことなく、喉の奥にはゆっくりと柔らかい液体が静かに送り込まれてきて、喉が小さくごくん、ごくんと鳴った。

 ──……くそ。

 口の端から冷たい水が小さく溢れて、着ていたジャージの襟周りを少しだけ濡らす。紙コップの半分くらいの水を飲まされて、はぁ、と息をするように口が解放された。

 喉は冷たいのに、顔が熱い。

「……よし、飲めたな」

 目の前にある仁科の顔が、眼鏡の向こうの目を細めて笑っていた。

「な、にしてんの……!」

 ハッとして顔を背けて、口の端に溢れた水滴を手の甲で拭う。

「え、水飲みたかったんでしょ?」

「そう、だけど……」

 仁科が鼻で小さく笑って、ほれ、とタオルを手渡してきたので、和都はそれをひったくるように受け取る。

「……この、変態教師」

「軽口言えるなら、もう平気そうね」

 口の端やジャージに付いた水滴を拭く和都の顔を、仁科がじぃっと観察する。具合や顔色がちゃんと良くなったか確認しているのだろう。

 そういうところは、ちゃんとしている人だ。

「もしかして、初めてだったりした? それならごめん」

「……残念ながら違うんで、大丈夫です」

「なーんだ」

 仁科から視線を逸らしたまま、むすっとした顔の和都がジャージを拭いていると、ちょうど4限目終了のチャイムが鳴り響く。

「お、いい時間じゃん」

 そう言って仁科が閉じていたベッドカーテンを開けた。

 通用口の辺りから、教室へ戻っていくらしいクラスメイト達の足音と話し声が聞こえる。

「ちょうどいいから、みんなと一緒に戻りなさい」

 言われてベッドから降りようとベッドの下を見ると、端の方に上履きが揃えて置かれていた。運ばれる時に履いていた体育館用のシューズは、春日か菅原が持っているのだろう。

 保健室のドアを開けると、仁科が言う。

「相模、あんま無理すんなよ」

「……はい」

 普段と変わらない表情の仁科に、和都は眉を顰めたままそう返して保健室から出た。

 東階段の方へ足を向けると、ちょうど第2体育館から本校舎へ戻ってきた春日達が通用口から入ってくるところで。

「お。相模、大丈夫かー」

 気付いた菅原がそう声をかけてきたので、和都はそちらへ駆け寄った。

「うん、もう平気」

「あ、顔色も戻ったな」

「よっしゃー、購買行こうぜー」

「まずは着替えだろ」

 いつものメンバーと言い合いながら、和都はそのまま一緒に階段を上っていく。



 保健室の入り口から、仁科はその様子を眺めていた。

 あの突然倒れてしまう体質さえなければ、普通の高校生として過ごせるだろうに、原因が分からないのがもどかしい。医学的な面から調べた限り、これと言った不審な点はないそうなので、きっと精神的なものだろう。眠りながら涙を流して、うわごとを繰り返していたし、大きな何かを抱え込んでいるようだが。

 ──……話してくれそうにないしなぁ。

 ただの養護教諭としては、これ以上どうすることもできない。

「……今年も、保健室利用回数トップになっちゃいそうねぇ」

 ため息を一つ、保健室内に戻ろうとしたところ、生徒達の最後尾にいた堂島が通用口を通って校舎内へやってくるのが目に入った。教職員は普通、そのまま廊下をまっすぐ歩いて、その先の職員室に戻る。

 が、彼は東階段のほうへ近づいて立ち止まり、階段を上がっていく生徒達を何故かぼんやりとした表情でじぃっと見ていた。不思議に思い、仁科はとりあえず声を掛ける。

「堂島お疲れ。どうした?」

「あぁ、仁科か。……相模くんは、どうした?」

 階段の上の方を見上げたまま、堂島がゆっくりと聞いてくる。

「え? ああ、よくなったから教室に返したよ」

「……そうか」

 そう言うと、堂島は廊下をまっすぐ歩いて、職員室の方へ行ってしまった。

 ──なんか、あったのかな。

 今朝は気付かなかったが、去っていく堂島からはうまく言えない妙な雰囲気を感じる。大学時代に仲良くやっていた友人に間違いはないが、なんだか違う何かを見ているような気分なのだ。

 ──ま、人は変わるしな。

 連絡していなかった期間も長いし、今日は新しい赴任先の2日目である。しかもそこで生徒が急に倒れたのだから、多分きっとその辺りが原因だろうと思うことにして、仁科は保健室に戻った。





〔すごいね! すごいね!〕

 学校が終わり、和都が自宅に戻って自室のベッドに寝転がっていると、ハクが嬉しそうな声をあげながら現れた。

「……何が?」

〔ね、ほら見て見て! 姿がちゃんとしてきたよ!〕

 言われてハクのほうを視ると、確かに昨日よりぼやけていた輪郭がハッキリしていて、その犬らしい姿を捉えられるようになっている。

 相変わらず半透明のままではあるが、白い色も濃くなってきて、ちょうど大型犬の首くらいのサイズだというのが分かってきた。

〔ニシナのチカラ、やっぱりすごいね!〕

「あぁ、そう、なんだね……」

 ホクホクと喜ぶハクに、和都は複雑な気持ちで返す。

 ハクの言う通り、仁科のチカラは本物なのだろう。それに今日はただ会っただけではなく、水を口移しで飲まされた。多分その影響が大きい気がする。

 ただ、普段はそういうことをするような雰囲気を微塵も感じさせない人だったので、少しショックではあった。1年の時にあんなことをされた記憶はない。

「……やっぱり、先生もおれと長くいたせいで、おかしくなってきちゃったのかなぁ」

 なんとなく、それは嫌だな、と思う。

 何度も倒れて、何度も迷惑をかけているが、嫌味を言われたことがない。それどころか、倒れてしまう原因を気にしてくれるような人だ。

 それに仁科は、人から好意を向けられることを嫌だと言っても、否定も肯定もしない。よく大人から「せっかくの好意なのに嫌がるなんて」と否定されてきた和都にとっては、実の父と同じくらいありがたかった。

