11)獅子身中の虫
夜になると、境内の中が少しザワザワする。
参道から見ているしかできないので、よくわからない。
時折、男女で言い争う声が聞こえてくる。
女性が甲高い声で何か叫んでる。
■■■様、大丈夫ですか?
静かになったから、夜中にこっそり聞きにいったんだけど、■■■様は大丈夫だよ、としか言ってくれない。
朝が来る。
いつもは気持ちがいいはずなのに、なんだか神社の空気が重い。
お参りにくる人たちも何かヒソヒソと話している。
どうしたんだろう?
でも、誰も教えてはくれない。
不安なまま1日が終わって、夜になる。
また、言い争う声。昨日よりひどい。
ハク、どうしよう?
どうしようね、バク。
2匹で相談して、こっそり見に行くことにした。
ぶっつりと記憶が途切れるように、目が覚めた。
「……夢」
目から涙が溢れていて、以前のように止まる気配がない。手の甲で拭いながら身体を起こし、近くに放っておいた鞄を取る。神社のことをメモしていた大学ノートを取り出して、見た内容を思い出せる範囲で書き出した。
気が重くなる夢だった。読み返しているだけで、胸の中を不安な気持ちがぐるぐると渦巻いて、気持ち悪い。
狛犬だった頃の、そして破り捨てられてしまった、バクの記憶のひとかけら。確かにこんな記憶を持ち続けるのは嫌かもしれない。
「そうだ、送んなきゃ」
バクの記憶を見たら共有しろと言われている。充電器に挿したままのスマートフォンを手に取り、書き文字の並ぶノートを撮影してから、チャットアプリで仁科に送る。
早朝なので既読にはならない。が、ついアプリの画面を見てしまう。
でも、ずっと見ていても仕方ないので、画面を消してベッドに投げた。
「起きちゃおうかなぁ」
そう言いつつ、再びベッドに寝転ぶ。外は明るくなっていて、朝焼けの薄いピンク色がカーテンの隙間から見えた。
早く起きたところで、急ぐ理由も、特に何かしたいこともない。あるとすれば、学校に行くことくらいだ。
顔を洗って着替えて、読みかけの本を読んでいようか。
そんなことを考えていると、不意にスマホが短く振動した。時間設定のおかしい企業メルマガでも届いたのかとスマホを取ったが、違った。
「……あ」
通知欄には『仁科先生』と出ていて、チャットアプリの通知だった。
《やな夢だね。大丈夫?》
普段話す時のような文体で、声が聞こえたような気さえする。
ベッドに付けていた背中をお腹に変えて、和都は返信を送信した。
《うん。へーき》
《神社で何か、事件でも起きたのかね?》
《やっぱり、そうなのかなぁ》
普段から寝坊するくらい朝が苦手のはずなのに。
仁科が欠伸をしながら入力している様子を想像して、少し笑ってしまった。
《じゃあ、二度寝するわ》
《遅刻しないでね》
念を押したメッセージがちゃんと『既読』になったのを確認して、和都はスマホの画面を閉じる。
「……先生、大丈夫かなぁ?」
和都は小さく呟いてからベッドを降りると、うーんと伸びをして、顔を洗うために部屋を出た。
◇
「じゃあこっちの部活終わったら、昇降口な!」
「うん、わかった」
放課後。和都は部活に向かう菅原・小坂と一緒に保健室まで来ると、第2体育館のほうへ向かう2人に手を振って、それから保健室の引き戸を開ける。
「失礼しまーす」
「おう、お疲れ」
すでに今日の作業の準備を始めている仁科が出迎えた。
「なーんか最近、春日クン以外もお前の護衛してない? 気のせい?」
ちょうど保健室のドアの前で話していたので、仁科にも2人との会話が聞こえていたらしい。
「……体育祭の時、堂島先生に腕掴まれてたの、見られててさ」
「ふーん。警戒してくれてんだ。いい奴らじゃん」
体育祭が終わってすぐ、春日・菅原・小坂の3人から、なるべく1人にならないように、特に川野と堂島に注意するよう、改めて言われてしまった。
春日はわかるが、去年はそんなことを言わなかった2人がそう言い出したのには少しだけ驚いた。体育祭の時のことが、よほど衝撃的だったらしく、なんだか申し訳ない。
普段はこれまで通り春日と一緒に帰ることになるが、学校に残る時は基本仁科が近くにいるうえ、委員会で遅くなった時の帰り道は菅原や小坂が一緒にいてくれることになる。
