従者
月の明かりが屋敷の中庭を青白く照らしている。その石畳の上で、小さな少女の人影が、まるで懺悔でもするように、膝をついて頭を地面につけていた。
冷たい岩の前に差し出された手は、三つ指を突いて綺麗に揃えられ、骨の様に真っ白な髪が、月明りに銀色に輝いている。その指先に小さな影が現れた。それは瞬く間に大きくなり、突風が吹き荒れ、少女の長い髪を揺らす。
ドン!
大きな振動音と共に、巨鳥が天から舞い降りてきた。月明かりを浴びて青白く見える羽根に、うっすらと金色の紋様が浮かびあがっては消える。黒い大外套を纏った人物はその背中から飛び降りると、屋敷に向かっておもむろに歩き始めた。
「我君、随分と遅いお戻りで心配しておりました」
少女はそう告げると、男性の後ろに続いて歩き始める。男性が手から外して放り投げた皮手袋を受け止め、その肩から大外套を外して腕へかけた。
「せっかくの遠出だ。しばし空を楽しんできた」
男性が背後へ続く少女へ答えた。
「それはよろしゅうございますが、夜はだいぶ冷えてまいりました。お体に触ります」
その言葉に男性は足を止めると、背後にいる少女の方を振り返った。男性の視線の先では、髪と同じく真っ白な肌に、血のように赤い唇、そして赤い目を持つ少女が少し心配そうな顔をしている。
「不知火、私だってもう小さな子供ではないんだ。心配しすぎだよ」
少女は男性の黒い瞳に見つめられると、うっとりした表情をして見せた。
「それよりもジークベルト兄様は?」
「まだ王宮からお戻りになっておりません」
「分かった。兄上への報告は後にしよう」
そう告げると若い男性、マクシミリアンは少女が開けた扉から屋敷の中へと入った。シャンデリアに照らされた廊下を進み、己の私室へと向かう。中は明かりがなく真っ暗だ。カーテンを開けたままの窓からは、青白い月の光だけが部屋に差し込んでいる。
マクシミリアンは明かりのない部屋の中へと入ると、窓際に置かれた革椅子の上へ深く体を沈めた。少女はその椅子の背後へ立つと、何かを確かめるように首元の匂いを嗅ぐ。
「不知火、そんなことをしなくても、今日は女の匂いはしないよ」
「本当でしょうか?」
少女が口元に笑みを浮かべながら、マクシミリアンの顔を覗き込んだ。
「それよりも、こちらは特に変わりはないか?」
「はい。ご不在の間、特に変わった事はございません」
だが少女はマクシミリアンの表情を見ると、僅かに首を傾げた。
「我君、何かご心配事でもおありでしょうか?」
「心配事などない。だが気に入らないことなら山ほどあるな」
「我君の心を煩わせるものなど、全てこの不知火が消して差し上げます」
「それは少し困るな。お前にこの世界を消してしまうように頼むことになる」
「我君はいつもこの不知火に意地悪でございます」
少女が拗ねた様に答えた。そして甘えるように、背中から椅子に座る、マクシミリアンの首元へと腕を回す。
「そう怒るな――」
マクシミリアンは胸元にかかった少女の髪をもて遊びつつ答える。そして少女の血の色をした小さな唇に、己の唇を重ねた。少女がそっと目を瞑る。
「ああ、我君」
少女はそう呟くと、名残惜しそうに、唇を離したマクシミリアンの頬へ、己の真っ白な頰を寄せた。
「だがいつまで耐えねばならぬのだろうな? あの簒奪者どもに頭を下げ続けるかと思うと、やはり腹が立つ」
マクシミリアンはそう告げると、東の空へ昇る満月に近い月を眺めつつ、小さくため息をついた。本来、世界樹はあの月の先にある東の大陸を、いや世界を統べていた皇家のものだったのだ。その末裔たる自分たちのものだ。
それがこの地の者たち、西大陸の者たちによって簒奪され続けている。それは本来の持ち主の元に戻り、本来の持ち主によって管理されねばならない。日々舞踏や狩猟などという、くだらない物にうつつを抜かす者たちのものではない。
「我君、あとほんの僅かの辛抱でございます。我君のお力があれば、この不知火が世界樹を本来の地へ必ず移します。それを支配し、この世を統べるのは我君でございます」
「そうだ。世界樹と世界樹の化身たるその実は、俗物たちの欲望を満たす為にあるのではない。この世に統制と秩序をもたらすためのものだ。この世を正しく導く為のものなのだ」
「その通りでございます。不知火はいつまでも、そしていつでも我君のお側におります」
マクシミリアンは彼が不知火と呼んだ少女に向かって頷いて見せる。だが何かを思い出したらしく、両の手を打ち鳴らした。
「そうだ。ミゲルは戻ってきているか? あれにはちょっとしたお使いを頼んでおいたのだが……」
「いえ、まだお戻りになっておりません。ご一緒だとばかり思っておりました」
「まだ戻っていない? それは少しまずいな。そうだ不知火、今日は面白い話がある」
「どんなお話でしょうか?」
マクシミリアンの言葉に、少女が少し怪訝そうな顔をして見せた。
「今日、私はある女性に袖にされた」
「袖に? 我君の誘いを断ったと言うのですか!?」
不知火の赤い目が鋭い光を帯びる。
「不知火、間違っても、その子をすぐに消しに行ったりするなよ。私はそれを楽しんでいる」
「ですが、我君の誘いを受けておきながら、それを袖にするなど、許し難き所業です!」
「それ以上に驚いたことがあった」
「我が君が驚くことなど、この世にありますでしょうか?」
「私だって人間だよ。そのぐらいのことはあるさ。今日、私を袖にした女性はとても美人でね。不知火も美しいが、君とは別の種類の美しさだな」
マクシミリアンはそう告げると、不知火に片目を瞑って見せる。
「我が君、お戯れはおやめください」
「それがある人に良く似ていたんだ」
「ある人?」
「もしかしたら、美人と言うのは、よく似た容姿になるものなのかな?」
不知火が不思議そうな顔をする。
「だけど、どうして兄上が彼女に興味を持ったのか、少し分かった気がする。どうやら今までみたいに、単なる暇つぶしの相手とは違うらしい。だがそれだけじゃないんだ」
「他にも、我が君に対する不敬がありましたでしょうか?」
「その子を別の男に持って行かれた」
不知火が驚いた顔をする。
「あり得ません!」
「不知火、人の好みはそれぞれだよ。だがその男をそのままにすると、兄上に小言を言われると思ってね。後始末するようにミゲルに頼んだのだ。この時間にも戻っていないとすると、どうやら失敗したらしいな」
「相手も人形師でしょうか? 役立たずの代わりに、この不知火が消してまいります」
そのセリフに、マクシミリアンは少し考える表情をした。
「さあどうだろう。あの子の言葉を真に受けるとすれば、これからなると言っていた。これは様子を見る必要があるな。それに私の恋敵君も選抜を受けると言っていたし、選抜はとても面白いことになりそうだよ」
それを聞いた不知火が、少し不満な顔をして見せる。
「それよりもミゲルだ。あれは兄上が私につけたお目付け役でもある。だから成功しても失敗しても、どちらでもいいとは思っていたが、こうあっさりと失敗するとは思わなかった」
マクシミリアンは小さく肩をすくめると、不知火の耳元に口を寄せた。
「遺恨があって返り討ちにあったと言うことにすれば、それはそれで兄上を動かす口実にはなるだろう」
「はい。我君、全てこの不知火にお任せください」
三つ指をつき、頭を下げた不知火の口元で、銀色に輝く何かが光った。