締め切り
「これで手続きはほとんど終わったも同然ね!」
中庭を囲んで建つ、広大な人形省の渡り廊下を歩きながら、フリーダは皆にそう宣言した。そしてくるりとその身を回すと、器用に後ろ向きで歩きながら、背後に続くクエルを見る。
「あとは選抜の申請だけよ」
「本当によかったよ。一時はどうなることかと思った」
クエルの口から思わず本音が漏れる。
「私に対する嫌み?」
フリーダの顔色が変わった。クエルはしまったという顔をしたが後の祭りだ。もっともクエルからすれば、普段のフリーダに戻ったとも言える。
「本当にクエルの口は皮肉しか言えない口よね。これから頑張ろうとか、もっと前向きな事は言えないの?」
そう言ったフリーダの背後には、建物の入り口へと続く曲がり角が見える。
「フリーダ、角だ。曲がり角だよ」
クエルは慌ててフリーダに声をかけた。
「クエルじゃないんだから、そのぐらい分かっています。ベーだ!」
フリーダはクエルにあっかんべーをして見せると、プンと横を向く。だが角を曲がったところで慌てて止まった。
「ご、ごめんなさい!」
フリーダの声に、クエルも慌てて渡り廊下の角を回る。そこでは車いすに座る人物へ、フリーダが頭を下げていた。
「こちらこそ、こんなところで止まっていてすいません」
車椅子に身を預けた鳶色の髪の少女が、頭を下げるフリーダに手を振って見せる。そこは建物の入り口に向かって坂になっており、車椅子で登れずに止まっていたらしい。
少女は薄茶色の上着に、ベージュのスカートを着ており、とても質素な感じがする。年の頃はセシルよりは上、でもフリーダや自分よりは少し下ぐらいだろうか? 髪を三つ編みにした姿はとても可憐でかわいらしい。
「どこまで行かれるのですか? よろしければ、私たちでお手伝いをさせていただきます」
フリーダは少女に屈託のない笑みを向けた。
「いえ、大丈夫です。出力をちょっと上げればいけると思います」
少女は薄い水色の瞳を伏せ目がちにしながら答えた。気のせいか、その表情は少し怯えているようにも見える。
「こちらには男手が二人も居ますから、遠慮しないでください」
そう言うと、フリーダはクエルとスヴェンの方を振り向いた。だけどまだ機嫌は直っていないらしく、クエルに対しては舌を出して見せる。
「動力伝達部の故障かな? 少し見せてもらってもいい?」
スヴェンが車椅子の横にかがみ込んで下を覗く。見ると、車椅子には世界樹の葉が動力源として使われていた。単純な機械であれば、世界樹の葉を使って動かす事が出来る。もっとも、世界樹の実のように大きな力を出すことは出来ないし、短期間しか持たない。
「あの、本当に大丈夫ですので――」
「これでも一応は人形技師です。まかせてください」
そう告げると、スヴェンは手早く車椅子の横のパネルを外す。
「これは凄いですよ。無段変速まで組み込まれている。何より仕事が丁寧です」
動力部を見たスヴェンが感嘆の声を上げた。その言葉に興味を持ったのか、フリーダも車いすの下部を覗き込む。
「本当ね! しかも弾み車を使って、減速と走り出しの制御もしているのね」
スヴェンと一緒に車椅子をのぞき込むフリーダの丸いお尻に、クエルは思わず首の後ろが熱くなる。だがセシルの冷たい視線を感じて、慌てて顔をそむけた。
「でも最近はちゃんとメンテしていないみたい」
顔を上げたフリーダが首を傾げて見せる。
「そうですね。だけど世界樹の葉はまだ十分に緑だし、クラッチ板でもずれたのかな?」
スヴェンは腰からボルト締めと油さしを取り出すと、それでいくつかの歯車の調整をした。
「すいません。クラッチをつないで、動かしてもらってもいいですか?」
「あ、はい」
少女が制御棒を前に倒して、足元のペダルを踏むと、車椅子は僅かなきしみ音を立てることもなく、スロープを軽やかに登っていく。
「動きました。ありがとうございます!」
「さすがはスヴェン様なのです。ムーグリィの旦那様なのです!」
「違う。旦那様なんかになっていない!」
「スヴェン様はいけずなのです」
ムーグリィがスヴェンに向かってため息をついて見せる。
