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19)月下の獅子

 明るい時間。

 いつもの神社。参道へいくと、男の人が2人いる。

 どちらも水色の、浅葱色の袴の人が2人。

 1人は■■■様だ。もう1人は、あの人だ。

 2人で何か話してる。笑ってる。

 こっちを向いた。手招き。

 近づくと、頭を撫でて、笑ってくれる。

 声が聞こえない。

 でも、2人が仲良しだったのは、分かる。

 2人と、ボクと、ハクと、みんなで。



「……夢」

 見慣れない明るい天井が目に入る。そうだ、安曇神社に来ているんだった、と和都は思い出す。

 明るくて、多分幸せな記憶のはずなのに、涙が止まらない。

 手の甲で拭いながら身体を横に向ける。と、目の前に仁科の顔があって。

「……ぅえっ」

 変な声が出て、身体を起こした。

 よく見ると、2組並んだ布団の、仁科が寝ているほうに自分がいる。

 ──あれ、昨日は……。

 昨晩のことを必死になって思い出す。

 境内で花火をしたその後は、普通に離れに戻ってきて、それぞれの布団に横になった、はず。疲れていたから、そのまますぐ寝落ちたのは覚えている。

 ということは、だ。

 寝ている間に、無意識のうちに、自分からそちらに寄り添いにいっていた、ということになる。

 ──……恥ずかしい。

 思わず顔を両手で覆う。

 多分、顔は赤くなっている。

 しかし、今更だ。

 だって、昨晩自覚してしまった。この人にも、気付かれた。

 これはもう、何の疑いようもなく、この人に気を赦していて、完全に絆されている。

 眠っている仁科の頭を、癖っ毛の髪を撫でる。寝息を立てたままで、起きる気配はない。

 スマホで時間を確認すると、そろそろ6時という時間。外はすっかり明るいらしい。

 和都は少し考えてから、昨日のように薄手のパーカーを羽織ると、サンダルを履いて離れを出た。

 それから社務所の裏手の雑木林へ向い、薄明るい小さな参道を抜け、白狛神社のお社の前に立つ。

 鳥居の横には、白い頭から前足、そして胴体の真ん中くらいまでしかない狛犬が寝そべっている。

「ハク、おはよー」

 和都が声をかけると、狛犬はまだ寝ぼけたような顔を持ち上げた。

〔あ、おはよーカズト。今日も早起きだねぇ〕

「うん、なんか目ぇ覚めちゃった」

 殆ど閉じた目をこちらに向けるハクの頭を撫でると、和都は小さな社に向かって、二礼二拍手一礼する。

「……おはようございます」

 そう言って小さく笑った。





「あの人が出てきた? 日本刀持ってたって人?」

「……うん」

 蔵の2階に上がる階段に積まれた荷物を下ろしながら、和都は仁科に向かって頷いた。

 以前見た、慕っていた宮司が血塗れになって倒れていた夢。あの夢に出てくる、日本刀を持った人物が今朝の夢に出てきたことを話していた。

「なるほど。じゃあ、バクの慕ってた宮司は、仲の良かった人間に殺された、ということか」

「そうだと思う」

 今日は午前中から蔵掃除の続きを始めていた。昨日は全く手の回らなかった2階部分。本来なら2階からやるべきだが、1階の荷物が多すぎたのと、2階へ上がる階段が物で埋まって登れなかったのだ。

 各段に置かれた荷物を1階の空いたスペースに置いていって、ようやく2階にたどり着いた。

 2階には電球が付いていないので、和都は持ってきた懐中電灯で階段の方から2階内部を照らす。1階や階段の荷物量に対し、2階は備え付けの棚と床に箱がいくつか転がっている程度だ。

