蒸気風呂
「ムーグリィさん、これって本当にやけどしないの?」
そう問いかけたフリーダに、ムーグリィが首を横に振って見せた。
「やけど? やけどなどしないのです」
合宿最終日の夜に、フリーダが何をしているかと言えば、ムーグリィの誘いで、北領の蒸気風呂なるものに、女子三人で入っている。それは狭い木製の部屋で、火にあぶられた石により、中には信じられないぐらい熱い空気がこもっていた。
「蒸気風呂はムーグリィのお気に入りなのです」
「でも、もうゆで上がりそうな感じなんですけど……」
ここに一歩入った瞬間から、フリーダの体からは滝のような汗が流れ落ちている。正直に言えば、すでにせいろの中で蒸されているカニにでもなった気分だ。
「そうなのです。たくさん汗を掻くのです。それで体の疲れを洗い流すのです」
そう言うと、ムーグリィは自慢げに大きく腕を広げて見せた。タオルも何もかけていない、真っ裸のムーグリィの胸がプルンと震える。その意外な大きさに、フリーダは視線を下ろして、自分と見比べそうになった。だが背後から感じる冷たい視線に顔を上げる。
「肩こりとかにも効きます?」
フリーダの問いかけに、ムーグリィは頷いた。
「もちろんなのです!」
「でもフリーダ様、どうして肩こりなど?」
背後から聞こえたセシルの問いかけに、フリーダは振り返った。その目はじっとフリーダの胸を見つめている。
「えっ、だって人形を繰る時って、やっぱり無意識に体を動かすじゃない? もう体中筋肉痛で――」
フリーダの答えに、ムーグリィがうんうんと頷いて見せる。
「なるほど。それでフリーダが人形を操るときは、まるで一人芝居をしているみたいで面白いと、グラハムが言っていたのですね」
「ええええ!」
その言葉に、フリーダは慌てた声を上げた。蒸気風呂の熱とは違う熱さを、首の後ろに感じてしまう。
「それに、グラハムが言うには体も軽くなるそうなのです」
ムーグリィの台詞に、フリーダは前のめりになった。
「それって、ダイエットもできるという事?」
「フリーダ様、どうしてダイエットなど?」
そう問いかけるセシルは、やはりフリーダの胸をじっと見つめている。
「だって、このお屋敷の食べ物って、とっても美味しいじゃない? だからついつい食べ過ぎて――」
「フリーダはよく食べるのです。なので胸も大きいのですね!」
「ち、違います! そ、それにムーグリィさんも、胸がけっこうあるじゃないですか?」
「そうですか? でもフリーダの方が大きそうなのです。セシルはあまり食べないから、胸が小さいのですか?」
そう言うと、ムーグリィはセシルの方をちらりと見た。フリーダが恐る恐るセシルの方を見ると、そこでは僅かに顔に汗をにじませながら、涼しい顔をして木のベンチに座っている。
「なにか?」
「な、なんでもないわ。それよりも、この汗はどうすればいいの?」
「大丈夫なのです。外に水風呂があるのです。それで汗を流して、体を冷やせばいいのです」
「でも凍えたりしない?」
「十分に温まれば大丈夫なのです。それが一番気持ちいいのです!」
「へえー、楽しみ。それじゃ一杯汗を掻いて、ついた贅肉を落としましょう!」
フリーダはセシルに声をかけた。だがセシルは涼しい顔をして椅子に座ったままだ。
「なにか?」
「いえ、なんでもありません!」
「フリーダはもっと汗を掻きたいのですね。ムーグリィにまかせるのです!」
セシルの代わりに、ムーグリィがフリーダの台詞に反応する。そして部屋の片隅に置かれた水桶にあった杓に手を伸ばすと、それを焼けた石の山へ盛大にかけた。
シュ――――――!
