お嬢様
朝方、先に工房の方へ寄ったムーグリィは、二台の馬車とスヴェンと一緒に、クエルの家の前まで約束通り現れた。馬車は人形輸送用とは思えない、黒塗りの立派な馬車だ。
スヴェンはなんとかしてクエル達の馬車に乗り込もうとしたが、手伝いで一緒に乗ってきたアルツ工房の兄弟子達に、ムーグリィと同じ馬車へ放り込まれた。
一部の兄弟子たちは、真剣にスヴェンを馬車の荷台へ縄でくくりつけようとしたが、スヴェンが涙声で絶対に逃げませんと宣言した結果、それだけは許してもらって今に至っている。
「ねえねえ、クエル。あの二人って、結構お似合いだと思わない」
フリーダが前の人形輸送用の馬車に乗る二人を指さした。そこには必死に何かを避けて座ろうとしているスヴェンと、そこに縋りつこうとしている謎の雪だるまとの攻防が続いている。
クエルとしてはそれのどこを見てお似合いと言っているのか、全くもって理解不能だが、それを口にしたら、間違いなくフリーダの機嫌は悪化する。
「そ、そうだね」
「絶対にそうよ。ムーグリィさんはスヴェンさんに一目惚れだし、これだけ立派な馬車を手配出来るって、すごいお家のお嬢さんよ」
「それよりも、得体が知れない人と、得体が知れない場所へ行くというのに、よくリンダおばさんが許してくれたな」
「当たり前でしょう。もう17歳の誕生日は終わったんですからね。大人よ、大人!」
そう言うと、フリーダはクエルに胸を張って見せる。その態度に、最近急成長した胸が、濃い緑色の短外套と一緒に前へ突き出された。クエルは慌ててそこから視線を外す。ずっと眺めていたりすると、自分の中の何かが反応してしまう。
「そ、それはそうだけど……」
「本当はこう言われたらああ言おうとか、色々と考えていたんだけど、ムーグリィという名前を言ったら、それだけで分かったみたい。二つ返事で許してもらえちゃった」
そう告げると、フリーダはてへと笑ってみせた。
「アルツおじさんも、名前を聞いて誰だかすぐに分かったみたいだから、超有名な人形師かな?」
「でも人形師申請も、人形登録も僕らと一緒だ。どうも辻褄が合わないんだよな」
「そうね、クエルのこともちゃんと駆け出しって分かっていたしね」
「あのな、それはみんな同じはずだろう!」
「違います! 私はクエルの命を救ってあげました。経験者です。地面に頭をこすりつけて感謝しなさい」
「へへ――、フリーダ様」
バン!
「い、痛い!」
クエルの額に当たって落ちた手袋をセシルが受け止める。
「クエル、あなたは私のことを馬鹿にしているでしょう。ちゃんと謝りなさい!」
フリーダがクエルの首に手を伸ばして締め上げる。
「フリーダ様、それだけ頸動脈を絞めますと、謝るのは難しいかと思います」
クエルは冷静に告げるセシルに目で助けを求めた。でもセシルは小さく肩をすくめて見せるだけだ。
「スヴェン様、寒くはありませんか?」
「さ、寒くないから寄らないでいい!」
前の馬車から聞こえる謎のやり取りを聞きながら、クエルはその全てが遠く、遠くなっていくのを感じていた。
クエルはガタゴトと馬車が揺れる音に目を覚ます。目の前にはお椀を伏せた形をした、二つの膨らみが見えている。辺りを見回すと、表情には一切出さずに、冷たい目でクエルをじっと見つめるセシルがいた。
「な、なんだ!」
クエルは慌てて起きようとしたが、二つの丘がクエルの目の前へと覆い被さり、頭を押さえつけられる。
「いきなり倒れたんだから、まだ寝てなさいよ。大体ね、あの程度で落ちるなんてのはどう考えてもひ弱すぎ。やっぱりスヴェンさんの言う通り、体を鍛えるところからやった方がいいんじゃないの?」
フリーダはそう告げると、ちょんと指の先でクエルの額をこづく。その動きにフリーダが左耳につける水晶が小さく揺れた。頭の上には木の枝と、そこに僅かに残った色あせた葉が見える。一体いつの間にこんな場所へ入り込んだのだろう。
「それよりここはどこなんだ? 王都からかなり離れたのか?」
クエルの問いかけに、フリーダが首を横に振って見せた。
「そんな事はないのだけど、川向こうって、ほとんどが大貴族とか大臣とかの別宅で、私たちには縁がないところでしょう。そこに入り込んでいるのよね」
クエルはフリーダの腕を避けて起きあがった。確かに日差しを見る限り、それほど長く倒れていた訳ではなさそうだ。そして馬車は林の中の、石できちんと舗装された一本道を進んでいる。
キキィ――!
