権力者
「き、貴様!」
水浸しになったエドワードが声を荒げた。セシルが空になった水差しを振りつつ、あどけない笑みを浮かべて見せる。
「私が誰か分かっているのか!」
「随分と饒舌にお話しをされていましたので、お水を差し上げましたが、お気に召されませんでしたか?」
顔色一つ変えずに答えたセシルに対し、エドワードが顔を真っ赤に染める。
『な、何をやっているんだ!?』
『マスターへの無礼の報いを与えただけだ』
クエルの心の叫びに、セシルの冷静な声が返ってくる。
『水を掛けるぐらいでは生ぬるい。本来なら床に額をつけさせるところだ』
『相手は内務卿だぞ!』
『それがどうした。我は深遠たる世界樹の実の化身だぞ。それにマスターも赤毛の為に、こやつを殴ろうとしていたではないか?』
クエルへ冷たい視線を向けつつ、セシルがフンと鼻を鳴らして見せる。
『心配するな。大したことではない。我のような者に正式な抗議などすれば、むしろ物笑いの種だ。とは言え、やはり不自然だな』
『不自然?』
『学生相手に、仮にも国の大臣とでも言うべき者が、こんな軽々しい態度を取るだろうか?』
「ラムサス君、すぐにアルマイヤーを呼んでくるんだ。この無礼者を拘束するよう伝え給え!」
エドワードが水しぶきを上げながら、ラムサスに声を掛けた時だ。
「勝者をたたえると聞きましたが、随分と騒がしいのね」
クエルの耳に、凛とした声が響く。
『なるほど、ムーグリィの腹痛も偶然ではないな。マスター、今宵の真の主役の登場だ。お前も頭を下げろ』
セシルが侍従らしく、深々と頭を下げる。気づけば、テーブルについていた全員が立ち上がり、胸に手を当てて頭を下げていた。
「ここは国学です。そのような礼は不要なのでは?」
アイリスはそう告げると、居並ぶ人々に向かって小首を傾げた。
「アイリス王女様、それがここでの原則ですが、何事にも例外は存在します」
カルロスの答えに、アイリスは苦笑を浮かべた。
「まるで腫物みたいな扱いね。それとも、死にかけだった者への優しさかしら? それはそうと、エドワード内務卿――」
「は、はい!」
「随分と声を荒げていたみたいだけど?」
「お耳汚し申し訳ございません。こちらの侍女に無礼な振る舞いがありまして、それをたしなめておりました」
「ラムサスは私の執事なの。勝手に物を頼まないで頂戴」
「大変失礼致しました」
エドワードは、張り出した腹に額がつかんばかりに頭を下げると、今度はクエルの方へ顔を向けた。
「そこの君、すぐにアルマイヤー卿を呼んでくるんだ!」
「本当に無礼ね」
「アルマイヤーには、今後このようなことがないよう……」
「内務卿、何か勘違いをしていない? 私はあなたに言ったの」
アイリスのセリフに、エドワードは当惑した顔をした。その顔は先ほどとは違い、まるでかまどの灰みたいな色になっている。
「クエルさんは私の婚約者なのよ」
「えっ!?」
エドワードが驚いた顔をしてクエルを眺める。
「そのクエルさんの友人であり、この晩餐会の料理を私と一緒に作ったフリーダさんを、随分と侮辱していたみたいだけど」
「そのようなつもりはありません」
「では、どのようなつもりだったのかしら?」
「私も没落貴族の出で、ほとんど庶民のようなものです。その親御さんの――」
「だまりなさい。とてもそうには聞こえませんでした。あなたは今宵の晩餐会の客としてはふさわしくないようです」
アイリスはそう告げると、ラムサスへ顔を向けた。
「ラムサス、北領公には私から事情を話すことにしましょう。内務卿にはお帰りいただきなさい」
「アイリス様、承知いたしました」
「お待ちください、私は被害者で――」
エドワードは何か告げようとしたが、ラムサスに首根っこを掴まれると、引きずられるように食堂を出て行く。それを眺めながら、アイリスは居並ぶ人たちに着席するよう促した。
「では皆さん、改めて勝者を称えることに致しましょう」
アイリスはそう宣言すると、クエルに向かって、まるで雛菊を思わせる笑みを浮かべて見せた。
* * *
月明かりの下、エドワードは上着のしわを伸ばすと、背後にいるラムサスの方を振り返った。その顔を眺めつつ、ニヤリと笑って見せる。
「もしかして、やりすぎだと思っているのかね?」
エドワードの問いかけに、ラムサスはうなずいた。
「いささか」
「道化をやるなら徹底的にだよ。そうすれば、演技だと分かっていても、本当かもしれないと思うじゃないか?」
「いずれにせよ、アイリス王女様は今宵のエドワード様の振る舞いに、ご満足されていると思います」
ラムサスのセリフにエドワードが首を横に振った。
「これはアイリス王女ではなく、ラムサス君、君への貸しだ」
「私は単なる王女様付の執事にすぎませんが?」
「ラムサス君、私は君のことを買っている。それに王家の方々に貸しなど作れないよ」
無言のラムサスに、エドワードが口の端を持ち上げて見せる。
「何かをしてもらうことが当然の人たちが、私の貸しなど気にするはずがない。そんなものを気にしないのが権力者だ」
そう告げると、エドワードは天高く上った上弦の月を眺めた。
「懐かしいな」
「エドワード様も、本当は学園の関係者ですか?」
「私は学園とも、人形とも全く縁がない元は庶民だ。彼らの態度を懐かしいと思っただけだよ。私にだって、彼らみたいに、理想に準じていた時があったのだ。信じられるかい?」
「人は常に変わっていくものです」
ラムサスの答えに、エドワードが再び首を横振る。
「そうではない。変えられるのだ」
エドワードはそう告げると、ラムサスに背を向けて、馬車だまりへ向かって歩き出す。その後ろ姿を、雲から再び顔を出した月が照らし出した。




