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10)段裏下の攻防

〈次は、選抜選手による、綱引きです〉



 6月某日、快晴。狛杜高等学校の体育祭当日。

 放送委員のアナウンスを聞きながら、選抜100メートル走の出番を終えた和都は、救護テントの方へ向かっていた。

 狛杜高校の一番広いグラウンドの楕円形トラックを囲むように、校舎側には教職員たちのいる運営本部や救護テント、その反対に赤組と白組に分かれた生徒達の応援席のテントが並んでいる。競技終了後の退場ゲートから救護テントはそこまで離れていないのだが、テントのない場所は保護者の観覧エリアになっており、人をかきわけながら進むので時間がかかってしまった。

 体育祭における保健委員の仕事は、救護テントでの養護教諭のサポートが主だ。もちろん、生徒は競技に出場するので、出場種目に応じて当番制になっている。

 いつも以上に人の多い状況に、これまでなら人酔いならぬ『お化け酔い』になっているはずだが、そういった気配を全く感じない。もちろん悪意のある人でないものはチラホラと視えているが、今までのように気持ち悪くはならない。

「2年相模、戻りましたー」

 そう言いながら救護テントに入ると、パイプ椅子にのんびりと腰掛けていた仁科が気付いてこちらを見た。

「おー、お疲れさん。相変わらず速かったねぇ」

 仁科から『救護班』と書かれた白地に赤文字の腕章を受け取り、グレーのジャージの袖を通す。

「へへー。陸上部抜いてやった!」

「……陸上部も可哀想に」

 自慢げに話す和都に、帰宅部に負けたと言われていないか、仁科は陸上部の心配をしてしまう。そんな話をしていると、当番でテントに入っていた赤紫のジャージを着た1年生達が駆け寄ってきた。

「相模先輩すごいですね!」

「めちゃくちゃ速かった!」

 競技が始まるまで和都の足の速さを疑っていた後輩達は、尊敬の眼差しで「すごいすごい」と絶賛する。

 そこへ同じ2年の岸田が、当番のために応援席からやってきて、

「お疲れ、相模。相変わらずはえぇなーくそー」

「あはは、ありがと!」

 岸田は4組なので和都とは反対の赤組なのだが、悔しそうにしつつも笑っていた。

「相模はあと、何出るんだっけ?」

「え? 午前はあと騎馬戦だけだけど、午後から学年のと障害物と、あと最後のリレーにも出るよ」

「相変わらず多いなー」

 和都が指を折り数えながら言うと、岸田が呆れたような声を出す。

「集合のタイミング、気をつけろよー」

「わかってまーす」

 パイプ椅子に座ったままグラウンドの方を眺めている仁科に、和都はしっかりと返事をした。

 梅雨入りしたわりにしっかり晴れ、気温もちょうどいい体育祭日和だ。

 のんびり競技を楽しめるかと思えば、その後すぐに始まった選抜綱引きで、接戦の末にかなりの人数が盛大に引きずられるアクシデントが発生。擦り傷を作った負傷者が続出し、救護テントは俄かに忙しくなる。

 残っていた1年生達も手伝って、ケガをした生徒の傷口の洗浄や消毒、手当てに奔走。

「洗浄と消毒まだの人ー」

 呼びかけながら、和都は手当ての遅れがないか救護テントの周りを見て回っていると、

「和都、こっち」

 よく知った声に呼ばれて振り返ると、選抜綱引きに出ていた春日が、彼と同じくらい大柄の生徒に肩を貸しながら、ゆっくり近寄って来るところだった。緑のジャージを着ているその3年生は、右側面を真っ黒に汚している。