これまでのような普通の人間とは違う手強い相手なので、理由は詳しく話せないにしても、正直ありがたい話だった。
「今日はプールの点検、ですよね?」
「そ。もう少ししたらプール授業始まるから、そのための準備をやっとかないとね」
体育祭が終わると、制服も半袖のシャツにグレーチェックのズボンという夏服に変わり、暫くしたらプールの授業も始まる。
プールの設備そのものの点検や、貯めた水の水質管理は専任の先生がやることになっているが、トイレや更衣室などの点検や備品チェックは養護教諭も担当するらしい。
「さて、行こうか」
狛杜高校のプールは、第1体育館のさらに奥のほうにあった。
コンクリートの壁で囲まれた階段を上がると、更衣室やトイレのドアが見えて来る。その反対側に消毒槽やシャワーなどの設備があって、その向こうに巨大な25メートルのプールが広がっていた。
1から7まで番号の振られた飛び込み台はシーズンオフの間に風雨で汚れ、プールには茶色や緑の藻の浮く水が張っている。まだ清掃が入る前なので仕方がない。
まずはプールサイドや周辺をぐるりと囲む金網の状態を確認する。それから、シャワーや更衣室のチェック。最後にトイレの確認をして完了だ。
更衣室内はまだ水道や電気を通す前なので電灯は点かないが、開け放したドアや窓から入る日差しで、薄暗いものの十分に明るい。
備え付けの棚やスノコを和都が奥から順に1つずつ見ていると、足が割れて外れているスノコがあった。
「わ、ここ割れてる」
「あら。経年劣化かねぇ」
そう言いながら仁科がバインダーにチェックしていく。もう1つ割れているスノコを見つけて、最後のトイレに移動した。
「清掃のあとにペーパー類とか入れるんですっけ?」
「そうそう。来週やるからね」
「はーい」
個室が並ぶその反対に設けられた、手洗い場の一番奥まで和都が進む。手洗い場自体に問題はなさそうだが、壁にいくつか並んで貼ってある鏡のうち、一番奥の1つが大きく割れていた。
「あ、先生。ここの鏡、割れてる」
「えー、マジか。いつ割れたんだ」
そう言いながら仁科が近づいて確認し、チェックシートに書き込む。
ヒビは鏡面全体に大きく斜めに入っていて、映り込んだ和都の顔が斜めにズレている。どうして割れたのだろうか、と和都がまじまじと覗き込んでいると、不意にズレているほうの自分の顔が、目を細め、口角を上げ、ニヤリと笑った。
「え」
不意に鏡のくっついている背面から出てきた黒いモヤに鏡全体が包まれていく。その中央から突如、爪の長い大きな手が和都の顔を掴むように飛び出してきて、
「相模!」
驚いたまま動けない和都を、仁科がすんでのところで抱えて避けた。が、長い爪は躱しきれず、仁科の頬が短く切れる。
「先生、血がっ」
「たいしたことないよ」
黒煙のようなモヤに包まれた鏡から、何か声が聞こえてきた。
〔めだま、めだま……。綺麗なめだま〕
声に合わせるように、手首まで出ていた青白い巨大な手はぐんぐん伸びてきて、肘、二の腕と見えてくる。しかしその、手首から肘の前腕と肘から肩までの二の腕の長さが異様に長く、まるで蛇のようだ。
〔よこせ、よこせ。美味そうだ!〕
金属を叩くような、女の甲高い声が頭に響く。
「お前の『狛犬の目』に釣られて出てきたみたいだな」
「うん……」
和都のほうを見ると、青い顔で頭を押さえ、異様なまでに震えていた。仁科はそちらも気になったが、ともあれ鏡から出てきたアレをなんとかするのが先だ。
「おいハク、いるんだろう?」
仁科が空中に問いかけると、何もない空間から不意に白い渦が現れて大きくなり、
〔もっちろーん!〕
飛び抜けて明るい少年のような声が響いて、白くて半透明な首だけの犬・ハクが現れた。普段は姿を隠しているが、呼びかけるとこうして視えるカタチで出てきてくれる。
「あれ、食えたりしない?」
〔なにこれ、不味そう!〕
仁科が指差した鏡の中から生えた手を見て、ハクが困ったように眉を顰めた。
「そう言うなよ」
〔ま、ぜーんぜん食えるけどね!〕
そう言うと、ハクはいつもの何倍にも膨れ上がったように大きくなり、巨大な牙を剥き出しにして口を開く。そうしてそのまま、腕の生えた鏡ごと、その壁にめり込むようにして食べた。
