付き人たち
「ですから、主人に対する敬意の持ち方にこそ――」
付き人の講師と称する人物の話はまだ続いている。どうして人は、自分とそれ以外との間で、明確な上下関係をつけないと、気のすまない生き物なのだろう。そんな事を考えながら、セシルは辺りを見回した。
横には皺ひとつない執事服を着た、長身の男が座っている。前の席にはスヴェンがおり、何度も居眠りをしては、指導役の年かさの女性に、教鞭で頭を小突かれていた。そして背後に座っているのは、あの骨の様に白い肌をした少女だ。
セシルは背後からの、粘り付くような視線を感じつつ、心の中で首をひねった。どういう訳か、この女の正体が分からない。
本来なら覚醒した実は、世界樹の蓄積した知識を、全て共有できるはずだ。だがセシルがそれを思い出そうとする度に、まるで日の光を浴びた朝もやのごとく、どこかへ消えていってしまう。
当初は主人であるクエルの力不足、あるいは自身の成長が足りていないのだろうと、セシルは考えていた。しかし、どうやらそうではないらしい。かつてアマリアという人形にとらわれていた、サラスバティも同じだ。人の編み出した術のせいだとすれば、いつの間にか人は、世界樹の実を思うがままに操る術を、得たことになる。
本来、世界樹の実と人のつながりは、完全な服従ではなく、主人との間の関係も、個々の実によって違う。主人を見限り、己と共に消滅するものもいれば、たとえ世界樹の意志に背いても、その全てをその主人へ捧げる者もいる。
背後からこちらを見ている者は、その後者。しかも世界樹との繋がりを断ち、主人との関係だけに溺れている者だろう。その盲目的な忠誠心は、世界樹が望む世界の均衡を越えた、闇の力を発揮する穢れとなる。だがそれが何かを、セシルは思い出すことが出来ない。
『やっかいな奴に目を付けられた』
その思いに、セシルはうんざりした気分になる。そう言えば、クエルはどうしているだろう。クエルの存在を感じることは出来るが、距離が離れてしまっているため、向こうが意識をこちらに向けていないと、同調させるのは困難だ。やってやれないことはないが、かなりの力を消耗することになる。
それに宿舎も別なため、いつ同期ができるかも、全く読めない。あまりの窮屈さに、セシルはフンと鼻を鳴らした。
よく考えれば、後ろの厄介な奴に絡まれるのも、この窮屈さも、全てはあの赤毛の邪魔者のせいと言える。あれの手強さに比べれば、背後からこちらを睨みつけてくる存在など、大したことではない。
セシルがそう思った時だ。不意にクエルの意識に、謎の高揚感を感じた。一人で宿舎にいるにしては、明らかにおかしい。セシルはメモを取るふりをしつつ、クエルとのつながりに集中した。
目の前に月明かりを浴びる広場が見えてくる。クエルの手が、何か温かいものに触れているのも感じた。しかもその瞳は、横に座る赤毛の顔をじっと見つめている。セシルの核に、嫉妬の炎が湧き上がった。
『お、おのれ!』
「何か質問でも?」
女性が手にした教鞭でセシルを指さす。いつの間にか声が漏れていたらしい。
「申し訳ございませんが、お手洗いにいっても、よろしいでしょうか?」
その申し出に、女性は露骨に嫌な顔をした。どうやら自分の権威が傷つけられたと考えているらしい。人形を操る精神的な余地などみじんもない、心の狭い人間にありがちな特徴だ。
「主人の前で、そのような事が無いよう事前に――」
「私も仕事がありますので、ここで失礼させて頂きます」
背後から声が上がる。それを聞いた女性の顔色が変わった。セシルが後ろを振り返ると、黒髪の少女が、口元に薄笑いを浮かべて立っている。
『なかなかにうまい手だ』
セシルは心の中でつぶやいた。相手を苛立たせた上で、その怒りは最初の発言者、セシルへ向くよう仕向けている。
「主人への勤めがおろそかになっては、本末転倒かと思います」
女が言葉を続けた時だ。
バン!