「あれ、あんまり物ないかも?」

「本当だ」

 天井や壁を照らしてみると、太い木の梁がぼんやり浮かび、壁側に何本も黒い柱が見える。その壁の柱には、何か小さい紙のようなものがいくつか貼ってあって。

「……張り紙?」

「とりあえず、窓開けるか」

 仁科は和都の照らす懐中電灯の灯りの中を、2階の奥のほうへ進む。それから、その奥の壁にある大きな二重窓を、力任せに開けた。

 ギシギシと鈍い音を立ててようやく開いた窓からは、青い空が見える。外からの明かりで室内に漂う埃が、キラキラと光っていた。

 多少明るくなった室内を和都は改めて見回す。柱に貼ってあったのは、黒い筆文字で書かれたお札のようだ。

「お札貼ってあるよ」

「……なんか、やばいもんでも置いてるのかもね」

 お札に書かれた文字の内容から、魔除けの類と思われる。2階の柱のあちらこちらに、これでもかとベタベタ貼られたお札を睨みつけながら、仁科が言った。

 しかし、探している必要な情報は、ここくらいしかもう他に見当がない。

「とりあえず、本類は昨日みたく虫干ししようか」

「はい」

 2階の埃を取り除きながら、備え付けの棚にある紙束や書物の類を運び出し、昨日と同じように木陰に敷いたブルーシートの上に載せていった。

 棚の前にはいくつか木の箱が置いてあり、和都は棚板の上を掃除するため、それを1つずつズラして移動させる。が、最後1つが妙に重くて動かない。

「……あれ?」

 中身を出してから動かそうと上部の蓋を開けるも、中には何もなく空っぽだった。

「どうした?」

「なんか、何も入ってないけど、重くって」

 ちょうど仁科が1階から上がってきたので、2人で改めて箱の中を見る。

「……箱の高さと、底面の高さが合ってないな」

 箱の外側と内側を交互に見ながら仁科が言った。確かにちょうど箱の真ん中より少し下くらいの位置に底面がきている。

 仁科が箱の側面を上から軽く叩いていくと、最初はカンカンと軽い音がしていたが、下部にくると明らかに響きが変わった。

「やっぱ二重底だな」

 底面の四隅を叩いたり押したりしてみるが、開けられる感じはしない。仁科が箱の側面に顔を近づけてじっくり見る。と、一面だけ妙な線の入った箇所がある。

「こっち、照らしてくれる?」

「はい」

 仁科に言われて、和都はちょうど影になっている箱の側面を懐中電灯で照らした。分かりにくいが切れ込みが2本、横に入っている。

「ここっぽいけど……」

 そう言いながら、線の間を引き抜くように仁科が引っ張ると、箱の底面がズルリと外れた。

「開いた!」

 底面を全て引き出し外したその下には、古そうな書物が無造作に重なって入っている。

 それをいくつか取り出して見ると、表紙には『白狛神社』の文字。

「……ビンゴ、だな」

 仁科は呟き、それから入っていたものをひとまず全部取り出した。

 空になった二重底の側面に、お札が貼ってあるのが見える。

「なんか悪いもの……なの?」

「いや、人避けとか、魔除けっぽい。保管はしたいが見つかりたくないもの、なんじゃない?」

 引き抜いた底面蓋の裏側に、お札が貼られているのに気付いた仁科はそう言った。

 人からも人ではないものからも、見つかってはいけない情報なのだろうか。

 2階で見つけた書物類を外に出し終わったところで、凛子がお昼だと呼びに来たため、昼食をとりつつ休憩となった。

 本邸で昼食をいただいて軽く休んだ後、すぐまた作業に戻ろうとすると、凜子に呼び止められた。

「もうちょっとゆっくりやったら? まだ暑い時間だし」

「あ、でも時間が。明日、帰らなきゃなので……」

「えぇ、そうなの?」

 和都の返答に凛子が驚いていると、後からやってきた仁科が言う。

「あれ、言ってなかったっけ?」

「聞いてないわよ!」

「……すみません」

 肩を窄めて言う和都に、凛子は仁科を指差して、

「和都くんが謝る必要ないのよ、悪いのは全部ヒロ兄だからね」

「そーそー、責任とるのは大人に任せなさい」

 仁科はそう言うと、凛子の頭を撫で、それから和都の頭を撫でた。

「さ、続きやっていこうか」

 蔵の近くに敷いたブルーシートの上で、蔵の2階から出した本を整理する。1階から出した時よりは数が少ない。

 しかし、白狛神社に関する書物や書類はたくさん出てきたので、和都と仁科は解読アプリを使って手分けして読んでいく。

 和都が開いた書物は、白狛神社の由来に関するもののようだった。

「……鬼の湧き出る穴?」

 書物によれば、白狛神社のあった場所には元来鬼の湧き出る穴があり、鬼の出る山と呼ばれて恐れられていた。しかしある時から、その鬼を食べてくれる、白い狼が現れるようになった。

