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水練

 初夏の日差しの中、クエルは水練場へ向かって一人歩いていた。国学に入って一か月以上が過ぎている。やっと授業にも慣れてきたところだが、午後の実技は人形を繰る訓練より、体力強化に当てられていた。


 体を動かすのが苦手なクエルにとって、まさに苦行そのもの。日々筋肉痛との戦いだ。暑くなってきたせいもあり、今日からそれが水練になる。走るのが水練に変わっても、クエルの憂鬱な日々は同じだった。


 ちなみに、同室のハッセ・ハッシーとはまだ顔を合わせていない。怪我が癒えていないらしく、同じ班のシグルズとも合流できていなかった。代わりに代理人のフローラさんが、フリーダたちと行動を共にしている。そのため、クエルを除く班の全員が女子で、行動を共に出来る人は誰もいない。要するにボッチだ。


「何でこんなことになっているんだ?」


 クエルは首をひねった。だが同室者と会えていない原因はよく分かっている。あの地獄から来た侍従人形(セシル)だ。


「やはり穢れなんかより、セシルの方が危険な気がする……」


 クエルがそんなことをつぶやいていると、道の向こうから、皮のつなぎを着た人物が歩いてきた。道を開けようとして、それがスヴェンであることに気づく。


「スヴェン!」


 スヴェンは顔を上げると、クエルに手を振った。その頬っぺたには機械油までつけている。


「そのかっこうはどうした?」


 クエルの問いに、スヴェンはいかにも誇らしげに、皮のつなぎの襟を引っ張った。


「これか? アルツ工房製造の人形の修理があってな。親父に聞いたら、ここの工場を使って、俺がやっていいと言われたんだ」


 そう告げると、いかにも嬉しそうに、油がついた手で鼻の下をこすって見せる。


「そっちはどうなんだ?」


 クエルは自信なさげに首を横に振った。


「やっと座学と実技になれてきたけど、ついていくのが精一杯さ」


 これは決して謙遜ではなかった。実際のところ、実技はもちろん、座学の点数も赤点すれすれだ。フリーダは男子を含めて、常に一桁台を維持している。女子に関していえば、間違いなく三本の指に入っていた。


 セシルはというと、クエルと同じような位置にいる。セシルの場合は、どう考えても手を抜いているとしか思えない。筋肉痛は感じないはずだし、座学でもいつもあくびをしている。