「うわっ、大丈夫ですか」

「後ろの方だったから結構酷くて」

「りょーかい」

 救護テントの隅にその3年生を座らせ、上から下までがっつり汚れているジャージをめくり、岸田に手伝ってもらいながら擦り傷を水で洗った。

「ユースケは? 平気?」

「あぁ、俺は大丈夫」

 そう答える春日の顔を見上げると、頬の辺りが土で汚れているようだったので、持っていたタオルで拭くだけ拭いてやる。だが、傷のようなものは見えなかった。

「……ケガじゃなかったか」

「汚れただけだ」

 何かしらの事故に巻き込まれても、春日は昔から1人だけケガもなく無事なことが多い。やたら悪運が強いのか、無駄に頑丈なのかどちらだろう、と和都は時々考える。

「じゃあおれ、暫くこっちいるから。騎馬戦の時にね」

「ああ」

 春日が応援席のほうへ向かうのを見送って、和都はケガをした生徒の手当てに戻った。



〈これより、お昼休憩に入ります。生徒及び保護者の皆様は、プログラムにあります所定の休憩エリアをご利用ください〉



 体育祭のお昼休憩では、本校舎内の教室と屋上が解放される関係で、養護教諭は保健室でお昼をとることになっている。

 本校舎周辺や校舎内の上の階は、生徒や保護者で騒がしいのだが、休憩エリアではない1階にある保健室は随分静かだ。

 支給されたお弁当を食べ終えて、仁科が1人のんびりと食後のコーヒーを飲んでいると、コンコン、と扉をノックする音がした。

「どうぞー」

「失礼しまーす」

 ガラガラと引き戸を開けて入ってきたのは、和都だった。

「よかった。先生いたぁ」

「あれ、相模。どうした?」

「……ごめん、休憩させて」

 そう言いながら、ふらふらとよく使っている一番手前のベッドに近づいていき、そのまま寝転んだ。

「なんだ、お疲れか?」

「んー、それもあるけど」

 仁科がとりあえずベッドカーテンを半分だけ閉め、ベッドの脇に椅子を置いて座る。和都が顔をこちらに向けたので、額に手のひらを当ててみるが、熱はなさそうだ。

「人、多すぎて」

「あー、人酔いした?」

「……そんな感じ、かも」

 普段から引きこもっているうえ、これまでは人の集まる場所にいるだけで『いやなもの』が原因でその場を去っていたから知らなかった。どうやら自分は、人が多い場所は基本的に苦手らしい。

「具合悪いなら、親御さんにも言っといたほうがいいんだけど」

「来るわけないでしょ」

「そうよねぇ」

 高校にもなると、体育祭を見にこない保護者も多くいる。いても3年生の保護者であることが殆どだ。普段から和都をそのままに土日も仕事で家を空けている両親が来るはずがない。

