続き
「またトイレに行っていたの?」
フリーダの呼びかけに、クエルはげっそりした顔をしながら頷いて見せた。
「だいたいクエルが敏感過ぎなのよ。やっぱりスヴェンさんの言うように、もっと体を鍛えた方がいいんじゃないの?」
「体を鍛えても辛さに強くなったりはしないよ。それにフリーダもほとんど食べていなかったと思うけど……」
クエルの言葉に、フリーダが慌てた顔をする。
「わ、私は合宿中にちょっと食べ過ぎたから、ダイエット中なの! それにルドラさんはとってもおいしいって食べていたわよ」
「あの辛さでも行けるとは、南領の人の辛い物好きは本当なんだな」
クエルは感心したように呟いた。まったくその通りで、クエルをはじめ、スヴェンやジェームズが悶絶したほどの辛さを、ルドラは汗を掻くこともなく完食して見せた。
「それよりも午後の部がそろそろ始まるみたい。でも午後はみんな一緒だから安心よね」
フリーダがクエルににっこりと微笑んで見せる。
「D組へ移る件は本当に大丈夫なのか?」
「ヒルダさんが運営に掛け合ってくれたから大丈夫。そもそも別組と言うのが間違いなのよ。でもムーグリィさんだけだったら――」
「『ひき肉にするのです』で、間違いなく揉めただろうな」
その台詞に、フリーダが含み笑いを漏らして見せた。その姿はいつものフリーダと変わらない。クエルも自分が選抜を受けている最中であることを、思わず忘れそうになった。フリーダが一緒に選抜を受けてくれなかったら、どれだけ心細かった事か、想像も出来ない。
「そうよね。ヒルダさんたちが来てくれて、本当によかったわ。それよりも早く待機場所まで行きましょう!」
「ちょっと待ってくれ。その前にもう一度手洗いへいってくるよ」
「もう、どれだけ行けば気が済むの!」
それはフリーダのせいだろうと言いそうになったが、クエルは言葉を飲み込んだ。選抜中の大事な時に、わざわざフリーダの機嫌を悪化させる必要はない。
「それじゃ先に待機場所へ行くわね。遅れないように気を付けて!」
そう言うと、フリーダは頭の後ろに高く束ねた髪を跳ねさせながら、D組の待機場所へと駆けていく。その後ろ姿を、高価そうな簡礼服に身を包んだ、閥族の男子たちが立ち止まって眺めている。
彼らは彼女が多くの人形たちを跳ね飛ばした、張本人であることを知っているのだろうか? どうやらそんなことなど関係無しに、純粋にその姿に見とれているらしい。
「ご主人様」
同じ様に後ろ姿を眺めていたクエルの背後から、不機嫌そうな声が響いた。
「手拭きになります」
そう言うと、セシルは赤いテントウムシの刺繍が入ったハンカチを、クエルへ差し出した。
「セシル、いつの間に現れたんだ?」
「何を言う。我はマスターの忠実な人形にして侍従だぞ。常にマスターの側にいる」
「それって、僕がトイレに行っている時もか?」
「ふふふふ」
「その笑いは何だ。お前の場合、何かの冗談とは全く思えないぞ!」
セシルはクエルに何かを答える代わりに、クエルのハンカチを返した手を掴むと、その体を木立の間へと引き込んだ。
「いきなり何を――」
文句の途中で、クエルの口は、爪先立ちになったセシルの唇によって塞がれた。同時にクエルとセシルの間に見えない糸が張られ、それを通じて、クエルの心の一部がセシルへと流れていく。
その代わりに、人形のものとは思えない熱い吐息が、クエルの口へ吹き込まれてきた。だがもっと熱い何かが口の中へと入り込む。それはクエルの舌を探り当てると、まるで愛おしむようにからみついた。
「な、なんなんだ!?」
クエルは慌ててセシルから体を離す。
「もちろん同期に決まっている」
セシルは涼しい顔をしてクエルに告げた。
「し、舌を入れる必要なんてあるのか!?」
「マスター、そうした方が我に集中できるだろう? それに今日は人の目がある。時間をかけて、同期をしているところを誰かに見られたいか?」
「だからって、いくらなんでも――」
「マスター、この後も何があるかは分からん。我としても、可能な限りお前から力を受け取っておきたいのだ。ヒルダたちの話では、午後は実技確認という名目の1対1での試合らしい。ある意味、ここからが本番だ。午前中のような幸運は期待できないぞ」
「幸運? どういう意味だ?」
セシルの台詞に、クエルは首をひねった。
「あの次官が素人ですぐに止めてくれて助かったのだ。サンデーは間違いなく強い。ギガンティスも中々だ。それでも完全な奇襲だった故に、なんとかなっただけだ」
「えっ!?」
「マスター、お前は気が付かなかったのか? サンデーとギガンティスの背後から、別の集団が襲おうとしていたのを?」
クエルは次官が止める前、サンデーやギガンティスの背後に人形がいたのを思い出した。
