墓地
クエルは月明りも届かぬ真っ暗な森の中を、イフゲニアの背中を必死に追っていた。それはセレンの目を使ってもやっとで、ちょっとでも目を離せば、イフゲニアの姿は森の闇へと消えてしまいそうになる。
『どこまで行くのだろう?』
焦る気持ちを抑えながら、クエルは心の中でつぶやいた。だからと言って、ここから逃げ出すことはできない。イフゲニアの操るドライアドによる監視は続いている。吹き抜ける風に、微かに聞こえてくる不協和音がその証拠だ。
「覚えているかしら?」
そう問いかけると、イフゲニアは急に足を止めた。その背後に、ぽっかりと開いた空き地のようなものが見える。いや、単なる空き地ではなかった。苔むした石が、月の光を浴びて、地面に突き刺さるように立っている。
「墓地……」
クエルのつぶやきに、イフゲニアは頷いた。
「確か、入学式の時に来たわよね」
オレンジ色の瞳に見つめられながら、クエルはその時に告げられたセリフを思い出した。
『入学中に死亡した場合、いかなる理由にも関わらず、その亡骸は家族の元へは帰らないの――』
『ここに誘い込まれた!?』
そんな考えと共に、クエルの体が恐怖に固まる。気づけば、足元の地面がゆっくりと持ち上がっていくのが見えた。
「セシル!」
クエルがドライアドの攻撃に備えるべく、声を上げた時だ。
『マスター、待つのだ』
セシルの落ち着いた声が頭に響く。
『相手から殺気は感じられぬ。先ずは様子を見るべきだ』
その言葉を肯定するように、地面から顔を出した触手は、クエルの方ではなく、墓地へ向かってゆっくりと地面を這っていく。それは深緑色の苔をまとった墓の前で止まると、巨大な墓石をはるか彼方へと弾き飛ばした。
ドン!
森の奥から鈍い音が響く。それに驚いたのか、鳥たちが夜の帳に向けて飛び立つ。再び森に静寂が戻ってくる中、墓石のあった場所に現れた物にクエルは驚いた。そこに見えるのは棺桶や遺体ではなく、人形までもが通れそうな大きな穴だ。
「これって――」
「これがこの墓地の秘密の一つよ。ここで亡くなったことになっている学生の何人かは、死んだのではなく、この通路を通ってここから去っていった」
クエルは辺りに立つ無数の墓石を眺めた。
「この人たち全員ですか!?」
「もちろん違うわ。ほとんどの墓には本物の亡骸が眠っている。むしろ彼らこそ、ここを抜け出した人たちの犠牲者ね。そのせいで未だに家族の元へ帰れずにいる」
「ここを出て行った人たちはどうなったんですか?」
クエルの問いに、イフゲニアは肩をすくめた。
「さあね。もしかしたら名前を変え、これまでとは全く別の人生を送ったのかも」
『自分もその人たちと同じ運命をたどるのかもしれない……』
クエルは自分がやろうとしていることの重大さをやっと理解した。フリーダを救うためなら、自分は何を失おうと構わない。だけどフリーダはどうだろう。彼女にはギュスターブとリンダがいる。
『マスター、東領の流民たちに襲われた時のことを思い出せ』
不意にセシルの声が頭に響いた。
『先ずはあの時の借りを赤毛に返す。先のことを考えるのはその後だ』
セシルがクエルにフンと鼻を鳴らす。その姿を眺めながら、クエルはセシルに頷いた。その通りだ。フリーダは絶対僕たちが救いに来ると信じている。
『それと、サラスバティは置いていく』
続けて聞こえたセシルの言葉に、クエルは驚いた。
『セシルも残るの!?』
『もちろん我はマスターと共に行く。お前と赤毛を二人だけなどにはせぬ。だがサラスバティは機敏ではあるが、機動力はない。我の本身だけで追いかけた方が早い』
『分かった』
クエルはセシルに頷くと、再びイフゲニアに敬礼をした。
「やっぱり行くのね。一途なところはお父さんそっくり。でも一途であることが、常に正しいとは限らない。それは覚えておいて」
「は、はい!」
「前にも言ったでしょう。堅苦しいのは嫌いなの」
イフゲニアのセリフに、クエルは慌てて手を下ろした。それを見たイフゲニアが、口の端を持ち上げて見せる。
「素直な子は好きよ。それと、これは私からのプレゼント」
そう告げると、制服の胸元から一枚の紙を取り出した。
「チェスター家の別荘に印をつけておいたわ。行く先に迷ったら、ここへ行ってみて」
「イフゲニア教官、ありがとうございます!」
また敬礼をしてしまったクエルに、イフゲニアが含み笑いを漏らす。おもむろにクエルの頬へ手を添えると、唇に口づけをした。その様子を、セシルが呆気に取られた顔で眺める。
「それじゃ、頑張ってね!」
クエルの鼻孔に甘い香りを残しながら、イフゲニアは夜の森へと去っていった。
墓地へ続く森の小道を、イフゲニアは鼻歌を歌いながら一人歩いていた。だが一陣の風と共に、前方から何者かが近づいてくる。その気配にイフゲニアは足を止めた。
闇の中から王都守護隊の制服を着た女性が姿を現すと、イフゲニアはその端正な顔に妖艶な笑みを浮かべた。
「こんばんは、アイラ。まだ残業中かしら?」
それを聞いたアイラが、怒気を含んだ目でイフゲニアを見つめる。
「ニア、自分が何をやっているのか分かっているの? これは完全な反逆罪よ」
「夜の散歩をしているだけで、反逆罪とはひどいわね」
「散歩ついでに、学生をここから脱走させたでしょう!」
アイラのセリフに、イフゲニアは肩をすくめた。
「アイラこそ、とある家の意向で軍まで動かすだなんて、すごく大胆じゃない」
「あんたと議論をするつもりはないの。そこをどいて!」
「いやだと言ったら?」
アイラの背後で何かが動く気配がする。
「やるつもり? それもいいわね。あなたとは一度本気でやってみたかったの」
それを聞いたアイラが、小さくため息をついた。
「やめとくわ。夜の森であなたの相手をするほど馬鹿じゃない」
「そうね。その方がいいと思う。それにあなたの足なら、ここを使わなくても、十分に追いつけるでしょう?」
「本当に気持ちの悪い女」
そう一言吐き捨てると、アイラはフクロウの鳴く夜の森へと姿を消す。
「あなたも速いけど、あの人はもっと速いわよ」
フクロウの鳴き声に耳を傾けながら、イフゲニアは再び森の小道を歩き始めた。




