工房証
クエルの体を怒りが駆け巡った。それはクエルの心に黒い穴を開け、そこからほの暗い何かが這い上がって来る。
『なんだ?』
クエルは自分の心に湧き上がって来たものに当惑した。それは霞のように捉えどころのないものではあったが、クエルの意識を黒く塗りつぶしていく。
『……を外……せ……』
黒い霧がクエルに何かをささやいた。クエルはそれが語りかける言葉に耳をすませる。
『外せ……お前の……』
繰り返される言葉に、心の中の何かが反応した。それは真っ黒な糸となり、検査台の上のセレンへと繋がろうとする。
「クエル様!」
セシルの叫びにクエルは我に返った。自分の心を覆う黒い霧が晴れ、その奥に開いていた真っ黒な穴と共に、いずこかへと去っていく。そしてクエルの周りには世界が戻ってきた。
「本当にごめんなさい」
クエルの目の前に立つフリーダが、再び頭を下げる。その姿にクエルは自分が何をすべきなのかを思い出した。それは決して何かに怒りをぶつけることなんかじゃない。
「フリーダ。これが最後の選抜な訳じゃない」
クエルの言葉にフリーダは顔を上げた。
「でも、次は四年後なのよ!」
「今日、僕らは人形師になった。それもついさっきだ。選抜を受けるのが四年後だとしても、決して遅すぎたりはしないよ」
「クエル……」
「四年後も僕は……」
「おい、スヴェン。お前は何を惚けた顔をしているんだ!?」
クエルがフリーダに続きを告げようとした、その時だった。検査棟の中に野太い声が響いた。
「親父!」
スヴェンの口から驚きの声が上がる。ついでにゴンという低く鈍い音も響いてきた。アルツのげんこつに、スヴェンは頭を抱えてうずくまる。
「この程度のお使いも出来ないとはどういうことだ!」
「す、すいません!」
「アルツおじさん、これはスヴェンさんのせいでは――」
そう声を上げたフリーダに、アルツが小さくため息をついて見せた。
「人形技師という仕事は、どんなに細かい事でもちゃんと目を配れないといけません。とは言え、ここまで修理が遅くなったのは私の不手際でもあります」
アルツはスヴェンの頭を押さえると、一緒にフリーダへ頭を下げた。
「本当はもっと早くこちらへ顔を出すつもりだったんですがね。技官部長との会合が思ったより長引きました。それもやっと休憩になったところです。歳を取ると、会議なんてものは肩がこっていけません」
アルツはいかにも肩がこったとでも言うように、その丸太みたいに太い腕を、検査官の前でぐるぐると回して見せる。
「なにより、歳を取ると大事なことを忘れてしまう」
そう言うと、アルツはスヴェンに工房証を差し出した。
「何をぼけっとしているんだ? こいつをさっさとギガンティスに貼り付けてこい!」
「はい、親父さん!」
スヴェンは嬉しそうに声を張り上げると、受付係が入り口を開けるのを待たず、それを飛び越えギガンティスへ駆けあがった。そして工房証を胸の扉へ張り付ける。
「おじさん、本当に助かりました」
フリーダがアルツに向かって深々と頭を下げた。その姿にアルツが慌てて手を横に振る。
「これはこちらの手違いですよ。検査官、さっさと工房証の確認をしろ!」
アルツの怒声に、検査官は慌ててギガンティスの胸の扉を確認した。
「か、確認しました。アルツ工房、制作者:アルツ・カートランド、制作番号:256」
「そうだ。おじさんならクエルの人形の工房証が、どこにあるか知りませんか?」
「はい。知っています」
アルツの言葉に、フリーダはまるで糸が切れた人形みたいに床にへたり込むと、安堵のため息を漏らして見せた。クエルは慌てて床にあるフリーダの手を取り、立つのを手伝う。
「スヴェン、坊主の人形の首筋を確認しろ。そこに小さな扉があるはずだ。開け口は髪の位置の後ろ。そこに小さな突起が二カ所ある。そこを同時に押せ」
「はい、親方!」
ギガンティスから飛び降りたスヴェンが、セシルの背中へ作業台を向けた。
カチリ!
