呪縛
『これで自分の役目は終わったのだろうか?』
クエルは未だはっきりしない頭で、セシルの言葉を聞いた。だが何かが変わったとは思えない。
ズズズズズズ……。
大蛇が這いずる音はさらに大きくなり、自分たちが隠れる幹のすぐ背後まで迫ってきている。
クエルは不意に差し込んできた光に顔をしかめた。木の影からこちらへ振り上げられた巨大な鉈が、落ち行く日の光を反射している。これが振り下ろされれば、幹もろとも自分もセシルも真っ二つだろう。クエルはセシルを庇おうと、その身をセシルの体へ重ねた。だが自分の体が宙に浮くのを感じる。
『自分はあの馬と同じく、ちぎれて空を飛んでいる?』
そうも思ったが、クエルの体は何かに弾き飛ばされた訳ではなかった。地に足がついていないのは、誰かに抱きかかえられているからだ。
『セシルは無事なのか?』
クエルは体を捻って辺りを見回した。
『マスター、動くな。動くと落ちる』
誰かの声が耳ではなく、クエルの心へ響いてくる。そうだ、あの地下室で聞いた声だ。我に返ると、林の木々が背後へ飛ぶように通り過ぎていくのが見えた。どうやら自分はすごい速さで移動しているらしい。
『誰だ!?』
『誰だとは何だ!?』
クエルの問いかけに、とてつもなく不機嫌そうな声が返ってきた。
『我はセレン。お前の人形だ』
顔を上げると、そこにはあの地下室で見た侍従人形の姿がある。それは大貴族の家が備える侍従人形に近い姿をしていたが、普通の侍従人形より一回り以上は大きく、人形師が使役する人形に近い大きさだ。それにより人に似せて作られている。
だがセシルと違い、完全に人に見える訳ではない。そこには表情のない顔や、関節部など、人形らしい人工物としての存在感が残っている。そうだ――。
「セシルはどうした!?」
クエルは人形に向かって叫んだ。
『マスター、舌を噛むぞ。口を閉じていろ』
ふいに目の前に小川が見えた。侍従人形はクエルの体を抱えたまま、それを軽く飛び越える。そして小川のそばにあった、大きな岩の背後へと滑り込む。
『我はセシルでもある。セシルの体は我の化身であり隠れ蓑だ。お前に分かるように言えば、こちらが我の本体だな。お前の力では我と化身の両方を操ることはまだ出来ぬ。今でもお前から吸い上げた力の量は、かなり危険なものなのだ』
「危険!?」
『そうだ。思考がうまく行えないのを感じるであろう?』
「ああ、そうか。これは僕の中身が……」
『そうだ。それにお前は既に――』
セレンは何かを言いかけたが、そこで言葉を切ると辺りをうかがった。
『斬撃属性のくせに――足が速い』
真っ赤に染まった楓やモミジの林に一陣の風が舞った。何かが自分たちを囲むように周りながら移動してくる。
「まさか人形師なのか? 人形師なら水晶ぐらいつけろよ。法令違反だ」
木々の間から男の声が聞こえた。
『ギュエァアアアアアア!』
あの気持ち悪い叫びも、心の中に響いてくる。
「ヒュン!」
再びあの風切り音が鳴り、セレンが素早く背後へと飛び退く。クエルの視線の先で、隠れていた大岩に、一本の線が斜めに入るのが見えた。それはゆっくりと横にずれていくと、大きな音を立てて地面へ転がる。
その背後に、三角の頭と長い胴体を持つ大蛇の姿が現れた。もちろん本物の蛇ではない。男が操る人形だ。その節々には丸い関節部があり、その真っ白な頭の上には、うっすらと金色の紋様が浮かんでいる。
その横では黒に金糸をあしらった、派手な礼服に身を包んだ金髪の男が、片手を腰に当てて気障な格好で立っていた。だがどう言う訳か、その右目には大きな青い痣が出来ている。
「それがお前の人形か?」
セレンの姿に男が声を上げた。
「ハハハハハ!」
腰に手を当てて、大笑いを始める。