 村に住むある人間に懐いていて、狼はその村人にお願いされ、鬼を食べてくれていたらしい。白い狼はそのうち大神と呼ばれるようになり、村に住む人たちにも慕われるようになった。

 ところがある時、大神の懐いていた人間が、村人によって殺されてしまう。

 怒り狂った大神は鬼になり、そこに住む村人達を見境なく襲い始めた。そこへ通りかかった弓の名手が、神力のある矢を以って射殺すことで退治し、その後、大神は鬼の湧く穴を見張り、周辺を守る神として祀られ『白狛神社』が出来た。

「そんな由来だったんだ」

 人間が人間を殺したことで鬼になった神様。そんな神様を祀る場所で、また人間が人間を殺してしまった。

 それも、慕っていた人間を、親しかった人間が。

 バクが記憶を破り捨てて、狛犬を辞めてしまったのも頷ける話だ。

「……大丈夫?」

「うん。……ちょっと、バクの気持ちも分かるなって」

 表情の暗くなった和都の頭を、隣にいた仁科が優しく撫でた。

 分かった内容を持ってきていたノートにまとめていると、別の本を解読していた仁科が眉を顰めて言う。

「お前が今朝見た夢の話だけど」

「あ、はい」

「やはり、日本刀を持っていた人物は、仁科孝四郎で間違いなさそうだ」

「何か、見つかったんですか?」

 和都は仁科が開いている書物を横から覗き込んだ。

 仁科が見ていた書物には、白狛神社の名前と日付、そして人物のリストが書かれていた。

「事件が起きる直前くらいの、神社に仕えてた人間のリストが出てきたよ。ここにも仁科孝四郎の名前がある」

 そう言って指差した先に『仁科孝四郎』の文字が見える。隣には『安曇真之介』の文字もあった。

「そいつが浅葱色の袴を着てたなら、神職だろう。そして神職にある男の名前は、安曇真之介と仁科孝四郎のみ」

「じゃあ、やっぱり……」

「ただ、こっちには『宮司が自死』とあるんだよね」

 そう言って仁科が大きな紙を折り畳んだようなものを見せた。どうやら当時の新聞らしい。

 そこには『白狛神社で宮司が自死』と大きな見出しがあり、病を苦に自殺した、と記載がある。

「自殺? え、なんで……」

「おそらく、身内同士の事件ってことで、外聞が悪いからそうした、のかもしれないな。自殺も大概だけど」

 当時、神社を管理していた安曇家が、殺人よりも自殺の方がまだマシと判断したのかもしれない。ただ、これで納得がいく。

「白狛神社自体の痕跡を徹底して隠してるのは、そういう理由からだろうな。安曇家と仁科家の仲が険悪に見られると、色々問題があったのかもしれないね」

 由来が口伝でしか残されていなかったも、移転した先で人目につかないよう祀られている理由も、この身内同士の殺人を隠すため、だったのだろう。

 安曇の蔵を探して見つけ出せた情報は、これで全部だ。

 まだ日は高く、空も真っ青な時間。

 木陰の下に敷いたブルーシートの上で、和都と仁科は2人して大きく息をついた。

 予想はしていたが、なんとも気まずい、後味の悪い理由だろう。

 和都はまとめていた大学ノートを見返しながら、ふと何かに気付いたように言う。

「そういえば、なんで白狛神社にはハクとバクがいたんでしょう? 神獣って普通は神社にいませんよね?」

「あー、そういやそうだな。普通、狛犬はただの置物だし」

「何か特別な理由のある神社だったから?」

 和都の広げていたノートを、仁科が横から覗き込んだ。

「『鬼の湧く穴を見張る』ってあったから、そのため?」

「となると、残ってた祠はその穴のあったとこ、かもな」

「退治した鬼を封じた祠、じゃなくて、鬼が出てくるところを封じてる祠、だった、と」

 和都はノートの該当箇所に訂正を書き込んでいく。