セレンから微かな金属音が響き、首の後ろの小さな扉が開く。アルツから怒鳴られる前に、検査官が作業台へよじ登った。
「確認しました。工房名:ウルバノ 制作者:セラフィーヌ・ウルバノ 制作番号:1」
読み上げられた母親の名前にクエルは驚く。アルツがクエルに小さく頷いて見せた。
「工房証に書いてあるとおりだ。その人形はセラフィーヌが坊主の為だけに作った、ただ一体の人形だ。大事にしろ。俺から言えるのはそれだけだ」
どうやらそれ以上は何も語るつもりはないらしい。
クエルは頭を振った。母さんは人形について何も語った事はない。興味がある素振りすら見せなかった。それにウルバノは御三家筆頭の家名でもある。
『単なる偶然だろうか?』
クエルは母親の旧姓について、自身からも、父親からも聞いた記憶がないのに気がついた。
「サンデーはどうなるのです!」
不意にクエルたちの背後から大きな声が響く。
「サンデーは登録できないのですか?」
ムーグリィがふくれっ面をして、あたりを見回していた。その背後ではセシルが人形らしからぬ荒い息をしている。どうやらムーグリィを今まで抑え込むのに疲れ切ったらしい。
「サンデー?」
アルツは作業台にならぶ人形を眺めた。そして絶句する。
「もしかして、あの積み木か?」
「そこのお前、サンデーを積み木呼ばわりしたのですね。許さないのです。挽肉に……」
ムーグリィの目に殺気が宿る。
「親父!」
スヴェンが慌ててアルツの袖を引いた。
「もしかしてお父様なのですか? それは大変失礼したのです」
ムーグリィは驚いた顔をすると、慌ててアルツに頭を下げる。
「こちらこそ大変失礼な事を。こちらのお嬢さんは?」
「はい。受付で一緒になったムーグリィさんです」
「ムーグリィ?」
フリーダの答えに、アルツは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。
「お父様、そうなのです。ムーグリィなのです」
「お父様?」
スヴェンが横で当惑の声を上げたが、アルツはそれを無視すると、ムーグリィの前へ進み出た。
「もしかして、お嬢さんは北領のグリィ家の縁者か?」
「ムーグリィはムーグリィなのです」
「そ、そうだな。おい、どうしてこの人形の登録が出来ないんだ!?」
アルツは傍らに立つ検査官を再び怒鳴りつけた。その剣幕に顔を蒼白にしながらも、検査官が首を横に振って見せる。
「工房証がないと受付出来ません」
「はあ? ど素人が、何を寝ぼけた事を言っているんだ!」
アルツが検査官の胸ぐらを掴む。だがすぐにそれを離すと、スヴェンの方を見た。
「スヴェン、お前がこのサンデーを組み立てていたな」
「えっ!」
「そうだろう!」
スヴェンはアルツの迫力に圧倒されながらも、何を言いたいのかを理解したらしい。アルツに対して大きく頷いて見せる。
「は、はい、親方!」
「自分の組み立てた人形に工房証をつけ忘れるとは何事だ。さっさとこれに署名してつけてこい。番号は261番だ」
「はい!」
アルツから工房証を受け取ったスヴェンは、検査官から羽ペンを奪い取ると、それに署名してサンデーへ向かう。そしてここでいいのかとムーグリィに確認すると、核収納口の裏にそれを貼り付けた。
「検査官!」
アルツの声に、技官が慌てて工房証を確認する。
「確認しました。工房名:アルツ工房 制作者:スヴェン 制作番号:261番」
「書類はこれでいいかね?」
アルツがわざとらしく検査官に告げると、その手から書類をひったくってスヴェンに押し付けた。
「休憩時間が過ぎてしまったな。スヴェン、後はまかせたぞ」
そうつぶやくと、アルツは大股に検査棟から去って行く。その後姿をあっけに取られて見ていたスヴェンの前へ、ムーグリィが進み出た。
「スヴェン様。あらためまして、ムーグリィなのです。助けていただきまして、本当にありがとうございました」
ムーグリィがスヴェンに対して丁寧に頭を下げた。
「あ、あのスヴェンです」
「ムーグリィはこのご恩を決して忘れないのです。なのでムーグリィはあなた様のお嫁さんになって、このご恩を返させていただくのです」
「それはどうも。えっ、嫁さん!?」
「いきなりの逆プロポーズ!」
フリーダが口に手を当てながら叫び声を上げた。
「いや、待ってくれ。そんなたいしたことはしていない。親父から言われたからやっただけで、恩なんて全く、全く感じなくていいから」
だがその台詞がムーグリィに届いている様子は無い。キラキラした目でスヴェンをまっすぐ見ている。
「ムーグリィはあなた様に一生ついていくのです!」
「あのね、俺の話を聞いていた。それに俺はセシルちゃんが好きなの。大好きなの!」
「いきなりの告白!」
再びフリーダが口に手を当てて叫んだ。
「セシル? 誰ですかそれは?」
「このお方だ。地上に舞い降りた天使だ!」
そう言うと、フリーダの横で我関せずに立っていたセシルを指さした。スヴェンの言葉に、ムーグリィの表情が変わる。
「お前か、お前が私の邪魔をするのですね」
その口から漏れた不穏な響きに、セシルが思わずフリーダの影へ隠れるのが見えた。
「スヴェンさん、だめですよ。セシルちゃんは私のかわいい妹ですから、スヴェンさんにはあげません!」
「いつからセシルの保護者になったんだ!?」
「最初からよ!」
セシルに抱きついたフリーダがクエルに答える。
「ふふふ、サンデー、こいつを……」
その言葉に、スヴェンが慌ててムーグリィの前へ飛び出した。その顔はいつもの間が抜けた顔と違って真剣だ。
「セシルちゃんに何かしたら、絶対に許さないぞ!」
「そ、それは困るのです。わ、分かったのです。この服ですね。この服を着ればいいのです。その服を今すぐ脱いで、ムーグリィに渡すのです!」
ムーグリィがセシルに向かって突進すると、侍従服のスカートを思いっきり引っ張る。
「ムーグリィお嬢様、おやめください!」
下着が見えそうになったセシルが、慌ててスカートの裾を抑えた。驚いたスヴェンがムーグリィの体を引っ張る。
「ここは検査場だぞ!」
検査官が呆れた声を上げた。
「だまりなさい!」「黙るのです!」「だまってろ!」
三人が検査官に怒鳴りつける。セシルは三人の間でもみくちゃにされながら、クエルに向かって小さく肩をすくめて見せた。