女主人
少女はフリーダの手を、子供とは思えない力強さで引っ張りつつ、屋敷の中を駆けて行く。やがて通路の奥にあった扉から、回廊に囲まれた中庭へと出た。
そこはハーブ園になっているらしく、夜風と共に清々しい香りが漂ってくる。少女は月明かりに照らされた中庭を、飛ぶが如くに走り抜けると、その先にある離れへと向かった。
「ただいま!」
子供らしい甲高い声で玄関を開ける。玄関の先には油灯りに照らされた居間があり、フリーダの家にあるような普通のテーブルと椅子に、真っ白な髪をした老婆が一人座っていた。
「もう、マリーったら寝ているの!?」
ダンダンと足を踏み鳴らしながら、少女が老婆の前へと進む。
「マリー、起きて!」
「起きていますよ」
老婆はゆっくりと顔をあげると、肩にかけるケープを直した。
「そんなに大声を上げなくても、聞こえているのは分かっているでしょう」
「それなら、ちゃんと返事をしてくれないかしら?」
フンと鼻を鳴らした少女に、老婆は穏やかな笑みを浮かべた。二人のやり取りを眺めながら、フリーダは少女の顔立ちが、誰かとよく似ていることに気づいた。
『セシルちゃんに似ている……』
大人びたセシルと違って、性格は天真爛漫そのものだが、もう少し大きくなったら、そっくりになると思う。だがフリーダはどこか違和感を感じた。琥珀色の瞳が、ガラス玉みたいに油灯りの光を反射していて、手首には見慣れぬ線もある。
『まさか、この子って!?』
「それよりも、お客様にお茶を出して。そうね、せっかくだから私と同じのをお願い」
その疑念を確かめる間もなく、老婆が少女に声をかけた。
「ソランはまだ戻っていないのね。空いている椅子に座って頂戴」
「あっ、はい……」
フリーダは即されるまま、テーブルの椅子へ腰を掛けた。老婆の前に置かれたティーカップから、中庭で嗅いだのと同じ、清々しい香りが漂ってくる。
「座られたかしら? フリーダさんね。私はマリアンヌ、この館の女主人です」
老婆の視線は、フリーダとは別のあらぬ方を向いている。
「フリーダ・イベールです……」
目が不自由らしい老婆に名乗りつつ、フリーダはどうしてこの上品な老婆が、自分のことを知っているのか不思議に思った。あの少女の正体も含めて、何がなんだかさっぱり分からない。
「どうして私のことをご存じなんですか?」
フリーダは自分の疑念を老婆に問いかけた。
「マリー、お茶をもってきたよ!」
そこに少女がティーカップを載せた盆を手に駆け戻って来る。アザミが描かれたティーカップをフリーダの前に置くと、少女は老婆の耳元に口を寄せた。
「ああ、そうなの。私がどうして名前を知っているか不思議に思ったのね。それにとっても懐かしい声だこと」
老婆は少女の導きに従って、フリーダの方へ顔を向けた。
「私は目もよく見えなければ、耳もよく聞こえないの。それでもこうして貴方とお話ができるのは、このミカエラのおかげよ」
「ミカエラさんて……」
言葉をつまらせたフリーダに、老婆はそっと頷いた。
「ミカエラは私の人形。いえ、大切なお友達ね」
「そうよ。マリーは私がいないとダメなんだから」
「でも、人にしか――」
「私はとっても優秀だから、分からなくて当然よ!」
少女がフリーダに胸を張って見せる。
「ミカエラ、お客様相手にふざけすぎです」
「ごめんなさ~い!」
ミカエラが老婆へ小さく舌を出す。その仕草も、人の子供そのものとしか思えない。
「この子ミカエラと、もう一体のソランは、目と耳が弱った私のために、エンリケさんが作ってくれたの」
「エンリケおじさんがですか!」
フリーダはミカエラをじっと眺めた。確かに関節には人にはない線や、微かな違和感はあるが、目の動き、呼吸する口元、その全てが人の子供としか思えない。
『これがエンリケおじさんの作った、人そっくりに動く人形……』
そのあまりの完璧さに、フリーダは息を飲んだ。こんなものが作れるのであれば、国がクエルを監禁してまで、その行方を追うのも納得できる。
『セシルちゃんも、エンリケおじさんの作った人形?』
そんな疑念がフリーダの頭に浮かんだが、すぐにそれはないと思う。セシルとは一緒にお風呂にも入っているし、ご飯も食べている。
「エンリケさんの腕もあるけど、その方法を編み出したのは……」
老婆はそこで口に手を当てると、小さく含み笑いを漏らした。
「話がそれたわね。そうそう、私がどうして貴方の名前を知っているか、聞きたかったのよね」
そう告げると、マリアンヌは何かを懐かしむように、アザミの花が描かれたティーカップに手を添えた。
「あなたのお母さん、リンダは私にとっては孫娘みたいなものなの。だからフリーダさん、貴方は私からすればひ孫ね」
「ひ孫ですか!?」
老婆のセリフにフリーダは戸惑った。イベール家は代々人形師を生業としているが、国家人形師に、次いで宮廷人形師になったのは父親のギュスターブが初めてだ。母親のリンダがチェスター家の人間から、何ゆえ孫娘と呼ばれるのか、さっぱり分からない。そこでフリーダの脳裏に侍女たちの姿が浮んだ。
「もしかして、母はチェスター家にお世話になったことがあるのでしょうか?」
「まさかよ。リンダとセレンの二人は、幼い時からとっても仲がよくて、私のハーブティーをよく飲みに来てくれたの」
そう告げると、老婆はフリーダの目の前に置かれたティーカップを指さした。
「よかったら、あなたのお母さんが好きだった香りを味わって」
フリーダは混乱しながらも、ティーカップへ手を伸ばした。鼻に抜ける清々しい香りと共に、微かな甘みが口の中に広がる。
「美味しい……」
「お口に合ってよかったわ」
「私が淹れたのよ。美味しいに決まっているじゃない!」
ミカエラの不満げな声に、マリアンヌは苦笑いを浮かべた。
「そうだったわね。それに色々と思い出すことが多すぎて、先ずはフリーダさんに謝らないといけないのを忘れてました。フリーダさん、本当にごめんなさい」
フリーダが座る席とは少し違う方に深々と頭を下げる。その姿にフリーダは慌てた。
「マリアンヌ様に、頭を下げていただく必要はないと思います」
「流石はリンダの娘さんね。自分の意志がはっきりしている。それに引きかえ、我が家の馬鹿息子と馬鹿ひ孫には、腹が立つのを通り越してあきれ返ります。ミカエラ、二人にはちゃんと後でお仕置きをすると言ってきたの?」
マリアンヌの問いかけに、ミカエラがハッとした顔をする。
「この子を連れてくる前に、みんな逃げちゃったのよ!」
「仕方ないわね。ソランが戻ってきたら、二人を捕まえてもらいましょう」
フリーダは二人のやり取りを眺めながら、母親のリンダのみならず、クエルの母親のセラフィーヌまで、この老婆と親しくしていたことに戸惑い続けた。そもそも、マリアンヌ自体が何者なのかよく分からない。
「あの、マリアンヌ様は……?」
「この家で一番長生きしている女。ただそれだけ」
さらに混乱するフリーダを見たミカエラが、マリアンヌの耳元に口を寄せた。
「あら、腑に落ちないのね」
「そう言う訳ではないのですが……。それにどうして私を……」
カルロスやフィリップの意向に反して助けるのかと問う前に、マリアンヌが口を開く。
「はるか昔の話だけど、私もあなたと同じように、この家に無理やり連れて来られたの」