「いけず? なんだそりゃ?」
二人のやり取りを見た少女が、先ほどの怯えた表情とは違う、朗らかな笑みを浮かべて見せる。
「どちらまで行かれるつもりだったんですか? よろしかったら、そこまでお手伝いをさせて頂きます」
フリーダの申し出に、少女は首を横に振って見せた。
「ここで人を待ちます。なので、どうか気にしないでください」
「本当に大丈夫ですか?」
「はい。ご心配なく。それよりも、皆様は選抜の手続きに来られたのでしょうか?」
「はい」
「でしたら急がれた方がいいと思います。窓口の受付終了時間までそれほど間がありません」
「あ、そうですね。そうでした。私はフリーダと申します。私達は帰りもここを通ると思いますので、何かあったら、遠慮なく声を掛けてくださいね」
「こちらこそご挨拶が遅れてすいませんでした。フローラと申します。よろしくお願い致します」
「フローラさん、こちらこそよろしくお願いします。その方にすぐに会えるといいですね。クエル、ぼけっとしていないで行きますよ!」
そう言うと、フリーダは廊下の先へと足早に歩いていく。その姿にクエルは慌てた。
「ちょっと待て。受付がどこか分かっているのか?」
「えっ!」
「受付でしたら、この奥の突き当たりの部屋です」
フローラが右手奥を指し示した。
「ありがとうございます」
フリーダはフローラに向かって丁寧に頭を下げると、「てへっ」と小さく笑って見せた。
教えてもらった部屋の中へ入ってみると、そこは思ったより大きな部屋だった。受付の先では並んだ机に向かって、多くの事務官が働いているのが見える。
「思ったより混んでいるのね」
フリーダの言葉通り、受付最終日だというのに、部屋には大勢の人たちがいた。そこに集う左耳に水晶をぶら下げた人々に、クエルは思わず入ってきた入り口から、そのまま外へ出ていきたくなる。
「さあ、さっさと済ませましょう!」
入口でしり込みしていたクエルの手を、フリーダが引っ張った。だがバランスを崩してしまい、誰かの背中へぶつかる。
「ごめんなさい」
クエルはその人物に対して、謝罪の言葉をかけつつ顔を上げた。そこには鳶色の髪をして、水色の目を持つ背の高い男が立っている。
『まずい!』
クエルは心の中で声を上げた。スヴェンがやばい奴と呼んでいた人物、その人だ。
「ごめんなさい。私が急にクエルの腕を引っ張ったからです。お怪我はありませんでしたか?」
フリーダも慌てて男性に声をかけた。
「クエル? どこかで会ったことがあったか?」
男がクエルの顔を眺めつつ、小さく首を傾げて見せる。クエルはその瞳にどこか見覚えのある気がした。だがクエルが何かを思い出す前に、背後にいた取り巻きの一人が何かに気がついたらしく、ハッとした顔をする。
「シグルズさん、こいつはエンリケの息子ですよ。間違いありません。アルツ工房に出入りしているのを見たことがあります。後ろにいるのは、アルツのところの駆け出しです」
「エンリケの息子?」
シグルズが冷徹な目でクエルを眺める。その視線の鋭さに、クエルは思わず後ずさりしそうになった。
「あの男は人形技師としての矜持を失っただけでなく、息子も放り出して、どこかへ逃げたという話を聞いたが本当か?」
シグルズの問いかけにクエルは何も答える事は出来なかった。この件については何も言うなと国から言われている。
「どうした。息子として何も言うことは無いのか?」
無言のクエルを不遜ととらえたのか、シグルズがその表情をより険しいものへと変える。なぜ父親が失踪したのかはクエルにも分からない。それでも逃げ出したとは思えなかった。
クエルがせめてそれを口にしようとした時だ。誰かがクエルの前へ飛び出してきた。
「エンリケさんはそんな人じゃない! あの人は天才だ。凡人のお前には、それが理解できないだけだ!」
シグルズに向かって、スヴェンが声を上げた。
「この小僧!」
シグルズの取り巻きの一人が、スヴェンへ腕を伸ばそうとする。スヴェンはその手を跳ね除けると、逆にシグルズへと向かっていった。
「ここにあんたが申請に来たのだって、あの人がいたからじゃないのか!」
