操り人形
かつてクエルは父や母と一緒に、この家で暮らしていた。それが失われてしまってから、どれだけの時が過ぎたのだろう。四年前に母が流行り病で亡くなり、一年前に父のエンリケが失踪した。いや、消えてしまったという方が正しいかもしれない。
父が居なくなった時、クエルには母を亡くした時のように、それを嘆いたり悲しんだりしている暇は与えられなかった。いきなり現れた国の役人たちにより家中が捜索され、クエルも王宮の一角に軟禁される。
尋問は執拗だった。父の行方について、また父が行きそうな場所の心当たりについて、何度となく尋問され続けた。やがて尋問の内容は、父が工房として使っていた地下室の開け方へと変わる。庭に穴を掘るなど、ありとあらゆる手段をとっても、そこには入ることが出来なかったらしい。
国の役人たちはクエルがそれを教えたら、王女の一人と結婚させるなどという、まったくもって現実味がない条件すら示して来たほどだ。どんな条件を示されても、知らないものは知らない。尋問はすぐに脅迫へと変わり、クエルは死を覚悟した。
だがクエルの軟禁は半年ほどで突然の終わりを迎える。そして主に役人たちが住む一角にあるこの家へと戻ってきた。荒らされて何もなくなっていた家は、一見すると元通りになっている。
「残念ながら、いくつかの物は前と同じではない」
ここへ自分を連れてきたギュスターブ師、隣に住む幼なじみの父親はクエルに詫びた。そして世界樹の実と、この人間そっくりに作られた侍従人形を渡してくれた。父がギュスターブに預けていたものらしい。
ギュスターブはもし人形師になるつもりなら、これを試してみるといいと告げた。そこから約半年の間、クエルは特に何もすることなく、ただこの家で過ごし続けている。その間も父の行方についての噂は耳に入ってはくるが、その大半は開かずの工房で死んでいるのではないかと言うものだ。
だがクエルは父が死んだとはどうしても思えなかった。それに未だに工房の扉は開かずの扉として、この家の地下室に存在し続けている。その秘密を解き、父の行方を知るには、自分が人形師になるしかない。それでもクエルは中々踏ん切りがつかないでいた。父は間違いなく偉大な人形師だ。その父と自分が同じになれるとは到底思えなかった。
でも自分が人形師になるしか、父の行方を追う方法は思いつかない。クエルの心は水面を漂う落ち葉みたいに揺れ続けた。だが一月ほど前、ついにクエルは人形を動かす決心をする。
「あと一か月もないのか――」
クエルはその理由である、居間の卓の上においてあった書類を手に取った。そこには「国家人形師選抜について」と書かれている。ギュスターブが父の品と一緒に、自分に手渡してくれたものだ。そこに書かれた期限はあと一か月後。
父、エンリケと同じ人形師を目指すのであれば、この選抜に通って国家人形師にならねばならない。これは優れた人形師に対して国家がその身分を保障するものであり、四年に一度しか行われなかった。その申し込みの期限は今月末だ。選抜を受けるには人形を動かし、自分が人形師であることを示す必要がある。だがもう手元に世界樹の実はない。
そもそも世界樹の実は王家直属の人形庁が管理しており、自由に手に入るものではなかった。その母体となる人形も、複雑な機械の集合体でとても高価なため、国家人形師のほとんどは、王宮人形師の家系や、大貴族の師弟などに限られている。
ただの庶民であるこの家に、世界樹の実が3つもあったのは、父のエンリケが人形師の最高位である、『導師』だったからだ。元々が人形工房の家柄だった父が、国家人形師になれた事。ましてやその頂点である『導師』の尊称を得るなどというのは、この世界の常識からすれば青天の霹靂みたいなものとも言えた。
それでも父の力を疑う者は誰もいない。父は単なる人形師ではなかった。画期的な人形制作者でもあり、父が作り動かす人形はこれまでの人形とは違い、ほぼ人と見分けがつかない。