「確かに、侍従人形を動かしたぐらいで人形師を名乗るなんていうのも、恥ずかしくて出来ないだろうな。それよりもあの侍従はどこへ行った? 主人を見捨ててどこかに逃げたか?」
男が今度は額に手を当てて、辺りを見回す。
「まあいい。お前を始末してからゆっくりと探すことにしよう。まずは選抜の肩慣らしの前の肩慣らしだ」
男が軽く手を上げると同時に、大蛇の斬撃がセレンに向かって飛んでくる。セレンはクエルを抱きかかえたまま、それを右へと素早くよけた。その姿を見た男が首を傾げて見せる。
「その人形はお前の乳母か? こんな情けない人形師なんて初めて見たぞ。肩慣らしの肩慣らしにもならないな」
そう告げた男が、左耳の水晶に軽く指を当てた。
「もううんざりだ。アマリア、この軟弱男とガラクタをさっさとぶった斬れ」
大蛇の頭に、金色の紋様がはっきりと浮かび上がる。
『ヒュアアアア――――!』
クエルの耳に、またもあの叫び声が聞こえてくる。
『マスター、この場所では我らが不利だ。動くぞ!』
セレンはクエルの体を抱えつつ再び走り出した。
「おいおい、侍従人形だろう? 何をちょこまかと動いているんだ?」
クエルの目の前に、大蛇の真っ黒な体が滑り込んでくる。それはまるでコマの様にくるりと体を回転させると、長い尾をこちらへ向けてきた。セレンはまるで子供が縄跳びをするように飛び上がり、尾の斬撃を交わす。
バン、メリメリ!
大きな音が辺りに響く。尾は周りにある木々を根元から切り倒すと、セレンの行く手をふさいだ。男がアマリアと呼んだ大蛇は、倒れた木々の隙間を素早く抜けると、セレンへ向かってくる。クエルは為すすべもなく、セレンの腕の中でそれを見つめた。
「本当に人形師か? お前の方が人形に操られているんじゃないのか?」
男のからかう声と共に、再び大蛇の体に金色の紋様が浮かび上がる。
『ギュ、イ…イャーーーーーーー!』
また悲鳴だ。クエルは無駄だと分かっていても、両手で耳を塞いだ。
『ヤ、ヤダーーーーー!』
『こ、これは?』
クエルは耳から手を離すと、自分の心に響く声に耳を傾けた。単なる叫びの様に聞こえていた声が、子供の泣き声みたいに聞こえ出す。
急に視界が開けた。いや、違う何かが見えている。大蛇の体が透けて、中心にある世界樹の実の核から伸びる根が、その骨格へとはい回っているのが見えた。そして金色に浮かぶ紋様が、鎖のように核を何重にも縛り上げているのも見える。
クエルは目の前の景色に戸惑った。これは自分の目で見ているのではない。セレンの目だ。自分はセレンの見ている世界を一緒に見ている!
『イヤ、イヤ、イヤ!』
そしてクエルの心に響くその悲鳴は、金色の紋様が銀色に輝く核を締めつける度に上がっていた。
『セレン!』
『マスター、見えたか? あれが奴らの術のようだ。世界樹の実が、脈動する紋様に縛られ、従属を強いられている』
『助けられないのか!?』
『マスター、手遅れだ。穢れし実に救いがあるとすれば、それは一つだけ、破壊だ』
「チェックメイト!」
不意に男の声が響いた。クエルが我に返ると、倒れた木で出来た切り株の上に、男が腰をかけているのが見える。その周りでは切り倒された倒木が、まるで柵みたいに自分達の周りを囲んでいた。
「本当は腕と脚をそれぞれ切り落として、泣き叫ぶ姿をじっくりと見てやりたい所だが、夜の帳も近い。特別に一刀で殺してやる。アマリア、奴らを殺せ!」
男が髪をかき上げながら、気障な態度でクエルに告げる。
『イヤーーーー!』
悲し気な叫びと共に、大蛇がこちらへと迫ってくる。
『マスター、しばし我の掃除が終わるのをここで待て』
セレンはそう告げると、クエルの体を地面へそっと下ろした。その姿をクエルは上から見ている。どうやら自分の意識はセレンとまだ繋がったままらしい。
『わざわざ我がやりやすいようにしてくれた』
そう告げたセレンが、おもむろにその腕を振る。
ブン!