『人形があくびをする必要なんてあるのか?』


 ふと、そんなことを思いつく。相当に落ち込んでいると思ったのか、スヴェンはクエルの肩へ手を置いた。そのつなぎからは、懐かしい油の匂いが漂ってくる。


「焦らないことだな。俺も工房に入りたての頃に、『色んなことは努力しているうちに、いつの間にか出来るようになる』って、兄弟子たちに頭を小突かれながら言われた」


 スヴェンのセリフに、クエルは深く頷いた。


「ちなみに、どんな人形の修理なんだ?」


「一つは見かけは猿のおもちゃみたいだけど、ともかく俊敏性に全振りした人形だ」


「さ、猿のおもちゃ!?」


「その人形はちょっとした秘密兵器を……。おっと、これは口にしてはダメな奴だった」


 スヴェンが頭を掻いて見せる。


「もう一つはサソリ型のやつだ」


「さ、サソリ型!」


「これもルシアノ爺さんの得意技がてんこ盛りで、その凄さを何も言えないのがもどかしい限りだよ」


 猿の人形に、サソリ型の人形と言えば、あの二体しかない。


『アルツ工房の人形だったのか――』


 クエルの背中を冷たい汗が流れた。アルツ師に向ける顔がない。なにより、その手足をぶった切ったのは、スヴェンが組み上げたサラスバティだ。


「どうしたクエル、顔色が悪いぞ?」


「な、なんでもない!」


 慌てるクエルに、スヴェンが首をひねる。そして水練用の短パンを履いているのを見ると、怪訝そうな顔をした。


「そのかっこはなんだ。いくら暑いからといって、下着で授業に出てもいいのか?」


「下着じゃない。水着だ」


「水着!?」


「これから水練の訓練なんだ」


「ちょっと待て、女子と一緒じゃないよな」


 スヴェンが疑わしそうな目でクエルを見る。


「まさか!」


「おれが工場にこもっている間に、お前がフリーダさんとセシルちゃんの水着姿を眺めるだなんて……。そんなうらやましい事をしていたら、呪い殺してやる!」


「ムーグリィだって、見かけだけなら十分にかわいいし、胸だって――」


 それを聞いたスヴェンの目つきが変わった。


「お前、おれがどんな悲惨な目にあっているか、分かっていないな。あれの引き回しの刑に比べたら、工場がいくらくそ暑くても、俺にとっては天国だ。それじゃ、水練がんばれよ!」


 そう告げると、手を振って曲がり角を工場の方へと去っていく。クエルはその背中に別れを告げると、一人ぼっちで水練場へ向かった。


「クエル~!」


 不意にフリーダの声が聞こえてくる。


「こっちよ!」


 水練場の中から、フリーダがクエルに向かって手を振っている。その姿は――水着姿だ――。その横にはセシルもいた。やはり水着姿で、フローラの車いすに手を掛けている。


 クエルは自分が時間割を間違ったのかと考えた。しかしフリーダは、クエルにさっさと来るように合図する。クエルは請われるままに、男子更衣室を抜けると水練場に入った。


 中に入るなり、フリーダがクエルの元へ駆け寄ってくる。その動きに、フリーダの成長著しい胸が大きく揺れた。今日は水着を着ているせいか、その動きが直接分かってしまう。


「遅いじゃない。もう少しで遅刻よ!」


 フリーダは不満げに告げたが、すぐにおびえた顔をした。


「それと、もう少し水から離れて……」


 昔から、フリーダはクエルなど足元に及ばないくらい運動が得意だ。だけど一つだけ例外があった。水が怖いのだ。そのため、泳ぎだけはからきし駄目だった。


「フリーダさんは、水練が苦手なのですか?」


 フローラがびっくりした顔でフリーダを眺める。


「す、水練だけは苦手と言うか、嫌なのよね」


 フリーダはフローラに苦笑いを浮かべた。


「足がつくから大丈夫だよ」


 そう告げたクエルを、フリーダはにらみつけた。そしてクエルの方へ詰め寄ってくる。フリーダの胸が自分の裸の胸に触れそうになり、クエルは慌てて後ろに下がった。


「もう、誰のせいだと思っているの!」


 逃げたと思ったのか、フリーダは怒りの声を上げた。そもそもフリーダが水を怖がる理由は、クエルがおぼれたのを助けようとして、ひどい目にあったせいだとフリーダは言うが、クエルにその記憶はまったくない。


「何かあったら、絶対に、絶対に助けてね」


 フリーダがそう念押しするのに頷きながら、クエルはフリーダの水着姿から視線を外すべく、辺りを見回した。どういう訳か、自分たち以外は誰もいない。


「時間割は大丈夫?」


 クエルは思わずフリーダに問いかけた。水練場の水面を恐る恐る眺めていたフリーダも、我に返ったように辺りを見回す。


「本当よね。でも今朝もらった時間割通りのはずなんだけど……。セシルちゃん、時間割は合っている?」


「はい、フリーダ様。ちなみにクエル様の時間割は私の方でも確認しましたが、この時間に水練場で間違いありませんでした」


 自分だけならいざ知らず、フリーダやセシルまで時間割を間違えるとは思えない。セシルにいたっては、フリーダの誕生日会で馬車の異常に気が付いた時に、忘れることはないと言い切ったぐらいだ。クエルが首をひねった時だった。


「あら、他の方もいらっしゃいますけど」


 不意に女子更衣室の方から、鈴のように澄んだ声が聞こえてきた。

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