「……そういえばハクは、鬼が出てくるから開けちゃいけないって言ってたけど、本当にそのまんまの意味だったんだね」

「そうみたいだね。退治した鬼神は祀って、そのまま白狛神社の神様にしてたってわけだ」

 神社の由来、そして無くなった経緯については分かった。

 しかし、今一番なんとかしなければいけないのは、学校に紛れ込んでいる鬼どもだ。

「じゃあ、堂島先生達に憑いてる鬼って……」

「その祠から出てきた鬼、なんだろうねぇ」

「鬼の倒し方も、一応ありましたけど」

「神力のある矢で射殺した、だっけ? 結局物理的に殺さないとダメってことかぁ」

「でも、堂島先生達は鬼が憑いてるだけで、鬼じゃないし」

「そこだよなぁ」

 鬼になった大神は射殺すことで退治できたが、今和都を狙っている鬼達は、人間に憑依した状態である。

 鬼だけを倒すというのは、やはり難しいことなのかもしれない。

「ハクに食べてもらうしかない、のかな。でも食べるって、丸ごと?」

「うーん、どうだろ。分かんないな」

「ハクに聞いたほうがいいね」

「そうね。できれば鬼だけ、食べて欲しいんだけど」

 やはり鬼を倒すというのは、なかなかに非現実的な話だ。魔法が使えるわけでも、鬼退治のできる刀があるわけでもない。

 まして、鬼憑きを理由に人間が殺されていい理由はない。鬼が憑いている2人のうち1人は仁科の友人なのだ。

 鬼についてはハクを頼るしかないのだろうという結論になったが、次はこの神社の情報をどこまで公開できるのか、という問題が出てくる。

「……これだけ大変なことが起きた神社のこと、表に出しちゃっていいんでしょうか?」

「んー、そうだな。あれだけ隠されてたわけだしな」

 仁科も2階の異様な様子と、お札の貼られた二重底の箱を思い出す。徹底して隠していた結果、白狛神社は由来の分からない末社として存在している状態だ。

「これは調べて分かったことを親父殿に報告して、学校側にどこまで提出していいか確認しないとだねぇ」

 再び2人して重い空気を吐き出していると、凛子が差し入れに麦茶とスイカを持ってきてくれた。

「調子はどう?」

 明るい顔で声を掛けたものの、こちらを見上げた2人の微妙な表情に、凛子も眉を下げる。

「……あんまり、いい由来じゃなかったみたいね」

「うん、ちょっとねぇ。学校だけに提出とはいえ、表に出していいのか分からん資料が出てきちゃってさ」

「それはちょっと困るわね」

 仁科の言葉に、安曇神社を引き継ぐ立場の凛子もあまりいい顔をしない。

「親父殿と話したいんだけど、今いる?」

「今出ちゃってるんだよね。でも、早く帰ってくるって言ってたし、連絡しておく」

「頼むわ」

 凛子が差し入れてくれた麦茶とスイカで休憩をした後は、虫干しのために出した本を蔵に戻す作業だ。

「さ、日が暮れる前に終わらせようか」

「はーい」

 和都は返事をして立ち上がり、身体を大きく伸ばすと、よし、と気合いを入れて作業を始めた。





 バクの角はキレイだね。宝石のようにキラキラしてて。

 そうでしょう、そうでしょう。

 毛色が漆黒だから、夜空に光る三日月みたいだ。

 そう言って、■■■様が頭を撫でてくれて。



「……夢」

 涙の溢れる目を開けると、まだ世界は薄暗くて、時間を見ようと和都は横になったまま枕元に置いたスマホを探す。スマホの時間は、日付が変わって1時間ほどを示していた。

 明日帰ると伝えていたためか、夕飯はとても豪勢なもので。座卓を囲む人数も、初日の夜のようにたくさん集まっていた。仁科は最後の夜だからと安曇家の大人たちに囲まれていたので、隣の布団に誰もいないところを見ると、まだ飲んでいるのかもしれない。