「……お前んち、しかるべきとこに相談した方がいいやつ?」

 ここ2ヶ月ほどの様子を見ていて、仁科も流石に気になっていた。平日も休日も、特別な理由なく未成年が一軒家にほぼ1人きりというのは、良い環境とは思えない。

「あー。……そういうんじゃないから」

「本当に?」

 仁科のいつもと違って真面目な表情に、和都は先生が何を考えているのかが分かってしまった。

「……おれんち、父さんが亡くなってて、再婚なんだよね。小学校までは『神谷』って苗字だった。そんで中学あがる時に『相模』になって、今の家に越してきたんだ」

「あれ、そうだったの?」

「うん。中学ん時は、2人とも行事とかわりとちゃんと来てくれてたんだよ。でも、おれとずっと一緒にいると、みんなオカシクなっていっちゃうから……」

 仁科に向けていた視線を、見慣れた天井に変える。

「ほら『狛犬の目』の話、したでしょ。あれのせいらしいんだけど、おれと一緒にいると、執着の仕方が酷くなっちゃうの」

「……惹き寄せるだけじゃなくて?」

「そうみたい。まぁそのせいで、問題ばっか起きて、母さんも今の父さんも怖がるようになって」

「怖がる? 何に」

「おれ自身に。あと、自分たちもそうなるかもって。だから、仕事だって言って、なるべく家に居ないようにしてくれてるんだよ」

 和都はゆっくり目を閉じた。

 それは、2人なりに考えてくれた、おかしくなりそうな自分たちから子どもを守るための回避方法。誰も悪くはない。悪いのは自分だけで。

「2人が悪いわけじゃ、ないから」

「そうか」

 仁科は少し考えた顔をしながら、ベッドに横になったままの和都の頭に手を伸ばし、ゆっくり撫でた。

「……その『狛犬の目』のチカラってさ」

「ん?」

「波長が合う人間には、効かないんだよな?」

「うん。ハクはそう言ってたよ。だから先生とかユースケとかは、大丈夫って」

 そう。仁科に『狛犬の目』は、効かない。

 なのに、仁科の自分への接し方がエスカレートしていないか、ということを聞くのは、少し迷う。

「なに?」

 気付いたら、ジッと見つめてしまっていて、仁科が首を傾げながら、頭を撫でていた手を離す。

「……なんでもない」

 聞いていいことなのか、まだ分からなくて、和都は仁科に背を向けた。



〈次は、1年生による学年種目、玉入れです〉



 お昼休憩明けの応援合戦、そして2年生の学年種目の後に行われた、3年生の学年種目『組体操』が終わった後の救護テントは、ケガ人で溢れていた。

「……俺は、組体操なんていう文化は、早々に消滅したほうがいいと思ってるんだけどね」

「先生、愚痴ってないで仕事して!」

「はーい」

 以前よりある程度見直され、危険性を減らした競技種目になったとはいえ、思った通りにケガ人が多く出てしまった。そのため、2年の保健委員全員がテント内で手当てに動き回っている。

 主に落下による打ち身や捻挫が多く、冷やすために持ち込んでいた冷却枕や保冷剤があっという間に無くなっていく。

「あれ、もう保冷剤なくなるじゃん」

 保管用の保冷バッグを覗き込んだ仁科が、呆れたように言う。午後の分として多めに置いていた保冷剤がほぼないのだ。

 仁科は仕方ない、と息をついて、

「相模、保健室にある予備の分、持ってきてくれる?」

「わかったー」

 和都は保健室の鍵を受け取ると、本校舎西側の端の方へ向かって走り出す。救護テントは保健室のある本校舎の東寄りにあるのだが、防犯の関係から西側通用口しか鍵が開いていないのだ。

 人の隙間を縫うように走り抜け、西側通用口にたどり着く。そこで外履きを脱ぐと、今度は反対の端へ向かって廊下をまっすぐ走った。仁科から預かった鍵を使って保健室に入ると、冷凍庫で冷やしておいた予備の保冷剤を、用意した保冷バッグに詰めていく。

「……冷やしといたほうが、いいよな?」

 午後の部はまだ前半戦。後半には選抜棒倒しや教職員リレーなど、ケガ人の増えそうなプログラムが控えている。ケガ人は出ないほうがいいに決まっているが、出てしまった場合に対応できるようにしておくべきだろう。

 和都は隙間の空いた冷凍庫に、追加で用意しておいた保冷剤をいくつか放り込んで、保健室を後にした。

 誰もいない静かな校舎内。

 外から聞こえる歓声を聞きながら、保冷バッグを持って足早に進んだ。靴下だけの足音は、廊下の上でペタペタと軽やかに反響する。

 本校舎の真ん中あたり。

 中央階段を通りすぎた時に違和感があった。

「……ん?」

 通り過ぎてから視界の横に何かを見た気がして、少しだけ後ろに戻る。

 中央階段。

 校長室と事務室の間にあって、主に職員が使用する。

 1階から上に伸びる階段があって、踊り場があって、その先は2階に繋がる、その裏。所謂、段裏と呼ばれる箇所から、スゥーっと1本ロープが下がっていて、その先端に、人がぶら下がっていた。