馬車の制動板の耳障りな音が響き、馬車が急に止まった。目の前には大きな黒い金属で出来た門が見えている。そしてその両脇にはどこまで続くのか分からない、レンガ造りの壁が果てしなく続いていた。そのあまりの仰々しさに、クエルはフリーダと思わず顔を見合わせる。
「ハイホー!」
御者のかけ声とともに、二台の馬車は開けられた門の中へと入っていった。門の先には二階建てで横に広い、茶色いレンガ造りの建物が建っている。建物の玄関前では、執事服を着た男性が、馬車に向かって頭を下げているのが見えた。
「いらっしゃいませ」
馬車の横に立派な昇降台が置かれ、髭をピンと上に向けた執事が、白い手袋をした手をフリーダへ差し出す。馬車を降りたクエルたちは、建物の玄関ホールへと案内された。
その高い吹き抜けの天井には、とてつもなく大きな金色のシャンデリアがぶら下がっており、灯された数多の灯りが、やはり数え切れないガラス細工に反射して、辺りに光の海を描いている。
「クエル……」
先にホールに入っていたスヴェンが、クエルの耳元でそっとささやいた。
「俺はまだお前の家に居るよな」
「はあ?」
「さっきやっと分かったんだ。これは夢だって。俺はあの黒い物体を食べて、それで気絶しているだけだ」
クエルにはスヴェンの気持ちが痛いほどよく分かった。あれを食べたら気絶しそうになるのについても同意する。
「スヴェン、残念だが現実だ」
「そんなことはない、絶対にない!」
スヴェンはそう小さく叫ぶと、大きく首を横に振って見せる。クエルはスヴェンの肩に手を置くと、背後に控えているセシルを眺めた。自分がこの人の振りをしている人形に初めて会ったときも、絶対にこれは夢だと思った。いや、そう信じたかったのを思い出す。
「お客様、お嬢様が是非に皆様と、ご昼食をご一緒したいと申されております」
執事が玄関ホール先の大きな扉を開いた。広大な部屋にはとっても長いテーブルが置かれ、その上には天井からの灯りにキラキラと輝く、銀の食器が置いてある。
「なんて素敵なの!」
それを見たフリーダが、セシルの手をむりやり引っ張りつつ、無邪気に声を上げた。
「セシルちゃん見て見て、このスプーンとかフォークって、とっても素敵じゃない? あ、分かった。これって、雪の結晶をかたどっているのね!」
はしゃぎまくるフリーダを見て、クエルはスヴェンと顔を見合わせた。
「クエル、とっても嫌な予感がするのだけど、それって俺だけかな?」
「いや、スヴェン。僕も同じだ。なんかこんな童話を子供の頃に聞かされた気がする」
「童話? どんな話だ」
「森の中の一軒家に行ってごちそうを食べるのだけど、その家の主は実は魔女で、大釜でゆでられて、次の客に出されるという話だ。つまり……」
「つまりなんだ?」
「よく分からんうまい話には、乗ってはいけないという教訓なんだと思う」
「いや、教訓なんかじゃない。俺たちはあの雪だるまに大釜でゆでられるんだ。間違いなくそうだ!」
スヴェンはそう口にすると、頭を抱えて見せる。
「待てスヴェン、錯乱するな。相手の思う壺だ。ここは冷静に逃げ道を――」
「お前たちは何者だ?」
クエルたちの背後から声が上がった。そこには銀糸や金糸の刺繍が入った、明らかに高価としか言いようのない服を身に纏った人物が立っている。銀色に見える明るい灰色の髪に、冷ややかな水色の目を持つその姿は、生粋の貴族、それも大貴族であることを示していた。
「お初にお目にかかります。人形師をしております、フリーダと申します。本日はムーグリィ様のお招きで、こちらにお邪魔させていただきました。よろしくお願い致します」
物怖じしないフリーダが、スカートの裾を持ち上げて挨拶する。
「お、同じく人形師のクエルです。本日はお招きいただきまして、ありがとうございました」
フリーダに続いて、クエルも慌てて挨拶をした。
「人形技師のスヴェンと申します」
「クエル様の侍従をしております、セシルと申します。どうかお見知りおきのほどをよろしくお願い致します」
それぞれに挨拶は終わったはずだが、入り口に立つ人物は物憂げな表情を変えずに佇んでいる。
「私は何者だと聞いたのだぞ」
その言葉にクエルとスヴェン、それにフリーダが顔を見合わせた。自分たちとしては名乗ったつもりなのだが、どうやら全く通じていないらしい。
「どこの家の者なのか分からなくては、挨拶する意味がないではないか? それにあの子を名前だけで呼ぶなど、失礼極まりない奴らだ。おい、誰かこの無礼者達を――」
ドン!
不意に低い音が響いた。
「誰だ!?」
男性が痛そうに背中へ手を回し、膝を床について倒れている。その背後では麻色の髪と水色の目を持つ少女が、僅かに頬を膨らませて立っていた。
「かわいい」
思わずクエルの口から言葉が漏れた。
「うん。確かにかわいい」
隣でスヴェンもクエルに同意する。そこには白を基調にした、水色の襞の多いドレスを身に纏った少女が立っていた。その姿はふんわりと広がった髪と合わせて、とてもよく似合っている。
「グラハム、無礼者はお前なのです。今すぐひき肉にしてやるのです」
「ムーグリィ!」
その声に、クエルとスヴェンの口から同じ叫びが漏れた。