 ひとまずバクの記憶をメモしようと、薄いカーテンと障子をぬけて差す月明かりの中、和都は身体を起こす。

 と、本邸と繋がっている廊下の方から、ギシギシと人の近づいてくる足音。ちょうど離れに戻ってきた、仁科だった。

「……あれ、どうした?」

「あ、先生」

 先に寝ていると言っておいた自分が起きていたので、驚いたようだ。

「……バクの記憶、見ちゃって」

「あぁ、そうか」

 座ったまま手の甲で涙を拭っていると、仁科がすぐ隣に腰を下ろし、手を伸ばして止まらない涙を指先でなぞる。包むように触れた大きな手は、少しだけ温かい。

「バクの記憶、そんなに悲しくなくても毎回涙出てくるんだよね」

 さっきの夢も、きっと真之介とのやりとりで、優しい記憶の一部だ。

「大丈夫?」

「うん、平気……」

 答えている途中、頬に触れた手に顔を引き寄せられて、唇を塞がれる。むせるような匂いが、顔面にふわりと煙って、和都は思わず眉を顰めた。

「……お酒くさい。酔ってるでしょ」

「うん」

 よく見れば、仁科の目が少し眠そうにぼんやりしている。

 和都はこのまま寝落ちてしまうのではないか、と思い仁科の眼鏡を外して、自分のスマホと一緒に布団のすぐ上の、枕元に置いた。

 すると、仁科の腕がギュッと身体全体を包むように抱きついてきて、そのまま一緒に布団の上に倒れ込む。

「ぅわ、ちょっと。先生、重い」

「……うん、酔ってる」

 薄い布団の上で、覆いかぶさるように抱きしめられたまま。

 真横にある表情の見えない顔が、耳元で小さく呟いた。

「酔ってるせいにしていい?」

「……へ?」

 少しだけ身体が離れたと思うと、小さく開いた口に唇が噛みつく。

 自分より大きい舌が口の内側に躊躇いもなく入り込んで、戸惑う舌に絡みついてきた。

「……んっ」

 行き場のない手も大きな指に絡めとられ、布団の上に留められる。

 身体の内側が、急騰したように熱い。

 夏の夜の、蒸し暑さとは違う熱。

 しばらくして唇が離れると、唾液に濡れた舌が首筋を這った。

「せんせ……」

 酸素が足りなくて呼吸が荒くなる。

 背筋をゾワゾワと、燻る何かが撫でていった。

 Tシャツの襟ぐりが引っ張られて、鎖骨の下辺りまできた唇が、不意にギュゥと痛いくらいに吸い付いて。

「……あぅ」

 小さく悲鳴をあげると、薄闇に慣れた視界の中で、顔を上げた仁科と目があった。

 ──そういうことが、したいのか。

 他人から、求めるような視線を向けられるのは、初めてじゃない。

 でも、そういう表情のこの人は、初めて見た。

 視線を一度だけ逸らしてから、もう一度、仁科の目を見る。

 どんなことをしたいのか、知らないわけではない。でも、

 ──先生なら、

「……いいよ」

 呟くように言った。

 落ちてくるように近づいた唇を合わせると、大きな手に留められていた手を、仁科の背中に回す。

 ──先生となら、怖くないかな。

 ギュッと抱き合いながら、口の中で唾液と一緒に熱を混ぜる。背中に回った仁科の手が、Tシャツの内側に入って素肌に触れた。

 ふ、と唇が離れて、舌先から唾液が糸を引く。

 それから息をハァァと大きく吐き出しながら、自分の肩に顔を埋めるように抱きしめて、仁科はピタリと止まってしまった。

「……先生?」

 それから動く気配のなくなった仁科に、和都が躊躇いがちに声をかける。

 Tシャツの内側に入り込んでいた手は、いつの間にか外に出ていた。

「……今、理性と戦ってるから、ちょっと黙って」

「うん……」

 急に、心臓がうるさく聞こえる。

 しばらくの沈黙の後、仁科が再び深く息を吐きながら離れるように身体を起こした。

 そして、

「……理性が勝ったから寝る」

 ぶっきらぼうにそう言うと、仁科は和都に背を向けるようにして、隣の布団に横になった。

 和都は小さく苦笑する。そして笑いながら、その背中に自分の背中をくっつけるように寄り添って、そのまま横になった。

「……勝因は?」

「犯罪者になりたくなーい」

 至極マトモな答えに、和都はクスクス笑う。

「家に連れ込んだり、あちこち連れ回してる時点でアウトじゃない?」

「うるせぇ。お前の調べ物に付き合ってるだけでしょ」

 言われたら、その通りかもしれない。

 自分は鬼に食べられないよう、先生に協力してもらっている立場だ。

 だから、こんな風になるとは自分でも思っていなくて。

 でも、

「……先生となら、別によかったけど」

「俺みたいなのが初めてじゃダメでしょ」

 背中をくっつけたまま改めて言うと、呆れたような声でそんな答えが返ってきて。

 ああ、そうか。それで立ち止まってくれたのか、と思い至る。

