化身
クエルはおよそ一刻(二時間)の間、河川敷の暗闇の中でセレンを繰りながら、サラスバティの繰り出す打撃を、腕や足で必死に押さえ続けた。そして今は疲れ果てて地面に寝ている。
「どうやらコツを掴んだようだな。サラスバティに、二組目の腕を使わせるようになるとは上出来だ」
セシルは地面に横たわるクエルの姿を見ながらつぶやくと、セレンの腕でクエルの体をそっと抱き上げた。
「それにまだこの化身の維持もできている。お前もだな――」
セシルは背後の闇を振り返った。そこには雲の間から顔を出した月明かりの下、浅黒い肌をした少女が跪いている。だがその姿は夏の陽炎の如く、ゆらゆらと揺らめいて見えた。
「はい。尊きお方」
そう答えた少女が、セシルに対して首を垂れた。
「我に対するその様な態度も、敬称も不要だ」
「あなた様は特別なお方。そうはいきません」
「お前と同じくマスターの人形だ。それ以上でもそれ以下でもない。それに我の事はセシルと呼べ。その呼び方以外には決して答えぬ。それと『様』などは絶対につけるな。百歩譲って『さん』付けなら許す」
そう告げてから、セシルは首を傾げて見せた。
「そなたに字がないのも問題だな。本来なら我がマスターがつけるべきであろうが、話がいろいろとややこしくなる。仕方がない。我がつけよう。『ラートリー』だ。それでよいか?」
「はい。セシルさん、ありがとうございます」
「汝は頭が固いやつだな」
「はい、大枝に成りし実なれば」
そう答えると、ラートリーは地面に手をついて、深々と頭を下げた。
「このような穢れし身を救って頂きまして、本当にありがとうございました」
その台詞を聞いたセシルが、怪訝そうな顔をする。
「穢れ? どういう意味だ」
「世界樹の身でありながら、人の技にこの身を自由にさせてしまいました。本来なら自身にて己の存在を――」
「そのような卑下した言葉を口にするな」
ラートリーは顔を上げると、セシルに少し驚いた顔をして見せた。
「事実ではありませんか?」
「事実? 違うぞ。穢れとは、他人につけられるものではない。己の信念に対して、己で付けた傷だ。それに我がマスターは自身が相当に自虐的であるくせに、我らがそのように振る舞うのを好まない。いや、拒否するのだ。それをわざわざする必要はない」
「承知いたしました」
「それよりも、お前を縛り付けていた技だが、あれは一体何なのだ? それに、この間の森にはあまりにも多くの人形がいた。収穫できる世界樹の実の数を考えれば、とてもあり得ぬ数だ。それもその技の為せるものなのか?」
「申し訳ございません。私にもよく分からないのです。融合はすれど、始動も結合も行わない。代わりにあの鎖にて我らを縛り、それで同期のみを行い動かします。なので――」
「主と共に消えることはないと言うことか?」
「はい」
「なるほど。それであれだけの人形の数か。我が眠っていた間に、この世界は一体どうしたのだ? 色々と腑に落ちぬことだらけだ」
そう告げると、セシルはラートリーに頭を振って見せた。
「我らは全にして個、個にして全のはずだ。時すら超えて全てを共有しているはずなのに、大事なことを何も思い出せん。ラートリー、お前はどうだ?」
「何も思い出せません。救っていただくまでは、己が世界樹の実であることすら忘れていました。ですが、融合した私がこの姿に戻れたのはなぜでしょうか? それに化身まで使えるようになるとは、想像も出来ませんでした」
「我らに意識を与えるマスターの力だ。あれの力がどこまであるのかは我にも分からん。それに我が目覚めたと言うことは、マスターと共に、間違いなくあれに呼ばれたのだ」
その言葉に、浅黒い肌の少女が深く頷いて見せた。
「それに化身とは、我らにとって、人の夢みたいな存在のはずだ」
そう告げると、セシルは少女の体へ腕を差し出した。それは何にも触れることなく、その先へとすり抜けていく。
「それを定着可能にする人形を作りだすなど、思いもよらなかった。とても人の技とは思えん。それにこれは我だけではないらしい。やはりあれに、世界樹へ会いに行かねばならぬな」
「はい。セシルさん。それがあなたの役目です」
ラートリーの言葉に、セシルは肩をすくめて見せた。
「全くもって面倒くさい話だが、まあよい。先ずはマスターを連れて帰って、何か暖かい物でも食べさせてやるとしよう。我らにとって、マスターこそが何よりも大事だ」
「私の方で、何かお手伝い出来ることはありますでしょうか?」
「手伝い? 何を言っている。これは侍従人形としての我の務めだ。あの小娘と同様に、我の邪魔をする気ならお前を握りつぶす。絶対に握りつぶす。それと直接同期を取ることも許さぬ」
セシルの真剣な顔を見たラートリーが、小さく含み笑いを漏らした。
「セシルさん、承知いたしました。あなたの邪魔は絶対にいたしません」
「それで良い。これは我の楽しみなのだ」