部屋の扉が激しく開く音がした。続けて、雪だるまみたいな姿をした何かが、部屋へ飛び込んでくる。
「ムーグリィの旦那様はどこなのです!」
「旦那様になどなっていない!」
一番前の席に座らされていたスヴェンが、背もたれへ隠れながら声を上げた。二人のやり取りに、女性は声を上げようとしたが、相手が誰かと言う事を理解したらしい。慌ててスカートの裾を上げると、淑女に対する礼をした。
「そこにいたのですね。すぐに部屋に戻るのです!」
女性の存在を無視したムーグリィの呼びかけに、スヴェンが首を横に振って見せる。
「まだ終わっていない」
「もうお終わりなのです!」
「それは誰が決めたんだ?」
スヴェンの問いかけに、ムーグリィが当惑した顔をする。
「誰かはムーグリィには分からないのです。でもこんなのに意味はないのです」
「なら、それが分かる相手に、正しい手順でそれを説明しろ」
「どう言うことなのです?」
「お前は、普段から北領公と呼ばれるのをきらっているみたいだが、俺に言わせればちゃんちゃらおかしい」
スヴェンの台詞に、ムーグリィがさらに当惑した顔をする。
「やっていることは、上から目線の役人連中と同じだ。俺が同じことをやったら、礼なんて返ってこない。叩きのめされるだけだ。でもうらやましいとは思わないな。そんな態度を取るのに比べたら、叩きのめされた方がはるかにましだ」
スヴェンがいかにも嫌そうに、肩をすくめて見せる。
「それと手順は大事にしろ。おれたち人形技師にとって、手順は命だ。それをおろそかにするやつに、ネジの一本だって触る資格はない。お前だって人形省では手順を守っていたはずだ」
ムーグリィがハッとした顔をする。
「分かっただろう? 俺みたいなやつはさっさと放りだして――」
「流石はスヴェン様なのです。ムーグリィが間違っていたのです。ムーグリィはスヴェン様に一生ついて行くのです!」
「ちょっと待て! 頼むから、俺の事を嫌いになってくれ!」
「そんな事は絶対にあり得ないのです。ムーグリィもスヴェン様と一緒に話を聞くのです。最初からそうすれば良かったのです」
ムーグリィは椅子を手に取ると、スヴェンの横へそれを置いた。
「では早速続きを始めるのです!」
「あ、あの……」
ムーグリィの呼びかけに、講師役の女性がたじろぐ。
「本日の説明は先ほど終わりました。またの機会をお待ちしております」
そう告げて頭を下げると、女性は逃げるように部屋を出て行く。それを見たムーグリィは首を傾げて見せた。
「旦那様、話は終わったようなのです。ムーグリィと一緒に……」
ムーグリィはそこで言葉を切ると、辺りを見回した。いつの間にかスヴェンの姿が消えている。
「お手洗いにいったのですね! ムーグリィも一緒に行くのです!」
雪だるまが転がるように、ムーグリィが後ろの扉から駆け去っていく。
「本日はこれでお開きのようですね」
セシルの隣に座る執事姿の男性が、ついてもいない服のしわを伸ばして、部屋から出て行った。あの黒髪の少女の姿もない。 誰もいなくなった部屋を見回しながら、セシルは小さくため息をつく。
「まったくもって、やかましいやつらだ。だが少しうらやましくもある」
誰に語るでもなくそうつぶやくと、セシルはそっと目を閉じた。そして自分と同じクエルの人形である、サラスバティへ意識をつなぐ。
『サラスバティ……』
『はい、セシルさん』
『ラートリーに、お前の化身にしばし頼みごとをしたい』
『なんなりと――』
セシルはサラスバティに心の中でうなづきつつ、口元へ怪しげな笑みを浮かべて見せた。
「赤毛が我に内緒でこっそり会うつもりなら、我は我で、遠慮なくやらせてもらう事にしよう」