 でも、自分はそんなに綺麗なものじゃない。

「……おれ、初めてじゃないよ?」

「えっ?」

 これにはさすがに驚いたらしく、仁科が身体を起こしてこちらを振り返った。

「去年、同じ委員だった3年生と。公園のトイレに連れ込まれて、まぁ、無理やりだったけどね……」

 そう言うと、仁科には何か思い当たるものがあるようで。

「……もしかして、去年1週間くらい風邪で休んでた時、か?」

「ああ、それ。本当は風邪じゃなくて、行きたくなかっただけ」

 和都の言葉に、仁科が後ろからゆっくり、包み込むみたいにギュッと抱きしめた。

 思い出したせいで冷えてしまった内側が、暖かくなった気がする。

「本当、アレは失敗したなぁ。でも、久しぶりに学校きたら先輩いなくなってて。たぶん、ユースケがなんかしたんじゃないかな」

「……そっか」

「死にたいくらいサイアクだったけど、高校はちゃんと生きて卒業するって、約束してたから」

 これは、春日とその先輩と、自分しか知らない、サイアクの話。

 春日祐介が自分と親しくなったり、近づいてくる人間を異常に警戒する理由の一つ、だ。

「……ガッカリした?」

「するかボケ」

 抱きしめる腕の力が強くて、痛い。

「女の人は元々怖いのに、本当イヤになるよね。急に近寄ってくる人もやっぱ怖いし、大きい男の人も正直まだ苦手だし」

 生きていくのに、苦手なものが多すぎて、きっと生きるのに向いていない。

「……でも、先生は平気だったからさ」

 和都はよいしょ、と仁科の腕の中で、背中を向けていた身体をそちらに向けて、顔を上げる。

「先生とキスすんの、イヤじゃなかったから、別にいいかなって思っちゃった」

 言われた仁科は、困ったように眉を下げて笑った。

「……理性が勝った後にそんなこと言うのやめてよ。揺らぐじゃん」

「えへへ……」

 悪戯っぽく笑う和都の額に、唇が触れる。

 それから優しく頭を撫でながら、

「でも、今日はもう寝るよ」

「……うん」

 そのまま2人、抱き合って。

 ゆっくりと薄闇に溶けるように、寝落ちていった。





 妙に眩しくて目が覚めた。

 室内はまだ薄暗い。頭上へ視線を向けると、ちょうどそこだけ障子もカーテンも、そしてガラス戸も開いていて、そこから月明かりが差し込んでいた。

 腕の中に視線を向けると、一緒に眠ったはずの和都がいない。

 仁科は慌てて身体を起こし、枕元に置かれた眼鏡を掛けて、ガラス戸の方へ向かった。

 まだ月の明るい、夜明け前。

 中庭に和都が一人、ぼんやりと暗い空を見上げて立っている。

 仁科がガラス戸に近づくと、気配に気付いたのか、和都がこちらを向いた。

 見た目は和都のままだが、額から途中で折れた金色の角が生えている。瞳全体が金色に光り、細長い瞳孔が六つ、花びらのように広がっていて、雪の結晶を思わせた。

「……現れたな、バク」

 仁科がそう言うと、バクと呼ばれた和都が目を見開き口角を上げ、口を開く。

「あれ、気付いてたの?」

 声は和都のものと変わらない。

 意識のみ、完全にバクが支配しているようだ。

「そりゃあね。時々、目がそんな風に光ってることがあって、気にしちゃいたんだよ」

 仁科はガラス戸をもう少しだけ開けると、そのまま縁側に腰を下ろす。

 月明かりの下で裸足のまま、バクの金色の瞳がキラリと光る。

「この子がかわいいかい?」

「ああ、もちろん」

「……ボクはお前が嫌いだ」

「その姿カタチで言われるとちょっとイヤだわ」

「そう? ならもっと言ってあげる」

「傷付くからやめてよ。俺が嫌いなの? いや『仁科家』が嫌いなのかな?」

 仁科の言葉にバクの口角が下がり、金色の瞳がつまらなそうに細められる。

「なーんだ、バレちゃったのか」

「春日クンが頑張ってくれたのと、お前が俺を嫌ってるってので、確信したよ」

 ずっと感じていた違和感から生まれた可能性。

「お前は『生まれ変わり』とかそういうんじゃない。『仁科家』にとり憑く『祟り』そのものだ」

 細めた目を見開き、バクが苦々しい顔で笑う。

「ご明察。はは、相変わらず邪魔なヤツだなぁ、ユースケは」

「理由は何だ。目的は? 蔵の中を探したけど、安曇真之介が神社で自殺したのを理由に廃社したって記録しかなかったよ」

 風がザアッと吹き抜けていく。

 バクの金色の瞳が、まっすぐ仁科を見ていた。

「……安曇真之介は、仁科孝四郎に殺されている」

「やっぱり、自殺じゃないんだな」

「ああ。人間の都合で消された歴史だ。安曇にその記録は残ってないよ。全部燃やされた。だからといって、人死の出た神社などに人は来ない。すぐに神社は取り潰しとなり、シロ様はここに移動された。ボクらを、置き去りにしてね」

