失踪
「ふう……」
かすかな軋み音をたてて閉まった扉に、クエルは大きなため息をついた。これで今晩の晩餐会はすべて終了したことになる。
「フローラさんって、やっぱりローレンツ家と何かしら関係があるのかな……」
鉛のような体の重さを感じながら、クエルは扉の前に立つセシルに声をかけた。
「マスター、赤毛から何も聞いていないのか?」
「何を?」
「フローラはあの男の愛人だ」
「あの男って、ジークフリード卿の愛人!?」
クエルの口から悲鳴みたいな声が漏れた。自分より年下のフローラが、すでに誰かの愛人になっているなど、クエルには想像もつかない。
「何をそんなに驚く。権力者が若い女性を好むのはいつの時代でも同じだろう」
「だからって、フローラさんがどうして――」
「確かに、あの男の趣味にしてはフローラは若すぎる。そんなことより、どうして我々の前でフローラを連れて行った?」
「だって――」
クエルは「愛人だから」と告げようとしたところで、首をひねった。あまり閥族らしさを感じさせなかったジークフリードが、わざと閥族らしい態度を取って見せたようにしか思えない。
「マスター!」
考え込むクエルの耳に、セシルの緊迫した声が響く。
「あの男が最後に言った言葉を覚えているか?」
「似た者同士?」
「違う! 『これはどこかの家の得意技』だ。あの用心深い男が、わざわざマスターの前であんなセリフを言った意味はなんだ?」
「えっ!?」
当惑するクエルに、セシルが顔をしかめる。
「あの男は我が人形であることにも気付いているぞ。それをわざわざ言葉巧みに我に告げてきた。おそらく何かの警告だろう。だとすれば、最後のセリフはマスター、お前への警告だ」
そう告げたところで、セシルが今度はハッとした顔をする。
「マスター、赤毛はどこにいる?」
「フリーダ? フリーダならフィリップと一緒に、カルロス侯の所へ挨拶に行ったけど」
心の奥に黒い靄のような物を感じながらクエルは答えた。最近のフリーダは、自分よりもフィリップと一緒にいる時間の方が長い。それを聞いたセシルの顔がさらに険しさを増す。
「たかが挨拶にしては、戻ってくるのが遅すぎだ」
「きっと偉い人の話が長いだけじゃないかな?」
「マスター、玄関まで赤毛を迎えに行くぞ!」
セシルはのんびりと答えたクエルの手をいきなり掴むと、その体を引きずるように食堂を飛び出した。そのまま正面玄関の扉を、体当りでもするみたいに開ける。
扉の向こうから、夏の生暖かい風がクエルの体に吹き付けてきた。辺りを見回すと、常夜灯の黄色い光がぽつんと点いているだけで、人はもちろん、馬車も見当たらない。
「あれ?」
その様子にクエルは首をひねった。
「もしかして、部屋に帰っちゃったのかな?」
「マスター、何を言っている? あの赤毛がマスターを置いて部屋に戻るわけがない」
「でも、今日は色々あって疲れているだろうし……」
「違うぞ! これが『ににこやかに握手をしながら相手の腹を刺す』のセリフと、わざわざマスターの前でフローラを連れて帰った答えだ」
「それって……」
当惑するクエルに、セシルは大きく頷いた。
「間違いない。赤毛はフィリップたちによって、ここから連れ去られた!」
* * *
フローラは馬車の格子窓の隙間から、外を見つめるジークフリードを眺めていた。その顔にはフローラが目にしたことがない、さもうれしそうな表情が浮かんでいる。あまり表情を変えないジークフリードにしては珍しいことだ。いや、こんなことは初めてかもしれない。
「あれこそが、本物の深淵たる世界樹の化身……」
ジークフリードの口から独り言が漏れる。どうやら考え事をしているらしい。フローラはその邪魔をしないよう、反対の窓から馬車の外へ視線を向けた。
出口の検問で止まっている馬車の周りを、沢山の光が行き来している。その明かりが灰色の制服を着た王都守護隊の隊員たちと、その背後に控える黒い影を映し出した。まるで神殿の彫像のように見える影は、隊員たちが操る人形たちだ。
フローラはあまりに厳重な警備に驚くと同時に、その中に書類挟みを手にした、見覚えのある人影がいるのに気付いた。
「アイラ教官?」
「アルマイヤー卿の副官か。どうやらチェスターは本気らしいな……」
いつの間にか、フローラと同じ窓を覗き込んでいたジークフリードがつぶやく。その顔はさっきよりもさらに楽し気に見えた。
「何を不思議そうな顔をしているのだね?」
自分を見つめているのに気付いたジークフリードが、フローラに問いかけた。
「とっても嬉しそうな顔をしていらっしゃるので……」
「今宵は久しぶりに楽しめたよ。それにまだ終わりじゃない」
そう告げると、ジークフリードはフローラの手を取った。
「ここから宝物を奪おうとしている盗賊は、自分だけではないということだ」
「私はただの庶民の娘にすぎませんが……」
フローラは、ジークフリードのいつもとは違う態度に当惑しながら答えた。それに「宝物」などという言葉は、アイリスやフリーダのような女性にこそふさわしいとも思う。顔を俯かせたフローラに、ジークフリードは小首を傾げた。
「フローラ、君は自分の価値がどれほどのものか、まだ分かっていないようだね。準備ができ次第、君を国学に正式に入学させる」
「兄ではなく、私をですか?」
「もちろんお兄さんの入学も私が保証する。それに君の国学への入学は前から決めていたことだ。しかし人形の準備が遅れていてね。それで君をお兄さんの代理にした」
フローラは兄の入学が約束されたことに安堵のため息を漏らしつつ、どうしてそんなことをするのだろうと不思議に思った。同時に、正式に入学できれば、フリーダたちとここで一緒に過ごすことが出来る。フローラがそのことに嬉しさを覚えた時だった。
トン、トン……。
不意に馬車の窓をノックする音が聞こえた。灰色の制服を着た王都守護隊の士官が、遠慮がちに馬車の中を覗き込む。そしてジークフリードに敬礼をすると、隣に座る国学の制服を着たフローラへ視線を向けた。
「ローレンツ次官、こちらのお嬢さんはどなたでしょうか?」
「フローラ嬢だ。今宵は私の家に連れて帰る。今日は見学会だから、何も問題はないはずだが?」
「はい。何も問題はございません。生徒名を確認しました。どうぞお通りください」
士官がジークフリードに再び敬礼をする。その姿を見ながら、フローラは心の中から先ほどの高揚感が全て消え去るのを感じた。たとえ国学に正式に入学できようが、自分の立場は決して変わらない。
『何が宝物なの?』
自分は部屋の片隅に飾られた置物にすぎない。「それはもう一生変わることがないのだ」との思いが、心を黒く染めていく。
フローラは隣に座るジークフリードの戯れの相手に過ぎないことを自覚しながら、その不自由な体をジークフリードの腕へ預けた。