もちろんハクも、鏡から生えた腕も、お化けの類だ。風や振動は起きても、物理的に何かが壊れるわけではない。
ハクが元のサイズに戻りながら壁から離れると、そこにはただの割れた鏡があるだけだった。
〔はい、おーしまい!〕
「ありがとう、ハク」
〔カズトのためだからね!〕
ホッとした顔で和都が自慢げなハクに手を伸ばす。いつもなら空中をきるだけの指先が、ふかふかした鼻先に触れた。
「あ、触れる」
大きな動物に触れているような、ほんのりと熱を感じる感触。和都はそのまま黒い鼻とその周辺を指先で優しく掻いてやった。
〔うふふ、くすぐったぁい〕
ハクがふにゃふにゃと嬉しそうに笑う。
「ほー。そこそこチカラがついてきたみたいだな」
和都の隣に立つ仁科も一緒にハクの鼻先を撫でる。実体化しているわけではないので普通の人には視えるはずもないが、霊力のある者ならば触れるようだ。
「……先生のおかげだね」
「たいしたことしてないけどね」
仁科はそう言って、今度は和都の頭を撫でた。
それからじぃっと和都のほうを見て、
「とりあえず、キスでもしとく?」
「学校ですんなって言ったよね?」
「はいはい」
和都が睨みながら手を払い除けたので、仁科は笑って落ちていたバインダーを拾う。
「ひとまずチェックは終わったし、戻ろうか」
◇
空の端が少しオレンジ色を帯びてきた頃、和都と仁科は保健室に戻ってきた。
「あ、そうだ。手当てしないと」
和都が思い出したようにそう言って、仁科の顔を見た。
「たいしたことないよ?」
「でも、一応、さ」
切ったと言っても少し掠ったくらいで、血も軽く出た程度。痛みもなければ、すでに出血も止まっているのだが、和都があまりに心配そうな顔をするので、仁科が折れることにした。
「……じゃあ、してくれる?」
「うん」
軽く消毒して、一番小さい絆創膏を貼る。貼らなくてもいいレベルの傷だが、やはり和都が気にするので貼らせることにした。
それにしても、プールから戻って来る時からそうだったが、手当てをしている最中も、そして今も、和都の顔はどこか浮かない。
「なんか元気ないね。そんなに怖かった?」
「……声が。今朝の夢、思い出しちゃって」
鏡の中から響いてきた、金属を叩き擦るようなあの声は、今朝の夢に出てきた女性の声によほどそっくりだったらしい。
「あぁ。嫌な感じの夢だったもんな」
言われて仁科は早朝に届いた夢のメモ書きを思い出す。
男女が言い争い、女性が甲高い声で叫んでいたらしいので、あまり良い印象はない。
「……女の人の、怒ってる時の声が一番苦手なんだよね」
まだ少し、和都の顔色はすぐれない。
「菅原たち終わるまで、横になってていいよ」
そう言うと、仁科は一番手前のベッドを囲む、ベッドカーテンを半分だけ引いた。
「でも、まだ作業……」
「残りはたいした作業じゃないから、休んでなさい」
浮かない表情のままの和都から、プールのチェック用に使ったバインダーを取り上げる。実際問題、残りの作業は必要な備品や修繕品をまとめるくらいで、たいしたものではないのだ。
「……何しにきてるか分かんないじゃん」
口を尖らせた和都が反論する。
今日はなんだかどうにも、往生際が悪い。
「大人しく横にならないと、また押し倒すよ?」
「……変態教師」
「なんだ? 押し倒されたかったの、お前」
「あーもー。……分かったよ」
威圧するように近づくと、和都はようやく観念し、しぶしぶと言わんばかりにベッドへ上がった。そのまま仰向けで横たわり、天井を見つめたまま息をつく。
「……なんか、続きをみたらさ」
やはり疲弊していたのか、横になった途端に和都の声が少しぼんやりとし始めた。
「ん?」
「夢の続き」
「うん」
「怖いこと起きそうで、嫌なんだよね」
仁科が横になった和都の顔を覗き込むと、目を閉じてあっさり眠り始めている。
「手でも握っててやろうか?」
頭を撫でながら、仁科が冗談めかして言ってみた。
「……うん」
「え?」
小さな返事と共に、ぐんと下から引っ張られる感覚。
そちらを見ると、
「……マジか」
寝息を立て始めた和都は、目を閉じたままその手に白衣の裾を掴んでいた。
夜。参道が暗い。
言い争う声が聞こえる。
胸がザワザワする。大丈夫かな?