低く鈍い音と共に、セレンと重なった視界の先で、こちらへと向かってくる大蛇の尾がちぎれ飛んだ。
「な、何だ!」
男の口から当惑の声が漏れた。切り株から立ち上がると、呆気にとられた顔で、地面に落ちた尻尾の先端を眺めている。
ブン! ブン!
セレンが腕を振るたびに、大蛇の体から尾が、頭が失われていく。セレンはと言うと、ただ軽く腕を振っているだけだ。一見すると大きな侍従人形にしか見えないセレンの力に、クエルは驚いた。
ドサ!
体を支えきれなくなった大蛇が、地面へ肢体を投げ出す。セレンは、大蛇の力なく横たわる体にゆっくりと近づくと、まだかすかに動く胴の中心に手を添えた。軽く触れただけなのに、まるで鏡に金槌を振り下ろしたようなヒビが刻まれ、機械仕掛けの中身がむき出しになる。
保護板すら失った核が、銀色の光を微かに放っているのが見えた。その回りで金色に輝く光の鎖が、激しく脈打っているのも見える。
『解放してやる。安らかに眠れ』
そう告げると、セレンは蠢く金色の鎖の上から、銀色の珠を掴んだ。その手の中で珠がゆっくりと光を失って行く。
『アアァァァーー!』
同時にクエルの耳に、心が張り裂けそうなほどの悲しみの声が聞こえてきた。
『だめだ!』
クエルの意識がセレンの手を止めた。
『マスター、何をしようとしている!?』
セレンはクエルの命に逆らって、その核を握り潰そうとしたが、クエルの意識が再度それを押し留めた。
『だめだ。僕がこの子を救ってやる!』
クエルの中に怒りとも決意とも分からない、今まで経験したことがない感情が湧き上がった。人形師としてこの子を救う。この子が救えないのであれば、人形師になる資格などない。
セレンの手を自らの意志で動かすと、クエルは金色の鎖を掴んだ。そしてそれを引きちぎるべく力を込める。クエルのそこにないはずの両手に、焼かれたような痛みが走った。その痛みは自分で世界樹の実と繋がろうとした時と同じだ。だが今の自分はあの時の自分ではない。
『舐めるな。僕は人形師だ!』
その身を焼くような熱さも、体中に感じる切り裂くような痛みも、その全てを無視して、クエルは金色の鎖に力を込め続けた。視線の先では、銀色の核が今にも消え失せそうな微かな光だけを放っている。
『た、助けて……』
クエルの耳に、世界樹の実の言葉がはっきりと聞こえた。
『今すぐ助けてやる!』
核とクエルの間で何かが繋がった。同時に金色の鎖に小さなヒビが入り始める。もうちょっとだ。だがクエルの意識が急にはっきりしなくなり、目の前の視界がぼやけ始めた。
『マスター! 待て、待つのだ。お前の力ではまだ無理だ!』
「畜生、役立たずのガラクタが!」
クエルの耳に男の捨て台詞と、ここから駆け去る足音が聞こえた。だが男の事などどうでもいい。クエルは世界樹の実を救う為に、さらに意識を集中した。
「マスター、やめるんだ! 諦めろ。お前の、お前の魂が持たない!」
「ならば僕の魂をくれてやる!」
クエルはそれを強引に振りほどくと、再び鎖へ力を込めた。だがクエルの周りから世界が消えていき、闇がこちらへと迫ってくる。それでもぼやけゆく視界の中で、金色の鎖が弾け飛ぶのが見えた。世界樹の実はまだ微かな光を保っている。
『やった……』
クエルはそうつぶやいたが、もう何も考えることが出来ない。
「マスター、しっかりしろ。意識を保て――」
誰かが自分を呼ぶ声がする。だが迫りくる闇が、クエルの総べてを覆い尽くした。