「え?」

 半透明の、人間。幽霊、だ。

 後頭部と背中は視えるが、顔は分からない。

 真下は教職員用の中央出入口と、ゴミの集積場所があるのだが、それよりも高い位置に、いる。

 どう見ても首を吊った状態のそれが、ゆらゆらと揺れながら、ゆっくりゆっくり、こちらを向こうとしていた。

 顔を視たら、よくない気がする。

 和都はハッと我に返ると、西側の通用口に向かおうと再び走り始めた。が、

「何してるの?」

 通用口の方から、小豆色のジャージを着た人物がこちらに向かって歩いて来るところだった。

「……堂島、先生」

 思わず足が止まる。

 堂島の目の色は普段通りの黒色で、表情もいつもの授業の時のように穏やかなままだ。

「相模くん、何か視えたのかい?」

「いえ、その……なんでもないです。気のせいでした」

「本当に?」

「はい。あの、すみません。急いでるんで」

 堂島の脇をすり抜けて通用口へ向かおうとするが、

「邪険にされちゃうのは悲しいなぁ」

 壁に向かって腕が伸びてきて、通り道を塞がれる。

 離れようと後退りしていたら、事務室と放送室の間の壁に追い込まれてしまっていた。

「そんなこと、ないですよ」

「そうかなぁ?」

 身体が近い。大きな手が伸びてきて、頬を撫でた。

 背筋がぞくりと粟立つのが分かる。

「仁科と同じくらいには、仲良くなりたいんだけどなぁ?」

 ゆっくり近づいてきた顔のその目が、赤く光っているように見えた。

 ──……『鬼』。

 身体が強張る。

 保冷バックの持ち手を握っていた手のひらが、緊張で滲んだ汗でベタつく。

「あの、本当に急いでるんで」

 震える声で、なんとか頬に伸びた手をやんわり押し除けたのだが、その手首を大きな手にぐっと掴まれた。

「細いねぇ、腕」

 ゴツゴツして節の大きな手が、和都の手首を握ったままぎゅうっと力を込める。

「……いたっ」

 そもそもの体格差が違いすぎる。力で敵うような相手ではない。

 ──どうしよう。

 ハクを呼ぶべきだろうか? 校舎内なので人目はないが、騒ぎになったらそれはそれで面倒だ。

 どうにかして現状から逃げる術はないかと考えを巡らせていると、

「あ、相模ー!」

 通用口のほうから知った声がこちらを呼ぶ。驚いて声のするほうに視線を向けると、遠目に春日と菅原が見えた。

 声に気を取られたのか、腕を掴む手の力がふっと緩んで、

「呼ばれてるんで、失礼します」

 掴まれていた腕を振り払うと、和都は逃げるように通用口に向かって駆け出した。

 通用口にたどり着き、待っていた2人の顔を見て内心ホッとする。

「何してたんだよ」

「んー、ちょっとね……」

 菅原の質問に、外履きを履きながら和都は言葉を濁す。説明するにしても、この状況はなかなか難しい。

 春日がふと廊下の方へ視線を戻すと、小豆色のジャージを着た人影は居なくなっていた。

「あー、それより相模。次の障害物の招集始まってるぞ」

「え、そんな時間? これ先生んとこ持っていかないとなのに」

 クラスの招集係でもある菅原にそう言われてしまい、和都は頼まれていた保冷剤の入ったバッグを見つめる。いつの間にかだいぶ時間が経っていたようだ。

「俺が持ってく。鍵も渡しておくから」

 出番があるわけではないのに、菅原と一緒に自分を探し回っていたらしい春日が手を差し出すので、和都は保冷バッグと保健室の鍵をその手に預けた。

「ごめんユースケ、頼んだ!」

「よし、行くぞ相模」

「うん!」

 菅原と和都が集合場所に向かって走っていくのを見送って、春日は預かった保冷バッグを持ち直すと、足早に救護テントへ向かう。

 救護テントでは、その場から移動できない仁科が落ちつかない様子で待っていた。

「先生」

「ああ、春日。相模いた?」

「はい」

 普段通りの春日の様子に、仁科は少しホッとする。

「集合の時間になったんで、代わりに持ってきました」

「助かる。ありがとね」

 春日から保冷バッグと保健室の鍵を受け取って、仁科はやれやれと息をついた。

 つい普段のように和都に頼み事をしてしまったばっかりに、1人きりの時間を作ってしまった。立場上、そう簡単に動けないので、探しに行くこともできず、春日と菅原が探しに行くと言ってくれた時は正直助かった。