その一方、母のセラフィーヌは庶民も庶民で普通の人だった。なので父が導師だろうがなんだろうが、この家で工房に篭る父の世話をしながら、クエルに愛情を注いでくれた。母はクエルが器用なのを見ると、父や自分が知らない祖父の血を引いていると言っては、喜んでくれたのを覚えている。
だが母が流行病であっさりと死んでしまってから、父は王宮からの呼び出しにさえもまともに応じず、工房へ籠りっきりとなった。ある意味、父がいなくなる前から、クエルはこの家で孤独な時間を過ごしていたとも言える。
クエルは手にした書類を卓の上へと放り投げた。掃除をサボっているせいか、落ちた書類の周りから埃が舞い、夕刻の日差しにキラキラと輝く。この家には貴族が使うような侍従人形はいない。父が人形師の中の人形師であったのにも関わらず、母は家のこと一切を、人形に委ねることはしなかった。
それはこの家における禁忌の様なものであり、母が亡くなった後も続いている。最後の人形が少女の侍従姿だったのは、父がこの家のことを侍従人形にやらせようとして、思い留まったせいなのかもしれない。
「売った方がよかったかな?」
クエルの口から再び独り言が漏れた。世界樹の実はあれで最後だ。別の世界樹の実を手に入れるなんてことは到底無理だし、そもそも3つもあったのに、一つも反応しなかった。自分には人形師としての才能など、最初から無かったのだ。だけど今後どうやって生計を立てて行くかは考えないといけない。
思い出が詰まったこの家も、いずれは手放すことになるだろう。父がどこでどう使ったのかは知らないが、この家には大した金は残っていない。だが地下にあれがあるこの家に、買い手など付くのだろうか?
クエルは頭を振った。間違いなく誰も手を出したりはしない。それにクエルはもうすぐ17で、普通ならとっくに働いている年だ。今すぐにでもどこかの工房に弟子入りすべきだが、幼馴染のフリーダを除けば、唯一の友人のスヴェンが働く、アルツ親方の所ぐらいしか当ては無かった。
あの親方なら父の人形の手伝いもしていたので、弟子入りするには歳が行きすぎていても、きっと受け入れてくれるだろう。早速明日にでも挨拶に行く決心をすると、クエルは壁に掛かっていた操り人形を外して釣り手を握る。クエルの足元で仮面をつけたピエロの人形がくるりと回り、胸に手を当てて挨拶をした。母が10歳の誕生日にくれた操り人形だ。
「こっちなら、それなりに行けると思うんだけどな……」
人形は見えぬ相手と軽やかに踊り、その相手に膝をついて求愛すると、敗れた恋に涙を流してみせる。だがこの家には、それに拍手を送ってくれる人はもういなかった。
クエルは深いため息をつくと、手にした釣り手を傍の椅子の上へ放り投げる。急に命が奪われでもしたかのように、ピエロの人形が床にだらりと横たわった。窓の外では夕飯の支度に、家々の煙突から煙が上がり始めたのが見える。
『孤独とは、それが訪れて初めて理解するものだ』
その景色に、前に読んだ誰かの本に書いてあった台詞を思い出す。だが何かを忘れている気がする。
「しまった!」
クエルの口から声が上がった。今日は隣にある幼なじみのフリーダの家で、夕飯を食べる約束をしていたはずだ。フリーダの母親のリンダおばさんは、一人暮らしのクエルに気を使って、いつも食事に来るように誘ってくれる。
正直なところ、孤独に慣れているクエルとしては、一人でいる事に何の問題も感じてはいなかったが、誘われれば断ることなど出来ない。何より遅れて、フリーダの機嫌が悪くなると、とんでもなく煩わしいことになる。
急ぎ出かけようとしたクエルが、椅子から身を起こそうとした時だ。何かがクエルの足に触れた。
『ネズミか!?』
クエルは慌てて床から足を上げる。見るとそこにはピエロの人形がいた。
『釣り手は?』
不思議な事に、ピエロに繋がっている糸はだらりとぶら下がったままだ。けれどもピエロは手を上げると、クエルのズボンの裾を引っ張った。
「なんなんだ!?」
思わず叫び声を上げたクエルの目に、ピエロの仮面の奥で、そこにないはずの右目が微かに赤く光っているのが見えた。