表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
42/108

工房証

 クエルの体を怒りが駆け巡った。それはクエルの心に黒い穴を開け、そこからほの暗い何かが這い上がって来る。


『なんだ?』


 クエルは自分の心に湧き上がって来たものに当惑した。それは霞のように捉えどころのないものではあったが、クエルの意識を黒く塗りつぶしていく。


『……を外……せ……』


 黒い霧がクエルに何かをささやいた。クエルはそれが語りかける言葉に耳をすませる。


『外せ……お前の……』


 繰り返される言葉に、心の中の何かが反応した。それは真っ黒な糸となり、検査台の上のセレンへと繋がろうとする。


「クエル様!」


 セシルの叫びにクエルは我に返った。自分の心を覆う黒い霧が晴れ、その奥に開いていた真っ黒な穴と共に、いずこかへと去っていく。そしてクエルの周りには世界が戻ってきた。


「本当にごめんなさい」


 クエルの目の前に立つフリーダが、再び頭を下げる。その姿にクエルは自分が何をすべきなのかを思い出した。それは決して何かに怒りをぶつけることなんかじゃない。


「フリーダ。これが最後の選抜な訳じゃない」


 クエルの言葉にフリーダは顔を上げた。


「でも、次は四年後なのよ!」


「今日、僕らは人形師になった。それもついさっきだ。選抜を受けるのが四年後だとしても、決して遅すぎたりはしないよ」


「クエル……」


「四年後も僕は……」


「おい、スヴェン。お前は何を惚けた顔をしているんだ!?」


 クエルがフリーダに続きを告げようとした、その時だった。検査棟の中に野太い声が響いた。


「親父!」


 スヴェンの口から驚きの声が上がる。ついでにゴンという低く鈍い音も響いてきた。アルツのげんこつに、スヴェンは頭を抱えてうずくまる。


「この程度のお使いも出来ないとはどういうことだ!」


「す、すいません!」


「アルツおじさん、これはスヴェンさんのせいでは――」


 そう声を上げたフリーダに、アルツが小さくため息をついて見せた。


「人形技師という仕事は、どんなに細かい事でもちゃんと目を配れないといけません。とは言え、ここまで修理が遅くなったのは私の不手際でもあります」


 アルツはスヴェンの頭を押さえると、一緒にフリーダへ頭を下げた。


「本当はもっと早くこちらへ顔を出すつもりだったんですがね。技官部長との会合が思ったより長引きました。それもやっと休憩になったところです。歳を取ると、会議なんてものは肩がこっていけません」


 アルツはいかにも肩がこったとでも言うように、その丸太みたいに太い腕を、検査官の前でぐるぐると回して見せる。


「なにより、歳を取ると大事なことを忘れてしまう」


 そう言うと、アルツはスヴェンに工房証を差し出した。


「何をぼけっとしているんだ? こいつをさっさとギガンティスに貼り付けてこい!」


「はい、親父さん!」


 スヴェンは嬉しそうに声を張り上げると、受付係が入り口を開けるのを待たず、それを飛び越えギガンティスへ駆けあがった。そして工房証を胸の扉へ張り付ける。


「おじさん、本当に助かりました」


 フリーダがアルツに向かって深々と頭を下げた。その姿にアルツが慌てて手を横に振る。


「これはこちらの手違いですよ。検査官、さっさと工房証の確認をしろ!」


 アルツの怒声に、検査官は慌ててギガンティスの胸の扉を確認した。


「か、確認しました。アルツ工房、制作者:アルツ・カートランド、制作番号:256」


「そうだ。おじさんならクエルの人形の工房証が、どこにあるか知りませんか?」


「はい。知っています」


 アルツの言葉に、フリーダはまるで糸が切れた人形みたいに床にへたり込むと、安堵のため息を漏らして見せた。クエルは慌てて床にあるフリーダの手を取り、立つのを手伝う。


「スヴェン、坊主の人形の首筋を確認しろ。そこに小さな扉があるはずだ。開け口は髪の位置の後ろ。そこに小さな突起が二カ所ある。そこを同時に押せ」


「はい、親方!」


 ギガンティスから飛び降りたスヴェンが、セシルの背中へ作業台を向けた。


 カチリ!