〔カズト、ニシナは大丈夫だよ!〕

「……え?」

〔『狛犬の目』のチカラはねぇ、波長の合う人には影響しないからへーき! いつも一緒にいるユースケとかみんなも波長の合う人たちだから大丈夫なんだよー〕

「そう、なんだ。それなら、いいけど」

 確かに自分に関わる人間全員がおかしくなるわけではなかった。その相性というのもよくは分からないけれど、何かしらの決まりがあってそうなるのだろう。

 ──あれ? じゃあなんで先生あんなことしたんだろ?

 影響を受けないはずの人間なのに、口移しなんてしたんだろうか、と和都ははたと考える。確かに口移しで水を飲ませる方法は、飲み込みが出来ない時に使われる方法ではあるが。

〔それはちょっとボクにも分かんないかなー〕

 口に出していないのにハクが答えたので、和都はアレッと気付いた。

「……ハクには、おれの考えてることが伝わっちゃう感じ?」

〔そりゃあね! 魂、繋がってるからね!〕

「マジかぁ……」

 なんとなく恥ずかしい気もしたが、どうせ自分以外には視えない存在だしいいか、と息を吐いた。

 ──とりあえず、今日のことはユースケには黙っとかないとなぁ。

 中学の頃から、和都は誰かに何かされたら、春日に全て伝えるようにしている。相手が教師や生徒だけでなく、それこそ知らない人間でも全部、だ。

 というのも、本人が「全部、俺に言え。なんとかする」と豪語し、本当にその通りにしてきたからだ。それ以来、彼には全幅の信頼を寄せている。

 だが、だからこそ、こういった『お化けが視える』という非現実的なことは話せないままだ。

 そんな春日は、自分に手を出してきた教師を過去数名は退職に追いやっているので、今回のことが知られたら仁科もどうなるか分からない。今は仁科のチカラをアテにしないといけない状況なので、春日に下手に動かれてしまうわけにはいかない。

〔あ、あとね、カズト自身のチカラが強くなれば、『狛犬の目』のチカラを抑えられるようになると思うよ!〕

「え、ホント?!」

〔うん! カズトは今チカラがないから『狛犬の目』の強いチカラに振り回されてる状態なんだよ。カズトのチカラが強くなれば、制御できるようになるから、色んなニンゲンがやたらと寄って来ちゃうのも減らせるんじゃないかな!〕

「……なるほど」

 やたらと惹き寄せる不思議なチカラを制御するのに、同じく不思議なチカラが必要だというのは、なんとなく合点がいく。

 この厄介な性質が今からでも減らせるのなら、もう少し未来に絶望しなくてもいいのかもしれない。

 それにしても、と和都は思う。

「あ、ねぇハク。気になってるんだけどさ」

〔なぁに?〕

「バクはどうして狛犬じゃなくなったの?」

 和都の質問に、それまで陽気にピンと立っていたハクの耳が、へにゃりと下がった。

〔……それはボクにも分からないの。バクは狛犬を辞める時に自分の記憶をバラバラに破いて捨てちゃったんだ。その影響があるみたいで、ボクも昔の記憶がちょっと曖昧なんだよねぇ〕

「そうだったんだ」

〔でも、ボクはバクのこと大好きだから、バクと一緒にいられるならいっかなー☆ って辞めちゃった! あはは〕

 それがどれくらい前の出来事なのか分からないけれど、ずっと一緒にいたいと思える相手がいるのは、ちょっとだけ羨ましい。

「じゃあ、首だけなのも、理由わかんないの?」

〔あぁ、これは狛犬を辞める時にこうなっちゃったんだ!〕

「そうなんだ」

 狛犬を辞める時は首だけにされる、なんていうルールでもあるのだろうか。神様の世界はよく分からない。

 ニコニコ笑うハクの頭を撫でようと手を伸ばすが、半透明な身体に触れることはできず、伸ばした手は空をきるばかりだ。

「……やっぱ触れないかぁ」

〔あー、まだまだチカラが足りないからねー〕

「おれのチカラが強くなれば、撫でられるようになる?」

〔うん! チカラが強くなれば、身体も元に戻るし、実体化できるようになるからね!〕

「じゃあ、ハクを撫でられるように頑張ろっかな」

〔やったー! うれしい!〕

 ハクが嬉しそうに空中でクルクルと旋回し始めたので、和都はそれを眺めて小さく笑った。





 ──この人って、もしかしてさ。

 ──ああ、そうだよ。

 ──いいのかな?

 ──問題ないさ。


 誰かがどこかでクスクス笑う。


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