急に声が消えた。
どうしたの? どうしたの?
やや遅れて叫び声。
気になって、拝殿のほうへ向かう。
錆びたような、嫌なにおいがする。
そして目の前に広がったのは、赤色。
赤。
赤。
夥しい鮮やかな、赤。
血の色。
真っ赤に広がる水たまりの中に、人が倒れている。
その顔は、
「……あああっ!」
ベッドカーテンを閉じた内側から、和都の悲鳴が聞こえた。
「ん、大丈夫か?」
談話テーブルで作業の続きをしていた仁科は、急いでベッドに駆け寄り、カーテンを開ける。
ベッドの上では、身体を起こした和都が青い顔で、呼吸荒く肩を上下させていた。見開いた目からは、ボロボロと涙を溢していて、その目はいつかの神社で見た時のように、綺麗な金色に光っている。
「……あ、あ」
何か話そうと懸命に口を動かしているが、動揺のせいか震えて上手くできていない。
「嫌な夢だった? ……大丈夫だよ」
仁科はそっと近寄ると、止まらない涙を指で軽く拭い、そのまま和都の頭を肩に押し当てるように抱きしめた。
「……は、拝殿の前が、真っ赤、で」
「真っ赤?」
「たぶん、血」
「……そうか」
「あの人、倒れてて……」
和都のいう『あの人』とは、名前の分からない、生前のバクが慕っていた宮司のことだろうか。
優しく背中をさする。
けれど、小さな肩の震えも、涙も、止まる気配はない。
「どうしよう、助けないと」
「それは過去の記憶だ。今起きてることじゃない」
あまりに鮮明な記憶のせいか、意識ごと当時に戻ってしまったようで、混乱しているらしい。
「落ち着いて。ここは学校。お前は人間」
「あぁ……。そう、そうだよね……」
「大丈夫。今は誰も死んでないよ」
「うん、うん……」
ゆっくり現状を伝えて、和都としての意識を取り戻す。
呼吸が落ち着いてくると、金色に光っていた目の色もいつもの黒い瞳に戻っていた。
「……落ち着いたか?」
「うん……」
和都は言われてようやく、自分で呼吸ができた気がした。
大きな腕に抱きしめられたまま、同じく大きな手が頭を撫でてきて、それから額に唇が触れる。
それで安心するようになってしまったのが、少し悔しい。
「なんか、混乱しちゃって……」
「気にするな」
手の甲で頬に流れた涙を吹いていると、身体を離した仁科がタオルを渡してくれた。
それを受け取って顔を拭いていた和都は、仁科の姿に少し違和感を覚えて。
「……あれ、先生。白衣は?」
「ん? いや、ほら……」
そう言って仁科が自分を指差す。言われて自分の身体に視線を向けると、仁科の白衣が身体に掛かっていた。
寝落ちる直前、白衣を掴んだような気がしたが、本当に掴んでいたらしい。多分、掴んだまま離さなかったので、仁科は脱いで自分に掛けたのだろう。
「……あ。すみません」
「どういたしまして」
和都が申し訳なさそうに白衣を手渡すと、仁科は小さく笑って受け取った。
◇
「なんか食ってこーぜ」
部活の終わった菅原・小坂と一緒の帰り道。途中にあるコンビニでホットスナックやおにぎりを買ったものの、同じような空腹の男子高校生達でコンビニ周りのベンチは空いていなかった。
「相模の家の近くに、公園なかったっけ?」
「あるけど、遠回りにならない?」
「いいよいいよ」
そう言って、いつもは別れる十字路を同じ方向に進み、和都の家の近くにある公園に着いた。予想通り、散歩の人が通る程度で殆ど人はおらず、3人はベンチに座って食べ始める。
「なかなか広い公園だなぁ」
すべり台にブランコ、ジャングルジムの他、多種多様な遊具が置いてあり、見える範囲だけでも随分な広さだ。
「学校終わりとか休みの日とか、結構たくさん人いるよ。小中学生が多いかな」
「へぇ。こんだけ色々ありゃ人気もありそうだよな」
「あ、バスケのゴールあんじゃん!」
そう言って食べ終わった小坂がボールを持ち出し、公園の少し奥のほうへ駆けていく。奥まった辺りに、バスケットボールのゴールが1つだけ設置されていたのを目敏く見つけたらしい。
