牙
「はっ、はっ、はあ……」
木の幹に片手をつくと、ミゲルは肩で大きく息をした。自分としてはだいぶ進んだつもりだったが、王都の灯はおろか、まだ人家の明かりもどこにも見えない。ともかく一軒でも家が見つかれば、そこの馬を取り上げるなり、そこから人を走らせるなりできるのだが、何も見つからない以上、自分の足を動かすしかない。
ミゲルは汗に濡れた髪をかき上げて周囲を見た。辺りは真っ暗で、落ち始めた広葉樹の枝の間から、月の明かりが僅かに差し込んでくるだけだ。
「あのガラクタの役立たずが!」
ともかく一度休まないと動けそうにない。ミゲルは木の根元へ腰を下ろすと、その幹に背中を預けた。
「なんで俺がこんな目に遭わないといけないのだ?」
着ている黒地に金の刺繍をあしらった礼服は、何度か転んだせいで、泥に塗れて見るも無残だ。ローレンツ家の面目も何もありはしない。自分の人形をあっさりとバラバラにし、自分をこんな目に合わせた相手が頭に浮かんでくる。
「あれは何だったんだ?」
ミゲルが見る限り、見かけは少し精巧に作られた侍従人形にしか見えなかった。それが腕を振っただけで、斬撃属性を備え、岩をも一刀両断にするアマリアの尾を、あっさりと切断してしまったのだ。
距離もあった上に、手には刃物のようなものも何もなかった。訳がわからない。だが決してこのままになどしないと、ミゲルは心に固く誓った。
次期当主であるジークベルト様にお願いして、必ずこの屈辱を晴らす。あの軟弱男の爪の一枚一枚を剥がし、歯の一本一本を砕いて抜いてやる。そして足や手をもいで、最後に目をつぶすのだ。だがすぐに殺しはしない。奴が殺してくれと懇願しても、そのままの姿を晒し続けてやる。
「ハハハハ」
ミゲルはその場面を想像すると、笑い声を漏らした。頭に浮かんだ泣き叫ぶ相手の姿が、一瞬だけでも体の疲れや、喉の渇きを忘れさせる。
「フフフフ」
その時だった。ミゲルの耳に、自分のものではない小さな笑い声が聞こえた。ミゲルは体をビクつかせながら、あたりの様子を伺う。だが遠くでフクロウが鳴く、ホーという鳴き声しか聞こえてこない。
「気のせいか?」
「フフフフ」
再び笑い声が響く。今度はミゲルの耳に間違いなく聞こえた。そして白い何かが、目の前にある木々の間を横切る。
「誰だ!」
木の根から腰を浮かせると、ミゲルは恐る恐る声をかけた。
「フフフフ」
ミゲルの呼びかけに、含み笑いと共に真っ白な姿が木々の間から現れた。長く白い髪が、林の中を吹く風に揺れているのも見える。
「ひっ!」
ミゲルの口から思わず悲鳴が上がった。だが月明りが照らすその姿を見ると、今度は安堵のため息を漏らす。
「シラヌイか。脅かすな」
そう言って立ち上がると、照れ隠しに、裾についた泥を払って見せる。
「マクシミリアンがお前を寄越したんだな。ガルーダはどこだ? さっさと戻ってジークベルト様に……」
そこでミゲルは言葉を飲み込んだ。真っ白な姿をした少女が、手を後ろに組みながら、うすら笑いを浮かべつつこちらへと近づいてくる。
「お、俺の言っていることを、き、聞いているのか?」
ミゲルの背に冷たい汗が流れた。女の真っ赤な瞳は、まるでその辺を飛ぶうっとうしい羽虫でも見るみたいに、こちらを見ている。
「どうして我が、お前のような役たたずの願いを聞かねばならぬ――」
「お、お前は何を言っているのだ?」
「我君の命じたお使い程度ができぬお前に、この世に存在する価値はない。せめて我の糧となり、少しは我君のお役に立つが良い」
ミゲルは慌てて体を返すと、そこから逃げ出そうとした。しかし足が思い通りに動かない。ミゲルは木の根に足を取られると、派手に地面へ転がった。顔中に湿気を含んだ落ち葉がまとわりつく。土と共に葉が腐りゆく香りに、ミゲルはむせた。
それでもミゲルはそれを振り払い、痛む足を引きずって、何とか先へ進もうとする。だが月明かりを背にした人影が、ミゲルの行く手をふさいだ。
「シラヌイ、頼む。助けて……」
そう口にしながら頭を上げると、そこには赤く光る目と、大きく開かれた血の色を思わせる口があった。口の中では鋭い牙が月明りを受け、白く輝いているのも見える。
「ギャ――!」
林の中から獣のものではない声が上がった。だがすぐに途切れる。戻ってきた静寂の中、フクロウのホ―という鳴き声だけが、林の奥から聞こえてきた。