 セレンから微かな金属音が響き、首の後ろの小さな扉が開く。アルツから怒鳴られる前に、検査官が作業台へよじ登った。


「確認しました。工房名:ウルバノ 制作者:セラフィーヌ・ウルバノ 制作番号:1」


 読み上げられた母親の名前にクエルは驚く。アルツがクエルに小さく頷いて見せた。


「工房証に書いてあるとおりだ。その人形はセラフィーヌが坊主の為だけに作った、ただ一体の人形だ。大事にしろ。俺から言えるのはそれだけだ」


 どうやらそれ以上は何も語るつもりはないらしい。


 クエルは頭を振った。母さんは人形について何も語った事はない。興味がある素振りすら見せなかった。それにウルバノは御三家筆頭の家名でもある。


『単なる偶然だろうか?』


 クエルは母親の旧姓について、自身からも、父親からも聞いた記憶がないのに気がついた。


「サンデーはどうなるのです!」


 不意にクエルたちの背後から大きな声が響く。


「サンデーは登録できないのですか?」


 ムーグリィがふくれっ面をして、あたりを見回していた。その背後ではセシルが人形らしからぬ荒い息をしている。どうやらムーグリィを今まで抑え込むのに疲れ切ったらしい。


「サンデー?」


 アルツは作業台にならぶ人形を眺めた。そして絶句する。


「もしかして、あの積み木か?」


「そこのお前、サンデーを積み木呼ばわりしたのですね。許さないのです。挽肉に……」


 ムーグリィの目に殺気が宿る。


「親父!」


 スヴェンが慌ててアルツの袖を引いた。


「もしかしてお父様なのですか? それは大変失礼したのです」


 ムーグリィは驚いた顔をすると、慌ててアルツに頭を下げる。


「こちらこそ大変失礼な事を。こちらのお嬢さんは?」


「はい。受付で一緒になったムーグリィさんです」


「ムーグリィ?」


 フリーダの答えに、アルツは鳩が豆鉄砲を食らったような顔をする。


「お父様、そうなのです。ムーグリィなのです」


「お父様?」


 スヴェンが横で当惑の声を上げたが、アルツはそれを無視すると、ムーグリィの前へ進み出た。


「もしかして、お嬢さんは北領のグリィ家の縁者か?」


「ムーグリィはムーグリィなのです」


「そ、そうだな。おい、どうしてこの人形の登録が出来ないんだ!?」


 アルツは傍らに立つ検査官を再び怒鳴りつけた。その剣幕に顔を蒼白にしながらも、検査官が首を横に振って見せる。


「工房証がないと受付出来ません」


「はあ? ど素人が、何を寝ぼけた事を言っているんだ!」


 アルツが検査官の胸ぐらを掴む。だがすぐにそれを離すと、スヴェンの方を見た。


「スヴェン、お前がこのサンデーを組み立てていたな」


「えっ!」


「そうだろう!」


 スヴェンはアルツの迫力に圧倒されながらも、何を言いたいのかを理解したらしい。アルツに対して大きく頷いて見せる。


「は、はい、親方!」


「自分の組み立てた人形に工房証をつけ忘れるとは何事だ。さっさとこれに署名してつけてこい。番号は261番だ」


「はい!」


 アルツから工房証を受け取ったスヴェンは、検査官から羽ペンを奪い取ると、それに署名してサンデーへ向かう。そしてここでいいのかとムーグリィに確認すると、核収納口の裏にそれを貼り付けた。


「検査官!」


 アルツの声に、技官が慌てて工房証を確認する。


「確認しました。工房名:アルツ工房 制作者:スヴェン 制作番号:261番」


「書類はこれでいいかね?」


 アルツがわざとらしく検査官に告げると、その手から書類をひったくってスヴェンに押し付けた。


「休憩時間が過ぎてしまったな。スヴェン、後はまかせたぞ」


 そうつぶやくと、アルツは大股に検査棟から去って行く。その後姿をあっけに取られて見ていたスヴェンの前へ、ムーグリィが進み出た。


「スヴェン様。あらためまして、ムーグリィなのです。助けていただきまして、本当にありがとうございました」


 ムーグリィがスヴェンに対して丁寧に頭を下げた。


「あ、あのスヴェンです」


「ムーグリィはこのご恩を決して忘れないのです。なのでムーグリィはあなた様のお嫁さんになって、このご恩を返させていただくのです」


「それはどうも。えっ、嫁さん!?」


「いきなりの逆プロポーズ!」


 フリーダが口に手を当てながら叫び声を上げた。


「いや、待ってくれ。そんなたいしたことはしていない。親父から言われたからやっただけで、恩なんて全く、全く感じなくていいから」


 だがその台詞がムーグリィに届いている様子は無い。キラキラした目でスヴェンをまっすぐ見ている。


「ムーグリィはあなた様に一生ついていくのです!」


「あのね、俺の話を聞いていた。それに俺はセシルちゃんが好きなの。大好きなの!」


「いきなりの告白!」


 再びフリーダが口に手を当てて叫んだ。


「セシル? 誰ですかそれは?」


「このお方だ。地上に舞い降りた天使だ!」


 そう言うと、フリーダの横で我関せずに立っていたセシルを指さした。スヴェンの言葉に、ムーグリィの表情が変わる。


「お前か、お前が私の邪魔をするのですね」


 その口から漏れた不穏な響きに、セシルが思わずフリーダの影へ隠れるのが見えた。


「スヴェンさん、だめですよ。セシルちゃんは私のかわいい妹ですから、スヴェンさんにはあげません!」


「いつからセシルの保護者になったんだ!?」


「最初からよ!」


 セシルに抱きついたフリーダがクエルに答える。


「ふふふ、サンデー、こいつを……」


 その言葉に、スヴェンが慌ててムーグリィの前へ飛び出した。その顔はいつもの間が抜けた顔と違って真剣だ。


「セシルちゃんに何かしたら、絶対に許さないぞ!」


「そ、それは困るのです。わ、分かったのです。この服ですね。この服を着ればいいのです。その服を今すぐ脱いで、ムーグリィに渡すのです!」


 ムーグリィがセシルに向かって突進すると、侍従服のスカートを思いっきり引っ張る。


「ムーグリィお嬢様、おやめください!」


 下着が見えそうになったセシルが、慌ててスカートの裾を抑えた。驚いたスヴェンがムーグリィの体を引っ張る。


「ここは検査場だぞ!」


 検査官が呆れた声を上げた。


「だまりなさい!」「黙るのです!」「だまってろ!」


 三人が検査官に怒鳴りつける。セシルは三人の間でもみくちゃにされながら、クエルに向かって小さく肩をすくめて見せた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