空がオレンジから紺色に変わりそうな時間だと言うのに、小坂はゴール目掛けてシュート練習などを始めた。
「部活の後なのに、飽きないやつだなぁ」
「うちの近所だとゴール立ててる公園、ねーんだよ」
何度か投げているうちに、ボールがゴールリングに跳ね返されて飛んでいく。ちょうどそれを、ゴールの近くまで荷物と一緒に移動してきた和都が捕まえた。
「お。食い終わった?」
「うん」
「じゃーこい、相模!」
「ええ。しょうがないなぁ」
和都はそう言いながら、両手で持っていたボールを片手でつき始め、ドリブルしながら小坂の方へ向かっていく。
小坂がボールに向かって手を伸ばすのを、身体を捻って躱す。そのままゴール下まで駆けていくと、軽やかにジャンプしてボールをゴールリングの上に乗せるように放って、綺麗に得点した。
「くっそ!」
小坂は悔しそうに言いつつ、嬉しそうに笑って、跳ねていったボールを捕まえる。次は小坂が得点のために攻めて来るが、
「もーらい!」
和都は腰を極端に低く落としながら、小坂の脇をすり抜けるようにしてボールを拐っていく。
「げっ」
そのままスリーポイントラインまで戻ると、その場でジャンプしてゴール目掛けてボールを放る。ボールは綺麗な放物線を描いて、リングに吸い込まれていった。
「よし、入ったぁ」
「マジでお前なんなんだよ! バスケ部入れよコノヤロウ!」
「そんなこと言われてもなぁ」
和都にブチ切れながら、小坂がボールを追いかけていく。
そこへようやく食べ終わった菅原が、捕まえたボールを相模に向かって投げ、
「よし。じゃあ、2対1!」
「なんで現役バスケ部が2人なんだよ」
「うるせぇ、ハイパー帰宅部」
「そーだそーだ、陸上部泣かせ」
「なんだそれ」
ぎゃあぎゃあ言い合いながら、3人でボールを取り合い始める。
気付けばオレンジ色の夕焼けも終わり、すっかり暗くなっていた。公園をぐるりと囲むように立っている街灯が眩しい。
3人とも汗だくになって笑っていると、
「和都!」
公園の外から、女性の叫ぶような呼び声が聞こえてきた。
そちらをみれば、公園の入り口にスーツ姿の女性が立っている。
「……あ、母さん」
「何してるの! 早く家に入りなさい!」
女性の甲高い大声に、肩で息をしていた和都の顔から、すっと火が消えたように感情が消える。
笑っているけれど無表情に近い、まるで人形のようなものになった。
「……ごめん、帰るね」
それだけ言うと、鞄を置いてあったベンチに走って向かう。
「おー、じゃあな」
小坂が声を掛けたが、和都は振り向くこともなく、母親のほうへ行ってしまった。
「早くしなさい!」
「はーい」
和都と母親が薄闇に溶けるように去っていく。
公園に残された菅原と小坂は、2人が居なくなった先を見つめたまま、しばらく間をおいて。
「……あれが、相模母かぁ」
「初めて見た」
「ガン無視されたな」
自分の子どもが友人と一緒にいるのなら、普通こちらにも声を掛けるものではないだろうか。それどころかこちらを全く見向きもせず、まるで和都しか見えていないようだった。
「……相模の女嫌いって、原因アレかな」
「思った」
「春日も知ってんのかな」
「そりゃ知ってるでしょ」
母親を見た瞬間の和都の表情が、一瞬怯えているように見えたのが気になった。
「アイツの周り、本当に敵ばっかなんだな」
「……だから、春日が頑張っちゃうんだろ」
束縛する両親に、信用のできない教師、言い寄って来る先輩に後輩。もしかしたら同級生にだっているかもしれない。
春日が常に気を配っている理由が分かった気がする。
「……よし、帰るか」
「おぅ」
そう言って、2人は公園を後にした。
「どうして家の中にいないの!」
母親と共に自宅に戻り、玄関を閉めた途端、家の中で大きな声が響いた。
玄関を背にしたまま、靴を履いたまま、向かい合う母親の甲高い声で耳が痛い。
「帰ってきたらちゃんと家で大人しくしていなさいって、言ったでしょう!!」
「委員の仕事で遅くなったんだよ」
今日はちゃんと、嘘ではない。
遅くなって、友達と少し寄り道をした。