激しい水音と共に、蒸気が部屋中に立ち込める。その音と勢いに驚いたフリーダは、思わず足を滑らして床に尻もちをつく。フリーダの目の前には吹き上がる蒸気も気にせず、涼しい顔でベンチに座るセシルの姿があった。
「フリーダ様……」
「はい」
セシルがちらりと視線を下に向ける。
「フリーダ様は意外と毛深いのですね」
「えっ! こ、これはその、手入れをする時間が……」
「おー、フリーダは下の毛も赤毛なのです! ムーグリィは――」
「ちょ、ちょっとあんた達、一体何なのよ!」
「青い血の流れる者が、お前達庶民とは違うことを教えてやろう」
「グラハムさん、人形技師をなめていませんか? 俺たちは真夏でも皮のつなぎを着て、工房に一日籠っているんですよ」
「なにが言いたい?」
「あなたのやせ我慢程度じゃ、俺の相手になどなりません」
「おのれ!」
蒸気風呂の中でグラハムとスヴェンの二人が、クエルを間にはさんで、杓の柄を互いに振り回してチャンバラごっこを始めるのを、クエルは冷めた目で見つめていた。サラスバティの修理にはスヴェンだけでなく、セシルやグラハムの二人も、ムーグリィによって強制的に缶詰にされ、その修理作業に従事させられていた。
工房でずっと動作確認の手伝いをさせられ、超不機嫌になったセシルの報告によれば、工房で嫌みの応酬をするうちに、二人の間には謎のコミュニケーションが成立するようになったらしい。この蒸気風呂の中でも、二人で謎の会話をし続けている。
「グラハムさん、青い血とやらのご高説の割には、随分と汗を掻いていませんか?」
「何を言う、お前こそ目が虚ろに見えるが大丈夫か?」
クエルから言わせれば、二人ともただひたすらに意地を張っているだけにしか思えない。その間に入っているクエルとしてはもう我慢の限界だった。さっきから眩暈を通り越して、手足がしびれるような気すらする。
「あ、あの、限界に近いのですが、この後はどうすればいいのですか?」
クエルは必死に涼しげな顔を装う、グラハムへ問いかけた。
「この後か? 外の水風呂で汗を流して、ほてりをとるのだ。その後の整った感じこそが、この蒸気風呂の――」
グラハムがそこで言葉を切る。
「おい、無礼だぞ。人の話を聞いているのか?」
「クエル?」
スヴェンも怪訝そうな顔をすると、クエルの顔を覗き込む。クエルは何か答えようとしたが、言葉が何も出ていかない。
「おい、しっかりしろ! そこをどけ、すぐに水風呂に――」
スヴェンはクエルの体を抱えて、外へ繋がる扉へ向かおうとした。だがその手をグラハムが慌てて抑える。
「ちょっと待て、今はまずい!」
「何がまずいんだ。このままではクエルがやばい!」
スヴェンはそう叫ぶと、グラハムの静止を振り切って、扉の外へと飛び出す。目の前には月あかりを照らされた水風呂が見えた。だがそこに映る月は、何かが立てる波によって揺れ動いている。スヴェンはその波を立てる元へ、恐る恐る視線を向けた。
「まずい!」
スヴェンはそう叫ぶと、クエルの体を水風呂へ放り投げ、そのまま扉へと駆け戻っていく。クエルは宙を飛びながら、夜空に光る月を眺めた。自分はこのまま死ぬのだろうか? そんなことをぼんやりと考える。
ザブン!
盛大な水音と共に、クエルの体が冷たい水の中へと沈んでいく。水面では月の黄色い明かりが形を変えながら、ゆらゆらと動いているのが見えた。だがすぐに口の中へ大量の水が流れ込み、それを飲み込んでしまう。
『やばい、死ぬ!』
そう思ったが、体が思い通りに動かない。これは本当に死んでしまう。クエルがそう思った時だった。
「クエル!」
自分の名を呼ぶ声が聞こえる。そして誰かがクエルへ手を差し伸べた。
「クエル、しっかりして!」
見ると月明りを背景に、フリーダが驚いた顔をしてこちらを覗きこんでいる。
「フリーダ……」
「一体どうしたの?」
「ゆで上がった……」
クエルはそこで、フリーダが胸元にタオルを巻いただけの、半裸なのに気が付いた。それに自分は真っ裸だ。
「フ、フリーダ、な、何で!」
「えっ!? 水風呂で体を冷やして――」
フリーダが下を見た。そして真っ裸なクエルへと視線を向ける。次の瞬間、フリーダのタオルがはらりと落ちた。
「キャ――――!」
フリーダの口から悲鳴が上がる。そしてフリーダの腕によって押し付けられたクエルの体は、再び水の底へと沈んでいく。底へと沈みながら、クエルは目の前で何かがゆらゆらと揺れ動いているのを見た。それはフリーダの髪の色と同じ色をしている。
『意外と毛深いんだな……』
クエルはそんな事を考えながら、自分の意識も水の底へと沈んでいくのを感じた。
「一緒に蒸気風呂は楽しかったのです!」
屋敷の居間でムーグリィが声を上げた。その姿を椅子に深々と身を沈めたグラハムが、物憂げな表情で眺めている。
「それよりも、あの水風呂に沈んだ無礼者の首を落として、晒すべきじゃないのか?」
「何を言うのです。もともと蒸気風呂は男も女も関係なく、裸になるものなのです」
「一体いつの時代の話をしているんだ」
グラハムが肩をすくめて見せる。だがすぐに体を起こすと真剣な表情をした。
「ムー、あの人形技師の件は本気なのか?」
「本気、何を言っているのです。これは運命なのです。ムーグリィはスヴェン様のお嫁さんになるのです」
「北領の民はお前の事が大好きだ。お前がどんな男を連れて帰ろうが、きっとみんな祝福してくれるだろう。それについてはお前次第だ。それよりも、本気で選抜を受けるつもりなのか? お前自身でそれをする必要などないのだぞ。誰か――」
「グラハム。これはムーグリィの手でやらねばならないのです。選抜を抜けて、あれを、世界樹をぶっ倒すのです」
そう告げるムーグリィの水色の瞳は、いつもと違う真剣な色を帯びている。
「ムー……」
「何も心配はいらないのです。ムーグリィとサンデーは最強なのです。そしてサンデーの失った心を取り戻すのです!」