真名
「今だ、飛び出せ!」
その声に、クエルはセシルが開けた扉の外へと飛び出した。飛び出してみたものの、どこへ向かえばいいのかすら分からない。続いて飛び出してきたセシルの体が背中にぶつかる。
「何をぼうっとしている!」
「ど、どこへ行けばいいんだ!?」
「ともかく動け!」
セシルの怒鳴り声に、クエルは足を前へと動かした。
キィエェ――――!
しかしながら、いきなり異様な声が耳に響き、思わず足を止めそうになる。セシルがその背中を蹴り飛ばす。
「何をしているマスター、死にたいのか!?」
その台詞に焦ったクエルは、ともかく目の前にあった茂みへ体をねじ込んだ。気味の悪い叫びは消えたが、今度は何かが地面を叩く音がする。
ヒヒィーン!
どうやら馬車に残された馬が、何かを察して暴れているらしい。御者の姿はどこにも見当たらない。続いて茂みに飛び込んできたセシルが、クエルを地面へ押し倒すと、体の上へ覆いかぶさった。
ヒュン!
頭の上で鋭い風切り音が響く。次の瞬間、クエルの目の前にあるセシルの瞳の中に、前脚を上げて嘶いた馬が、胴体を二つに切断される姿が写った。
ビチャ、ビチャ!
周囲に生暖かい液体が降り注いでくる。辺りを見回すと、地面が落ち葉以外のもので赤く染まっていた。切断された馬の血だ。
キュエ――――――!
そして再びクエルの耳に、あの悲鳴が聞こえてくる。
「何なんだこれは……」
クエルの口から思わず言葉が漏れた。だが考える間も無く、クエルの腕が再びセシルによって引っ張られる。
「マスター、こっちだ!」
セシルはクエルの体を強引に引っ張り上げると、背の高い草の間を抜けて、椎の木のゴツゴツとした幹の影へその体を押し込んだ。そしてクエルに向かって、口元に手を当てて見せる。
背後からはバンという大きな音とともに、バラバラと何かが辺りに飛び散る音が響いた。馬に続いて、馬車が粉々に吹き飛ばされている。
ヒュエェ――――!
またあの耳障りな音が響いてくる。そのあまりの不快さに、クエルは両手で耳を押さえた。だがその叫びは消えることも、小さくなることもなく聞こえ続けている。クエルはそれが自分の耳にではなく、頭の中に直接響いてくることに気が付いた。
「この声は何なんだ!」
クエルの台詞に、セシルが驚いた顔をして見せた。
「マスター、お前にも、あれの叫びが聞こえるのか?」
「この気持ち悪い声か?」
「聞こえるのだな?」
クエルはセシルに向かって頷いた。
「流石は我がマスターだ。少し見直したぞ」
「気が狂いそうだ!」
そう言うとクエルはセシルに頭を振って見せた。冗談ではない。心を鞭でたたかれている気がする。
「世界樹の化身たる、その実の叫びだ」
「世界樹の実の叫び?」
「あんな半端者たちが人形師になれるのはおかしいと思っていたが、これではっきりした。奴らは世界樹の実に選ばれたのではない。何らかの術を使って、世界樹の実に結合を強いている。我らの敵はそれを操る人形師だ」
「な、なんで人形師なんかが僕が!」
「マスター、声が大きいぞ。だが心配するな。主人を守るのも侍従の務めだ。我はお前を守るため、ここにいる」
「セシルが僕を!?」
「侍従を舐めるでない。今すぐ我に口づけをせよ。お前の力が必要だ」
「ここで!?」
馬を切断し、馬車を粉々に出来るやつを、侍従人形のセシルがどうにか出来るとは思えない。
「何をしている。時間がない。待て、向こうがこちらに気が付いた!」
そう告げると、セシルは再び口元に指を立てて見せる。
ズズズズズズ……。
気持ちの悪い叫び声だけでなく、何かが地面を這いずる音が聞こえてきた。それがクエルたちの隠れている方へ近づいてくる。
「伏せろ、動くぞ!」
セシルは再びクエルの腕を引っ張ると走り始めた。クエルも頭を下げて、セシルに続いて草の影を走る。
ザン、ザン、ザン!
背後から低い振動音が連続して響いてきた。どうやら相手は手当たり次第に辺りを薙ぎ払っているらしい。次々と倒れていく木々に、落ちかけている日差しが差し込んで辺りを照らす。
その夕日を浴びて、何かがキラリと光ったのが見えた。それが赤く染まった楓の木へと振り下ろされる。太くねじれた楓の幹はあっさりと切り落とされると、雑踏の囁きみたいな音を立てながら地面へと倒れた。
その根元に巨大な何かがいるのが見える。真っ白な体をした巨大な蛇だ。クエルはその姿を恐怖の思いで見つめた。それは単に大きな蛇の姿をしているだけではない。そのしっぽの先端は鋭い鉈になっていて、夕日を反射してキラキラと輝いている。
『こ、これが本物の人形――その力なのか?』
クエルの背中を冷たい汗が流れた。
「どうやら相手の属性は斬撃だ。力はあっても感覚は鈍いらしい。無理矢理に結合しているのだから当たり前か……」
それを見たセシルが、クエルの体を近くの藪に引き込みながらつぶやいた。セシルの言葉を肯定する様に、大蛇は鎌首を左右に振りつつ辺りを窺っている。周囲の木々にその尾が打ち下ろされた。
メリメリメリ!
尾が左右へ振られる度に、あっさりと林の木々が音を立てて倒れていく。
「どうやら敵の人形師はまだこちらを見つけていない。適当に切り払って、我らを燻り出すつもりだ」
そう告げたセシルが、クエルの方へと向き直った。
「時間がない。奴がこちらを見つける前に、さっさと我に口づけをしろ!」
クエルはセシルに頷くと、馬の血で赤く染まった頬に手を添えて、その血よりも赤く見える唇を己の唇で塞いだ。しかしセシルはもがくようにすると、すぐにそれを外す。
「マスター、分かっているのか?」
セシルは深紫色の瞳でクエルをじっと見つめた。
「単に口づけをすれば良いというものではない。我にはお前の心が、お前の信頼が必要なのだ」
セシルの言葉に、クエルはただ己の唇を合わせようとした自分を恥じた。セシルは自分を守ろうとしてくれているのだ。それに答えられなくてどうする。
『違う!』
自分が人形師としてセシルを守らねばならない。クエルはセシルの頬に再び手を添えると、己の信念を込めて、その唇にそっと口づけをした。次の瞬間、目の前の少女と自分との間に、目には見えない糸がピンと張られる。そしてクエルの中の何かが、それを通じてセシルへと流れていくのを感じた。
同時に、頭の中がボーっとし、体を支えることすら難しくなる。クエルはセシルから唇を外すと、その小さな肩に体を預けた。気付けば、これが自分の息かと思うぐらいに荒い息をしている。
「マスター、良く耐えた。だがもう一つ大事な仕事が残っている」
仕事? 一体何をすればいいのだろう? クエルは自分が為すべきことを考えようとしたが、まるで霞がかかったように、何も考えることができない。
頭の中では、あの聞くに堪えない悲鳴だけが響き続けている。
「マスター、我の真名を呼べ」
それなら大丈夫だ。なにせそれは母さんの愛称なのだから……。
「セレン……」
クエルは消えそうな意識を必死につなぎつつ、その名を唱えた。
「我が名はセレン。我はマスター・クエルの命に従い、我の力を開放する」