 置き去りにされた神の使いは、悲しみと怒りのにじむ、低い淡々とした声で話す。

「一緒にくることは出来なかったのか?」

「ボクらは真之介に使役されていたんだ。主人が居なきゃ、決められた場所から動けない」

「誰もそれを言わなかったのか?」

「そもそも、真之介と孝四郎くらいしかボクらは視えていない。孝四郎は真之介が死んだ次の日から、神社には現れなかったからね」

「そうか……」

 ハクとバクはそもそも宮司が使役する神獣の類で、それらが狛犬として神社に仕えていた、というのが正しいのかもしれない。

「悲しくて、寂しくて、気付いたら祟り神になってた」

 ポツリと呟くようにバクが言った。

 風に流された雲が月を隠し、辺りがふっと暗くなる。

「だから、孝四郎を探し出して、祟ることにしたんだ。末裔末子が死に逝く様を見届けろ、ってね」

 声が震えていた。

 両の手をぎゅっときつく握りしめている。

「そしたらどうだ! アイツ……自害しやがった。ボクから大事なものを奪っておいて、一人で逃げやがったんだ!」

 薄影の中から、金色の瞳がギロリとこちらを睨み、吠えた。

「……人間は身勝手だ。だから、嫌いだ」

 こちらを蔑むように目を細めて、バクが言う。

 言葉もない。

 これが、祟りの始まり。

 蔵のあの様子は、体裁を守るためだけでなく、蔑ろにした神獣の怒りを恐れてのことだったのだろうか。

「それは俺も思うよ。だから人道で修行してんだろ」

 今も昔も、人間はいつだって愚かだ。

 これは(あがな)うべき罪なのかもしれない。

 けれど、

「でも頼むよ。そいつに八つ当たりするのはもう、やめてくれないか」

 きっとこれも、傲慢な人間側の願いだ。

 死にたくなるような体験をした弟は、ごめんなさいと謝りながら先に逝った。ようやく大事にしたいと思えるようになった人を、また見送ることは、したくない。

 風が吹いて、薄闇が晴れていく。

「……お前は孝四郎によく似てるなぁ」

 月下の獅子は、優しく笑う。

「まぁでも、安心していいよ。この子で終いだから」

「……は?」

「この子を最後に、祟るのは辞めてやるって言ってるんだよ。嬉しいだろ?」

「なに、を」

 意味が上手く飲み込めず、言葉に詰まる。

「この子は歴代で1番の器なんだ。ハクを実体化できるだけの霊力の許容値がある。ハクが顕現したら、この子ごとボクを取り込んで、お終いさ」

「取り込む?」

「ああ。……言葉の通りに」

 そう言うと、バクは空を見上げるようにして口を大きく開け、ゆっくり閉じて見せた。

 金色の瞳は楽しそうに細められ、こちらを向いている。

「あれ、嬉しくないの? 喜べよ。お前の大事な末弟を奪った祟り神が、居なくなるんだぞ?」

 意味は理解していた。

 だが1つ、大事なことが欠けていないか。

 心臓がドクドクと早鐘を打つ。

「まて、相模は……和都は、どうなる」

 仁科の言葉に、バクはきょとんとした顔で言った。

「カズトはハクと、ボクらと一緒になるよ。当たり前だろ?」

 人が神の側へ行く。

 それは、最悪のシナリオだ。

 仁科は拳を握り、唇を噛み締めて考える。

「……ハクの実体化を辞めさせれば、それは実現出来ないな?」

「まぁ、そうだけど。阻止するつもりなら辞めときな」

 額に汗を浮かべ、眉を顰めて見つめる仁科に、バクはひどく醒めた顔で言う。