「あの、先生……」

「ん?」

「さっき、探しにきた時『マズいな』って言ってましたよね。何だったんですか?」

 何かしらを窺う顔で、春日がこちらを見ていた。どうやら自分が動揺していたことに気付いていたらしい。

「……あら、そうだった?」

「何か、知ってるんですか?」

「何を?」

「……言えないなら、いいです」

 春日が息をついて、救護テントから去っていく。

 きっと、和都を探している過程で何かしら見たのだろう。加えて、自分の様子もあった上での質問だというのは分かる。だが、

 ──ごめんな、春日。

 和都が春日に言えないことを、大人が勝手に言うわけにはいかない。これはきっと、和都自身が春日に直接話すべきことだ。

 大人が子ども同士の友情に、口を出してはいけない。



〈これにて、狛杜高等学校の体育祭を、終了いたします〉



 無事に体育祭も終了し、殆どの生徒がいなくなった昇降口で、春日と菅原と小坂の3人が、保健委員の仕事がまだ残っているという和都を待つために残っていた。

 空は綺麗な水色とピンクのグラデーションを描いていて、オレンジ色の夕焼けが迫っている。

「なぁ、春日」

 グレーのジャージ姿のまま、昇降口の小さい階段に腰掛けた菅原が、空を見上げたまま春日に声を掛けた。

「ん?」

「今日、相模を呼びに行った時のアレってさ、実は何気に危なかったんじゃねぇの?」

「……あぁ、そうだな」

 2人の様子に、小坂は自転車置き場から移動させてきた自転車に跨ったまま、不思議な顔で2人を交互に見た。

「え、なんかあったの?」

「……堂島せんせーに、なんか、腕掴まれててさー」

「げ、マジで」

「そういや堂島せんせー、相模のことやたら色々聞いてきてたよなぁ。あー、そういうことかぁ」

 菅原が両手で頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、うなだれる。

 これまで先輩や後輩といった生徒から、というのは見てきたが、先生からというのは初めて見てしまった。

「話には聞いてたけど、実際見ちゃうと、ちょっとショックだな」

「川野からも、似たようなことがあったらしいぞ」

「マジか」

 小坂も分かりやすく引いていた。

「アイツはなに? 年上キラーとか、魔性の人とか、そんなんなの?」

「……まぁ、以前から年齢性別関係なくあることだ。危なかったことも何度かある」

「うへぇ……」

 春日の普段通りの様子に、菅原は息を吐いた。あの時、和都が困ったような青い顔で言葉を濁していたのも、よくあることだからなのかと思うとやるせない。

「じゃあ仁科は? 最近、放課後もよく一緒にいるじゃん」

 小坂に言われて、菅原は少し考える。

「んー。仁科は大丈夫だと思いたいなぁ。相模も嫌そうな顔してないし。保健委員だからってめっちゃこき使われてて、たまにキレてるけど」

 最近ではアンケートの集計作業で居残っていた時、仁科や先輩が仕事をしないのだと一緒の帰り道で愚痴っていた。

 その様子を見る限り、文句はあれど堂島相手のように怯えている雰囲気はなかった。

「……仁科、多分堂島と川野が和都を狙ってること、知ってるっぽいんだよな」

 救護テントでの仁科の様子が春日は気になっていた。今日の件については何か思い当たる節がありそうな顔をしていたし、以前川野に追いかけられた時に和都の逃げ込んだ先が保健室であったなら、事情を知っていてもおかしくはない。

 それをこちらに伝えないということは、何か言えない理由があるのだろう、というのまでは分かるのだが。

「まぁ、相模としょっちゅう一緒にいるなら、相談くらいは受けてんじゃねーの? でも、いくらお前相手だからって、相模に無断で言えないっしょ」

「……まぁ、それもそうか」

 菅原に言われて、春日も少し冷静になった。

 仁科の立場を考えたら、生徒から受けた相談というプライバシーを、勝手に他人に話せるわけがない。

「アイツ、なるべく1人にならないようにしてやろうよ。……おれもチビだから分かるけど、デカいヤツはやっぱこえーよ」

 珍しく小坂が沈んだ声で言った。和都と同じくらいに背が低いからこそ、自分より30センチ近く大きな人間から、他意を持って見下ろされた時の恐怖はなんとなく想像できてしまう。

「んだよなー。春日だけじゃ大変だろ。オレらもできる範囲で手伝うぞ」

「……正直、助かる」

 菅原と小坂の提案に、春日も少しホッとした顔をした。中学の時ほどトラブルは起きていないが、自分の生活の変化もあり、どうしても1人では対応しきれていない。

 彼の味方は、きっと多いほうがいいだろう。

 そんな話をしていると、ぞろぞろと保健委員の生徒達が昇降口にやってきた。どうやら保健委員の活動が終わったらしい。

 しかし、その中に和都の姿が見当たらないので、下駄箱で靴に履き替えている中の見知った顔を見つけて、小坂が呼びかけた。

「岸田ー、相模は?」

「あー、なんか先生に呼ばれて戻ってたぞ」

 岸田はそう返すと、じゃーなーと校門の方へ向かってしまう。他の保健委員達もぞろぞろと帰路へつき始め、殆どの生徒がいなくなった。

「えー、何やってんだ、アイツ」

「……ちょっと、見てくる」

 春日はそう言って外履きを脱いで校内に入ると、靴下のまま廊下を歩いていった。





「はい、じゃー今日はこれで解散。飲み物、好きなの持ってっていいぞー」

 体育祭を終えた保健室では、救護係を勤めた保健委員が集められ、簡単な反省会や連絡、確認事項について話をしていた。それが終わった後は、談話テーブルに積まれた色々な飲み物を選んで、全員が帰宅の途につく。