シグルズは詰め寄ったスヴェンの胸倉を掴むと、その体をそのまま持ち上げた。そしてスヴェンの顔を覗き込む。
「違うな。あの男が何もしなかったからだ」
「そこのお前、スヴェン様にとっても失礼なのです! 今すぐ挽肉にしてやるのです!」
「この雪だるま。てめえはシグルズさんに向かって、なんて口をきいているんだ!」
頭をそり上げた取り巻きの一人が、ムーグリィに拳を振り上げようとする。クエルは慌ててムーグリィに殴りかかろうとした男の腕を押さえつけようとした。だが間が悪いことに、男の振り上げた拳が、思いっきりクエルの顔面へと叩き込まれる。
クエルの目から火花が飛び散った。思わず顔に持っていった手に、何かぬるっとした物を感じる。どうやら鼻血も出てしまったらしい。
「クエル!」
背後でフリーダの叫び声がした。
「クエルになんてことをするの!」
痛みで崩れ落ちそうになった体を、クエルは必死に支えた。ともかくフリーダを止めないといけない。フリーダは決して人と争ったりはしないが、昔から一つだけ例外がある。
クエルに対して理不尽な行為を行った相手にだけは容赦しない。フリーダは気がついていないが、それはクエルに対する嫉妬の元であり、クエルから同世代の人間を遠ざける原因でもあった。
それに今は喧嘩などしている場合ではない。争いなどして、選抜の申請が不受理になったら大変なことになる。クエルはシグルズへ向かっていこうとするフリーダの前へ体を差し込んだ。それでもフリーダはクエルの体を跳ね除けて、シグルズへ向かっていこうとする。
「兄さん!」
不意に女性の声が上がった。部屋の中にいたものが、動きを止めて一斉に入り口の方を振り返る。そこには車椅子に乗った、鳶色の髪をした少女の姿があった。
「兄さん、やめてください!」
少女は車椅子を進めてシグルズの元へ向かうと、その裾を引いた。
「フリーダさん、兄が大変失礼な事をして、申し訳ありません」
フローラがクエルたちに向かって頭を下げる。そして鼻から血を流しているクエルに目をとめると、慌ててハンカチをクエルへ差し出した。差し出されたハンカチには、隅に赤いテントウムシの刺繍が入っているのが見える。
「大丈夫です」
そう口にはしたが、床にしたたる血を見て、クエルは素直にハンカチを受け取った。
「フローラ、お前とは関係ない話だ」
「関係なくなどありません。この方たちには先ほど助けていただいたばかりです」
「謝ってください!」
フリーダはそう告げると、シグルズの前へと進み出た。
「フリーダさん、すいません。私の方から……」
「フローラさん。申し訳ありませんが、私は本人に謝って欲しいんです!」
そう告げるフリーダの顔には、有無を言わさぬ迫力がある。
『いけない!』
フリーダが怒りに我を忘れている。クエルは慌ててフリーダの腕を掴んだ。
「フリーダ、これは事故だよ。たまたま僕が立った所に手が当たっただけだ」
「違うわ!」
「フリーダ。これは事故だ。そうなんだ」
「クエル……」
クエルはフリーダのオレンジ色の瞳をじっと見つめた。
「これにて受付は終了しました」
不意に部屋の奥から声が響く。見ると受付事務の女性が、窓口に終了の札を置こうとしていた。
「えっ!」
クエルはフリーダと顔を見合わせる。こんなところで言い争いなどしている場合ではなかったのを忘れていた。気づけば、部屋にいた他の申請者たちの姿も消えている。
「すいません。選抜の申請をお願いしたいのですが」
「本日の受付は終了です。それに業務の迷惑ですので、私的な問題の解決は建物の外でお願いします」
メガネを掛けた女性職員が、いかにも迷惑そうな顔をして、クエルたちに告げた。
「本当にすいません。申請の受付だけでも、お願いできませんでしょうか?」
フリーダが慌てて受付へと駆け寄る。
「私からもお願いします。兄さん、兄さん達のせいよ!」
「フローラ、そんなことより戻るぞ」
「私の用事は終わっていません。それに自分で帰れます!」
「おや、これは珍しいところで、珍しい方々にお会いしますね」
入り口の方からクエルたちへ声がかかった。