「お前ら人間に、あの鬼を祓うことなんて出来ないからね。リンコと言ったか、あの小娘。アレがもう2人は必要なレベルだな。ハクが食う以外に倒す方法はないよ」

 そう言いながら、バクがゆっくり仁科のほうへ歩いてきた。

「鬼どもは今、ボクに惹き寄せられているから大人しいが、本来は人喰いだよ。気になるものが無くなれば、どうなるだろうね?」

 きっとそれこそが、バクの持つ『狛犬の目』の本来の使い方なのだろう。湧き出た鬼が村の人間を襲わないよう、惹き付けておく囮なのだ。

「もし仮に、鬼をなんとか出来る方法があって、ハクの実体化を阻止したとしても、ボクのチカラはこの子を殺して、次へ行くだけだけどね」

「次……?」

「お前のもう1人の弟には、子どもが2人いたな。2番目の子どもの名前は、何と言うのかな?」

 手を伸ばせば触れられる距離まで来たバクは、楽しそうに笑っている。

「ふふ。前門の鬼、後門の大神と言ったところかな」

 方法が何も思い浮かばなかった。

 もう、縋るような言葉しか出てこない。

「……俺が、代わってやることは出来ないのか?」

「無理だね。子どもの魂にしか入れない」

 バクがもう一歩だけ近づいて、仁科の顔を見た。

「……うん、いい顔だ。ボクが観たかった表情(かお)だよ、センセイ」

 恍惚に笑うと、バクの両手が仁科の両頬を掴んで、そのまま唇を重ねる。

 乾いた唇は、何の味もしなかった。

「……最悪の気分だよ。性格悪いな、お前」

「あはは。お前らのせいさ、人間」

 和都の顔で、目の前の神は無邪気に笑う。

 それから、頬を掴んでいた両手がするりと抱きつくように、首の後ろへ回る。

「まぁ、見たかったものを見せて貰ったし、1つ頼み事をしてやろうかな」

「頼み事?」

「ああ。記憶を取り戻して、疑問に思っていることがあるんだ」

 先ほどとは打って変わって、バクは真剣な表情で仁科を見つめた。

「孝四郎が真之介を殺した理由だ。2人は、仲がよかった。神社の仕事を2人で担っていて、孝四郎の修行が明ければ、ボクとハクのどちらかが孝四郎に仕える予定だった。1人で2匹の神獣を使役するのは、かなり負担だからね」

 彼があの人を殺す理由が思いつかない。それくらい、あの頃は穏やかだった。

「自死の間際、聞いても孝四郎はそれだけは言わずに逝った」

「殺された真相、か」

 確かに、和都がこれまで見た記憶の夢からも、それに関しては理由が見当たらない。バクが分からないというのであれば、きっとまた違うところに答えが存在しているように思える。

「もしそれが分かれば、この子を解放する手立てを考えてやってもいい」

 すっと身体を寄せて、抱きついてきた顔が耳元で囁いた。

 それはまるで、暗い空から垂らされた、細く光る蜘蛛の糸。

 きっと掴む以外に方法は、ない。

「……わかった」

「ふふ、期待しないで待ってるよ」

 ふっと金色の光が消えて、和都の身体がそのまま仁科の身体に寄りかかる。

 力が抜けて崩れ落ちそうな身体を抱き止めると、和都はやはり眠っているままで。

「……本当、最悪だわ」

 何も知らずに寝息を立てる和都を、仁科はぎゅっと抱きしめた。





 ──えー、教えちゃったの?

 ──うん、教えちゃった。

 ──大丈夫かな?

 ──大丈夫だよ。


 どうせ、見つかりっこないんだから。

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