「あれらが本命だ。その者たちに背後から強襲を受ければ、サンデーだってどうなっていたかは分からない。そもそも最初の人形群は我らを消耗させるための捨て駒だ」
「人形だぞ。そんな使い方をするなど、あり得るのか?」
「その方が全体の損害が小さいと踏んだのだろう。それに我ら人形の本質は道具だ」
「でも相手はムーグリィにサンデーだ。多少相手が多くても……」
「ムーグリィは人外に強い。それは確かだ。しかしどれだけ全力で力を振るえるか、お前は知っているのか?」
無言のクエルに、セシルは小さくため息をついて見せた。
「分からぬだろう。だから次官が止めてくれたのは幸運だったのだ。それにマスター、お前は精神的な容量と言う点ではムーグリィと同じだ」
「はあ?」
セシルの言葉に、クエルは思わず間抜けな声を上げた。
「その点ではお前も間違いなく人並み外れている。なにせ我の化身と本身を同時に維持出来ているのだ。だからサラスバティの呪縛も切れた。並のものなら亀裂の一つも入れられないだろう。だがそれがお前の美徳であると同時に欠点でもある」
クエルはさらに首をひねった。美徳であると同時に欠点? 意味が分からない。
「マスター、お前には確固たる自信がない。それがお前の精神的な弱さになっている。しかしそれはこだわりや意地をもっていない証拠だ。自信は時として慢心となり、己の視野を狭め、他のものを排除する」
「でもそれって……」
「偉大な人形師が限られる理由だな。何かを成し遂げるほど、我ら人形と共有できる精神的な余地が失われていく。まさに見えざる罠だ」
「僕もそうなのだろうか?」
「己に問いかけることを止めない限り大丈夫だ。それに我らは二つにして一つ。何があろうが、我は常にマスターと共にいる」
「よく分かった。セシル、頑張るよ」
「そうだ。目の前のことを一つ一つ成し遂げつつ、決して慢心せぬことだ。それとマスター、お前に告げておくべきことがある」
何だろう? クエルはセシルの台詞に身構えた。
「マスターの試合と我の試合が重なった場合、我の意識はマスターの支援をすることができない」
「つまり、一人で戦えということか?」
「そうだ。お前の平行思考はまだ完全からはほど遠い。マスターが意識を平行化できない以上、我も意識を平行化できない。だがどちらが大事なのかは明白だ。必要な場合は我を呼べ」
「いや、自分の力を試してみるよ。それに僕らが二人で戦ったら、ムーグリィからズルと言われそうだ」
「我らは二つにして一つだ。だからムーグリィが言うズルとは違うぞ。しかしそろそろ己の力を試してみるのも悪くはない」
「うん。それにセシルが危なくなったら、遠慮なく僕を呼んでくれ」
「ふふふ、少しはまともな事を言えるようになったな。だが忘れるな。マスターが完全に思考の並列化が出来ていれば、何の問題もないのだぞ」
「分かった。だけど振り子を数えるだけで――」
ゴーン、ゴーン、ゴーン!
辺りに銅鑼の奏でる重々しい音が響き渡った。
「どうやら午後がはじまるみたいだな」
クエルはセシルと一緒に林を出ると、待機場所へと向かった。すでにほとんどの人が練兵場へ集まっている。だがA、B、Cの各組の人数は明らかに朝より少ない。いや、半分以下に減っている気がする。
「クエル、遅いわよ!」
クエルを見つけたフリーダが声を張り上げた。その声は練兵場全体に響いたらしく、全員がクエル達の方を注目している。
「フリーダ、声が大きいよ!」
「偉そうに何よ。クエルが遅いのが悪いんでしょう? それよりも顔が真っ赤だけど大丈夫?」
セシルがフリーダから見えないところで、ニヤリと笑って見せる。
「えっ、あ、これはさっきの辛みの影響がまだ――」
「これから午後の部を開始する!」
クエルの慌てた声をかき消すように、朝とは違う、人形管理次官の緊張した声が響いた。
「こちらの指示には即時かつ、絶対に従うこと――」
朝の件で懲りたらしい次官が、細々とした注意事項を声高に話している。
「不知火」
それを退屈そうに聞いていたマクシミリアンがつぶやいた。
「我が君、お呼びでしょうか?」
姿なき影がそのつぶやきに答えた。
「例の調べ物の件はお前にまかせるぞ」
「はい。何かご心配な事でもありますでしょうか?」
「あまりにあっけなく終わると、つまらないと思っただけだ」
「我が君に楽しんでいいただけるよう、努力させて頂きます」
「それと、彼らしく振る舞うのを忘れないでくれ」
「はい。我が君」
「では注意事項は以上だ。これらを間違いなく厳守するように!」
マクシミリアンの視線の先で、次官がそう宣言する。それに合わせて、背後にいた影も何処かへと消え去った。