 和都も飲み物を1本貰って、みんなと同じように保健室の外へ出たのだが、

「あ、相模。ちょっと」

「えー、なんですかぁ?」

 仁科に呼ばれて、あからさまに疲れ切った嫌な顔で保健室内へ戻る。

 頭につけていた白組のハチマキを首から下げ、肩を落として普段より猫背になった和都は、誰が見ても分かりやすく疲弊している。

 だが仁科は、確認しなければならないことがあった。

「お疲れさん。……手首、見せなさい」

 障害物競争のあと、戻ってきた和都は明らかに右手首を庇っていたので、仁科はそれが気になっていた。しかし、競技そのもので手首に何かケガをした様子はない。そうなるとその前の、保健室に1人で行った際に何かあったのだろうと予想がつく。

「……や、たいしたことは」

 視線を逸らし、グレーのジャージを着た和都が両手を後ろに回して言う。小さい子どもが分かりやすい嘘をつく時と同じような態度だ。

 仁科は息をついて改めて言う。

「見せろ」

「……はい」

 和都が観念したように右手を差し出した。

 ジャージの袖をめくると、手首と肘のちょうど真ん中あたりに、大きな痣が出来ていた。

 まるで、大きな手が強い力でぎゅっと握り込んだような、そんな痕だ。

「まだ痛む?」

「少し……」

「ちゃんと言いなさい。湿布でいいか?」

「……うん」

 和都がしゅんとした顔で返事をする。

 腕自体は折れたり腫れたりしてはないが、少し内出血しているようだった。

「……どっちにやられたの?」

「堂島先生」

 仁科は大きめの湿布を用意して、痣を覆い隠すように貼ると、念のため固定用に包帯を巻いていく。

 手当てを受けながら、和都は中央階段で起きたことを仁科に報告した。

「なるほど。首吊り幽霊に、赤鬼かぁ」

「赤鬼って……」

 仁科の言葉に、しょげていた和都がようやく小さく笑った。確かに、小豆色のジャージを普段から着ているから、赤鬼と言ってもいいのかもしれない。

「今のあいつは、俺の知ってる堂島遥岐じゃないからね」

 そう言って、仁科は包帯を巻き終わり、取れないように包帯止めをつけた。

「はい、終わり」

「……ごめんね、先生」

「ほら、すぐ謝る。こういう時は違うでしょ?」

「……あ。ありがとうございます」

「よろしい」

 仁科は和都の頭を撫でると、そのまま少し屈んで、小さな額に軽く口付ける。

「……今日の分ね」

「はーい」

 もう一度だけ頭を撫でて、仁科は手当てに使った道具や湿布の剥離フィルムを片付けた。

「しかし、気を付けないとな。俺も今日は迂闊だったよ」

「うん、おれもバタバタしてて忘れちゃってた。ユースケ達が来てくれなかったら、本当危なかった」

「そうだな……」

 忙しさからつい隙を作ってしまった。今日のことはしっかり反省しておかなければならない。

 和都は腕に巻かれた包帯を見つめる。もしあの時に助けが来なければ、この程度のケガで済んではいなかったかもしれない。

「あ、春日たちってまだ残ってるの?」

「うん。昇降口で待ってくれてる」

「じゃあ残ってるジュース、あいつらにも持ってっていーよ」

「いいのー?」

「ああ。春日には保冷剤運ぶの、手伝ってもらったしね」

「わかった!」

 和都はそう答えると、談話テーブルに残された飲み物の中から、3人が飲みそうなものを選んで抱えて、

「じゃあね、先生!」

「おー、気をつけて帰れよー」

 和都がパタパタと軽い足取りで保健室を出て行った。

 その開けっ放しにされたドアの向こう、夕焼けの迫る薄暗い廊下の方から話し声が聞こえてくる。

「あれ、ユースケ。どうしたの?」

「遅かったから、何かあったのかと思って」

「あ、手首の手当、してもらっててさ……」

 そんな会話がゆっくりと遠ざかっていった。

 聞こえた感じからして、わりとすぐそこで話していたような気もするが。

「……んー、見られちゃった、かな?」

 自分を1番警戒している彼に見られていたら、とてつもなく厄介だ。

 しかし、頭がよくて勘のいい春日ことだ、すぐに大事にはしないでいてくれるだろう、と思うことにして、仁科も帰り支度を始めた。

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