それだけだ。
「またなの? もう委員の仕事なんて断りなさい」
「いや、それは無理だし」
「それなら、学校側に抗議します」
母親のこれは、脅しではない。
中学でも何度も同じようなことをやられて、先生や生徒からは余計に白い目で見られた。
「恥ずかしいからやめてよ。……これからは、気を付けるから」
面倒なことになってしまう。
仁科にも余計な迷惑をかけてしまう。それは、避けたい。
「……さっき一緒にいた、あの子たちは誰なの?」
大袈裟なため息の後、母親が腕を組んでそう聞いた。全く見向きもしていなかったが、ちゃんと気付いてはいたらしい。
「同じクラスで同じ班の子達。だから、大丈夫」
「そう簡単に判断しないで! 春日くん以外大丈夫だったことないじゃない」
「……そんなことないよ」
確かにこれまでも、春日以外の友人と思っていた相手に何かされそうになったことはある。でも、全員が全員そうではない。けれど、母親は大丈夫だった友人のことが、春日以外だと記憶にないらしい。
「お願いだから、家で大人しくしててちょうだい。貴方が人と関わると不幸なことしか起きないって、分かってるでしょう!」
母親の言葉に、和都はぐっと唇を噛んで俯く。
正しい。
この人の言葉は、正しい。
事実だったから、正しい。
「……ごめんなさい」
「まったく……。卒業するまでに大きな問題起こさないでちょうだいよ」
「……はい」
理不尽な正しい言葉に謝罪して、受け入れて、ようやく解放される。
鞄を持って2階に上がろうとしたところで、
「ああ、夕飯は?」
「もう食べたから、平気」
思い出したように、面倒くさそうに聞かれて、和都は答えた。買い食いして小腹を満たした程度だが、不機嫌な人と食事をとるより、空腹に耐えるほうがまだマシである。
「そう。もうすぐお父さんも帰ってくるから、早く部屋に戻って寝なさい」
「うん。すぐお風呂入って寝るね」
部屋に戻ると、和都は鞄をその辺りに放って、そのままベッドに倒れ込んだ。
「失敗したなぁ……」
もう少し帰ってくるのは遅いと思っていたのに。迂闊だった。
2人には嫌な思いをさせてしまったかもしれない。
〔大丈夫? カズト〕
「ハク。……うん、いつものことだよ」
渦を巻いて現れたハクが、心配そうな顔で寄り添ってくれる。
魂が繋がっているので、ハクには今の自分の複雑な感情が流れてしまっているのだろう。
〔ボクがそばにいるからね!〕
「ありがとう」
そう言って、和都はすり寄ってきたハクの鼻先を撫でた。触れられるようになってほんのり感じる暖かさに、少しだけ慰められた気がする。
「早く大人になりたいなぁ……」
仰向けになって天井を見上げる。中学からずっと見続けた、変わりばえのしない、少し高いけれど狭い天井。飛び立つことのできない、小さな部屋。
中学の時はずっと、さっさと死んでしまえばいいと思っていたけれど、高校という大人に近い年齢になって、大人になってしまえば自由になれるかもしれない、と淡い希望を持つようになった。
「……そしたら、この家から出て行ってあげられるのに」
〔大丈夫だよ、カズト〕
ハクが上から覗き込むようにこちらを見た。
〔ボクが、大丈夫にしてあげるから!〕
ニコニコと笑い、尻尾でもあればブンブンと勢いよく振っていそうな顔でハクが言う。
「……ハクが守ってくれるの?」
〔うん! ずぅっと守ってあげるよ!〕
今日もハクは鏡から出てきたお化けを食べてくれた。
ハクならずっと一緒にいて、本当に守ってくれるような気がする。
「この家を出られたら、あっちこっち行ってみたいなぁ」
〔あー、いいねぇ!〕
誰にも邪魔されず、自由に、見たことのない世界を見たい。
本の中でしか知らない場所に行ってみたい。
瞼が重くなる。
視界が徐々に暗くなって、ゆっくり眠りに落ちていく。
〔ボクがちゃあんと、自由にしてあげるからね、カズト〕
不意に開いた和都の瞳は、金色に光っていた。
「──もう少し、だな」
〔うん。もう少しだね〕
「……ああ」




